Scene25:『はじめまして、向こう側』
少女は、戸口から動かなかった。
濡れたように束になった黒髪が、白い衣の前へ垂れている。裸足の爪先は床板についているのに、そこへ重さが掛かっているようには見えない。
私は椅子から立ち上がった。ダヴィトも、机の向こうで記録帳から手を離している。ニノ医師だけが半歩、少女の方へ進んだ。
「どうしました?」
患者へ向ける声だ。だが、少女は答えず、薄く笑っている。ニノ医師は、もう一歩近づこうとした。
その時だった。
胸骨が鳴り、肺の奥から空気が押し出された。腹の内側を大きな鐘で叩かれたような振動が走り、奥歯が細かく噛み合う。
机の縁へ手をついた。指先から肘まで骨が震えている。
遅れて、轟音が意識へ上がった。
低く、大きい。
何かが吠えた音ではなかった。山腹ほどの肺が、診察室いっぱいの空気をまとめて吸い込んだような音だった。
私は両耳を塞いだ。隣で椅子が鳴った。ニノ医師も、両手で耳を押さえてしゃがみ込んでいる。ダヴィトは机へ片膝をつき、片手を耳へ当てていた。
それでも、音量は一切変わらない。鼓膜を塞いでも、頭蓋の内側で同じ圧が続いている。
これは……違う。耳から入っているのではない。
私は片手を耳から離した。喉へ触れる。指の下で、声帯が震えていた。声を出してはいない。
胸へ手を移す。肋骨の奥でも、同じ低音が鳴っている。腹。背骨。歯。身体の各所が、それぞれ別の楽器になったように震えていた。
「耳を……塞いでも無意味だ」
自分の声が、轟音に埋もれた。ダヴィトが顔を上げる。私は胸を指した。
「外の音じゃない。身体だ」
ダヴィトは数秒遅れて耳から手を離した。ニノ医師も続く。三人とも、同じ場所を見た。
私は戸口へ目を戻した。
少女の唇は閉じている。黒髪も、白い衣も動いていない。そして、胸骨の奥を震わせていた低音が、ゆっくり遠のいていった。
いや、遠ざかったのではない。身体の中に残っていた圧だけが、少しずつ抜けていく。奥歯の震えが止まり、喉の奥のざらつきも薄れる。
急に静かになったせいで、今度は診察室に元からあった細かな音が耳についた。
窓枠が、風に押されて小さく軋む。机の上で、金属の器具が震えた。ダヴィトが息を吐く。私の喉の奥で、脈に合わせて一度、低い音が鳴った。
それらは、ただの雑音だった。
カタカタッ。
もう一度、窓枠が鳴る。
キィィイ。
金属が震える。
ギシギシギシギシッ。
今度は床板の軋みが重なった。
私は眉を寄せた。
……何かに似ている。
聞き取れない人の声を、壁越しに聞いている時のような感覚だった。音節そのものはない。それなのに、イントネーションらしきものだけがある。
また鳴る。
窓。〚ガッ〛
床。〚ニィィ〛
金属。〚カーン〛
自分の胸の奥。〚トクン〛
ばらばらの音が重なった瞬間、
〚ア…|ナ|タ〛
『あなた』……そう聞こえた。
私は少女を見た。口は動いていない。聞き間違いだと思った。
「ダヴィト……いま、何か言葉が聞こえたか?」
視線は少女から外さない。
「はい……」
返事まで少し間があった。
「『あなた』というように、聞こえました」
ニノ医師も、ゆっくり頷く。
少女の口は動いていない。
その沈黙に、次の音を待ってしまった。
窓の外で車輪が石を踏んだ。その余韻へ、梁の軋みが混じる。ニノ医師の袖が擦れ、最後に私自身の奥歯へ低い振動が残った。
〚ミ…|ナ|タ〛
……いや。私には、『あなたは、見えるようになった』とも聞こえた。
頭の中で、今聞いたものをもう一度組み立てる。これは、音声ではない。少なくとも、人間の声帯が作る母音や子音は鳴っていなかった。
単純な音をいくつか重ねる。それぞれは言葉ですらないのに、人間の聴覚系へ通すと、存在しない音韻が浮かび上がる。
以前、似た知覚現象を扱ったことがある。
「……これは、サインウェーブスピーチか」
ニノ医師が私を見る。
「サインウェーブ?」
「いくつかの単純な音を組み合わせると、本来そこにないはずの声が聞こえることがある。脳が、音を構成する正弦波の重なりを言葉として解釈し、足りない部分を補うことで文章として知覚される現象だ」
私は少女へ目を戻した。ただし、これは正弦波ですらない。
窓枠。床。衣擦れ。私たち自身の身体。
部屋に散らばっている雑音を使っている。その組み合わせを、こちらの脳が言葉へ直している。
「キミがやっているのか?」
少女は答えなかった。……少なくとも、すぐには。
机の上で紙が僅かに擦れた。どこかで木が鳴る。胸の奥に、一拍遅れて低い振動が重なった。今度は、仕組みを考える前に意味が入ってきた。
耳障りな雑音の塊。それを私の脳は『そうなってる』と受け取った。
「……肯定した、というわけではないな」
ダヴィトが記録板を見ながら言う。
「私には、『声は入れていない』でした」
ニノ医師が、片耳を押さえながら、こちらを見た。
「『聞ける形になっている』……でしょうか」
私は少女を見る。
「つまり、キミが言葉を喋っているわけではないと?」
今度は三人とも、ほぼ同じ意味を受け取った。
『"そう"ではない』あるいは、『その区別なら、違う』
そんな返答だった。
少女の微笑みが、グニャリと深くなった。
もう一度、音が並ぶ。今度は先ほどより小さい。
窓の外で荷車の車輪が石を踏む。その余韻へ、診察室の梁が軋む。ニノ医師の衣擦れが一度だけ入り、最後に私自身の胸の奥で低い振動が鳴る。
ただのノイズの重なり。それらを我々の知覚が、文章として組み立てている。
『Ghost Noise』
捨てていた音へ意味を与え、一度意味を持ったものを、もう雑音へ戻せなくなる。
その仕組みを使って、目の前の何かは私たちへ話しかけている。
「では、最初のあれもキミか」
私は胸を押さえた。まだ肋骨の内側に、鈍い痺れが残っている。
「随分と盛大な挨拶だったな」
音が止まった。
少女が、ほんの少しだけ首を傾ける。その仕草だけなら、言葉の意味を測りかねた子どもに見えた。
やがて、診察室のどこかで小さな軋みが鳴った。
机の木が鳴り、私の喉の奥で、ごく短い振動が続く。
〚わからない〛
「威嚇……というわけではなさそうだな」
返ってきた意味は、これまでより長く響いた。
〚威嚇は傷つける、という意味か〛
ダヴィトが眼鏡を押し上げた。
「概念そのものが伝わっていないようですね」
「おそらくな」
私は少女へ向き直る。
「先ほどの音は、我々には苦痛だった。大きすぎる」
少女の視線が、私の胸元へ落ちた。そこには、林で使った受信器の赤い跡がまだ残っている。
次の音は、さらに小さかった。
〚どの程度なら〛
そこまで聞こえたあと、間が空いた。
少女はこちらを見ている。
〚壊さないのか〛
ニノ医師が、耳の横へ手を当てた。診察ではなく、自分の身体の感覚を確かめる時の仕草だった。
「……学習しようとしている?」
「そのようだ」
最初の轟音は、攻撃でも威嚇でもなかった。こちらへ何かを伝えようとして、どれほどの強さなら人間へ届くのか分からなかった。
ただ、それだけだったらしい。
その理解に辿り着いても、胸の圧迫感は消えなかった。
いや、むしろ逆だ。人間を傷つけるためにあれほどの音を出したのなら、まだ理解しやすい。
彼女にとっては、あれが単なる話しかけ方だった。力加減を知らなかった。私たちの身体が、どれほど脆いのかを知らなかった。
それでも今は、一度の失敗だけで、私たちが耐えられる程度まで出力を落としている。
敵意がない。その事実だけでは、安心材料にならなかった。
ニノ医師が立ち上がった。少女との距離は、まだ数歩ある。今度は近づかない。
「あなたは、何者なのですか」
少女はニノ医師を見た。また、音が集まる。
〚どこまでを私であるか分からない〛
ダヴィトが顔を上げた。
「自分が何者か分からない、という意味でしょうか」
私はすぐには答えなかった。少女が分からないと言っている対象が、自分自身なのか。それとも、私たちが彼女を何と呼ぶべきなのかを、彼女自身が知らないのか。区別できなかった。
「では」
私は机の端に置いた聞き取り記録へ目を落とした。
《ツィサナ・ヴァルデリ》
《イリア・ヴァルデリ》
先ほどまで私たちが話していた名前。少女が現れたのは、その直後だった。
顔を上げる。
「イリアを知っているか」
部屋が雑音で満ちる。少女の微笑みは変わらない。だが、これまでより長い時間、音が続いた。
〚あなたは、その部分をイリアと呼ぶ〛
少女の姿が、一瞬だけぼやけた。視線を外してはいない。それでも、黒髪と白い衣の輪郭が、薄い霧越しに見ているように遠くなる。
「待てッ」
声を掛けた時には、戸口が見えていた。
少女はいない。消えた瞬間も、移動した途中も分からなかった。
ダヴィトが立ち上がり、入口まで歩く。廊下を左右に確認した。
「いません」
ニノ医師は、少女が立っていた床を見ている。裸足の跡はない。濡れた髪から落ちたはずの水滴もなかった。
私は机へ戻った。
GNS-Bの再構成図を横へ寄せる。
その下から、ツィサナの記録が出てきた。
少女は、私たちがイリアの名前を口にする前から、おそらくイリアを調べようとしていたのか知っていた。
そして、自分から話しかけてきた。分かったのは、それだけだ。
だが、十分だ。これで確かめるべきことが一つ増えた。
『イリア』とは、『何』なのか。
——to be the next scene.




