Scene29:『最初の患者』
翌朝、私は診療所に残されていた古い診察記録を、発症日の順に並べ直していた。
もっとも、「発症日」という呼び方からして正確ではない。記録に残っているのは、患者が異常を自覚した日でもなければ、GNSが始まった日でもない。単に、その人間が診療所へ来た日だ。
耳が少し遠くなった程度なら、わざわざ医師へ診せない者もいる。数日で元に戻ったなら、なおさらだろう。
実際、初期には自然に症状が消えた者がいる。ならば、診療記録に残らないまま、聞こえにくくなり、治っていた人間がいたとしても不思議ではない。
六十二日前。
そこまで遡ったところで、一人の少年の記録が出てきた。当時の訴えは、会話が遠く聞こえるという軽い難聴と、耳鳴りに似た違和感。発熱なし。耳痛なし。耳道、鼓膜にも目立った異常なし。
そして、現在の患者たちが訴えているような異音については、何も書かれていない。
当時はまだ同様の患者も続いておらず、ニノ医師は一時的な疲労か精神的な負荷によるものを疑ったらしい。睡眠を取らせ、症状を和らげる程度の簡単な処方をして経過観察。数日後には、本人から「治った」と報告されている。
それで終わっていた。当時としては、何もおかしくない。むしろ、後から一連の症例を知った私たちが、この少年を特別な位置へ置いているだけだ。
私は記録の端を指で押さえた。
「ダヴィト。この少年の前には?」
向かいで別の束を確認していたダヴィトが首を横へ振る。
「少なくとも診療記録にはありません。耳の聞こえにくさを訴えた患者としては、この子が最も古いです」
「異音は訴えていない」
「はい」
ならば、この少年がGNSだったという保証さえない。ただの一過性の難聴だった可能性もある。現時点では、その二つを区別できない。
————
昼前。診療所の小さな診察室に、その少年は父親と一緒にやって来た。
椅子へ座った少年は、診察を受けに来たというより、なぜ今さら昔の風邪のようなものについて呼ばれたのか分からない、といった顔をしている。
それでいい。少なくとも本人の中では、あの出来事はその程度なのだ。
私は向かいに座り、机の端に置いた記録へ目を落とした。
ダヴィトは少し離れた場所で筆記の準備をしている。ニノ医師は少年の横に座った父親へ一度視線をやってから、私へ小さく頷いた。
「耳が聞こえにくくなったときのことを、もう一度聞きたい」
少年は素直に頷いた。
「耳がおかしくなる前に、何か心当たりはあるかね」
「心当たり?」
「病気になるようなことだ。体調を崩した。変なものを食べた。怪我をした。何でもいい」
少年は少し考えた。
「ないと思う」
「よく考えてくれたまえ。重要そうなことでなくていい」
また考える。
父親が口を開きかけたので、私は手で制した。二ヶ月も前の記憶だ。ここで父親の言葉が一つ入るだけで、少年自身の記憶と区別がつかなくなる。
少年は天井を見たあと、首を振った。
「ない」
「では、普段と違うことをしたか。いつも行かない場所へ行った、帰る時間が遅くなった、その程度でも構わない」
「うーん……」
今度は長かった。
靴先が床を擦る。やがて少年は困ったように父親を見た。
「たぶん、いつも通り」
「そうか」
私は当時の記録へ一本線を引いた。
何も出ないのは、むしろ当然だった。二ヶ月以上前の一日を、今日になって順番どおり思い出せと言われても、大人でも難しい。まして本人にとっては、数日で治った軽い体調不良でしかない。
私は質問を変えた。
「何か、普段は見ないものを見なかったかね」
少年が、一度だけ瞬きをした。すぐには答えなかった。
「……普段見ないって?」
「何でもいい。知らない人でも、動物でも、変わった荷車でもいい。病気と関係があるとは限らない」
少年はしばらく黙っていた。やがて、いかにも自信がなさそうに言った。
「たぶん、関係ないけど」
ダヴィトの筆先が紙に触れた。
「白い服の女の子を見た」
私は少年の顔を見た。
「どこで?」
「遊んでるところ。川の上の道のところ」
「普段からそこで遊ぶ?」
「うん」
ここまでは普段と違わない。
「その子は、村の子か?」
少年は首を振った。
「知らない子だった」
「何をしていた?」
「立ってた」
それだけ答えてから、少年は記憶を探すように眉を寄せた。
「こっち見てたと思う」
私は問い返した。
「それで?」
「誰だろうって思って……ちょっと見てた。でも、すぐいなくなった」
「どちらへ行った?」
「分かんない」
少年はそこで初めて少し身を乗り出した。
「走っていったとかじゃなくて、いなくなったから。どこ行ったんだろうって見たら、割れ岩のところにいた」
割れ岩とは、村の北側、林へ入る手前にある大きな灰白色の岩だ。中央から縦に裂けており、羊飼いや薪拾いに出る村人が目印にしている。ここへ来た初日に地図でも確認した場所だった。
少年が普段遊んでいる川沿いの道からなら、少し山側へ入ることになる。
「君は、そこまで追いかけたのか」
「うん。知らない子だったから」
父親が横で顔をしかめた。その件については今でも叱りたいらしい。
私は少年へ訊いた。
「割れ岩では何をしていた?」
「立ってただけ。岩の前」
「同じ子だった?」
「たぶん」
「たぶん?」
少年は少し困った。
「白い服だったし、髪も長かったから」
「顔は?」
「ちゃんとは見てない」
私はそこで質問を止めた。
顔立ちをこちらから提示する必要はない。濡れた髪だったか、裸足だったか、白い肌だったか。聞こうと思えばいくらでも聞ける。
だが、それを私が口にすれば、今度は少年が私の記憶を借りることになる。
「その子に声をかけた?」
「かけようとした」
「向こうは?」
「小さな声で、何か言ってたと思う」
ダヴィトの筆が止まった。少年はそれに気づかず続けた。
「何と言っていた?」
「分かんない」
「言葉だったと思う?」
「うーん、たぶん」
「どうして?」
少年は少し考えてから、自分の口元に手を当てた。
「喋ってるみたいだったから」
私は椅子の背へ体重を預けた。唇が動いていた、とは言っていない。
私が訊いたのは『なぜ言葉だと思ったか』で、少年の答えは『喋っているみたいだった』だ。それ以上は、二ヶ月前の記憶から引き出せる精度ではない。
「それを聞こうとした?」
「うん」
「どうやって?」
少年は不思議そうな顔をした。
「近くに行って、聞いた」
「耳を澄ませた?」
「ああ、うん」
私は机の上の記録へ目を落とした。まだ何も書かなかった。
「そのあと、何があった?」
「狼がいたんだ」
少年の父親がこちらを見た。話はそこで、当時の記録にも繋がった。
「狼を見たのか?」
「えーと……姿は見てないけど……」
少年は即答した。
「林の奥で鳴いた。あと、なんか……息みたいな音」
「どんな音だった?」
訊いた直後、私は失敗したと思った。具体的な音を再現させる必要はない。
「いや。今の質問は答えなくていい」
少年がきょとんとする。ニノ医師は何も言わなかったが、こちらを見た。
私は話を戻した。
「姿は見ていないんだな?」
「うん。怖くなって逃げた」
「白い服の子は?」
「分かんない」
「帰る時に見た?」
「見てない」
それが少年から取れた最後だった。
ニノ医師が症状の経過をもう一度確認したが、新しい情報は出なかった。その日の夜までは普通に過ごし、翌朝、母親の声がいつもより遠く感じた。診療所へ連れてこられ、その後も二、三日は聞こえ方がおかしかったが、徐々に戻った。
今は、狼らしき音も聞こえない。白い服の少女も、それきり見ていないという。
少年にはいったん外へ出てもらった。
扉が閉まると、父親が椅子へ座り直した。彼は現在も軽度の症状を残している。記録上、二番目に発症した人物でもあった。
「息子さんから、その日の話はどこまで聞いた?」
「だいたいは。知らない女の子がいたことも、狼の声を聞いたことも」
「白い服の少女については?」
「気にはなりましたよ」
父親は当然だという顔をした。
「村の子じゃないって言うから、どこかから迷い込んだ子かもしれないと思って。あの辺りは街道から外れてますし、一人なら放っておけないでしょう」
「うむ。当然だ。子どもが一人で林の近くにいる。それだけで、父親が出向く理由としては十分すぎる」
私は頷いた。
「そのうえ狼までいる。私なら娘を捜すついでに、狼には今後二度と娘の半径五キロ以内へ立ち入らないよう、厳重な父性的指導を行うところだ」
父親が少しだけ黙った。
「……狼に?」
「無論」
「先生」
ダヴィトが記録から顔を上げずに言った。
「話を戻してください」
「戻しているとも。つまり、あなたは少女と狼、その両方を確認するために山へ入った」
父親は若干こちらを警戒するようになっていたが、頷いた。
「はい。翌朝、近所の男たちにも声をかけました。迷子なら早く見つけないといけないし、狼が本当にいるなら危ないですから」
「何人くらい?」
「私を入れて七人だったと思います」
ダヴィトが記録を確認した。
「七人で合っています。当時の聞き取りにも残っています」
「少女は?」
「見つかりませんでした」
「村の外から、子どもがいなくなったという話は?」
「それもなかったと思います。少なくとも、あとから聞いた覚えはありません」
「では狼は?」
父親は首を横へ振った。
「そっちもです。足跡も、糞も、食われた獲物もなかった。あの辺りをかなり歩いたんですが」
「声も?」
「その日は何も」
少女もいない。狼もいない。
少年が嘘をついたと考えれば、それで済む話だった。実際、当時はそう処理されたのだろう。
「では、あなた自身が異音を聞き始めたのは?」
「その次の日だったと思います」
ダヴィトが確認する。
「診療所へ来たのは山狩りの二日後です。ただ、ご本人は前日から違和感があったと証言しています」
順番だけなら、よくできている。
少年が、知らない少女と姿の見えない狼について父親へ話す。父親は、息子の話を確かめるため山へ入る。そして次に、父親が聞こえるようになった。
私は父親を見る。
「ひとつ確認したい。息子さんの話を疑っていた?」
父親は少し考えた。
「……半分くらいは。子どもの言うことですから」
「それでも山へ行った」
「もし本当だったら困るでしょう」
私は頷いた。実に正しい。
子どもの話が荒唐無稽だからといって、危険まで荒唐無稽とは限らない。
親というものは、99.99%が勘違いでも、残った0.01%に我が子の危険が含まれているなら確認しに行くべきである。
少なくとも私はそう思う。
……娘たちからは、その思想そのものを危険物扱いされているが。
「山狩りの間、狼の音を探した?」
「それは、まあ。山狩りですから」
「静かにして、鳴き声がしないか待ったりも?」
「何度か」
私はそこで一度、質問を止めた。
父親は二つのものを探している。少女と狼は。そして発症した。
だからといって、どちらが関係していたのかは分からない。そもそも、どちらも関係していない可能性さえ残っている。
「他の六人も、狼の音を探していた?」
父親は少し考えた。
「そういう時もありました。ただ、ずっと一緒にいたわけじゃないです。二手に分かれたりもしたので」
「その六人のうち、その直後に症状が出た者は?」
ダヴィトが先に記録を繰った。
「いません」
そこで、きれいな感染経路はいったん切れた。
まあ、そうだろう。七人で山へ入って七人が発症したのなら、話は簡単すぎる。
「あなたはその後、村の人間に話したかね。息子さんが聞いたものと、自分の症状について」
「そりゃ話しましたよ」
父親は少し戸惑った。
「最初は狼を見つけられなかったって話です。そのあと私まで変な音が聞こえるようになったから……息子の言っていたのはこれだったのかもしれない、と」
「誰に?」
「誰って……」
父親は困った顔でダヴィトを見た。
「近所にも話しましたし、共同窯でも話したと思います。診療所でも。二ヶ月前なので、全員は覚えてません」
当然だった。
村で原因不明の病人が二人続けば話題になる。その二人が親子で、どちらも山の獣について話しているなら、なおさらだ。
「聞いた人間が、自分にも同じ音がしないか確かめていたかどうかは?」
父親はさらに困った。
「そんなの、私には分かりませんよ」
「そうだろうな」
私はそこで質問を終えた。
父親にも外へ出てもらい、扉が閉まるまで待った。ダヴィトはしばらく記録を見返していた。
「三人目以降との直接の接触は追えません」
「だろうね」
「初期の患者同士でも、同じ職場、同じ水場、同じ食事という共通項はありません。これは以前調べています」
「それも知っている」
私は少年の証言を記した紙を、自分の方へ寄せた。村に異常な症状が広まる前。最初に症状を訴えた少年は、白い服の少女を見た。
少女を追い、声らしきものを聞こうとして耳を澄ませ、その直後、林の中から獣の気配を聞いた。
翌日、難聴を自覚した。二番目は父親。息子から狼の話を聞き、実際に山へ入り、姿も痕跡もない獣の音を探した。その後、発症した。
ここまでは記録として並べられる。問題は、その先だった。
「先生」
ダヴィトが私の手元を見る。
「以前の仮説と一致しているように見えます」
「一部はね」
私は少年の発症日を指で押さえた。
「だが、最も重要なところが分からない」
ニノ医師がこちらを向いた。
「どこです?」
「この子が、いつ発症したのかだ」
ダヴィトが眉を寄せる。
「翌朝では?」
「翌朝は、本人が難聴を自覚した時刻だ」
私はその前日の証言へ指を滑らせた。
白い服の少女。小さな声。林の奥の獣。
「少女を見た時には既に知覚の変化が始まっていた可能性がある。そうなら、あの姿もGNSによって見えるようになったものかもしれない」
ニノ医師が少年の座っていた椅子を見る。
「逆なら?」
「逆?」
「まだ発症していない状態で、少女を見たのなら」
私は頷いた。それも残る。未発症の人間にも、あの少女が見える可能性。そして、その後に少年が何らかの理由でGNSを発症した可能性。
前回、GNS-Cが現れた場には私とダヴィトとニノ医師しかいなかった。宿舎で私が最初に見た時も、目撃したのは私だけだ。サロメもレヴァンも、少女が姿を現した瞬間には立ち会っていない。
つまり私たちは、あの少女が誰に見えるのかを、一度も比較できていない。
「確かめますか?」
ダヴィトが訊いた。
「未発症者を横に置いて?」
私は首を横へ振った。
「そのためだけにサロメかレヴァンへ『白い少女を探してくれ』と言うのかね。今まで我々が避けてきた行為そのものだ」
ダヴィトは黙った。
対照群が欲しい。だからといって、対照群を発症させては意味がない。
私はもう一度、少年の証言へ戻った。もう一つ、気になる箇所がある。少女は、何かを伝えようとしていたらしい。少なくとも少年には、そう見えた。
そして現在のGNS-Cも、私たちへ意味を伝えてきた。
同じ存在だと断定するには、まだ材料が足りない。当時、村へ白い服を着た別の少女が来ていた可能性も、少年の記憶が後から変形した可能性も残る。
それでも、無視するには似すぎていた。
「父親から先は、追えませんね」
ニノ医師が言った。
「話を聞いた人が、自分にも聞こえないか確かめたかどうかなんて、記録には残らない」
「そうだ」
私は頷いた。
症状について知る。自分にもないか確かめる。音へ注意を向ける。
私たち自身が発症した時と、行動の形は似ている。
ただ、それだけだ。
村人が実際に全員そうしたと証明する方法はない。三人目以降の発症が一見ばらばらなのも、この仮説なら説明はできるが、「説明できる」と「そうだった」は別物である。
私は紙の余白に、いくつかの線を引いた。
最初の少年は数日で治った。父親は現在も聞こえている。少年は林から逃げ、それ以降その音を探していない。父親は狼を探して山へ入り、その後も自分が聞く音を、息子の言っていたものと結びつけた。
これも差としては興味深い。
だが、二人では少なすぎる。
治癒との関係までここで結びつければ、ただの物語になる。
私はそこには線を引かなかった。代わりに、少年の証言の最初へ戻る。
白い服の少女。割れ岩。聞き取れない声。
それらは、GNSの流行が確認されるより前日の出来事だった。
昨日決めた三つの問いのうち、二つ目が頭に残った。"向こう側の存在は、我々に何をしているのか"。
これまでは、GNS-Cが現れ、こちらが受け取ったものを調べてきた。
どうやって情報を送るのか。何を言ったのか。どの程度こちらを理解しているのか。
だが、同じ少女がいたのだとすれば、先に確かめるべきことがある。
なぜ、あの少年の前に現れたのか。そして、あの時、何を伝えようとしていたのか。
私は椅子から立ち、壁に掛けられた村周辺の地図を開いた。
川沿いの道から北へ指を動かす。林の手前で止める。そこには、小さく目印が記されていた。
割れ岩。
「次は、ここを調べよう」
ダヴィトが立ち上がった。
ニノ医師は地図を見たまま、すぐには何も言わなかった。
私は指先を離した。少女を探すつもりはない。呼び出す方法を試すつもりもない。そこで何が起きていたのか。まず、こちら側に残っているものから調べる。
もしあの少女が、この村でGNSが始まる前から人間へ接触していたのなら。彼女が何者かより先に……何をしようとしているのかを知らなければならない。
——to be the next scene.




