Scene20:『Ghost Noise』
翌朝、私は診療所の診察椅子に座っていた。
夜明けから降り始めた雨が、窓硝子へ細い筋を作っている。外から聞こえるはずの雨音は、布を一枚隔てたように薄かった。代わりに、診察台の上で器具が触れ合う音だけが、妙に近く聞こえる。
ニノ医師が、私の右耳へ小さな灯りを向けた。耳介を軽く引き、内部を覗き込む。次に左耳。鼓膜の状態を確認したあと、音叉を鳴らし、耳元とこめかみへ順に近づけた。
振動は感じる。音も聞こえる。しかし、どこで鳴っているのかが曖昧だった。
耳元へ置かれたはずの音叉が、部屋の隅で鳴っているように聞こえる。骨を通じた振動だけが近く、音そのものはそこから離れていた。
ニノ医師が音叉を下ろした。
「耳道と鼓膜に異常はありません。簡易検査上、音を受け取る機能そのものも保たれています。ただ、通常音が聞こえ始める距離が短くなり、音源の位置を実際より遠く捉えています」
「つまり?」
「村の患者たちに見られる、初期症状と一致します」
予想していた言葉だった。
昨夜、サロメの錫杖が実際より遠く聞こえた時点で、ほとんど結論は出ている。それでも、他人の口から診断として告げられると、自分の耳が一段深く塞がれたように感じた。
私は椅子の背へ身体を預けた。診察室の壁際には、サロメが座っている。黒い帽子は膝の上に置かれ、両手がその縁へ静かに重ねられていた。昨夜、暗い廊下で錫杖を振っていた女と同じ人物とは思えないほど、姿勢も表情も整っている。
ニノ医師とダヴィトの前では、彼女はいつもの死者現象専門調査士だった。
「発症時期について、確認させてください」
サロメの声は、やわらかく抑えられていた。
「言葉が遠く聞こえると、最初に自覚されたのは昨夜ですか?」
「自覚したのはな。実際にいつ始まったのかは分からない」
私は耳の後ろへ指を当てた。痛みも、熱もない。身体のどこにも、病気が侵入した感覚はなかった。
「それ以前にも、聞き落としはあった。診察時に記録されていた異常振動を、私は副雑音として認識できなかった。だが、あれを発症に含めるべきかは判断できない」
「昨夜、旅籠で聞いたという音は?」
「濡れた何かが床へ触れる音と、大きな物体を引きずるような振動だ」
サロメは頷いた。
「ですが先生は、姿も見ています」
人前で使う、静かで整った声だった。
「……寝不足だったからだと切り捨てたいが、そうはいかないな」
私は昨夜の廊下を思い返した。
濡れた黒髪。白い衣。足を動かさず、床の上を滑っていった裸足。
最後までこちらへ向けられていた、白い顔。
「視覚的異常は、これまでにない症状だ」
サロメは、手袋をした両手を身体の前で重ねた。
「幻覚とは限りません。昨夜の調査では残留を確認できませんでしたが、何かが居た可能性は残ります」
「私の聴覚異常と、少女の出現が偶然重なった可能性もあるということか」
「はい。少なくとも、片方が証明されたからといって、もう片方まで幻だったとは断定できません」
何も見つからないことを、何も存在しない証拠にはしない。彼女らしい答えだった。
「身体症状と、昨夜の少女は分けて考えるべきでしょう」
サロメは静かに続けた。
「少なくとも現時点ではな」
私は頷いた。私は診察椅子から立ち上がった。
「だが仮に、あの少女の姿が症状でなかったとしても」
机の上に並んだ記録へ目を落とす。
「発症から幻聴へ至るまでの進行が、これまでの患者より早すぎる」
これまで、もっとも症状の進行が早かったのは、村の外の医療施設の職員だ。しかし、選択性難聴から異音知覚へ移るまで、少なくとも約一日を要している。
私は昨夜、聴覚異常を指摘された時点で、既に幻聴を聞いている。発症時刻を夕刻と仮定するなら、約数時間で次の段階へ進んだことになる。
ニノ医師が診療簿を閉じた。しかし、その手は表紙の上から離れなかった。
「先生」
声をかけたあと、彼女はダヴィトを見た。
視線を受けたダヴィトが、胸元に抱えていた記録板を持ち直す。二人の間で、短い迷いが交わされた。
「どうした?」
ニノ医師が、閉じた診療簿へ目を落とした。
「診察を始める前に、お伝えすべきでした」
「何をだ」
「私にも、症状が出ています」
私は椅子から背を離した。ニノ医師は、私の反応を確かめるように一度だけ顔を上げた。
「今朝から、人の声の一部が遠く聞こえます。特に、言葉の終わりが薄い。先ほども、先生の返答を二度、聞き取り損ねました」
彼女が眠れていないせいではないか。
その可能性が頭へ浮かんだが、口には出さなかった。私自身が同じ説明へ逃げたばかりである。
「異音は?」
「あります。夜明け前、薬品庫の壁際から、湿った呼吸のようなものを聞きました」
「誰かに話したか?」
「いいえ。誘導を避けるため、位置も音の特徴も伝えていません」
ニノ医師は、今度はダヴィトへ目を向けた。彼は記録板の間から、折り畳んだ紙を取り出した。
「僕もです」
紙は封蝋されていた。ダヴィトがそれを机へ置く。
「ニノ医師から何を聞いたのか尋ねられる前に、時刻と場所だけ記録して封じました。今朝、診療所へ入った直後から、会話が少し遠く感じます。それと……」
そこで言葉が止まった。唇を湿らせてから、続きを口にする。
「空の部屋から、誰かが息をしているような音がしました」
「いつからだ」
「昨夜です。記録を整理していた時、廊下の反対側から聞こえました」
昨日、三人とも患者には接触していない。
ニノ医師は診療所に残っていたが、新規患者の受け入れは止めていた。ダヴィトも、私とともに記録の整理へ回っている。私も旅籠へ戻るまで、患者と顔を合わせていない。
感染から発症までに潜伏期間があるなら、三人の発症時期が近いことは説明できる。
だが、三人の接触履歴は異なる。村へ入った日も、診察した患者も、接触時間も一致していない。
偶然、潜伏期間の終わりだけが重なったのか。その可能性を検討しようとした時、胸が勝手に動きを止めた。
自分の呼吸を止めたのだと気づくまで、わずかに時間がかかった。
診察室の入口付近から、空気を吸い込む音がした。人間の呼吸より低く、湿っている。
喉を通る音ではない。水を含んだ薄い膜が、内側へ引かれながら震えているような吸気だった。
私は入口へ顔を向けていた。
考えてから見たのではない。音が身体へ入り、首が動き、そのあとで、何を探しているのかを理解した。
戸は半分開いている。その向こうには無人の廊下が続いていた。
視界の端で、ニノ医師も同じ方向を見ている。ダヴィトは記録板を胸へ抱えたまま、入口へ目を向けていた。
サロメだけが、私たち三人を見ていた。
「どうかなさいましたか?」
彼女の問いに、すぐ答える者はいなかった。
私は机から未使用の紙を二枚取り、それぞれニノ医師とダヴィトへ押し出した。
「いま聞こえたものを、相談せずに書いてくれ。位置と特徴だけでいい」
二人が筆を取る。私は自分の診療簿の余白へ、聞こえた内容を記した。
入口。湿った吸気。ゆっくり一度。
ニノ医師とダヴィトが筆を置くまで待ち、三枚の紙を並べた。
位置は全て、診察室の入口付近。
ニノ医師は《濡れた呼吸》。ダヴィトは《水の溜まった喉が、息を吸ったような音》。表現に差はあるが、指しているものは同じだった。
「サロメ。キミには?」
「何も聞こえませんでした」
彼女は入口へ目を向けた。視線だけで廊下を確認し、すぐこちらへ戻す。
「風もありません。人が通った様子もありませんね」
「三人とも、同じ症状で確定だな」
私は紙を重ねた。三人が同時に、同じ位置から、同じ種類の異音を聞いた。
言葉による誘導はない。サロメには届いていない。単独の幻聴では説明できない。
そして三人に共通するのは、患者との接触ではなかった。
私の視線は、昨日の波形記録へ落ちた。
診療所で、症状のない者の身体にも異常振動が存在すると判明した。
……その時、私たちは何をした?
ニノ医師は自分の胸へ手を当てた。ダヴィトは筆を止めた。私も呼吸を浅くして、自分の喉と胸の奥へ注意を向けた。
三人とも、そこにあると知らされた音を聞き取ろうとした。
「昨日の解析だ」
口にした言葉が、思考へ形を与えた。
「私たちは患者に触れていない。だが、三人とも同じ行為をしている」
ニノ医師が、重ねた記録紙を見た。
「自分の身体へ、耳を澄ませたことですか」
「そうだ」
私は医療院から届いた発症報告を引き寄せた。
隔離された夫婦と接触し、その後に発症した職員は四名。内科医、聴覚検査技師、検査補助員が二名。
搬送を担当した者、寝具を運んだ者、食事を渡した者にも接触はある。しかし、現時点で発症が確認されているのは、検査へ直接関わった四人だけだった。
役割は違う。
だが全員が、患者の訴える異音が実際に存在するか、同じ場所で確かめようとしていた。
機器を止めた。遮音した。患者が反応する時刻を待った。
そして、おそらく自分にも聞こえないかと耳を澄ませた。
「接触ではない」
ダヴィトが報告書から顔を上げた。
「では、何が感染しているんですか?」
「ミームだ」
答えながら、私は空白の紙を一枚抜いた。中央へ一本の線を引く。
左側へ《病原体》、右側へ《情報》と書いた。
「細菌やウイルスは、身体を媒介にして複製される。感染者の体内で数を増やし、飛沫や血液や接触を通じて、次の宿主へ移る」
《病原体》の下へ、身体から身体へ向かう矢印を描く。
次に、《情報》の下へ、人の脳を示す二つの円を描いた。
「一方で、人間の間には、身体を持たずに複製されるものがある。例えば歌、あるいは噂。作法、迷信。ある人間が覚え、別の人間へ伝え、そちらでも同じ形を保とうとする。細菌やウイルスのように、人から人に感染り増殖する情報のことを、ミームと呼ぶ」
ダヴィトが紙へ視線を落とした。
「流行する言い回しや、子どもの言葉遊びのような?」
「それも含まれる。語源としては、模倣されるもの、という意味だ。遺伝子が身体を複製の器として使うなら、ミームは記憶と模倣を器として使う」
私は二つの円の間を、矢印で結んだ。
「通常、それ自体に害はない。だが、情報を受け取っただけで、知覚や記憶、行動へ異常な変化が生じているとしたら」
紙の上の矢印へ、短い横線を加えた。
「ミームに汚染されることが作用因子になる現象。認識災害とでも呼ぶべきか」
ダヴィトはしばらく紙を見たあと、眉を寄せた。
「今回の場合、伝わっている情報。汚染源となるミームは何ですか?」
「音そのものではない。あくまでそれは副次的なものだ」
私は昨日の波形へ指を置いた。
「音は、発症していない人間の身体にも届いている。私たちの耳や神経は、それを受け取っていた。だが、意味のある音としては認識していなかった」
波形の上を、指でなぞる。
「患者から、どこで、どのように聞こえるかを聞く。異常振動の帯域を特定する。自分の胸や喉へ注意を向ける。そうやって私たちは、脳が雑音として捨てていた入力に、形と位置と意味を与えた」
ニノ医師の指が、机の縁を掴んだ。
「聞き方を、学習した」
「そうだ。感染しているのは音ではなく、音を見つけるための認知手順。それがミームとして感染している」
自分で口にした言葉が、これまでの記録を別の形へ並べ替えていく。
村人は異音について語り合った。壁から聞こえる。耳を塞いでも消えない。
自分の呼吸を止めても、もう一つ残る。
そう教えられた者は、自分の周囲から同じ特徴を探したのかもしれない。そして、見つければ次の者へ伝える。
単なる噂なら、存在しない音を想像するだけだ。
しかし今回は、その入力が最初から全員の身体に存在している。場所を教えられ、聞き方を学べば、脳がそれまで抑えていたものを拾い上げる。
そして一度、意味のある音として分類されれば、元の雑音へ戻すことができない。
「私たちは調査によって、原因へ近づいた」
喉から出た声が、自分のものではないほど遠く聞こえた。
「同時に、聞き取る方法を整理し、記録し、共有した」
ニノ医師が唇を結んだ。
患者への問診票。異音の位置。音の高さ。呼吸との違い。耳を塞いだ時の変化。
私たちは証言の混同を避けるため、一人ずつ詳しく聞き取った。だが、その質問自体が、患者へ音の探し方を教えていた可能性がある。
調査員の間でも同じだった。
記録を読み、条件を揃え、異音が存在する帯域を特定する。真相へ近づくほど、全員の注意が同じ場所へ集まっていく。
「つまり私たちは、むしろ感染を広げてしまったと?」
ダヴィトの声は低かった。
「断定はできない」
私は即答を避けた。
責任を否定するためではない。まだ、原因と結果を繋げるだけの証拠はない。
「村では調査以前から発症者が出ている。私たちが現象を作ったわけではない。だが……感染を広めた可能性はある」
ラボで再生した異常音を思い出す。
保存記録から取り出した、かすかな濁り。私はそれを繰り返し聞いた。
その時点では、明確な症状を自覚しなかった。
「先生は、ラボで記録を再生しています」
ニノ医師も同じ点へ気づいたらしい。
「あれも情報への接触では?」
「そうだ。だから録音が安全だとは言えない。発症まで時間を要した可能性もあるし、反復や予備知識が条件かもしれない」
私は《情報》と書いた文字の下へ、もう一本線を引いた。
「ただ、現時点で発症者に共通しているのは、録音を聞いたことではない。リアルタイムに存在している異音へ注意を向け、自分の知覚で捕まえようとしたことだ」
録音された波形は、過去の痕跡である。
昨夜、旅籠にいたもの。先ほど入口で息をしたもの。あれらは、その瞬間にこちらと同じ場所へ存在していた。
聞こうとする行為が、単に脳の抑制を外しているだけなのか。あるいは、こちらが注意を向けたことで、向こう側から何らかのアプローチがあるのか。
そこまでは判断できない。
だが、少女が私の前へ現れたのは、私が異常振動を詳しく調べ、自分の身体へ耳を澄ませた夜だった。偶然として捨てるには、順序が整いすぎている。
サロメが、膝の上の帽子を持ち直した。
「では、今後の調査はどうなさいますか?」
声色は変わらない。
しかし、彼女の視線は入口へ向かわず、私から離れなかった。
「患者同士で異音の特徴を共有させない。音の位置、高さ、周期を具体的に教えない。問診記録は封じ、同じ資料を複数人で同時に検討することも避ける」
私はニノ医師へ向き直った。
「新規患者には、異音を探すような質問をしてはならない。本人が自発的に述べた内容だけを記録し、聞こえるかどうかを確認するために、周囲の者が耳を澄ませることも禁止する」
「検査担当者は?」
「既発症者へ限定する。未発症者を、確認のためだけに曝露させるべきではない」
サロメの方を見る。
「特にキミは、まだ聞こえていない」
「そのようですね」
「今後、私たちが何かへ反応しても、同じ場所を探すな。音の特徴も尋ねるな」
「承知しました」
サロメは、短くそう答えた。彼女が未発症であることは対照だ。
病原体なら、患者を隔離すればよい。霊なら、依代を探し、結びつきを断つ方法がある。
だが、今回の媒介が情報であるなら、閉じ込めるべきものは身体ではない。
言葉。記録。質問。注意の向け方。
誰かが何を聞いたか、その説明自体が次の発症者を作る可能性がある。
「病との戦いでも、霊との戦いでもない……と」
ダヴィトが尋ねた。
「少なくとも、ここから先の相手は、そのどちらでもない」
私は新しい記録用紙を引き寄せ、分類欄へ二つの単語を書いた。
《Ghost Noise》
「全員へ届いているらしい、知覚される以前の異常入力を、仮にゴーストノイズと呼ぶ」
ダヴィトが文字を目で追った。
「幽霊の音、ですか?」
「便宜上だ。霊とは限らない。そもそも音と呼んでよいものかも確定していない」
その下へ、もう一行書き加えた。
《Ghost Noise Syndrome/GNS》
「通常の音が遠のき、代わりにゴーストノイズを知覚するようになる一連の症状は、ゴーストノイズ症候群。略称はGNS。報告書上の暫定名は《異常性聴覚抑制崩壊症候群》としておく」
「原因が確定していないのに、症候群としてまとめるんですか?」
「原因が不明だからこそだ。いま確実にまとめられるのは、共通して現れている症状だけだからな」
診察室の入口から、湿った吸気が聞こえた。ニノ医師の目が上がりかける。ダヴィトの指が、記録板の縁で止まった。
私は手帳を閉じた。
この病は、細菌でも霊でもない。人が「知覚する」という行為そのものへ寄生する、認識災害。
それは、誰かの耳から耳へ伝わるものではない。世界の見え方そのものを書き換える。
音は最初から存在している。
違うのは、それを知覚してしまうことだ。
——to be the next act.




