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Ghost Noise 〜耳底に沈む音〜  作者: 矢崎 那央
第4幕『同じ場所にあるもの』
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Scene28:『勝利条件』


 診療所へ戻った頃には、もう夕方だった。


 西日の色が窓硝子に薄く残り、診察室の奥まで長い影を伸ばしている。

 誰も灯りを点けようとしなかった。机の上には、今朝持ち出した記録板と測定器がそのまま積まれている。帰り道で揺られたせいか、金具がひとつ緩んでいた。


 私は椅子へ腰を下ろし、それを指で締め直した。

 ツィサナに聞きたいことは、まだいくらでもある。


 ……いや。ツィサナと、イリア少年に。


 あの身体は何なのか。いつから、あの形だったのか。ツィサナには、どこまで聞こえているのか。GNS-Cが言った「その部分」とは何を意味するのか。

 そもそも、イリア少年自身は、自分を何だと思っているのか。


 質問なら、いくらでも作れた。だが……あの場で、さらに続ける気にはなれなかった。

 測定器の向こうで、ツィサナは最後まで取り乱さなかった。ただ、イリア少年がいるらしい場所へ身体を寄せていた。あれを見たあとで、『では次の検査を』とは、さすがの私も言えなかった。

 示し合わせたわけではない。それでも、ダヴィトもニノ医師も、そしてサロメも。誰ひとり次の質問を口にしなかった。


 機材を片づけ、ツィサナへ礼を言い、家を出た。結果として、今日の調査はそこで終わった。

 診療所へ戻ってからも、しばらく誰も喋らなかった。紙をめくる音すらない。ニノ医師は薬箱の中を確認している。ダヴィトは記録帳を開いているが、まだ何も書いていない。サロメは窓際の椅子に腰掛け、革鞄の金具へ指を置いていた。

 レヴァンは呼んでいない。彼には今も、詳細なGNS情報を知らせない。知らないことが安全につながる可能性がある以上、この会議へ参加させる理由はなかった。


 私は机の上にあった紙を一枚引き寄せた。


 「ここまで情報が揃ったところで、我々の"勝利条件"を決めたい」


 ダヴィトが顔を上げた。


 「……勝利条件?」


 「そうだ」


 私は紙の中央に線を一本引いた。


 「現状は、言わば盤面に駒が揃った段階だ。だが、肝心のルールがまだ分からない」


 少し間があった。


 ダヴィトの眉間に皺が寄る。サロメの指が、革鞄の金具から離れた。


 「先生」


 ダヴィトが静かに言った。


 「患者を駒に例えるのは、あまり感心しません」


 「私も、あまり好きな言い方ではありませんね」


 サロメも続けた。もっともな反応だった。


 「人間を駒と呼んだつもりはない。盤面にあるのは、我々が持っている情報だ」


 私は紙を指先で叩いた。


 「だが、言い方が悪かったことは認めよう」


 ニノ医師だけは、薬箱を閉じると、そのままこちらを見た。


 「続けてください」


 ニノ医師の反応は、少し意外ではあった。


 世間では、女性は感情的で、男は理性的だと言う者がいる。

 だが、私は、あれをあまり信用していない。むしろ目的が明確に定まったとき、女性というものは驚くほど合理的に動く。迷いや情を判断から切り離し、必要とあらば躊躇なく最短の手段を選ぶ。


 実際、我が娘たちは私に向けた引き金を引く際、一切の迷いがない。

 これは偏見ではなく、経験則に基づく見解である。


 私は頷いた。


 「調査というものは、放っておくと目的が変わる」


 紙の端へ、これまで分かったことを書いていく。

 異常振動。発症者と非発症者。GNS-B。GNS-C。イリア少年。


 「分からないものを見つければ、次を知りたくなる。次が分かれば、その奥を見たくなる。研究としては自然だ」


 そこで筆を止めた。


 「だが今回は、知るという行為そのものが患者を増やす可能性がある」


 誰も反論しなかった。


 「ならば、世界の仕組みをすべて解明することを目的にはできない」


 私は言った。


 「むしろ、そこを勝利条件に置けば負ける可能性すらある」


 ニノ医師が腕を組んだ。


 「では、先生は何をもって終わりとしますか」


 「その前に、医師としての答えを聞きたい」


 ニノ医師はほとんど考えなかった。


 「全員の治療です」


 即答だった。


 「村の患者も、搬送先で発症した職員も。先生とダヴィトさんも含めてです」


 こちらへ向けた視線が一瞬止まる。


 「症状を消して、日常生活へ戻す。それができれば終わりです」


 実に医師らしい。そして、正しい。


 「否定はしない。最終的にはそれを支持する」


 ニノ医師がわずかに眉を上げた。


 「ただし、私は一段低いところへ置く」


 紙へ書く。


 《二次発症の抑制》


 「感染拡大の防止だ」


 ダヴィトが記録帳へ視線を落とした。今度は筆が動き始める。


 「治療法はまだない。原因も分かっていない。だが、新しい患者を出さないことなら、その両方を完全に理解する前でも達成できる可能性がある」


 「まず、これ以上増やさない」


 ダヴィトが書きながら言った。


 「その上で、既に発症している人間を戻す」


 「そうだ」


 問題は、そのために何を知らなければならないかだ。

 

 私は紙へ、一本目の線を引いた。

 思考は頭の中に置いておくと、案外、自分自身にも全体が見えない。書くという行為は、他者へ思考を可視化するためだけのものではない。頭の中で絡まった情報をいったん外へ出し、自分自身が観察できる形にする作業でもある。

 紙の上なら、自分の思考にも第三者としてケチをつけられる。



 「第一に……」


 《何を起点に、この村でGNSは始まったのか》


 ニノ医師が紙を見る。


 「発生源、ですか」


 「それに近い」


 GNS由来と思われる入力は、症状のない人間にも存在している。ならば、単純に『体内で異音が鳴り始めた』では済まない。

 "この村"で、"約二ヶ月前"から、"複数の人間"が、次々とそれを知覚するようになった。

 そこには何か、変化があったはずだ。


 「場所なのか。人なのか。向こう側で何かが変わったのか。あるいは、まったく別の要因か」


 私は言った。


 「そこを押さえなければ、同じことが別の場所で起こる条件も分からない」


 村を閉じれば終わる事件なのか。それとも、ここは最初に見つかった場所にすぎないのか。

 その違いは大きい。


 私は二本目の線を引いた。


 「次に……向こう側の存在と、GNSそのものの関係だ」


 少し考えてから書く。


 《GNSは、向こう側の存在が意図して起こしているのか》


 その下へ、小さく続けた。


 《もしそうなら、何のために?》


 ダヴィトの筆が止まった。


 「GNS-Cの目的を調べる、ということですか」


 「それだけではない」


 私は首を振った。


 「今のところ、我々はGNS-B、GNS-C、そしてイリア少年を、便宜上ひとまとめに『向こう側の存在』として扱っている。だが、同じものかどうかすら分かっていない」


 GNS-Bは、人間へ近づき、観察し、威嚇すれば離れた。GNS-Cは、こちらへ明確に意味を送ってきた。イリア少年は、ツィサナと一ヶ月以上も生活を続けている。

 行動が違う。知性も、おそらく違う。


 「だが、そのどれかが意図的にGNSを引き起こしているなら、話は大きく変わる」


 私は紙の端を指で押さえた。


 「仮にGNSが、何らかの条件が揃ったことで自然に生じる現象なら、その条件を断てば封じ込められる可能性がある」


 検査を止める。情報を制限する。村外への搬送を止める。危険な認知手順を広めない。

 今やっている対策にも意味がある。


 「だが、向こう側の何者かが意図して人間の知覚へ作用しているなら、それだけでは足りない」


 こちらが何も調べなくても。誰にも教えなくても。村を閉じても。

 向こうから次の人間へ働きかけられるなら、封じ込めにはならない。


 診療所が少し静かになった。ニノ医師が口を開いた。


 「つまり、敵意があるかどうか」


 「敵意、は少しニュアンスが違うな」


 私は答えた。


 「敵意や害意がなくても、人間にとって有害なことはいくらでもある」


 ニノ医師が黙る。


 「悪意を持って病気を広げているなら、まだ分かりやすい。止めればいい。倒せば良い」


 私は続けた。


 「だが、向こう側にとっては善意でも、習性でも、単なる接触でも、それが人間の知覚を壊すなら、我々にとっては対処が必要だ」


 目的を知りたいのは、相手を悪者と決めるためではない。

 何をすれば、向こうがそれをやめるのか。あるいは、そもそも、やめさせるという考え方が成立する相手なのか。


 そこを知らなければならない。


 私は最後の線を引いた。


 「そして、三つ目」


 《この症状は治せるか》


 「たしか、初期には……」


 ダヴィトが頷いた。


 「はい。症状を訴えたあと、数日で自然に治まった者が何人かいます。当時は軽い聴覚異常として処理されています」


 「現在は?」


 「確認できていません。発症した者は、そのまま症状が続いています」


 つまり、少なくとも最初から不可逆だったわけではない。


 「治療できる可能性はゼロではない。少なくとも、軽度の段階ならな」


 ニノ医師が紙へ視線を落とした。


 「初期に回復した患者と、現在の患者を比較します。症状の程度と経過、それから発症から回復までの期間を中心に」


 「頼む。異音の内容そのものを聞き直す必要はない」


 「ええ。そこは避けます」


 私は紙を回し、三人から読める向きへ置いた。そこには三つだけ書かれている。


 《何を起点に、この村でGNSは始まったのか》

 《GNSは、向こう側の存在が意図して起こしているのか。もしそうなら、何のために?》

 そして、《この症状は治せるか》


 イリア少年が何者なのか。白い少女の背後に何があるのか。あの獣がどこから来たのか。向こう側が、どこまで広がっているのか。


 ……知りたいことなら、まだいくらでもある。


 だが、それらを知ること自体が目的ではない。必要なのは。


 どこから始まったのか。

 誰かが起こしているのか。

 終わらせることができるのか。


 この三つだ。


 「ここまで分かれば、少なくとも我々は次に何を止めるべきか判断できる」


 ダヴィトが、記録帳へ最後の一行を書き込んだ。

 サロメはしばらく紙を眺めていたが、やがて静かに口を開いた。


 「では、イリアさんの正体を明らかにすることは?」


 私は少し考えた。

 朝食の卓。小さな器。そして、誰もいないように見える場所へ向かってツィサナが言った言葉。


 「それは、我々の目的ではない」


 私は答えた。


 「必要なら調べる。必要がなければ、暴く理由もない」


 サロメは、それ以上何も言わなかった。

 私は紙の一番上へ視線を戻す。まずは最初の問いだ。

 なぜ、この村なのか。なぜ、今なのか。まず見るべきなのは、今ここにいる怪異ではない。


 私は八週間前の記録へ手を伸ばした。


 「始まりに戻ろう」



——to be the next scene.

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