Scene27:『イリアのかたち』
家へ入ると、朝食の匂いがまだ残っていた。
焼いたパンと、温めた乳。小さな鍋には何かを煮た香草の匂いがあり、窓際の卓上には使い終えた皿が二枚並んでいる。その脇に、ひと回り小さな木の器が置かれていた。
ツィサナは私たちを中へ通すと、肩に掛けていた布巾を取り、卓上の器を重ね始めた。
「適当に座って。片づけるから」
「手伝おう」
「機材を持ってきた人は、まず機材を落とさないで」
もっともだった。
私は木箱を壁際へ下ろした。サロメも革鞄を椅子の脇へ置き、ダヴィトは玄関に近い場所で靴底の泥を落としている。その間にも、ツィサナは誰かと話していた。
「駄目よ。さっき半分あげたでしょう」
小さな木の器を持ち上げる。少し待つ。
「昨日もそう言ったわね」
また、間があった。
「昨日と今日は別の日、って……そういうところだけ覚えるのね」
呆れたように言いながら、ツィサナはパンの端をほんの少しちぎった。
皿の横へ置く。その直後だった。
窓枠が、ごく小さく鳴った。
カ……。
台所の奥で、鍋の蓋が一度だけ震える。私の胸の内側にも、低い振動が走った。トン、と、指先で肋骨を叩かれた程度の弱いものだった。
私は顔を上げた。ツィサナは小さな皿の横を見ている。
「それで終わり。お昼までなし」
梁が軋んだ。木の椅子の脚が、床板へ触れてわずかに鳴る。それから、私自身の喉の奥で、声ではない何かが震えた。
私は既にGNSを発症している。だから、聞こえる。
……いや。
先ほどから、既に聞こえていたのだ。
ツィサナが言葉を切るたび、その隙間に入っていた細かな音。床の軋み。器の震え。梁の鳴る音。私の身体の奥へ入ってくる、ごく弱い振動。
それが、彼女の会話の相手だった。
イリアの声。
私はもう一度、耳を澄ませかけ、すぐにやめた。
分かるのは、それがツィサナの返事と交互に起きていることだけだった。
声ではない。少なくとも、私にはそう聞こえない。
五歳の少年の声も、言葉もない。ただの雑音だった。
胸の奥が重くなった。
机の向こうにいるダヴィトを見る。彼も小さな器の方を見ていた。眉間に力が入り、唇がわずかに引き結ばれている。
苦しいのか、悲しいのか。本人にも区別がついていないような顔だった。おそらく、私も似た顔をしていた。
ツィサナが皿を重ね、流し台へ運んだ。
「それで」
手についた水を布巾で拭く。
「その大きな箱は、イリアのためなんでしょう?」
私はダヴィトから視線を戻した。
「そうだ」
ツィサナは椅子を引き、私たちの向かいへ座った。右耳の銀鈴が、一度だけ鳴った。
私は、林で行った測定について説明した。床や壁へ弱い振動を送り、その戻り方の差を取ること。通常の録音機器では拾えないため、既にGNSを発症している私の身体を受信器として使うこと。何かが表層とは違う形でそこに存在するなら、音の遅れや位相のずれとして残る可能性があること。
そして、その方法でGNS-Bの輪郭を捉えたこと。
ツィサナは途中で質問を挟まなかった。布巾を膝の上へ置き、私の話を聞いている。
最後に、私は木箱へ手を置いた。
「同じ方法で、イリア少年を調べたい」
ツィサナの指が止まった。
「姿を?」
「ああ」
その返事のあと、彼女の視線がゆっくり卓上へ落ちた。
小さな木の器。その横に置いた、ちぎったパン。
右手が膝から離れ、銀鈴へ触れた。指先で一度だけ鈴を押さえ、そのまま何も言わなかった。
窓の外では、誰かが水桶を下ろしている。金属が石へ触れる音がして、遠くから山羊の鳴き声が一度届いた。
やがてツィサナが息を吐いた。
「それで、何が分かるの?」
「何が分かるか、分からない」
彼女が顔を上げる。
「形が取れるかもしれない。取れないかもしれない。形が取れたとしても、それが何者なのかまで分かるとは限らない」
「危なくは?」
「ないと断言はできない」
私は答えた。
「昨日の測定では、GNS-Bへ変化が起きた様子はなかった。だが、同じものだという保証もない。異常があれば、すぐに止める」
ツィサナは少しだけ目を伏せた。しばらくして、小さな器の横へ視線を移す。
「イリア」
また、雑音が鳴った。壁のどこかが小さく軋み、卓上の匙が皿へ触れる。
私には、それ以上の意味は取れない。
ツィサナは黙って聞いていた。
「学者さんたちがね、あなたのことを調べたいんですって」
短い振動。
「痛いことはしないって」
今度は、床の下で何かが擦れるような音がした。ツィサナが私を見る。
「本当に?」
「私が痛い目を見る可能性の方が高い」
彼女の口元が、ほんの少し緩んだ。
「それなら、いつも通りね」
「否定しづらいな」
ツィサナはもう一度、何もない場所へ顔を向けた。
「嫌だったら、嫌って言っていいのよ」
返事を待つ。
窓枠が一度鳴った。続いて、私の胸の奥へ、短い振動が二つ入った。
ツィサナは目を閉じずに聞いていた。やがて頷く。
「いいって」
私は姿勢を正した。
「ありがとう」
誰に向けた礼なのか、自分でも少し迷った。
ツィサナは立ち上がり、壁に掛かった前掛けへ手を伸ばした。そこで途中まで持ち上げた手を止める。
「……今日は、仕事を休まないと駄目ね」
「窯か」
「朝の仕込みに入る時間なの。急に休むと、ほかの人が困るわ」
ダヴィトがすぐに椅子を引いた。
「私が伝えてきます」
「悪いわね」
「いえ。共同窯でしたね」
「表通りをまっすぐ。煙突が一番太いところ」
ダヴィトは記録帳を閉じ、上着を取った。
「途中でパンを食べても構わんぞ」
「戻ってからにします」
彼はそのまま、戸を閉めた。
————
ダヴィトが出ていったあと、私たちは家具を動かすところから始めた。
昨日の林と違い、家の中には椅子も卓も棚もある。そのままでは振動の経路が増えすぎる。ツィサナに許可を取り、卓を壁際へ寄せ、敷物を巻き、床板が見える範囲を広げた。
「そっちは持たなくていい」
私が卓の端へ手を掛けると、ツィサナが反対側を持ち上げた。
「学者さん、線を繋ぐんでしょう」
「これくらいなら手伝える」
「昨日、馬車に轢かれかけたって聞いたわ」
私はサロメを見る。
彼女は床へエミッターを固定しながら、何も聞こえなかったふりをした。
「情報統制はどうなっているのかね」
「生命に関わる情報は共有いたします」
「私の名誉も、ある程度は尊重してほしい」
「優先順位は自明です」
ツィサナが卓を押し終え、腰へ手を当てた。
「仲がいいのね」
「どこを見てそう判断した」
「長く一緒にいる人の喧嘩だから」
サロメが固定具を締めた。
「腐れ縁です」
「同義語ではないかね」
「違います」
即答だった。
ツィサナが笑い、今度は椅子を運ぶ。家の中から重い空気が少しだけ抜けた。
設置は、昨日よりずっと早く進んだ。
サロメが発振器と解析端末を卓上へ置き、私は床と壁へ固定したエミッターを順番に接続していく。ツィサナは言われる前に敷物を畳み、邪魔になる食器を片づけ、配線が通る場所から椅子を退けた。
自分の家だけあって、こちらが「そこを空けたい」と言う前に、必要な場所が空いていく。
最後に、私は白衣の釦へ手を掛けた。
「脱ぐの?」
「正確な測定には必要だ」
「我が家に裸の男性がいるなんて、夫と別れてからなかったわ」
サロメの手が一瞬止まった。私は白衣を脱ぎ、上衣も外した。
「誤解を招く表現はやめたまえ。裸ではない。下はちゃんと履いているし、白衣も着る」
受信器を胸骨へ貼りつける。次に鎖骨の下。喉。左右の側腹部。
ツィサナは固定帯を持ったまま、私を上から下まで見た。
「白衣から、だいぶはみ出てるわよ」
「科学的に必要な露出だ」
「露出に科学的と非科学的があるの?」
「あるとも。学会発表では非常に重要な区別だ」
サロメが背後へ回り、受信器を背中へ貼った。
「学会でその格好をなさる予定でしたら、私は欠席いたします」
「君は共同研究者として最前列だ」
「辞退いたします」
ツィサナが固定帯を私の胸へ回す。
「これ、締めるの?」
「ほどほどに頼む」
「父性がどうとか言わないの?」
私は彼女を見る。
「なぜ知っている」
「さっきサロメさんに聞いた」
「情報統制!」
「生命に関わらないので共有いたしました」
サロメの声は淡々としていた。敵が増えている。
ツィサナが固定帯を締める。呼吸が一瞬詰まった。
「少しきつい」
「父性で何とかして」
「肺は父性に含まれない」
「便利ね、その理屈」
サロメの口元が、一ミリほど上がった。
————
ダヴィトが戻ってきたのは、それから四十分ほど経った頃だった。
玄関の戸が開き、外気と一緒に焼きたてのパンの匂いが入ってくる。
「共同窯へは伝えてきました。今日は休んで構わないとのことです」
ツィサナが床へ這わせていた配線から顔を上げた。
「ありがとう」
「代わりに、明日は早く来るようにと」
「そう言うと思った」
ダヴィトは靴を脱ぎ、部屋へ入った。
私を見る。受信器を貼りつけた胸。開いた白衣。床を這う十数本の配線。
そのまま一度、瞬きをした。
「もう、その段階ですか」
「先日の経験があるからな。人間は学習する生き物なのだよ」
「服装については学習しなかったのですね」
「これが完成形だ」
「それは残念です」
ツィサナが声を立てずに笑った。
サロメは端末の基準値を合わせながら、視線だけをこちらへ向ける。
「あと一台です」
ダヴィトは上着を脱ぎ、すぐに作業へ加わった。
林で一度組んだ装置だ。接続番号も固定位置も既に決まっている。最後のエミッターを壁の梁へ固定し、基準波形を取る頃には、朝から動かしていた家具以外、家の中はほぼ元の配置へ戻っていた。
玄関が、もう一度開く。ニノ医師だった。片腕に資料を抱え、もう一方の手で鞄を持っている。
「遅くなりました。朝の記録をまとめてからー」
部屋へ入ったところで、言葉が切れた。端末。配線。床へ固定されたエミッター。
最後に、椅子へ座っている私を見る。
「先生の格好については、もう驚きません」
「成長したな」
「諦めただけです」
鞄を下ろし、ツィサナへ顔を向ける。そこで、声が少し変わった。
「ツィサナは……了承したのね」
ツィサナは、すぐには答えなかった。先ほどまで持っていた布を畳み、卓の端へ置く。
「はい」
それだけだった。ニノ医師が頷く。
「途中で嫌になったら、いつでも止めるわ。理由も要りません」
「分かったわ」
部屋に残っていた笑いが、そこで途切れた。私は端末へ向き直った。
————
最初に、基準測定を行った。
室内にいる人間の位置。卓、椅子、棚、壁、床下の空洞。それぞれを表層側の反射として登録する。
ツィサナには普段と同じ場所へ座ってもらった。イリアをどこへ立たせるかは聞かなかった。
「いつも通りでいい」
そう伝えると、彼女は隣の椅子へ顔を向けた。
「イリア。学者さんたちが始めるって」
床板が、ごく小さく鳴った。続いて、私の胸の中へ弱い振動が入る。
やはり、言葉にはならない。
ツィサナだけが頷いた。
「うん。そこにいて」
私は発振器へ手を置いた。
サロメが時刻を記録し、ダヴィトがデータロガーの各チャンネルを確認する。ニノ医師は私の右手首へ指を置いた。
「脈拍がやや速めですが、開始できます」
「では行く」
一度目の発振。床へ固定したエミッターから、短い振動が流れた。
足裏へ届き、椅子を通り、腰から胸へ上がってくる。受信器が拾った波形が端末へ並び、室内の輪郭が粗い濃淡として現れた。
壁。卓。椅子。人間の身体。それらは、昨日取った基準と大きく違わない。
私は出力を一段変えた。
二度目で、波形が重なる。画面の左下で、位相がわずかに遅れた。
私は手を止める。床板の節でも、椅子の脚でもない。
……小さな空白だった。
三度目の発振を入れると、同じ場所に残る。ツィサナの椅子のすぐ近く。高さは、彼女の腰にも届かない。
輪郭が少しずつ立ち上がった。
頭部らしい丸み。その下へ細い胴。二本の脚が床へ接している。
幼い子どもほどの背丈だった。私は無意識に息を止めた。
五歳。
その数字が頭へ浮かびかけ、すぐに違和感が勝った。
腕が短い。脚も細い。そして、腹部だけが大きかった。胸の下から前へ膨らみ、重さに引かれるように低く垂れている。
昨日見た輪郭を思い出した。
林の中で二本の脚に立ち、腹だけを異様に膨らませていたもの。
GNS-B。
大きさは違う。こちらはずっと小さい。だが、身体の比率が似ている。
さらに出力を変える。輪郭の縁が、少しだけ鮮明になった。
膝らしい関節の位置が、人間より高い。肘に見える部分も、腕の途中で一度余計に折れているように見える。
幼児の姿ではなかった。
人間の子どもに似た大きさの、別の身体だった。
誰も口を開かなかった。端末の作動音だけが、小さく続いている。
私は画面からツィサナへ目を移した。
彼女は再構成図を見ていない。私たちの顔を見ていた。
最初に私。次にダヴィト。そしてニノ医師。それだけで、何かを察したらしい。
右耳の銀鈴へ、指先が触れた。
「イリアの姿は、していないのでしょう?」
声は静かだった。
私は答えられなかった。
画面へ目を戻す。小さな輪郭は、ツィサナの椅子の隣に立ったままだ。
頭の高さだけなら、幼い子どもに見えなくもない。
だが、その下にある身体は違う。
「……知っていたのか」
ようやく出た声は、自分で思っていたより低かった。
ツィサナは少しだけ首を傾けた。
「ずっと一緒に過ごしているんだもの」
銀鈴から指を離す。
「どの辺にいて、どんなふうに動いてるかくらい、なんとなく分かるわ」
私は画面とツィサナを見比べた。
"このイリア"と会話を始めて以来、彼女はこの姿を見たことがない。少なくとも、私たちが今見ているような形では。
それでも隣にいるものの高さを知り、動き方を知り、どこにいるのかを知っていた。
ツィサナが、隣の空いた椅子へ顔を向ける。
「ねえ、イリア」
床のどこかが、小さく軋んだ。私の胸の奥にも、弱い振動が届く。
やはり、私には言葉にはならない。ツィサナだけが、それを聞いていた。
彼女は少しだけ笑った。
「うん。ちょっと変だって」
私は端末へ目を戻した。
画面の中では、人間の子どもではない小さなものが、彼女のすぐ隣に立っていた。
——to be the next act.




