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Ghost Noise 〜耳底に沈む音〜  作者: 矢崎 那央
第3幕『返事の向こう側』
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Scene26:『迎えに来たもの』


 夜もだいぶ更けてから、診療所の玄関が開いた。


 廊下を二人分の足音が近づいてくる。先に顔を出したのはレヴァンだった。


 「先生、お連れしました」


 その後ろから、黒い外套を羽織ったサロメが入ってくる。帽子はない。腰まである黒髪をいつものように結ばず、濡れたまま背中へ流していた。

 毛先から落ちた雫が外套の肩へ小さな染みを作っている。化粧もしていないのだろう。普段より目元が淡く、いつもなら年齢の読みにくい顔が、今夜は幼く見えた。


 サロメは入口で一礼した。


 「お待たせいたしました。お見苦しい姿で失礼いたします。髪を洗ってしまったところでしたので」


 私は彼女を見た。

 濡れた黒髪。白い顔。夜の診療所。

 つい先ほどまで、戸口に立っていた少女の姿が頭へ戻ってくる。


 「……いま、その濡れた黒髪は見たくなかったな」


 向かいに座っていたダヴィトが、無言で一度頷いた。

 サロメの眉が寄った。


 「人を夜中に呼びつけておいて、第一声がそれですか?」


 「いや、君が悪いわけではない。時期が悪い」


 ダヴィトがもう一度頷く。


 「非常に悪いです」


 サロメは私とダヴィトを順に見た。


 「……何があったのです?」


 「その説明のために呼んだ」


 「でしたら最初からそう仰ってください」


 濡れた髪を片側へ寄せながら、サロメが椅子へ向かう。その途中で、レヴァンがまだ入口に立っていることに気づいた。

 私は机の上に置いていた通信票を一枚取った。


 「レヴァン。今夜の追加報告はこれだけでいい」


 彼へ渡す。内容は短い。新たな発症者なし。封鎖継続。異音に関する追加検査は、現地判断で一時保留。

 それ以上は書いていない。


 レヴァンは一度目を通した。


 「先ほどの件については?」


 「詳細記録はこちらで残す」


 彼の視線が、机の上の紙束へ向いた。

 不満がないわけではないだろう。それでも、前の会議で決めた線を越えてはこなかった。


 「分かりました。明朝、まとめて送ります」


 「頼む」


 レヴァンはサロメへ軽く頭を下げ、そのまま診察室を出ていった。

 足音が廊下の奥へ消える。玄関の戸が閉じたところで、私はサロメへ向き直った。


 「さて」


 「はい」

 

 「先ほど、例の少女がここへ来た」


 サロメの手が止まった。濡れた髪をまとめようとしていた指が、そのまま肩の上に残る。


 「宿舎で先生がご覧になった?」


 「同じ外見だ。白い衣、裸足、濡れた黒髪。物理的な足跡はなし」


 サロメは革鞄の金具へ指を置いた。


 「今回は、何をしました?」


 「会話を試みてきた」


 今度は、指が完全に止まった。


 「……会話?」


 ダヴィトが机の上へ三枚の記録紙を並べた。私、ダヴィト、ニノ医師。少女との接触後、それぞれ別に書いた記録だった。


 「声を口から出したわけではありません」


 ニノ医師が言う。


 「最初に、非常に強い振動が身体の中へ入りました。耳を塞いでも変化がなく、胸や喉、歯まで震えていました」


 サロメの視線が私へ向く。私は頷いた。


 「GNSの入力だと考えていい。外で鳴っている音ではなかった」


 「その後、音が弱くなった」


 ダヴィトが自分の記録を指で押さえた。


 「室内の物音や、自分たちの身体から聞こえる振動が、言葉として知覚されるようになりました」


 サロメはすぐには答えなかった。

 窓枠や床。衣擦れと血流。それらを一つずつ確認するように、視線だけが診察室を動いた。


 「三人とも、同じ言葉を?」


 「正確には違う」


 私は記録紙を彼女の前へ押した。


 「文章は少しずつ違った。だが意味はほぼ一致した」


 サロメが三枚を読む。視線が下へ進むにつれ、口元から先ほどまでの苛立ちが消えていった。

 最後まで読み終え、サロメは記録紙から顔を上げた。


 「……それで、少女は?」


 「消えた」


 「どうやって?」


 「今回も途中がない。戸口にいたと思った次には、いなくなっていた。扉も開いていない」


 サロメは鼻から短く息を吐いた。


 「追えませんね」


 言い切るまでが早かった。


 「私も同意見だ」


 ダヴィトが聞く。


 「方法がない、という意味ですか?」


 「それもあります」


 サロメは濡れた髪を背中へ払い、椅子へ座り直した。


 「足跡がない。物理的な移動経路もない。既知の霊現象として残留を追える保証もない。前回、宿舎で調べた時も何も出ませんでした」


 革鞄へ手を置く。


 「仮にもう一度現れた場所を調べても、同じ結果になる可能性が高いです」


 「それに」


 ニノ医師が続けた。


 「先生方に、少女を探させたくありません」


 私は彼女を見る。


 「異論は?」


 「ない」


 自分でも少し意外なほど、すぐに答えた。

 少女がどこへ消えたのか。どうすれば呼び出せるのか。調べたい気持ちはある。

 だが、それを確かめるには、あの濡れた髪や、身体の内側で鳴った言葉を意識して探すことになる。

 いまの私たちにとって、それは単なる探索ではない。自分からGNSの知覚を深く掘り進める行為でもある。


 「追跡はしない」


 私は机の上の三枚を重ねた。


 「向こうから接触してきた以上、必要ならまた現れる可能性はある。それまでは、こちらから探さない」


 ダヴィトが記録帳へ書き込む。


 「GNS関連少女個体への能動的追跡を中止」


 「少女個体、では少しわかりにくいな。少女の個体は、そこらじゅうに居る」


 私が言うと、ダヴィトのペンが止まった。


 嫌な顔をされた。


 「……また名前をつけるんですか」


 「分類だ。名前ではない」


 「昨日もそう言ってGNS-Bが生まれました」


 「便利だっただろう?」


 私は空いた紙へ書いた。


 《GNS-C》


 「Communicator。意思疎通を試みるGNS関連存在」


 ダヴィトが紙を見る。


 「C」


 「うむ」


 「Bの次だからですか」


 「まあ、それもある。Beastの次がCommunicator。ちょうど良い」


 ダヴィトはしばらく私を見た。


 「Aが出てきそうで嫌ですね」


 「なぜだね」


 「こういう時の欠番は、だいたい後から一番厄介なものが入ります」


 実に根拠のない不吉な発言である。横で記録を読んでいたサロメが、静かに口を挟んだ。


 「でしたら、身体中へ測定器を貼りつけていた先生ご自身を、GNS-Aとしてはいかがでしょう」


 私は彼女を見る。


 「A?」


 「Amplifier」


 ニノ医師が口元へ手を当てた。笑ったのか、咳払いなのかは判断しないことにした。


 「やめてくれ。後世の論文にその名称が残ったら、私の研究者人生に傷がつく」


 「半裸で林に座っていた事実よりは軽傷でしょう」


 「それも後世へ残すな」


 ダヴィトのペンが動いた。


 「半裸の件は、既に記録しています」


 ……敵は身内にいた。


 私は《GNS-C》の横をペン先で二度叩いた。


 「まあ、感染者をGNS-Affectedと呼ぶのは有用かもしれないな」


 ダヴィトが顔を上げる。


 「Affected……被影響者。Aを自分で埋めましたね」


 「個体分類とは別枠だ」


 「急に厳密になるんですね」


 「学問とは柔軟性が重要なのだよ」


 「都合のいい時だけ?」


 サロメが尋ねた。


 「いまが、まさにその時だ」


 ニノ医師が、とうとう小さく息を漏らした。それで会話が一度切れた。

 笑いが引くと、机の上には再び三枚の記録だけが残った。


 《GNS-C》


 便宜上そう呼ぶことにした少女は、イリアに反応した。その意味は分からない。

 ただ、私たちが明日調べようとしていたものと、彼女の目的が重なったことだけは確かだった。


 「予定は変えますか」


 ダヴィトが聞いた。私はツィサナの記録へ手を伸ばした。


 「いや」


 頁を開く。六年前に亡くなった息子。死者現象の痕跡なし。それでも、母親と会話を続けている声。


 「むしろ、変えない理由が増えた」


 ニノ医師が私を見る。


 「イリアの測定ですね」


 「ああ」


 「ツィサナさんには、今夜のことも話しますか」


 私は少し考えた。GNS-Cがイリアの名を口にした。それだけを伝えれば、ツィサナには必要以上の不安を与える。だが、逆に伏せたまま測定を頼めば、彼女が判断するための材料を奪う。


 「話そう」


 私は答えた。


 「ただし、分かったことと、分からないことを分けてだ」


 サロメが小さく頷いた。


 「それがよろしいかと」


 「測定も、彼女が嫌だと言えば中止します」


 ニノ医師が言う。


 「もちろんだ」


 何者なのか分からないからといって、こちらの都合で好きに調べていいことにはならない。


 まして、ツィサナにとっては単なる症例ではない。一ヶ月以上、息子として接している相手だった。


 ダヴィトが記録帳を閉じた。


 「では、明朝」


 「共同窯へ出る前に伺おう。仕事を止めさせるより、その方がいい」


 サロメが濡れた髪へ指を通した。


 「私はどうします?」


 「来てもらいたい」


 「承知しました」


 返事をしたあとで、彼女は髪の先をつまんだ。


 「次回は、乾かしてから呼んでください」


 「次回は、せめて白い服だけは避けてくれ」


 「持っていません」


 それは何よりだった。


————


 翌朝。


 共同窯に火が入るより少し早い時間に、私たちはツィサナの家へ向かった。

 昨夜の冷えがまだ石畳に残っている。家々の煙突から、朝の最初の煙が細く上がっていた。戸口では箒を使う音がし、遠くから水桶の触れ合う金属音が届く。


 封鎖が始まってから静かになった村にも、朝だけは生活の音が戻る。

 私は、その一つ一つを必要以上に意識しないよう歩いた。


 昨日までなら、ただ聞き流していた音だった。いまは、何か別の意味へ並び始めないかと、無意識に待ってしまう。

 それに気づくたび、別のものを見る。


 ツィサナの家が見えてきた。窓には既に明かりがついている。玄関脇には、共同窯へ持っていくのだろう布包みが二つ重ねてあり、その上に編んだ籠が置かれていた。

 私たちが門の前まで来たところで、家の中から食器の触れ合う音がした。


 続いて、女の声。


 「だから、それはお昼の分だって言ったでしょう」


 足が止まった。ダヴィトも、隣で僅かに顔を上げる。

 ツィサナの声が、もう一度聞こえた。


 「だめ。あとでね」


 少し間がある。誰かの返事を聞いている時間だった。やがて、戸の向こうで彼女が小さく笑った。


 「そういう顔しても駄目よ」


 私は玄関を見た。イリアは、今朝もそこにいる。少なくともツィサナにとっては、いつも通りの朝だった。

 その日常へ、これから私たちは測定器を持ち込む。


 私は戸を叩いた。


 二度。


 家の中で足音が近づく。

 戸が開いた。ツィサナは外出前らしく黒髪を後ろで束ね、葡萄酒色の長衣の袖を肘までまくっていた。片手にはまだ布巾を持っている。

 私たち三人……そして、四人目を見る。


 視線が最後に、私の手にある機材箱で止まった。


 「……学者さん」


 右耳の銀鈴が、小さく揺れた。


 「朝から、大きなプレゼントを持って来る人の顔じゃないわね」


 「どんな顔なら許されるのか、後学のために聞きたいところだ」


 「少なくとも、苦しそうなのは駄目」


 私は口元を戻した。どうやら少し苦しそうだったらしい。

 ツィサナは布巾を肩へ掛け、戸をもう少し開いた。


 「入って。窯へ行くまで、まだ少し時間があるから」


 そのまま家の奥へ向き直る。


 「イリア。お客さんよ」


 返事は、私には聞こえなかった。

 ただ、ツィサナは一度だけ耳を傾けたあと、困ったように笑った。


 「うん。学者さんもいる」


 私は機材箱の取っ手を握り直した。



——to be the next scene.

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