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Ghost Noise 〜耳底に沈む音〜  作者: 矢崎 那央
第3幕『返事の向こう側』
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Scene21:『知らせないための会議』


 診察室の窓から入る光は、もう朝の白さを失いかけていた。


 机の上には、先ほどまで使っていた検査器具が残っている。その隙間を埋めるように、ダヴィトの記録紙、村外の医療施設から届いた報告書、レヴァンが持ってきた通信票が広げられていた。

 湿った呼吸は、いまは聞こえない。だが、聞こえないことを別の者に確認しようとは思わなかった。


 私の向かいにはニノ医師とダヴィトが座り、その隣でサロメが黒手袋を重ねている。レヴァンだけは椅子へ腰を下ろさず、机の端へ片手をついていた。

 彼が持ってきた通信票には、ギルド支部へ送る報告の項目が、既に整った字で並んでいる。

 発症者数。村外で確認された症状。村内の封鎖状況。推定される感染経路。

 最後の欄だけが空白だった。


 レヴァンはそこへペン先を置いた。


 「結論をギルドに送ります。接触感染ではなく、異音に関する調査行為そのものが発症に関与する可能性がある。そういう理解でいいですね」


 「待て」


 ペン先が紙へ触れる直前で止まった。レヴァンは顔を上げた。


 「その内容は送らない」


 しばらく、誰も口を開かなかった。机の端で、ニノ医師が指を組み直す。ダヴィトは私を見るより先に、自分の記録紙へ視線を落とした。

 レヴァンだけが、ペンを持ったまま立っている。


 「送らない、というのは?」


 「書いた通りの意味だ。異音の特徴も、聞こえた位置も、発症者に共通していた行動も、外部へは伝えない」


 「村の外でも患者が出ています」


 「だからだ」


 レヴァンの眉間に浅い皺が寄った。

 当然の反応だ。彼は、村の封鎖と外部との連絡を任されている。状況が変わるたび、それを外へ届けるためにここにいる。

 その彼へ、最も重要な情報を送るなと言っている。


 「先ほど話した認識災害という言葉は、既存の概念や学術用語ではない」


 私は机上の報告書を指先で寄せた。


 「この現象を扱うために、私が便宜上そう呼んだだけだ。見る、聞く、知ろうとする。そうした認識の行為そのものが、人間の知覚へ異常を起こす。そのような、未知の現象だ」


 レヴァンは通信票へ視線を落としたまま尋ねた。


 「それを、ギルドへ知らせないのですか?」


 「知らせ方が問題になる」


 私は村外の医療施設から届いた報告書を開いた。そこには、発症した四名の担当が記されている。内科医、聴覚検査技師、検査補助員二名。

 指先で、その四行を順に示した。


 「発症したのは、患者の訴える異音を確かめようとした者たちだ。問診を行い、検査を繰り返し、音が存在する場所と帯域を探した」


 次の頁を開く。

 搬送を手伝った者。寝具を交換した者。食事を運んだ者。患者へ触れた者は、ほかにもいた。少なくとも現時点では、その全員に症状が出ているわけではない。


 「"接触の有無"では、発症者の偏りを説明できない。だが、"音を見つけようとしたかどうか"で分ければ、ある程度まとまる」


 ニノ医師は報告書へ目を落としたまま、ゆっくり首を横へ振った。


 「それだけで、情報が病状を運ぶとは断定できません。発症までに時間差があるなら、寝具や食事に関わった方々にも、今後症状が出る可能性があります」


 「その通りだ」


 私は報告書を閉じた。


 「まだ仮説にすぎない」


 ニノ医師の指が、組んだまま一度だけ強く締まった。


 「では、この仮説に基づいて、村外への報告を止めるのですか?」


 「止めるのは報告そのものではない。汚染源となるミームだ」


 ニノ医師はすぐには返さなかった。視線を机の上へ置き、発症者と未発症者の記録を見比べている。

 やがて、紙の端を揃えるように指で押さえた。


 「原因としては、まだ確定できません」


 「妥当な判断だ」


 「ですが、患者を増やさないための手順としてなら採用できます。詳細な聴覚問診を止める。異音の位置や特徴を、患者同士で照合させない。検査担当者にも、必要以上の情報を与えない」


 彼女はそこで一度言葉を切り、私を見た。


 「少なくとも、この仮説が否定されるまでは」


 「それでいい」


 ダヴィトのペンが、記録紙の上を短く走った。彼は書いた一行を読み返してから、顔を上げる。


 「私も、ミームだけで症状が伝わったとまでは信じきれていません」


 声は落ち着いていた。ただ、最後の言葉を言い終える前に、彼の喉が一度だけ動いた。

 自分の近くではない場所から、人の声が届いている。いまの彼には、私たちの会話がそう聞こえているはずだった。


 「ですが、接触感染として調べても、共通点が見つからなかったことは事実です。私自身も、前日に患者へ触れてはいません」


 彼は自分が封じた記録紙へ手を置いた。


 「波形を確認し、自分の身体にも同じ振動がないか調べました。その後に症状が出ています。偶然かもしれませんが、無視する理由もありません」


 「協力してもらえるか」


 「はい。手詰まりのまま接触履歴を洗い直すよりは、試す価値があります」


 ダヴィトはそう答え、書きかけの記録へ日付を入れた。レヴァンのペンだけが、まだ止まったままだった。


 「では、私は何を外へ伝えればいいのです」


 「検査担当者に発症が集中している。安全性が確認できるまで、異音に関する調査を一時停止する。外へ伝えるのは、その事実と措置だけでいい」


 レヴァンは通信票へ目を落とした。


 「接触感染ではないことも、調査行為が発症に関わる可能性も、書かないのですか」


 「書かない。発症者に共通していた行動まで伝えれば、向こうはそれを確かめようとする」


 「理由がそれだけでは、医療施設は止まりません。別の担当者を立てて、同じ問診と検査を続けます」


 「現行の検査手順に、安全上の疑いがあると添えてくれ。検査に関わった者へ発症が偏っているのは事実だ。それで中止理由には足りる」


 「正確な報告ではありません」


 「正確な記録は残す。外へ送る報告と、村内で保管する記録を分けるんだ」


 レヴァンが通信票を机へ置いた。紙の端が、ダヴィトの記録紙へ重なった。


 窓の外で、荷車の車輪が石を踏んだ。音は聞こえた。ただし実際の道よりも遠く、村の端を走っているように感じられた。

 私は窓を見なかった。


 ダヴィトのペンが止まる。彼は二枚の紙を見比べてから、自分の記録を手元へ引き戻した。


 「詳細は私が管理します。異音の位置、証言、波形、発症までの行動は分けて封じる。閲覧した者も記録します」


 「あなたは読むんですか」


 「私はもう発症しています」


 ダヴィトは記録紐を取り、紙束へ回した。


 「だから安全だとは言いません。ただ、未発症者へ新しく読ませるよりはましです」


 レヴァンは口を閉じた。


 私は通信票の空白へ指を置いた。


 「仮説が誤っていれば、調査が遅れる。だが正しければ、詳細を送った時点で、村の外に次の患者を作る」


 レヴァンの視線が、通信票から私へ戻った。


 「今後の詳細記録も、私には見せないつもりですか」


 「外へ送る文面だけを渡す。詳細は、ダヴィトが封じる」


 「連絡役なのに?」


 「連絡役だからだ」


 レヴァンはまだ発症していない。


 診察室の入口から湿った呼吸が聞こえた時も、彼だけはそちらを見なかった。私たちが何を聞き、どこを見たのか。その手掛かりを持たないことが、彼に外部との連絡を続けさせている。


 「……承知しました」


 納得した声ではなかった。

 それでもレヴァンは通信票を引き寄せ、書きかけていた一文へ線を引いた。紙を破らず、訂正した痕跡を残したまま、その下へ新しい報告を書き始めた。


 私は次にサロメを見た。

 彼女は黒手袋を重ねたまま、こちらを見返している。


 「サロメ。君は既に、かなりの情報を知っている」


 「はい。先ほどのお話にも立ち会っております」


 「知ってしまったものは仕方がない。だが、自分にも聞こえないか確かめようとするな。私たちが何かへ反応しても、その位置を探す必要はない」


 サロメは少し考えるように、革鞄の金具へ指を置いた。


 「気をつけないように気をつけろ……というのも、難しい話ですね」


 薄い唇の端が、わずかに動く。


 「ですが職業柄、聞かなくてよいものを聞かないことには慣れております」


 霊媒の現場では、依頼人が聞いた声を、調査する側まで同じ形で聞く必要はない。聞こえたという訴えを受け取りながら、自分まで答えを探さない。

 彼女は長い間、それを仕事としてきた。


 「君には、聞こえないままでいてもらう」


 「では、先生は?」


 「私は既に聞こえている。少女の姿まで見た。今さら対照には戻れない」


 ニノ医師の視線が、私の顔から耳元へ下りた。何か言いかけたが、彼女は口を閉じる。

 休めと言いたいことは分かっていた。そして現状、休んだから治るという根拠はなかった。


 「私が異音へ反応しても、君はその方向を見ないでくれ。私の呼吸、脈拍、視線、動きだけを見る。周囲の物に、本当に変化が起きているかも確認してほしい」


 「先生の見たものを探すのではなく、先生と、その周囲を観察する」


 「そうだ」


 サロメは小さく頷いた。


 「承知しました」


 その時、部屋の隅で、湿ったものが息を吸った。


 遠くはない。壁際に置かれた薬棚と、閉じた扉の間。そう判断した時には、私の目は既にそちらへ動きかけていた。

 ニノ医師の肩が固まり、ダヴィトのペン先が紙から離れる。三人の反応を追い、レヴァンも顔を向けようとした。


 「レヴァンさん」


 サロメの静かな声が先に届いた。彼女は部屋の隅を見ていない。


 「こちらを見ていてください」


 レヴァンの首が止まる。

 サロメはそのまま私へ視線を移した。場所も、音の種類も尋ねない。ただ、私の呼吸と目の動きを見ている。

 私は薬棚へ向きかけた目を、机の上の通信票へ戻した。止まっていた息を、ゆっくり吐く。


 「いまの反応を記録してくれ。位置は口に出さず、封印記録へ」


 ダヴィトは一度頷き、手元の記録紙ではなく、伏せてあった別紙を引き寄せた。


 サロメは最後まで、部屋の隅を見なかった。



——to be the next scene.

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