Scene23:『見るための』
翌朝、旅籠から出ると玄関の前に壁が増えていた。
木箱である。
大小合わせて十四箱。旅籠の外壁に沿って二段、三段と積まれ、入口の半分を塞いでいる。どの箱にも金属の留め具がつき、側面には私のラボで使用している管理番号が焼きつけられていた。
遅れて出てきたサロメは足を止めた。木箱を見上げ、次に、村へ続く道を振り返る。
街道は封鎖されている。村へ入る橋にも見張りが置かれ、荷馬車一台を通すにも許可が要る。まして、これだけの機材を積んだ車列が入れば、村中の人間が気づくだろう。
彼女の灰青色の目が、ゆっくり私へ戻った。
「おい、白衣」
二人きりなので、声は低かった。
「封鎖って言葉、知ってるか」
「無論だ。外部との往来を制限し、病原体や危険物の流出入を防ぐ措置だろう」
「理解してんじゃねぇか」
サロメは一番上の箱へ手を伸ばした。黒手袋の指で留め具をなぞり、側面についた土を確かめる。荷車で運ばれたなら残るはずの泥跳ねがない。縄を掛けた跡も、箱同士が擦れた傷もなかった。
「どうやって持ち込んだ?」
「やりようはいくらでもあるさ」
「具体的には」
「簡単に言えば、溢れる父性は空間をも超越するのだ」
サロメは箱から手を離した。
「じゃあ、もっと簡単に言え」
「企業秘密だ」
「てめぇのラボは企業じゃねぇだろ」
「父親というものは、一人でありながら家庭という巨大組織を背負っている。実質的には経営者と言っても過言ではない」
「その組織、構成員から殺されかけてなかったか?」
「活発な意見交換が行われている証拠だな」
サロメは鼻から短く息を吐いた。
「ギルドに見つかったら、私まで共犯扱いされんだろうが」
「安心したまえ。君は何も知らなかった。私に騙され、脅され、無理やり手伝わされた善良な協力者だ」
「これから手伝わせる気なのは分かった」
実に察しのよい女である。
私が最も大きな箱へ手を掛けると、サロメはしばらく動かなかった。だが、私一人では旅籠の入口を通せないと判断したらしい。反対側の取っ手を掴む。
「あとで全部、元の場所へ戻せよ」
「それは無論だ」
「今の答え、信用ならねぇな」
「奇遇だな。私も自分でそう思う」
木箱を持ち上げる。重さは私の想定をわずかに超えていた。腕へ力を入れ直した瞬間、サロメ側の箱が先に持ち上がる。彼女は細い身体を箱へ近づけ、腰を落としたまま後ろへ歩き始めた。
「ぼさっとすんな。指挟むぞ」
「うむ。実に頼もしい」
「褒めても残り十三箱は自分で運べ」
————
旅籠の一階にある空き部屋は、夕方までに機材で埋まった。
窓際の机には、可変周波数の発振器を置いた。元は生体組織へ振動を与える試験装置で、側面の調整盤を回せば、耳で聞き取れない低い帯域から、金属を細かく震わせる高さまで連続して変えられる。
その隣には、床や壁へ直接振動を流す骨伝導型のエミッターを並べた。円盤状の接触面を床板へ押し当て、固定具を締める。もう一台は壁の漆喰を傷つけないよう、木製の支柱で挟み込んだ。
机の下では、多チャンネルのデータロガーと位相差解析器を繋いでいる。どちらも本来は別の測定系で使う機材だ。接続端子の規格が合わないため、変換器を二つ挟み、さらに銅線を直接ねじ込んで補った。被覆を剥いた配線が机の端から垂れ、床の上で別の束と合流している。
サロメが、その一本を靴先で避けた。
「完成する前から、壊れた後みてぇな見た目だな」
「急拵えの装置に、洗練された外観を求めてはいけない」
「外観じゃなくて安全性を心配してんだよ」
私は剥き出しの接続部へ絶縁布を巻いた。直後、隣の端子から青白い火花が一つ跳ねた。
サロメが黙ってこちらを見る。
「いまのは余分な電荷を逃がしただけだ」
「装置が勝手にな」
机の端には、波形を空間画像へ変換する端末を置いた。
画面はまだ暗い。データロガーから届く複数の入力を、到達時間と位相差に分け、仮想空間の座標へ配置するよう設定してある。
最後の箱を開ける。中には、聴診器が詰まっていた。通常の診察用より小さな集音部と、短い導管。一本ずつ番号が振られ、先端から細い信号線が伸びている。
サロメが一つ持ち上げた。
「こいつは、どこにつける」
「私だ」
「聞き方が悪かった。お前のどこにつける」
私は自分の胸骨を指した。次に、喉、左右の側腹部、手首へ順に触れる。
「胸、背中、喉、脇腹、両手首。可能なら肋骨の間にも二つ欲しい」
サロメの目が、手の中の聴診器から私の身体へ移った。
「全部か?」
「全部だ」
「患者というより、楽器だな」
「高性能な生体受信膜と呼びたまえ」
「肉だろ」
「学術的な情緒が足りないぞ」
私は聴診器を机へ並べた。
通常のマイクを部屋へ置くだけでは、あの異音を正しく拾えない。患者の身体へは異常振動が入力されているのに、空気中へ置いた録音機器には、同じ形で残らない。
少なくとも、通常の音が伝わる経路だけを測っても足りない。
「外から試験音を出す」
私は床へ固定したエミッターを指した。
「音は床、壁、空気を通る。その一部が、私たちの知覚している異音の側へ干渉すると仮定する」
「仮定か」
「まだ、向こうに何があるのかさえ証明できていないからな」
サロメは聴診器を机へ戻した。
「で、返ってきた音を、お前の身体で拾う?」
「正確には、戻ってきた振動によって私の身体に生じる差を拾う。胸へ届くまでの遅れ。背中と喉での位相差。左右の側腹部で波形が欠ける位置。それを同時に記録する」
私はデータロガーから伸びた線を一本ずつ持ち上げ、聴診器の端子へ差していった。
「私の神経系と内臓には、既にゴーストノイズの入力が通っているはずだ。ならば、この身体を受信器として使える可能性がある」
「自分の病気を、装置の部品にする気か」
「既に壊れているものは、有効活用する。合理的だろう?」
サロメの指が、革鞄の金具へ置かれた。ほんの少し、口元が固くなる。
「壊れてると決まったわけじゃねぇ」
「そうだな」
私は最後の端子を接続した。
「だから、確かめる」
————
日が落ちる頃には、空き部屋の床を歩く場所がなくなっていた。
配線を踏まないよう、入口から机まで細い通路だけを残している。床と壁には四台のエミッター。机の上には発振器、解析器、端末。部屋の中央には背もたれのない椅子を置いた。
その椅子へ、私は上半身裸で座っていた。
胸骨に二つ。左右の鎖骨の下へ一つずつ。喉へ一つ。側腹部へ左右二つずつ。そして、手首へ一つずつ。背中にも五つ取り付けてある。
固定帯と医療用の粘着布で押さえられた小型聴診器から、十数本の信号線が伸びていた。線は腰の横で束ねられ、そのまま床を這ってデータロガーへ繋がっている。
扉が開いた。
先に入ってきたニノ医師は、私を見るなり止まった。後ろから来たダヴィトも、彼女の肩越しに室内を見て足を止める。しばらく誰も喋らなかった。
私は椅子の上で胸を張った。
「ようこそ。人類の知覚領域を拡張する、歴史的実験へ」
ニノ医師の視線が、私の胸に貼りついた聴診器から、剥き出しの配線へ移る。
さらに、壁際で端末を調整しているサロメを見る。
「サロメさん」
「私へ尋ねないでください」
丁寧な声だった。目は端末へ向けたまま、一度もこちらを見ない。ダヴィトは入口の外へ顔を出し、旅籠の前に残っている空箱を確認した。
「村は封鎖されていたはずですが」
「その質問は、既にサロメ女史から受けた」
「回答は?」
「溢れる父性は空間をも超越する」
ダヴィトは手帳を開いた。
「回答拒否、と記録します」
「拒否ではない。高度に抽象化された説明だ」
「搬入経路不明、とします」
「父性経由だ」
「不明、とします」
ペン先に迷いがない。
ニノ医師は椅子の周囲を一周した。
配線の接続部を確認し、床の発振器へ視線を落とす。次に私の背中へ回り、聴診器の固定位置を一つずつ指で確かめた。
「これを、ご自分の身体へ流すのですか」
「流すのは床と壁だ。私は受信する」
「心臓、呼吸、筋収縮の振動も同時に入ります」
「それぞれ基準波形を取って分離する」
「体調が変化すれば、基準そのものが動きます」
「そのために君を呼んだ」
ニノ医師は私の肩越しに、端末から垂れる配線を見た。
「医学的な監視役として?」
「その通りだ」
「服を着せる役ではなく?」
「布が受信面へ触れると雑音が増える」
サロメが端末の調整盤を回しながら答えた。
「先生は、科学のために半裸なのだそうです」
「誤解を招く言い方は慎みたまえ」
「誤解する余地がありますか?」
ニノ医師は真顔だった。ダヴィトが記録板へ何かを書いた。
「何を書いた?」
「実験開始前の被験者の状態です」
「身体所見ならニノ医師の担当だろう」
「上半身裸。全身に聴診器および配線を装着。本人は必要な措置と主張」
「最後の一文に悪意があるな」
「客観的事実です」
サロメが端末の横に置いた切替器を押した。
胸元の聴診器から伸びる線が、わずかに引かれる。
「動かないでください。接触位置がずれております」
「私はいま、極めて自然な姿勢を取っている」
「先生。そのように胸をお張りになりますと、威厳まで波形に混じってしまいます。どうぞ楽になさってください」
私は肩の力を抜いた。
ニノ医師が脈を測るため、私の右手首へ指を置く。そこにも受信器があるため、空いている場所を探して指先をずらした。
「実験中は喋らないでください」
「呼吸と発声の成分を分けるためだな」
「それもあります」
「ほかには?」
ニノ医師は答えなかった。サロメとダヴィトも、なぜか端末へ視線を落とした。
部屋の中へ、短い沈黙が流れる。
「……装置の性能と無関係な理由を感じるのだが」
ダヴィトがペンを走らせる。
「実験中、被験者は発言を控える。全員の合意を確認」
「待ちたまえ。私は合意していない」
「いまの発言を最後とします」
「君たちは歴史的実験へ臨む科学者に対する敬意が……」
喉へ固定された受信器を、ニノ医師の指が軽く叩いた。端末の画面で波形が大きく跳ねる。
「やはり、発声で雑音が入りますね」
「……実に分かりやすいな」
「以後、黙ってください」
私は口を閉じた。
装置の運用説明は、サロメが引き継いだ。彼女は机上へ林道の略図を広げ、端末と発振器の間へ置く。
「明日、GNS-Bを確認した一帯に、発振器とエミッターを設置いたします」
一度、帽子の縁を整える。革手袋をした指だけが略図の上を移動した。
「先生とダヴィトさんが異音を知覚した場所から、一定の距離を置いて三か所。床面に相当する地面と、近くの木から発振いたします」
ダヴィトが略図へ目を落とす。
「同じ場所から一度だけ音を出すのではないのですね」
私は頷いた。代わりにサロメが答える。
「位置と周波数を変えて、複数回行います。同じ何かが存在するなら、発振位置を変えても、反応が生じる領域には一定の重なりが残るはずです」
ダヴィトは林道の三点へ番号を書き込んだ。
「先生と私が知覚した位置は、事前にサロメさんへ伝えない」
「はい。私は発振位置と時刻だけを管理します。先生方が何を聞いたか、どちらへ反応したかは確認いたしません」
「私は各発振の時刻と、先生の身体から得た波形を記録します」
ダヴィトが続ける。
ニノ医師は私の胸元へ聴診器を当てた。装置の受信器を避けながら、心音を確認している。
「私は脈拍、呼吸、意識状態を監視します。不整脈、意識混濁、急激な知覚異常があれば、その時点で中止します」
私は口を開こうとした。ニノ医師の目が上がる。
……閉じた。
サロメが説明を続ける。
「通常の木や地面であれば、振動の伝わり方は事前測定した範囲へ収まります。ですが、その場に表層とは異なる構造が重なっている場合、先生の身体へ戻るまでの時間や、各受信器へ届く波形に偏りが出る」
ダヴィトが端末の画面を見る。
「その差を、画像へする?」
私は頷き、机の脇に置いた操作板へ手を伸ばした。発振器を最も弱い出力へ合わせる。
床のエミッターが、短い振動を一度だけ送った。足裏から、低い震えが椅子へ上がってくる。耳で音として捉えるより先に、胸骨へ貼った受信器が拾い、端末の画面へ十数本の波形が走った。
胸、喉、背中、左右の脇腹。同じ振動でも、届く時刻はわずかに違う。
位相差解析器が数値を揃え、画面の中央に、部屋の簡略な平面図を描いた。床、壁、机、椅子。輪郭は粗く、一部は波打っているが、実際の配置と大きくは外れていない。
ダヴィトが椅子の横へ回り込んだ。画面上でも、淡い影が一つ移動する。
「人間も映るのですね」
私は操作板へ文字を入力した。
《表層物体の反射は基準として除外する》
「喋らないことを、楽しんでいませんか」
ダヴィトが尋ねた。私は首を横へ振り、端末へ新しい文章を打つ。
《ふふふ。科学者は言葉を奪われても、知性で語るのだ》
サロメが背後から画面を覗き込んだ。
「入力している間に説明が止まっております」
《では代わってくれたまえ》
「嫌です」
ニノ医師が私の手から操作板を取り上げた。
「説明が終わるまで、これも没収します」
私は完全に沈黙した。
実験は続いた。ダヴィトが机の前へ立つ。サロメが壁際へ移動する。ニノ医師が木箱を一つ、部屋の中央へ置く。そのたびに試験音を流し、端末へ現れる変化を確かめる。
表層にある物体は、目で確認できる位置とほぼ同じ場所へ反応を返した。壁の厚みや床下の空洞も、誤差の範囲で形になる。
これらは、明日使う基準だ。林で同じ測定を行い、目に見える木や地面の反射を取り除く。その後に残る遅延と位相の偏りを重ねる。
一回の測定では、装置の誤差かもしれない。発振位置を変えて同じ領域が残れば、地形の影響かもしれない。
周波数を変え、時刻を変え、それでも同じ場所に空白や反射の遅れが現れるなら、その領域には、私たちが目で捉えられない何かが存在する。
表示されるのは、試験音が通らなかった場所。予定より遅れて戻った領域。表層の距離では説明できない位置へ回り込んだ振動。それらを重ねて、初めて輪郭を作る。写真のように鮮明な姿が出るわけではないが、朧げながら形を捉えることはできた。
最後の基準測定が終わった。ニノ医師が喉の受信器を外し、私は息を吐いた。
粘着布に引かれていた皮膚が戻る。胸や脇腹には、円形の赤い跡がいくつも残っていた。
部屋の中に、先ほどまでの笑いはなかった。端末の画面には、空き部屋の形が表示されている。
見えている壁。見えている床。見えている机と椅子。
そこにないものは、何も描かれていない。
ダヴィトが画面を見たまま尋ねた。
「明日、別の反応が出た場合は?」
「同じ場所で再現を取る」
私は白衣を衣掛けから外した。まだ受信器の残る背中を避け、肩へ掛ける。
「私と君が同じ音を聞いたというだけでは、共有された知覚異常の可能性を捨てきれない。だが、こちらから発した信号に対し、同じ場所から繰り返し変化が戻るなら、私たちの知覚だけでは説明できなくなる」
ニノ医師が、私の胸に残った最後の受信器を外した。
「何が見えると思いますか?」
「分からない」
私は暗くなった端末を見た。林で聞いた呼吸には、姿がなかった。足音もなく位置を変え、枝一本揺らさず、サロメの身体を確かめていた。
あれが本当に外部に存在するなら、明日、この画面のどこかに痕跡が残る。
「見たいわけではない」
配線の端から、解析器の作動音が低く続いていた。
「だが、見えないままでは、何が起きているのか確かめられない」
誰も答えなかった。
端末の黒い画面には、まだ、私たちの顔だけが映っていた。
——to be the next scene.




