Scene19:『三度呼んだ』
少女が立っていた場所へ、油灯を近づけた。
薄く積もった埃は、廊下の端まで途切れず続いている。裸足の輪郭も、水滴の跡もない。あれほど濡れて見えた髪から、一滴でも落ちていれば、乾いた埃の上には痕跡が残るはずだった。
私は片膝をつき、灯りを床すれすれまで下げた。炎を横から当てると、板の細かな凹凸が長い影を作る。少女が滑っていった方向にも、埃を擦った筋はなかった。
足を置かず、身体を引きずらず、あれはここから壁まで移動したことになる。私は指先で床板をなぞった。
……乾いている。匂いもない。
先ほどの湿った接触音だけが、記憶の中でやけに鮮明だった。
不意に、私の影が床へ伸びた。背後から、新しい灯りが差している。
「きゃ……!」
か細い悲鳴が上がった。私は膝をついたまま振り返った。
階段を上りきったところに、手提げ灯を掲げたサロメが立っている。黒い旅行着の胸元へ片手を当て、こちらを見下ろしている。
「……おい、何やってんだよ。暗い廊下で床に這いつくばって」
「ずいぶん可愛い悲鳴だったな。誰かと思ったぞ」
「うるせぇ」
サロメは舌打ちし、灯りを下ろした。その手には革鞄も提げられている。どこかの家から、調査を終えて戻ってきたらしい。
彼女が階段を上ってくる音を、私は聞いていなかった。
床の観察へ注意を向けすぎていたのだろう。自分の指が板を擦るわずかな音にまで意識を割いていたのだから、背後への注意が疎かになっても不思議ではない。
私は立ち上がり、白衣の膝についた埃を払った。
「ちょうどいいところへ来た」
「嫌な予感しかしねぇ言い方だな」
「お化けがいた」
サロメの眉が寄った。
「……はぁ?お化けだぁ?」
「白い衣を着た、濡れた黒髪の少女だ。初めは廊下の突き当たりに立っていた。歩行動作を伴わずに距離を縮め、その後、壁の向こうへ引き込まれた」
「待て待て。なんだ、その寝不足の子どもが話す夢みてぇな報告は」
「視覚的、聴覚的干渉はあった。しかし周囲には、物理的干渉の痕跡が一切ない」
私は足元を示した。
「つまり、キミの領分だ」
「ずいぶん雑な縄張り分けしやがるな」
文句を言いながらも、サロメは革鞄を床へ置いた。留め具を外し、中から銀片を吊るした振子と、小さな丸鏡を取り出す。白い糸を床へ張り、少女が立っていた場所を囲むように置いた。
彼女は片膝をつき、振子を床板の上へ垂らした。銀片はしばらく揺れていたが、やがて重力に従って止まった。
次に丸鏡を床へ伏せ、裏面を指の腹で二度叩く。目を閉じて待つ。鏡にも、糸にも、変化は起きなかった。
サロメは位置をずらし、同じ手順を繰り返した。少女の立っていた場所、移動した廊下、消えた壁際。さらに窓板と客室の戸へ指を当て、隙間へ銀片を差し入れる。
私はその後ろを油灯で照らした。
「音は少女の背後から始まり、左右の客室へ広がった。その後、壁を抜け、外側から屋根へ回った」
「床から壁、壁から屋根か」
サロメは漆喰へ耳を寄せた。
「その間、壁も天井も物理的には動いていない」
「見間違いは?」
「少女の位置は、背後に見える客室の戸の数で確認した。最初は二つ、その後は一つになった」
「幻覚なら、背景ごと弄られた可能性もある」
「音に伴う振動は、階段と手摺りを通じて感じた」
「それも知覚に手ぇ突っ込まれりゃ、当てにはならねぇな」
サロメは立ち上がり、白い糸を回収した。
「何か残っているかね?」
「今んところは、何も」
「つまり、何もいなかった?」
「いや」
サロメは即座に否定した。
「痕跡を残さねぇ奴もいる。残してから消すのが巧い奴もな。何も見つからねぇってだけで、何もいなかったとは言えねぇよ」
振子と鏡を鞄へ戻しながら、少女が消えた壁を顎で示す。
「壁の向こうは?」
「外だ。二階だから足場もない」
私は油灯を掲げ、壁へ近づいた。
漆喰には細いひびが走っている。窓を塞ぐ板も古いが、内側から外れた形跡はなかった。指で押しても動かない。
少女の身体は、この壁へ少しずつ沈んでいった。足首から脚が短くなり、衣の輪郭が削られ、最後に顔だけが残った。
しかし壁面には、髪一本挟まっていない。
私は灯りを横へずらし、ひびの奥を覗き込んだ。指の背で壁を叩く。返ってくるのは、内部まで詰まった鈍い音だけだった。
壁の厚みを考えれば、少女の身体が入り込む余地はない。それ以前に、物質が壁を通り抜けたなら、漆喰か内部材のどちらかへ変化が残るはずだ。
……不意に、右肩を強く掴まれた。指が白衣へ食い込み、身体がわずかに後ろへ引かれる。
振り返ると、サロメがすぐ後ろに立っていた。
「なにかね?」
彼女は答えず、私の顔を見ている。
先ほどまでの軽薄な苛立ちは消えていた。細められた目が、私の左右の耳を順に確かめる。
「どうした」
「三回呼んだ」
私は壁から手を離した。
「最初は普通に。次はちょっと声を張った。三回目は、お前のすぐ後ろで呼んだ」
……聞いていない。
これほど近くにいたなら、声だけでなく、床板を踏む音も、衣服が動く音も届いていたはずだった。
だが私の記憶には、壁を叩いた鈍い響きしか残っていない。
「観察へ集中していた」
「そうかもな」
サロメは否定しなかった。
その代わり、革鞄へ手を入れ、短い錫杖を取り出した。握りほどの柄の先に、薄い金属輪がいくつも取りつけられている。
「向こう向け」
「何をするつもりだ?」
「確かめる。目ぇ閉じろ」
私は壁へ向き直った。背後で、サロメの気配が近づく。
次の瞬間、右耳のすぐそばで金属輪が触れ合った。澄んだ音が鼓膜へ入り、頭蓋の内側へ薄く響く。
「聞こえるな」
「当然だ」
「そのまま前を向いてろ。聞こえたら言え」
衣擦れがした。足音は聞こえなかったが、彼女が後ろへ下がったのだろう。
少し間を置いて、錫杖が鳴った。今度の音は遠かった。廊下の中程で、小さな金属片が触れた。距離のせいか、音の輪郭も先ほどより薄い。
「まだ聞こえる」
返事はなかった。私は壁を向いたまま、次を待った。
サロメは、さらに距離を取っているのだろう。廊下は長い。突き当たりまで向かったのなら、戻ってくるにも少し時間がかかる。
音は続かなかった。やがて、右肩の近くから声がした。
「何回聞こえた?」
私は反射的に振り返った。サロメは、手を伸ばせば触れられる位置に戻っていた。
「二回だ」
「一回目は耳元。二回目は遠く、廊下の中程から聞こえた」
サロメの指が、錫杖の柄を握り直した。
「五回鳴らした」
言葉の意味が、すぐには繋がらなかった。
「……なんだと?」
「一歩ずつ離れながら、五回だ」
彼女は私の背後を指した。
「二回目に鳴らしたとき、あたしはお前の一歩後ろにいた」
私は廊下の奥へ目を向けた。少女が立っていた突き当たりまで、客室の戸がいくつも並んでいる。
あの距離から聞こえたと思った音が、実際には一歩後ろで鳴っていた。
それより遠くで鳴った三回は、耳へ届かなかった。
サロメがもう一度、錫杖を持ち上げた。目の前で鳴らされた金属音は聞こえた。
……だが、先ほどよりも薄い。水の底へ沈みかけているように、輪郭だけが遠かった。
サロメの唇が動く。声は、遠くから届いた。
「……お前も、もう患者側だ」
——to be the next scene.




