Scene28:『勝利条件』
診療所へ戻った頃には、もう夕方だった。
西日の色が窓硝子に薄く残り、診察室の奥まで長い影を伸ばしている。
誰も灯りを点けようとしなかった。机の上には、今朝持ち出した記録板と測定器がそのまま積まれている。帰り道で揺られたせいか、金具がひとつ緩んでいた。
私は椅子へ腰を下ろし、それを指で締め直した。
ツィサナに聞きたいことは、まだいくらでもある。
……いや。ツィサナと、イリア少年に。
あの身体は何なのか。いつから、あの形だったのか。ツィサナには、どこまで聞こえているのか。GNS-Cが言った「その部分」とは何を意味するのか。
そもそも、イリア少年自身は、自分を何だと思っているのか。
質問なら、いくらでも作れた。だが……あの場で、さらに続ける気にはなれなかった。
測定器の向こうで、ツィサナは最後まで取り乱さなかった。ただ、イリア少年がいるらしい場所へ身体を寄せていた。あれを見たあとで、『では次の検査を』とは、さすがの私も言えなかった。
示し合わせたわけではない。それでも、ダヴィトもニノ医師も、そしてサロメも。誰ひとり次の質問を口にしなかった。
機材を片づけ、ツィサナへ礼を言い、家を出た。結果として、今日の調査はそこで終わった。
診療所へ戻ってからも、しばらく誰も喋らなかった。紙をめくる音すらない。ニノ医師は薬箱の中を確認している。ダヴィトは記録帳を開いているが、まだ何も書いていない。サロメは窓際の椅子に腰掛け、革鞄の金具へ指を置いていた。
レヴァンは呼んでいない。彼には今も、詳細なGNS情報を知らせない。知らないことが安全につながる可能性がある以上、この会議へ参加させる理由はなかった。
私は机の上にあった紙を一枚引き寄せた。
「ここまで情報が揃ったところで、我々の"勝利条件"を決めたい」
ダヴィトが顔を上げた。
「……勝利条件?」
「そうだ」
私は紙の中央に線を一本引いた。
「現状は、言わば盤面に駒が揃った段階だ。だが、肝心のルールがまだ分からない」
少し間があった。
ダヴィトの眉間に皺が寄る。サロメの指が、革鞄の金具から離れた。
「先生」
ダヴィトが静かに言った。
「患者を駒に例えるのは、あまり感心しません」
「私も、あまり好きな言い方ではありませんね」
サロメも続けた。もっともな反応だった。
「人間を駒と呼んだつもりはない。盤面にあるのは、我々が持っている情報だ」
私は紙を指先で叩いた。
「だが、言い方が悪かったことは認めよう」
ニノ医師だけは、薬箱を閉じると、そのままこちらを見た。
「続けてください」
ニノ医師の反応は、少し意外ではあった。
世間では、女性は感情的で、男は理性的だと言う者がいる。
だが、私は、あれをあまり信用していない。むしろ目的が明確に定まったとき、女性というものは驚くほど合理的に動く。迷いや情を判断から切り離し、必要とあらば躊躇なく最短の手段を選ぶ。
実際、我が娘たちは私に向けた引き金を引く際、一切の迷いがない。
これは偏見ではなく、経験則に基づく見解である。
私は頷いた。
「調査というものは、放っておくと目的が変わる」
紙の端へ、これまで分かったことを書いていく。
異常振動。発症者と非発症者。GNS-B。GNS-C。イリア少年。
「分からないものを見つければ、次を知りたくなる。次が分かれば、その奥を見たくなる。研究としては自然だ」
そこで筆を止めた。
「だが今回は、知るという行為そのものが患者を増やす可能性がある」
誰も反論しなかった。
「ならば、世界の仕組みをすべて解明することを目的にはできない」
私は言った。
「むしろ、そこを勝利条件に置けば負ける可能性すらある」
ニノ医師が腕を組んだ。
「では、先生は何をもって終わりとしますか」
「その前に、医師としての答えを聞きたい」
ニノ医師はほとんど考えなかった。
「全員の治療です」
即答だった。
「村の患者も、搬送先で発症した職員も。先生とダヴィトさんも含めてです」
こちらへ向けた視線が一瞬止まる。
「症状を消して、日常生活へ戻す。それができれば終わりです」
実に医師らしい。そして、正しい。
「否定はしない。最終的にはそれを支持する」
ニノ医師がわずかに眉を上げた。
「ただし、私は一段低いところへ置く」
紙へ書く。
《二次発症の抑制》
「感染拡大の防止だ」
ダヴィトが記録帳へ視線を落とした。今度は筆が動き始める。
「治療法はまだない。原因も分かっていない。だが、新しい患者を出さないことなら、その両方を完全に理解する前でも達成できる可能性がある」
「まず、これ以上増やさない」
ダヴィトが書きながら言った。
「その上で、既に発症している人間を戻す」
「そうだ」
問題は、そのために何を知らなければならないかだ。
私は紙へ、一本目の線を引いた。
思考は頭の中に置いておくと、案外、自分自身にも全体が見えない。書くという行為は、他者へ思考を可視化するためだけのものではない。頭の中で絡まった情報をいったん外へ出し、自分自身が観察できる形にする作業でもある。
紙の上なら、自分の思考にも第三者としてケチをつけられる。
「第一に……」
《何を起点に、この村でGNSは始まったのか》
ニノ医師が紙を見る。
「発生源、ですか」
「それに近い」
GNS由来と思われる入力は、症状のない人間にも存在している。ならば、単純に『体内で異音が鳴り始めた』では済まない。
"この村"で、"約二ヶ月前"から、"複数の人間"が、次々とそれを知覚するようになった。
そこには何か、変化があったはずだ。
「場所なのか。人なのか。向こう側で何かが変わったのか。あるいは、まったく別の要因か」
私は言った。
「そこを押さえなければ、同じことが別の場所で起こる条件も分からない」
村を閉じれば終わる事件なのか。それとも、ここは最初に見つかった場所にすぎないのか。
その違いは大きい。
私は二本目の線を引いた。
「次に……向こう側の存在と、GNSそのものの関係だ」
少し考えてから書く。
《GNSは、向こう側の存在が意図して起こしているのか》
その下へ、小さく続けた。
《もしそうなら、何のために?》
ダヴィトの筆が止まった。
「GNS-Cの目的を調べる、ということですか」
「それだけではない」
私は首を振った。
「今のところ、我々はGNS-B、GNS-C、そしてイリア少年を、便宜上ひとまとめに『向こう側の存在』として扱っている。だが、同じものかどうかすら分かっていない」
GNS-Bは、人間へ近づき、観察し、威嚇すれば離れた。GNS-Cは、こちらへ明確に意味を送ってきた。イリア少年は、ツィサナと一ヶ月以上も生活を続けている。
行動が違う。知性も、おそらく違う。
「だが、そのどれかが意図的にGNSを引き起こしているなら、話は大きく変わる」
私は紙の端を指で押さえた。
「仮にGNSが、何らかの条件が揃ったことで自然に生じる現象なら、その条件を断てば封じ込められる可能性がある」
検査を止める。情報を制限する。村外への搬送を止める。危険な認知手順を広めない。
今やっている対策にも意味がある。
「だが、向こう側の何者かが意図して人間の知覚へ作用しているなら、それだけでは足りない」
こちらが何も調べなくても。誰にも教えなくても。村を閉じても。
向こうから次の人間へ働きかけられるなら、封じ込めにはならない。
診療所が少し静かになった。ニノ医師が口を開いた。
「つまり、敵意があるかどうか」
「敵意、は少しニュアンスが違うな」
私は答えた。
「敵意や害意がなくても、人間にとって有害なことはいくらでもある」
ニノ医師が黙る。
「悪意を持って病気を広げているなら、まだ分かりやすい。止めればいい。倒せば良い」
私は続けた。
「だが、向こう側にとっては善意でも、習性でも、単なる接触でも、それが人間の知覚を壊すなら、我々にとっては対処が必要だ」
目的を知りたいのは、相手を悪者と決めるためではない。
何をすれば、向こうがそれをやめるのか。あるいは、そもそも、やめさせるという考え方が成立する相手なのか。
そこを知らなければならない。
私は最後の線を引いた。
「そして、三つ目」
《この症状は治せるか》
「たしか、初期には……」
ダヴィトが頷いた。
「はい。症状を訴えたあと、数日で自然に治まった者が何人かいます。当時は軽い聴覚異常として処理されています」
「現在は?」
「確認できていません。発症した者は、そのまま症状が続いています」
つまり、少なくとも最初から不可逆だったわけではない。
「治療できる可能性はゼロではない。少なくとも、軽度の段階ならな」
ニノ医師が紙へ視線を落とした。
「初期に回復した患者と、現在の患者を比較します。症状の程度と経過、それから発症から回復までの期間を中心に」
「頼む。異音の内容そのものを聞き直す必要はない」
「ええ。そこは避けます」
私は紙を回し、三人から読める向きへ置いた。そこには三つだけ書かれている。
《何を起点に、この村でGNSは始まったのか》
《GNSは、向こう側の存在が意図して起こしているのか。もしそうなら、何のために?》
そして、《この症状は治せるか》
イリア少年が何者なのか。白い少女の背後に何があるのか。あの獣がどこから来たのか。向こう側が、どこまで広がっているのか。
……知りたいことなら、まだいくらでもある。
だが、それらを知ること自体が目的ではない。必要なのは。
どこから始まったのか。
誰かが起こしているのか。
終わらせることができるのか。
この三つだ。
「ここまで分かれば、少なくとも我々は次に何を止めるべきか判断できる」
ダヴィトが、記録帳へ最後の一行を書き込んだ。
サロメはしばらく紙を眺めていたが、やがて静かに口を開いた。
「では、イリアさんの正体を明らかにすることは?」
私は少し考えた。
朝食の卓。小さな器。そして、誰もいないように見える場所へ向かってツィサナが言った言葉。
「それは、我々の目的ではない」
私は答えた。
「必要なら調べる。必要がなければ、暴く理由もない」
サロメは、それ以上何も言わなかった。
私は紙の一番上へ視線を戻す。まずは最初の問いだ。
なぜ、この村なのか。なぜ、今なのか。まず見るべきなのは、今ここにいる怪異ではない。
私は八週間前の記録へ手を伸ばした。
「始まりに戻ろう」
——to be the next scene.




