Scene24:『獣のかたち』
翌朝、山裾の林には薄い霧が残っていた。
村から続く道を外れ、昨日GNS-Bを確認した斜面へ入る。落ち葉は夜露を吸い、踏むたび靴底へ重く貼りついた。昨日のイノシシが残した蹄跡は少し崩れていたが、折れた枝と掘り返された土はそのまま残っている。
そこから少し離れた、木々の間隔が広い場所を観測地点に選んだ。
機材の設置には二時間近くかかった。
地面へ埋め込んだ固定杭にエミッターを締めつけ、別の二台を木の幹へ固定する。発振器と解析端末は湿気を避けるため木箱の上へ置き、周囲を布で囲った。そこから伸びた配線が落ち葉の上を這い、斜面の三方向へ枝分かれしている。
私の身体にも、昨夜と同じ小型受信器を取りつけた。胸骨、鎖骨の下、喉、左右の側腹部、手首。背中にも五つ。服が擦れると余計な振動が入るため、肌へ直接貼りつけ、その上から前を開いた白衣だけを羽織っている。
ニノ医師が最後の固定帯を締めた。
「苦しくありませんか」
「やや締めつけられているが、父性を束縛するには足りないな」
「呼吸に支障があるかを尋ねています」
「父の呼吸を妨げるものなどこの世にない」
「肺には?」
「少しある」
ニノ医師は無言で固定帯を一段緩めた。
少し離れたところでは、ダヴィトが接続番号を記録している。サロメは端末の横へ立ち、剥き出しになった配線を一本ずつ布で覆っていた。
彼女は一度だけこちらを見た。
「その格好で村を歩いてきたのですか」
ほかの者がいるため、声は静かで丁寧だった。
「白衣を着ている。何も問題はない」
「前が閉じておりません」
「配線があるからな」
「問題が白衣の内側からはみ出してます」
ダヴィトが記録板から顔を上げた。
「村人には遭遇しませんでしたか?」
「老婆が一人、窓からこちらを見ていた」
「反応は?」
「胸元を押さえ、窓を閉めた」
ダヴィトのペンが動いた。
《住民一名へ心理的影響の可能性》
「待ちたまえ。私の鍛え上げられた肉体へ感動した可能性もある」
「可能性は低いです」
サロメが端末の覆いを結び終えた。
「その判断には同意いたします」
科学とは時に、多数決によって真実から遠ざかる。
設置を終えた頃には、霧はほとんど消えていた。
私を中心に、半径十歩ほどの範囲へ配線が広がっている。動けば受信器の位置がずれ、基準波形を取り直さなければならない。立ち上がることはできるが、自由に歩き回ることは難しい。
私たちは待った。
……一時間。
…………二時間。
木々の間を風が抜け、湿っていた落ち葉の表面が少しずつ乾いていく。頭上を鳥が渡り、遠くで枝が折れた。サロメが確認に向かったが、残っていたのは小さな鹿の足跡だけだった。
GNS-Bの呼吸は聞こえない。
昨夜は、宿舎の寝台へ横になった途端、壁の向こうから湿った吸気が始まった。眠ろうとするたびに位置を変え、最後には枕のすぐ下で鼻を鳴らしていた。
現れてほしくない時には現れ、機材を揃えて待つと来ない。実に典型的なフィールドワークである。
昼を過ぎると、ニノ医師が持ってきたパンを配った。
私は身体から十数本の配線を伸ばしたまま、膝の上へ包みを置いた。右手を上げると手首の線が引かれ、左手を動かすと側腹部の受信器が浮く。パンを口元まで運ぶだけで、端末の波形が何本も跳ねた。
ダヴィトが記録板を確認する。
「咀嚼による振動が大きすぎます」
「食事中くらい記録を止めればいいだろう」
「その間に出現する可能性があります」
「では、どう食べろと?」
ダヴィトは少し考え、パンを一口分だけちぎった。私の口元へ差し出す。
「……君が?」
「手を動かさないでください」
私は差し出されたパンと、ダヴィトの顔を見比べた。
「待ちたまえ。このシチュエーションは私の人生設計にない」
「私も、先生に『あーん』する人生設計はしていません」
「これは……どの感情で受け止めればいい?」
「私に聞かないでください。渡す側も迷子です」
サロメに助けを求めるように目線をやる。彼女は顔を背け、肩を一度揺らした。
「サロメ女史」
「観測担当ですので」
「まだ何も観測していないだろう」
「いま、珍しいものを観測しております」
ニノ医師は自分のパンを食べながら、端末の数値を見ている。
「喋るたびに喉の波形が乱れています」
「では無言で食べさせてもらおう」
「そうしてください」
ダヴィトの手からパンを受け取ることも許されず、私はそのまま口へ運ばれた。
午後には、一度トイレへ行く必要も生じた。受信器は外せない。配線も、外せば再調整に時間がかかる。
結局、データロガーを木箱ごと持ち上げ、ダヴィトと二人で斜面の奥まで運ぶことになった。サロメとニノ医師には、少し離れた場所で反対方向を向いてもらった。
戻ると、ダヴィトは記録板へ何かを書き込んだ。
「その時間帯の記録は削除したまえ」
「機器移動時の基準変動として必要です」
「生理現象の詳細までは不要だろう」
「詳細は書いていません」
横から覗く。
《被験者一、排泄のため観測地点を一時離脱。全配線を維持》
「排泄と書いてあるではないか」
「事実です」
「もう少し婉曲な表現はないのかね」
「観測中断・個人的事情」
「それにしておいてくれ」
ダヴィトは最初の一文へ線を引き、その下へ書き直した。だが、訂正前の文章は、読める状態で残っていた。
夕方が近づいても、GNS-Bは現れない。林へ差し込む光が斜めになり、木々の影が斜面を長く伸びている。座り続けた腰は固まり、粘着布の下では汗が乾いて皮膚が引きつれていた。
配線を生やしたまま、何も起きない場所へ意識を向け続ける。
……これは、想像していた以上に疲れる。
聞こうとしてはいけない。だが、現れれば見逃してはならない。耳へ意識を集めないようにしながら、異音が始まるのを待つ。互いに矛盾した二つの行為を、朝から続けている。
ニノ医師が私の脈を測った。
「少し速くなっています。今日はここまでにした方がいいかもしれませんね」
「同意する」
私は椅子の背へ体重を預けた。
「装置も一度点検したい。場合によっては、場所を変えて後日やり直そう」
ダヴィトが記録板を閉じる。サロメも端末の覆いへ手を伸ばした。ニノ医師が、胸骨に貼った受信器へ指を掛けた。
……その指が止まった。
初めは、彼女が息を吸ったのだと思った。
だが、目の前にある肩は動いていない。ニノ医師の呼吸はもっと浅く、鼻を通る音も小さい。
もう一度、湿った吸気があった。
彼女の背後。頭より少し高い位置だ。
私の手は固定帯へ掛かったまま動かなかった。斜面の奥にも、左右の木々の間にも、近づいてくる音はなかった。足音も、落ち葉を踏む音もない。
いつからそこにいたのかは、分からない。
ダヴィトの顔を見る。彼もニノ医師の背後へ視線を置いていた。手にしていた記録板を持ち直し、懐中時計の蓋を開く。
少し離れた椅子では、サロメが革鞄を膝へ載せていた。私たち三人の視線が一か所へ集まっていることには気づいていない。
ニノ医師へ視線を戻す。彼女の目も、私を見ている。
私は発振器へ目を向け、もう一度、彼女を見る。ニノ医師は小さく頷いた。振り返らないまま、机へ片手を伸ばす。
指先が起動板を押した。地面へ固定したエミッターから、短い振動が流れた。
靴底から椅子の脚へ伝わり、腰を通って胸骨へ上がってくる。全身の受信器がほぼ同時に反応し、端末の画面へ波形が走った。
サロメが我々の動きに気づき、端末へ向き直る。発振位置だけを確認し、出力を一段上げた。
彼女は私たちの視線を追わない。何がいるのかも尋ねなかった。
二度目の振動が地面を通る。
波形が重なり、画面の中に斜面と木々の位置が浮かび、その間に、縦長の空白が残った。
……二足で立っていた。
地面に接しているのは二点。そこから細い下肢が伸び、膨らんだ胴を挟んで、左右に短い上肢が垂れている。上端には頭部らしい丸みがあり、その下に肩と胸郭に相当する幅があった。
身体の区分を見れば、霊長類に近い。さらに近いものを挙げるなら……人体だ。
ただし、人間として見るには、どの比率も少しずつ合っていない。
腕も脚も、胴に対して短く、ひどく細い。体重を支える厚みがない。その一方で、腹部だけが胸の下から大きく張り出し、内部の重さに引かれるように下へ垂れていた。
長く蛋白質を欠いた患者が、腹水を溜めた時の輪郭に似ている。
それでも、姿勢は直立していた。
細い脚の上へ膨れた腹を載せ、両腕を力なく下げたまま、こちらへ身体の正面を向けている。人間なら前へ倒れるはずの重心で、揺れもせず立っていた。
低い吸気が、ニノ医師の髪のすぐ後ろで鳴った。
画面の空白も、わずかに上体を傾けた。
人間……なのか?
私は画面を見たまま、昨日まで自分が思い描いていた姿を頭の中から退けた。
地面を掻く音。間合いを詰め、匂いを取るような動き。それだけで、私は勝手に四足の獣を置いていた。
実際には、一度も蹄を聞いたわけではない。爪も、牙も、長い鼻先も見ていない。聞こえていたのは、呼吸と、何かが移動する時の音だけだ。
GNS-B……Beast。獣。そう名づけたことさえ、こちらの都合にすぎない。人間に似た存在なら、行動についても別の可能性が出てくる。
昨日、私やサロメの周囲を回っていたのも、獲物として匂いを嗅いでいたとは限らない。
こちらを観察していた。そう考えてもいい。
ならば、意思疎通は可能だろうか?
言語である必要はない。音への反応、距離の取り方、単純な身振り。こちらの行動に対して一定の応答を返すなら、少なくとも刺激と反応以上のものを確かめられる。
……そのとき、輪郭が沈んだ。
上半身を前へ倒したのではない。胸を上へ残したまま、腹の周囲で胴が捻れ、両腕が地面へつく。
二本の脚も折れた。人間の膝とは違う位置で外側へ開き、その先だけが身体の下へ戻る。膨れた腹を低く吊り下げ、四本の細い肢で地面に伏せた。
それが一歩進む。
画面の中では、関節だけが別々の順番で畳まれた。だが胴は揺れず、地面を滑るようにニノ医師の横を抜けてくる。
落ち葉は動かない。呼吸の位置だけが、私へ近づく。
私は動かなかった。椅子へ座ったまま、画面と正面の空間を交互に見る。目の前には、夕方の斜面と、細い若木が一本あるだけだった。
吸気が膝の高さで止まる。次に、脇腹。白衣を着ていない腹のすぐ前で、湿った鼻腔が短く鳴った。
画面の輪郭は、四肢を地面へ置いたまま頭部らしい部分を持ち上げていた。首が伸びているようには見えない。背骨ごと前半身を捻り、顔に当たる箇所だけをこちらへ近づけている。
私は、昨日サロメの周囲を移動していた呼吸を思い出した。コートの裾から腰へ。そこから肩を伝い、最後には彼女の顔の高さまで上がった。
あの時は、音の低さと湿った息遣いに引きずられていた。
四足の大型獣が、地面から首をもたげている。鼻先を伸ばし、サロメの身体へ沿うように匂いを嗅いでいる。私は無意識に、そんな姿を音の向こうへ置いていた。
だが、画面に映った身体には、そこまで持ち上がる首がない。
……首をもたげたのではなかった。
あのとき、あれは立ち上がっていたのだ。
昨日、サロメが何も知らずに銀片を調べていた間、あれは彼女の背後で二足になり、人間に近い高さから顔を寄せていたのだ。
その影は、私の胸から喉へ何度か吸気を移した。その間、画面の輪郭に目や鼻は現れなかった。どこが顔なのかも確定できない。ただ、頭部らしい塊が私の身体へ近づき、呼吸だけが表面をなぞっている。
やがて、興味を失ったらしい。最後に短く空気を吐き、輪郭がこちらから離れた。
四つの肢が折れ、伸びる。人間に近い胴を地面へ伏せたまま、それは木々の間を進んでいった。
振動の反応が端末の端へ移り、やがて測定範囲から消える。その後に遅れて、湿った呼吸も遠ざかった……。
————
診療所へ戻った頃には、窓の外は暗くなっていた。ニノ医師の診察室では、机の中央に三枚の再構成図を並べていた。
正面から捉えたもの。斜面の上から発振したものGNS-Bが四つ足へ姿勢を変えた直後のもの。
どれも輪郭は粗い。頭部の形も、指の本数も、身体の表面も分からない。それでも、同じ場所に同じ大きさの空白が現れ、移動に合わせて位置を変えていた。
サロメは機材を宿舎へ戻すため、レヴァンと外へ出ている。室内にいるのは、私とダヴィト、ニノ医師の三人だけだった。
ダヴィトは最後の図へ顔を近づけた。
「立っていた時と、四足で移動した時で、身体の長さが合いません」
「関節の位置を、人間と同じだと考えるからだ」
私は図の胴体部分を指でなぞった。
「曲がる箇所が多いのか、そもそも脊椎動物と同じような骨格で体を支えているのではないかもしれない。どちらにしても、この画像だけでは決められない」
ニノ医師は椅子へ座り、三枚目を見ていた。
「先生の身体を調べていたように見えます」
「昨日はサロメにも同じことをしていた。腰から肩、顔の高さまで順に息を吸っていた」
「匂いを嗅いでいた?」
「我々がそう解釈しているだけだ。吸気に似た音が、嗅覚に使われているとは限らない」
ダヴィトも同じ箇所を見た。
「手足が細く、腹部だけが大きい。人間なら、重度の栄養障害を疑う形です」
「人間ならばな」
私は三枚の図を重ねた。最初に音だけを聞いた時、私は大型の犬に近い姿を考えていた。
地面の近くで呼吸し、四つの脚で間合いを詰める獣。実際に現れた輪郭は、その想像と全く重なっていない。
「立っている姿だけを見れば、人間に近い」
ニノ医師が言った。
「知性があるようにも見えますが……」
「二足歩行と知性を結び付けるのは、人類中心の認知バイアスだ」
ダヴィトが記録へ目を落とす。
「私たちを調べ、興味を失えば離れる……少なくとも、行動は獣に近いように思います」
私は頷いた。こちらへ接近し、匂いを確かめ、危害を加えずに去った。人間を憎んでいるわけでも、救おうとしているわけでもない。
同じ場所にいた未知のものを、少し調べただけなのかもしれない。
「形については、保留にしよう」
私は再構成図から手を離した。
「二足で立つ。四肢で移動する。関節は人間と一致しない。現時点で言えるのは、その程度だ」
ダヴィトがペンを置く。
「ですが、存在については?」
机の上の図を見る。三か所から発した試験音が、同じ領域で遅れ、同じ移動に合わせて変化した。
私とダヴィトが似た幻覚を見ただけでは、この結果は出ない。端末に映った形が正確でなくても構わなかった。
「いた」
私は答えた。
「どんな姿をしているにせよ、GNS-Bは私たちの外側にいた」
ニノ医師が息を吐き、椅子の背へ身体を預けた。
患者たちが聞いていたものが、妄想ではなかった。だが、証明されたのは、それだけではない。彼らが聞いていた場所には、本当に何かが"いた"。
ダヴィトが記録帳の新しい頁を開く。
「次は、別の個体を探しますか」
「いや」
私の視線は、机の端に置かれたツィサナの聞き取り記録へ移った。
亡くした息子の声。
しかし、死者の痕跡はなく、サロメにも捉えられず、それでもツィサナと会話を続けているもの。
「イリアを測りたい」
ニノ医師の眉がわずかに寄った。
「ツィサナさんの同意が必要です」
「無論だ。彼女にも、危険性を説明したうえで決めてもらう」
私はGNS-Bの図を横へ寄せた。子どもの声として聞こえるものが、本当に子どもの形をしているとは限らない。むしろ、今日の結果を見た後では、その可能性を期待する理由の方が少なかった。
それでも考えてしまう。
ツィサナが、イリアと呼び続けたもの。あれは、どんな姿で彼女のそばにいるのだろうか……。
無意識にその姿を想像しかけた、その時だった。廊下の向こうで、何か重いものを引きずる音がした。
布か革の大きな袋へ、中身を詰めすぎた時のような音だった。床へ押しつけられ、少し進み、また止まる。
私の指が、机の上で止まった。ダヴィトも顔を上げる。ニノ医師は何も言わなかったが、視線だけが診察室の戸へ向いていた。
重いものが床を擦る音。その湿った摩擦に、宿舎の二階が一瞬だけ重なった。
廊下いっぱいに横たわる何かを引きずるような音。白い衣の少女……。
私は反射的に耳へ意識を向けかけ、やめた。ここにいる三人は、全員発症している。同じ音を聞いたとしても、それだけでは何の証拠にもならない。
それに、ここは診療所だ。薬箱も運ぶ。汚れた寝具も運ぶ。患者を乗せた担架や、洗濯物を詰めた大袋が床を擦ることだってある。
廊下で何かを引きずる音がしたからといって、怪異だと決めつける方がおかしい。
音は戸口の前で止まった。ニノ医師が椅子から立ち上がる。
「廊下に置かないでください。通れなく……」
そう言いながら、戸口へ顔を向けた。言葉が途中で止まった。
私は、その顔を見てから振り返った。戸口の内側に、小さな裸足が揃っていた。
何も引きずってはいない。
床に泥も、水滴もない。
白い衣の前へ、濡れた黒髪が垂れている。
少女は、宿舎の廊下で見た時と同じ微笑みを浮かべていた……。
——to be the next scene.




