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Ghost Noise 〜耳底に沈む音〜  作者: 矢崎 那央
第3幕『返事の向こう側』
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28/43

Scene27:『イリアのかたち』


 家へ入ると、朝食の匂いがまだ残っていた。


 焼いたパンと、温めた乳。小さな鍋には何かを煮た香草の匂いがあり、窓際の卓上には使い終えた皿が二枚並んでいる。その脇に、ひと回り小さな木の器が置かれていた。

 ツィサナは私たちを中へ通すと、肩に掛けていた布巾を取り、卓上の器を重ね始めた。


 「適当に座って。片づけるから」


 「手伝おう」


 「機材を持ってきた人は、まず機材を落とさないで」


 もっともだった。


 私は木箱を壁際へ下ろした。サロメも革鞄を椅子の脇へ置き、ダヴィトは玄関に近い場所で靴底の泥を落としている。その間にも、ツィサナは誰かと話していた。


 「駄目よ。さっき半分あげたでしょう」


 小さな木の器を持ち上げる。少し待つ。


 「昨日もそう言ったわね」


 また、間があった。


 「昨日と今日は別の日、って……そういうところだけ覚えるのね」


 呆れたように言いながら、ツィサナはパンの端をほんの少しちぎった。

 皿の横へ置く。その直後だった。

 窓枠が、ごく小さく鳴った。


 カ……。


 台所の奥で、鍋の蓋が一度だけ震える。私の胸の内側にも、低い振動が走った。トン、と、指先で肋骨を叩かれた程度の弱いものだった。

 私は顔を上げた。ツィサナは小さな皿の横を見ている。


 「それで終わり。お昼までなし」


 梁が軋んだ。木の椅子の脚が、床板へ触れてわずかに鳴る。それから、私自身の喉の奥で、声ではない何かが震えた。

 私は既にGNSを発症している。だから、聞こえる。


 ……いや。


 先ほどから、既に聞こえていたのだ。

 ツィサナが言葉を切るたび、その隙間に入っていた細かな音。床の軋み。器の震え。梁の鳴る音。私の身体の奥へ入ってくる、ごく弱い振動。


 それが、彼女の会話の相手だった。


 イリアの声。


 私はもう一度、耳を澄ませかけ、すぐにやめた。

 分かるのは、それがツィサナの返事と交互に起きていることだけだった。

 声ではない。少なくとも、私にはそう聞こえない。

 五歳の少年の声も、言葉もない。ただの雑音だった。


 胸の奥が重くなった。

 机の向こうにいるダヴィトを見る。彼も小さな器の方を見ていた。眉間に力が入り、唇がわずかに引き結ばれている。

 苦しいのか、悲しいのか。本人にも区別がついていないような顔だった。おそらく、私も似た顔をしていた。


 ツィサナが皿を重ね、流し台へ運んだ。


 「それで」


 手についた水を布巾で拭く。


 「その大きな箱は、イリアのためなんでしょう?」


 私はダヴィトから視線を戻した。


 「そうだ」


 ツィサナは椅子を引き、私たちの向かいへ座った。右耳の銀鈴が、一度だけ鳴った。

 私は、林で行った測定について説明した。床や壁へ弱い振動を送り、その戻り方の差を取ること。通常の録音機器では拾えないため、既にGNSを発症している私の身体を受信器として使うこと。何かが表層とは違う形でそこに存在するなら、音の遅れや位相のずれとして残る可能性があること。


 そして、その方法でGNS-Bの輪郭を捉えたこと。


 ツィサナは途中で質問を挟まなかった。布巾を膝の上へ置き、私の話を聞いている。

 最後に、私は木箱へ手を置いた。


 「同じ方法で、イリア少年を調べたい」


 ツィサナの指が止まった。


 「姿を?」


 「ああ」


 その返事のあと、彼女の視線がゆっくり卓上へ落ちた。

 小さな木の器。その横に置いた、ちぎったパン。

 右手が膝から離れ、銀鈴へ触れた。指先で一度だけ鈴を押さえ、そのまま何も言わなかった。

 窓の外では、誰かが水桶を下ろしている。金属が石へ触れる音がして、遠くから山羊の鳴き声が一度届いた。


 やがてツィサナが息を吐いた。


 「それで、何が分かるの?」


 「何が分かるか、分からない」


 彼女が顔を上げる。


 「形が取れるかもしれない。取れないかもしれない。形が取れたとしても、それが何者なのかまで分かるとは限らない」


 「危なくは?」


 「ないと断言はできない」


 私は答えた。


 「昨日の測定では、GNS-Bへ変化が起きた様子はなかった。だが、同じものだという保証もない。異常があれば、すぐに止める」


 ツィサナは少しだけ目を伏せた。しばらくして、小さな器の横へ視線を移す。


 「イリア」


 また、雑音が鳴った。壁のどこかが小さく軋み、卓上の匙が皿へ触れる。

 私には、それ以上の意味は取れない。


 ツィサナは黙って聞いていた。


 「学者さんたちがね、あなたのことを調べたいんですって」


 短い振動。


 「痛いことはしないって」


 今度は、床の下で何かが擦れるような音がした。ツィサナが私を見る。


 「本当に?」


 「私が痛い目を見る可能性の方が高い」


 彼女の口元が、ほんの少し緩んだ。


 「それなら、いつも通りね」


 「否定しづらいな」


 ツィサナはもう一度、何もない場所へ顔を向けた。


 「嫌だったら、嫌って言っていいのよ」


 返事を待つ。


 窓枠が一度鳴った。続いて、私の胸の奥へ、短い振動が二つ入った。

 ツィサナは目を閉じずに聞いていた。やがて頷く。


 「いいって」


 私は姿勢を正した。


 「ありがとう」


 誰に向けた礼なのか、自分でも少し迷った。

 ツィサナは立ち上がり、壁に掛かった前掛けへ手を伸ばした。そこで途中まで持ち上げた手を止める。


 「……今日は、仕事を休まないと駄目ね」


 「窯か」


 「朝の仕込みに入る時間なの。急に休むと、ほかの人が困るわ」


 ダヴィトがすぐに椅子を引いた。


 「私が伝えてきます」


 「悪いわね」


 「いえ。共同窯でしたね」


 「表通りをまっすぐ。煙突が一番太いところ」


 ダヴィトは記録帳を閉じ、上着を取った。


 「途中でパンを食べても構わんぞ」


 「戻ってからにします」


 彼はそのまま、戸を閉めた。


————


 ダヴィトが出ていったあと、私たちは家具を動かすところから始めた。


 昨日の林と違い、家の中には椅子も卓も棚もある。そのままでは振動の経路が増えすぎる。ツィサナに許可を取り、卓を壁際へ寄せ、敷物を巻き、床板が見える範囲を広げた。


 「そっちは持たなくていい」


 私が卓の端へ手を掛けると、ツィサナが反対側を持ち上げた。


 「学者さん、線を繋ぐんでしょう」


 「これくらいなら手伝える」


 「昨日、馬車に轢かれかけたって聞いたわ」


 私はサロメを見る。


 彼女は床へエミッターを固定しながら、何も聞こえなかったふりをした。


 「情報統制はどうなっているのかね」


 「生命に関わる情報は共有いたします」


 「私の名誉も、ある程度は尊重してほしい」


 「優先順位は自明です」


 ツィサナが卓を押し終え、腰へ手を当てた。


 「仲がいいのね」


 「どこを見てそう判断した」


 「長く一緒にいる人の喧嘩だから」


 サロメが固定具を締めた。


 「腐れ縁です」


 「同義語ではないかね」


 「違います」


 即答だった。


 ツィサナが笑い、今度は椅子を運ぶ。家の中から重い空気が少しだけ抜けた。


 設置は、昨日よりずっと早く進んだ。

 サロメが発振器と解析端末を卓上へ置き、私は床と壁へ固定したエミッターを順番に接続していく。ツィサナは言われる前に敷物を畳み、邪魔になる食器を片づけ、配線が通る場所から椅子を退けた。

 自分の家だけあって、こちらが「そこを空けたい」と言う前に、必要な場所が空いていく。


 最後に、私は白衣の釦へ手を掛けた。


 「脱ぐの?」


 「正確な測定には必要だ」


 「我が家に裸の男性がいるなんて、夫と別れてからなかったわ」


 サロメの手が一瞬止まった。私は白衣を脱ぎ、上衣も外した。


 「誤解を招く表現はやめたまえ。裸ではない。下はちゃんと履いているし、白衣も着る」


 受信器を胸骨へ貼りつける。次に鎖骨の下。喉。左右の側腹部。

 ツィサナは固定帯を持ったまま、私を上から下まで見た。


 「白衣から、だいぶはみ出てるわよ」


 「科学的に必要な露出だ」


 「露出に科学的と非科学的があるの?」


 「あるとも。学会発表では非常に重要な区別だ」


 サロメが背後へ回り、受信器を背中へ貼った。


 「学会でその格好をなさる予定でしたら、私は欠席いたします」


 「君は共同研究者として最前列だ」


 「辞退いたします」


 ツィサナが固定帯を私の胸へ回す。


 「これ、締めるの?」


 「ほどほどに頼む」


 「父性がどうとか言わないの?」


 私は彼女を見る。


 「なぜ知っている」


 「さっきサロメさんに聞いた」


 「情報統制!」


 「生命に関わらないので共有いたしました」


 サロメの声は淡々としていた。敵が増えている。


 ツィサナが固定帯を締める。呼吸が一瞬詰まった。


 「少しきつい」


 「父性で何とかして」


 「肺は父性に含まれない」


 「便利ね、その理屈」


 サロメの口元が、一ミリほど上がった。


————


 ダヴィトが戻ってきたのは、それから四十分ほど経った頃だった。

 玄関の戸が開き、外気と一緒に焼きたてのパンの匂いが入ってくる。


 「共同窯へは伝えてきました。今日は休んで構わないとのことです」


 ツィサナが床へ這わせていた配線から顔を上げた。


 「ありがとう」


 「代わりに、明日は早く来るようにと」


 「そう言うと思った」


 ダヴィトは靴を脱ぎ、部屋へ入った。

 私を見る。受信器を貼りつけた胸。開いた白衣。床を這う十数本の配線。

 そのまま一度、瞬きをした。


 「もう、その段階ですか」


 「先日の経験があるからな。人間は学習する生き物なのだよ」


 「服装については学習しなかったのですね」


 「これが完成形だ」


 「それは残念です」


 ツィサナが声を立てずに笑った。

 サロメは端末の基準値を合わせながら、視線だけをこちらへ向ける。


 「あと一台です」


 ダヴィトは上着を脱ぎ、すぐに作業へ加わった。

 林で一度組んだ装置だ。接続番号も固定位置も既に決まっている。最後のエミッターを壁の梁へ固定し、基準波形を取る頃には、朝から動かしていた家具以外、家の中はほぼ元の配置へ戻っていた。


 玄関が、もう一度開く。ニノ医師だった。片腕に資料を抱え、もう一方の手で鞄を持っている。


 「遅くなりました。朝の記録をまとめてからー」


 部屋へ入ったところで、言葉が切れた。端末。配線。床へ固定されたエミッター。

 最後に、椅子へ座っている私を見る。


 「先生の格好については、もう驚きません」


 「成長したな」


 「諦めただけです」


 鞄を下ろし、ツィサナへ顔を向ける。そこで、声が少し変わった。


 「ツィサナは……了承したのね」


 ツィサナは、すぐには答えなかった。先ほどまで持っていた布を畳み、卓の端へ置く。


 「はい」


 それだけだった。ニノ医師が頷く。


 「途中で嫌になったら、いつでも止めるわ。理由も要りません」


 「分かったわ」


 部屋に残っていた笑いが、そこで途切れた。私は端末へ向き直った。


————


 最初に、基準測定を行った。

 室内にいる人間の位置。卓、椅子、棚、壁、床下の空洞。それぞれを表層側の反射として登録する。


 ツィサナには普段と同じ場所へ座ってもらった。イリアをどこへ立たせるかは聞かなかった。


 「いつも通りでいい」


 そう伝えると、彼女は隣の椅子へ顔を向けた。


 「イリア。学者さんたちが始めるって」


 床板が、ごく小さく鳴った。続いて、私の胸の中へ弱い振動が入る。

 やはり、言葉にはならない。

 ツィサナだけが頷いた。


 「うん。そこにいて」


 私は発振器へ手を置いた。

 サロメが時刻を記録し、ダヴィトがデータロガーの各チャンネルを確認する。ニノ医師は私の右手首へ指を置いた。


 「脈拍がやや速めですが、開始できます」


 「では行く」


 一度目の発振。床へ固定したエミッターから、短い振動が流れた。

 足裏へ届き、椅子を通り、腰から胸へ上がってくる。受信器が拾った波形が端末へ並び、室内の輪郭が粗い濃淡として現れた。

 壁。卓。椅子。人間の身体。それらは、昨日取った基準と大きく違わない。


 私は出力を一段変えた。

 二度目で、波形が重なる。画面の左下で、位相がわずかに遅れた。

 私は手を止める。床板の節でも、椅子の脚でもない。


 ……小さな空白だった。


 三度目の発振を入れると、同じ場所に残る。ツィサナの椅子のすぐ近く。高さは、彼女の腰にも届かない。


 輪郭が少しずつ立ち上がった。

 頭部らしい丸み。その下へ細い胴。二本の脚が床へ接している。

 幼い子どもほどの背丈だった。私は無意識に息を止めた。


 五歳。


 その数字が頭へ浮かびかけ、すぐに違和感が勝った。


 腕が短い。脚も細い。そして、腹部だけが大きかった。胸の下から前へ膨らみ、重さに引かれるように低く垂れている。


 昨日見た輪郭を思い出した。

 林の中で二本の脚に立ち、腹だけを異様に膨らませていたもの。


 GNS-B。


 大きさは違う。こちらはずっと小さい。だが、身体の比率が似ている。


 さらに出力を変える。輪郭の縁が、少しだけ鮮明になった。

 膝らしい関節の位置が、人間より高い。肘に見える部分も、腕の途中で一度余計に折れているように見える。


 幼児の姿ではなかった。

 人間の子どもに似た大きさの、別の身体だった。


 誰も口を開かなかった。端末の作動音だけが、小さく続いている。


 私は画面からツィサナへ目を移した。

 彼女は再構成図を見ていない。私たちの顔を見ていた。

 最初に私。次にダヴィト。そしてニノ医師。それだけで、何かを察したらしい。


 右耳の銀鈴へ、指先が触れた。


 「イリアの姿は、していないのでしょう?」


 声は静かだった。

 私は答えられなかった。


 画面へ目を戻す。小さな輪郭は、ツィサナの椅子の隣に立ったままだ。

 頭の高さだけなら、幼い子どもに見えなくもない。

 だが、その下にある身体は違う。


 「……知っていたのか」


 ようやく出た声は、自分で思っていたより低かった。

 ツィサナは少しだけ首を傾けた。


 「ずっと一緒に過ごしているんだもの」


 銀鈴から指を離す。


 「どの辺にいて、どんなふうに動いてるかくらい、なんとなく分かるわ」


 私は画面とツィサナを見比べた。


 "このイリア"と会話を始めて以来、彼女はこの姿を見たことがない。少なくとも、私たちが今見ているような形では。

 それでも隣にいるものの高さを知り、動き方を知り、どこにいるのかを知っていた。


 ツィサナが、隣の空いた椅子へ顔を向ける。


 「ねえ、イリア」


 床のどこかが、小さく軋んだ。私の胸の奥にも、弱い振動が届く。

 やはり、私には言葉にはならない。ツィサナだけが、それを聞いていた。


 彼女は少しだけ笑った。


 「うん。ちょっと変だって」


 私は端末へ目を戻した。

 画面の中では、人間の子どもではない小さなものが、彼女のすぐ隣に立っていた。



——to be the next act.

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