Scene26:『迎えに来たもの』
夜もだいぶ更けてから、診療所の玄関が開いた。
廊下を二人分の足音が近づいてくる。先に顔を出したのはレヴァンだった。
「先生、お連れしました」
その後ろから、黒い外套を羽織ったサロメが入ってくる。帽子はない。腰まである黒髪をいつものように結ばず、濡れたまま背中へ流していた。
毛先から落ちた雫が外套の肩へ小さな染みを作っている。化粧もしていないのだろう。普段より目元が淡く、いつもなら年齢の読みにくい顔が、今夜は幼く見えた。
サロメは入口で一礼した。
「お待たせいたしました。お見苦しい姿で失礼いたします。髪を洗ってしまったところでしたので」
私は彼女を見た。
濡れた黒髪。白い顔。夜の診療所。
つい先ほどまで、戸口に立っていた少女の姿が頭へ戻ってくる。
「……いま、その濡れた黒髪は見たくなかったな」
向かいに座っていたダヴィトが、無言で一度頷いた。
サロメの眉が寄った。
「人を夜中に呼びつけておいて、第一声がそれですか?」
「いや、君が悪いわけではない。時期が悪い」
ダヴィトがもう一度頷く。
「非常に悪いです」
サロメは私とダヴィトを順に見た。
「……何があったのです?」
「その説明のために呼んだ」
「でしたら最初からそう仰ってください」
濡れた髪を片側へ寄せながら、サロメが椅子へ向かう。その途中で、レヴァンがまだ入口に立っていることに気づいた。
私は机の上に置いていた通信票を一枚取った。
「レヴァン。今夜の追加報告はこれだけでいい」
彼へ渡す。内容は短い。新たな発症者なし。封鎖継続。異音に関する追加検査は、現地判断で一時保留。
それ以上は書いていない。
レヴァンは一度目を通した。
「先ほどの件については?」
「詳細記録はこちらで残す」
彼の視線が、机の上の紙束へ向いた。
不満がないわけではないだろう。それでも、前の会議で決めた線を越えてはこなかった。
「分かりました。明朝、まとめて送ります」
「頼む」
レヴァンはサロメへ軽く頭を下げ、そのまま診察室を出ていった。
足音が廊下の奥へ消える。玄関の戸が閉じたところで、私はサロメへ向き直った。
「さて」
「はい」
「先ほど、例の少女がここへ来た」
サロメの手が止まった。濡れた髪をまとめようとしていた指が、そのまま肩の上に残る。
「宿舎で先生がご覧になった?」
「同じ外見だ。白い衣、裸足、濡れた黒髪。物理的な足跡はなし」
サロメは革鞄の金具へ指を置いた。
「今回は、何をしました?」
「会話を試みてきた」
今度は、指が完全に止まった。
「……会話?」
ダヴィトが机の上へ三枚の記録紙を並べた。私、ダヴィト、ニノ医師。少女との接触後、それぞれ別に書いた記録だった。
「声を口から出したわけではありません」
ニノ医師が言う。
「最初に、非常に強い振動が身体の中へ入りました。耳を塞いでも変化がなく、胸や喉、歯まで震えていました」
サロメの視線が私へ向く。私は頷いた。
「GNSの入力だと考えていい。外で鳴っている音ではなかった」
「その後、音が弱くなった」
ダヴィトが自分の記録を指で押さえた。
「室内の物音や、自分たちの身体から聞こえる振動が、言葉として知覚されるようになりました」
サロメはすぐには答えなかった。
窓枠や床。衣擦れと血流。それらを一つずつ確認するように、視線だけが診察室を動いた。
「三人とも、同じ言葉を?」
「正確には違う」
私は記録紙を彼女の前へ押した。
「文章は少しずつ違った。だが意味はほぼ一致した」
サロメが三枚を読む。視線が下へ進むにつれ、口元から先ほどまでの苛立ちが消えていった。
最後まで読み終え、サロメは記録紙から顔を上げた。
「……それで、少女は?」
「消えた」
「どうやって?」
「今回も途中がない。戸口にいたと思った次には、いなくなっていた。扉も開いていない」
サロメは鼻から短く息を吐いた。
「追えませんね」
言い切るまでが早かった。
「私も同意見だ」
ダヴィトが聞く。
「方法がない、という意味ですか?」
「それもあります」
サロメは濡れた髪を背中へ払い、椅子へ座り直した。
「足跡がない。物理的な移動経路もない。既知の霊現象として残留を追える保証もない。前回、宿舎で調べた時も何も出ませんでした」
革鞄へ手を置く。
「仮にもう一度現れた場所を調べても、同じ結果になる可能性が高いです」
「それに」
ニノ医師が続けた。
「先生方に、少女を探させたくありません」
私は彼女を見る。
「異論は?」
「ない」
自分でも少し意外なほど、すぐに答えた。
少女がどこへ消えたのか。どうすれば呼び出せるのか。調べたい気持ちはある。
だが、それを確かめるには、あの濡れた髪や、身体の内側で鳴った言葉を意識して探すことになる。
いまの私たちにとって、それは単なる探索ではない。自分からGNSの知覚を深く掘り進める行為でもある。
「追跡はしない」
私は机の上の三枚を重ねた。
「向こうから接触してきた以上、必要ならまた現れる可能性はある。それまでは、こちらから探さない」
ダヴィトが記録帳へ書き込む。
「GNS関連少女個体への能動的追跡を中止」
「少女個体、では少しわかりにくいな。少女の個体は、そこらじゅうに居る」
私が言うと、ダヴィトのペンが止まった。
嫌な顔をされた。
「……また名前をつけるんですか」
「分類だ。名前ではない」
「昨日もそう言ってGNS-Bが生まれました」
「便利だっただろう?」
私は空いた紙へ書いた。
《GNS-C》
「Communicator。意思疎通を試みるGNS関連存在」
ダヴィトが紙を見る。
「C」
「うむ」
「Bの次だからですか」
「まあ、それもある。Beastの次がCommunicator。ちょうど良い」
ダヴィトはしばらく私を見た。
「Aが出てきそうで嫌ですね」
「なぜだね」
「こういう時の欠番は、だいたい後から一番厄介なものが入ります」
実に根拠のない不吉な発言である。横で記録を読んでいたサロメが、静かに口を挟んだ。
「でしたら、身体中へ測定器を貼りつけていた先生ご自身を、GNS-Aとしてはいかがでしょう」
私は彼女を見る。
「A?」
「Amplifier」
ニノ医師が口元へ手を当てた。笑ったのか、咳払いなのかは判断しないことにした。
「やめてくれ。後世の論文にその名称が残ったら、私の研究者人生に傷がつく」
「半裸で林に座っていた事実よりは軽傷でしょう」
「それも後世へ残すな」
ダヴィトのペンが動いた。
「半裸の件は、既に記録しています」
……敵は身内にいた。
私は《GNS-C》の横をペン先で二度叩いた。
「まあ、感染者をGNS-Affectedと呼ぶのは有用かもしれないな」
ダヴィトが顔を上げる。
「Affected……被影響者。Aを自分で埋めましたね」
「個体分類とは別枠だ」
「急に厳密になるんですね」
「学問とは柔軟性が重要なのだよ」
「都合のいい時だけ?」
サロメが尋ねた。
「いまが、まさにその時だ」
ニノ医師が、とうとう小さく息を漏らした。それで会話が一度切れた。
笑いが引くと、机の上には再び三枚の記録だけが残った。
《GNS-C》
便宜上そう呼ぶことにした少女は、イリアに反応した。その意味は分からない。
ただ、私たちが明日調べようとしていたものと、彼女の目的が重なったことだけは確かだった。
「予定は変えますか」
ダヴィトが聞いた。私はツィサナの記録へ手を伸ばした。
「いや」
頁を開く。六年前に亡くなった息子。死者現象の痕跡なし。それでも、母親と会話を続けている声。
「むしろ、変えない理由が増えた」
ニノ医師が私を見る。
「イリアの測定ですね」
「ああ」
「ツィサナさんには、今夜のことも話しますか」
私は少し考えた。GNS-Cがイリアの名を口にした。それだけを伝えれば、ツィサナには必要以上の不安を与える。だが、逆に伏せたまま測定を頼めば、彼女が判断するための材料を奪う。
「話そう」
私は答えた。
「ただし、分かったことと、分からないことを分けてだ」
サロメが小さく頷いた。
「それがよろしいかと」
「測定も、彼女が嫌だと言えば中止します」
ニノ医師が言う。
「もちろんだ」
何者なのか分からないからといって、こちらの都合で好きに調べていいことにはならない。
まして、ツィサナにとっては単なる症例ではない。一ヶ月以上、息子として接している相手だった。
ダヴィトが記録帳を閉じた。
「では、明朝」
「共同窯へ出る前に伺おう。仕事を止めさせるより、その方がいい」
サロメが濡れた髪へ指を通した。
「私はどうします?」
「来てもらいたい」
「承知しました」
返事をしたあとで、彼女は髪の先をつまんだ。
「次回は、乾かしてから呼んでください」
「次回は、せめて白い服だけは避けてくれ」
「持っていません」
それは何よりだった。
————
翌朝。
共同窯に火が入るより少し早い時間に、私たちはツィサナの家へ向かった。
昨夜の冷えがまだ石畳に残っている。家々の煙突から、朝の最初の煙が細く上がっていた。戸口では箒を使う音がし、遠くから水桶の触れ合う金属音が届く。
封鎖が始まってから静かになった村にも、朝だけは生活の音が戻る。
私は、その一つ一つを必要以上に意識しないよう歩いた。
昨日までなら、ただ聞き流していた音だった。いまは、何か別の意味へ並び始めないかと、無意識に待ってしまう。
それに気づくたび、別のものを見る。
ツィサナの家が見えてきた。窓には既に明かりがついている。玄関脇には、共同窯へ持っていくのだろう布包みが二つ重ねてあり、その上に編んだ籠が置かれていた。
私たちが門の前まで来たところで、家の中から食器の触れ合う音がした。
続いて、女の声。
「だから、それはお昼の分だって言ったでしょう」
足が止まった。ダヴィトも、隣で僅かに顔を上げる。
ツィサナの声が、もう一度聞こえた。
「だめ。あとでね」
少し間がある。誰かの返事を聞いている時間だった。やがて、戸の向こうで彼女が小さく笑った。
「そういう顔しても駄目よ」
私は玄関を見た。イリアは、今朝もそこにいる。少なくともツィサナにとっては、いつも通りの朝だった。
その日常へ、これから私たちは測定器を持ち込む。
私は戸を叩いた。
二度。
家の中で足音が近づく。
戸が開いた。ツィサナは外出前らしく黒髪を後ろで束ね、葡萄酒色の長衣の袖を肘までまくっていた。片手にはまだ布巾を持っている。
私たち三人……そして、四人目を見る。
視線が最後に、私の手にある機材箱で止まった。
「……学者さん」
右耳の銀鈴が、小さく揺れた。
「朝から、大きなプレゼントを持って来る人の顔じゃないわね」
「どんな顔なら許されるのか、後学のために聞きたいところだ」
「少なくとも、苦しそうなのは駄目」
私は口元を戻した。どうやら少し苦しそうだったらしい。
ツィサナは布巾を肩へ掛け、戸をもう少し開いた。
「入って。窯へ行くまで、まだ少し時間があるから」
そのまま家の奥へ向き直る。
「イリア。お客さんよ」
返事は、私には聞こえなかった。
ただ、ツィサナは一度だけ耳を傾けたあと、困ったように笑った。
「うん。学者さんもいる」
私は機材箱の取っ手を握り直した。
——to be the next scene.




