Scene18:『濡れ髪の女』
誰も、すぐには口を開かなかった。細長い記録紙には、何事もなかったように波形だけが並んでいる。
ニノ医師は、その線へ指を置いたまま動かない。ダヴィトも筆を止めていた。紙へ落ちたインクだけが、ゆっくり滲んでいく。
二人とも、自分の身体へ耳を澄ませている。そう気づいた途端、私も無意識に呼吸を浅くしていた。
診療所は静かだった。奥で薬液が煮え、どこかで窓枠が鳴る。
その音の下で、自分の胸や喉の奥にも、聞こえていないだけの何かが鳴っているのではないか。
判断する術はなかった。
ニノ医師が、自分の胸元へそっと手を当てる。
「……いまも、鳴っているんでしょうか」
私は記録紙へ視線を落とした。波形はある。
ニノ医師にも、ダヴィトにも、症状のない者にも、患者と同じ帯域の振動が残っている。
だが、誰にも聞こえていない。
……私にも。
「おそらく」
ニノ医師の指先が、服越しに胸をわずかに押した。
「……一つ、仮説を捨てよう」
二人が顔を上げる。
「波形は症状のない者にもある……。なら違うのは、それを音として知覚しているかどうかだ」
沈黙が落ちた。
保存した記録を音へ戻せば、何か聞き分けられる可能性はある。以前、夫婦から採取された異常振動も、ラボで再生したときには、かすかな濁りとして耳へ届いた。
だが、この診療所には再生に必要な機材がない。
紙へ刻まれた線を眺め続けても、そこから音が生えてくることはなかった。
「今夜はここまでだ」
私は患者と非発症者の記録を分け、机の端へ重ねた。
ニノ医師が何か言おうとしたが、その前に口元を手で覆った。欠伸を噛み殺したらしい。本人は隠せたつもりなのだろうが、目尻に浮かんだ涙までは隠せていない。
「キミについては、波形より先に睡眠を取得する必要があるだろう?」
「まだ診療記録の整理が残っています」
「一昨日から眠っていない医師の診療記録は、明日の医学者を不幸にするな」
「言い方が腹立たしいですね」
「内容は正しい。今夜は譲歩してくれたまえ」
ニノ医師は私を睨んだあと、机の上の紙を揃えはじめた。
「明日の朝、続きをします」
「結構」
「先生も休んでください」
「私は問題ない。該当帯域の異音を質的に分類しておく必要が……」
彼女が顔を上げた。
「先生。最後に眠ったのは、いつですか?」
どうやら、意趣返しをされているらしい。
私は返事を保留した。
ダヴィトも、記録紙を向いていた顔を上げる。
二人の視線が、静かにこちらへ揃った。
数で負けたので、今夜の調査は終了となった。
————
旅籠へ戻ったころには、村の灯りもほとんど消えていた。
私は入口の錠を開ける。鍵穴から、錆びた粉がパラパラと落ちる。戸を開けると、古い木と冷えた灰の匂いが流れてきた。
かつては旅人を迎えていた建物だが、いま使われているのは最低限の補修を施した数部屋だけである。雨漏りする箇所には板が打たれ、崩れかけた壁は厚い布で覆われている。部屋には寝台と机と、戸を閉めるための閂があった。
宿泊施設として必要なものは揃っているが、快適さについては誰も保証していない。
中に入ると、入口脇の壁にはサロメ、ダヴィト、レヴァンが使っている外套の掛け釘が並んでいる。三つとも空で、床にも彼らの靴はない。どうやら、まだ誰も戻っていないらしい。
手提げの油灯を掲げ、食堂を横切る。
伏せられた椅子。冷えた暖炉。壁際へ寄せられた長机。昼間なら、閉じた鎧戸の隙間から細い光が入るが、いまは灯りの届かない場所から順に、壁も床も同じ暗さへ沈んでいた。
……静かだ。
風が軒を撫でる音はなく、柱が鳴る軋みさえ聞こえない。
それにしても、人のいない建物はこんなに無音だっただろうか。外套も靴もなく、旅籠には私しかいない。衣擦れも、遠い床板の軋みもない。
床が、ぎぃと軋む。自分の靴底が板を押す軋みだけが、この建物の静けさを破った。
階段へ向かいかけたところで、足が止まった。
……何かが耳へ入った。
聞き取ろうとするより先に、吸いかけた息が胸の途中で止まっている。油灯の芯が燃える音だけが続いた。
私は動かず、次を待った。
食堂の時計は止まっている。風はない。建物の奥で、何かが擦れる音もしなかった。
聞き間違いかと思い、階段へ一歩近づいた。
……ぺちゃり。
二階からだった。
ぺちゃり。
足音に似ているが、靴底が板を踏んだ音ではない。濡れたものを、平たく床へ押しつけたような音だった。
私は階段の上へ灯りを向けた。橙色の光が段差を半ばまで照らし、その先で暗闇に切れている。
……次の音を待つ。
しばらく、何も聞こえない。
古い建物の軋みも、屋根裏を走る鼠の音もない。
先ほどまで自分の靴が立てていた音さえ、この建物には最初から存在しなかったように思えた。
ずる……り。
再び音がする。先程の音とは異なる。
なにか、重いものを引きずる音。しかし、家具のような硬いものではなかった。
内部まで水を満たした大きな皮袋を横倒しにし、ゆっくり引きずったなら、これに近い音がするかもしれない。
引かれたものが止まったあとも、中の液体だけが遅れて揺れた。
……それきり、また静かになった。
私は手摺りから指を離した。
「サロメか?」
声は階段を上り、二階の暗がりへ消えた。
返事はない。
名を呼んでも反応がない以上、本人確認のためには視認するしかない。
一段目へ足を乗せると、乾いた板が鳴った。二段、三段と上っても、自分の足音はいつもどおりだった。
体重が一枚の板へ乗り、次の板へ移る。先ほどの音とは違う。あれは一点を踏んだ音ではない。廊下の幅いっぱいへ、何かが身体を横たえた音だった。
階段を半ばまで上ったところで、再び聞こえた。
ぺちゃり。
少し間を置いて、
ずるり。
今度は近い。私は立ち止まり、灯りを高く掲げた。
二階の廊下が、炎の揺れに合わせて奥から現れる。左右には使われていない客室の戸が並び、突き当たりの窓には板が打たれている。
……その手前に、小さな影が立っている。
白い衣を着た少女が、こちらへ背を向けている。
濡れたような黒髪が、細い背中を覆っていた。白い裾の下には、裸足らしいものが二つ並んでいる。
私は最後の段へ足を置かず、その姿を見た。
なぜ、ここにいる?
この場所は、調査関係者の宿舎だ。鍵は閉まっていた。村の子どもが、誰もいない旅籠の二階で、暗闇へ顔を向けて立っている。
私は白衣の内側へ入れかけた手を止める。患者かもしれない。その可能性が、脳裏に浮かんだ。
夜更けに子どもが一人でここまで来たのなら、本人か家族の誰かに例の症状が現れた可能性がある。あるいは、今回の件とは無関係な病気や怪我の急患か。
私は階段を上りながら、少女の身体へ視線を走らせた。
目立った出血はない。立っていられないほど衰弱している様子もない。衣服の乱れもなく、暴行の痕跡は確認できなかった。
「どうした。具合が悪いのか?」
少女は振り向かなかった。
「君自身か。それとも、家族の誰かに何かあったのか?」
反応はない。症状が出ているなら、聞こえていない可能性がある。
私は声を少し強めた。
「怪我人がいるなら、場所を教えたまえ。歩けないなら、こちらから向かう」
少女の肩は動かなかった。息を切らしている様子もない。
私は最後の段へ足を置く前に、もう一度その横顔を確かめようとした。
黒髪に隠れ、横顔は見えない。足元へ灯りを下げると、白い裾の下に裸足が並んでいた。廊下には薄く埃が積もっているが、足の周囲に跡はない。濡れて見える髪からも、水滴は落ちていなかった。
この数日、診療所へ来た村人と、その家族には可能な限り目を通している。少なくとも、見覚えのある少女ではなかった。
村の外から来た?
しかし封鎖後、この村へ入った人間は把握されているはずだ。
ぺちゃり。
少女の足は動いていない。
それでも、先ほどより近くにいた。
突き当たりの窓と少女の間には、最初、客室の戸が二つ見えていたはずだった。いまは一つしかない。
歩くところを見落としたのか。灯りの炎が揺れた時間は一瞬だった。その間に数歩進んだのなら、髪か衣の裾に動きが残る。
だが、どちらも垂れたままだった。
私は灯りを床へ下げた。埃の薄く積もった板が、奥まで続いている。
足跡はない。水滴もない。何かを引きずった跡もなかった。
音だけが濡れている。
ずる……り。
少女の背後から聞こえた。
引きずる音は、そこで止まらなかった。
私の右手が白衣の内側へ入った。意識して選んだ動作ではなかった。指先が携帯の護身器具へ触れてから、自分が構えようとしていることに気づく。
「そこで止まりたまえ」
少女は動かなかった。だが、顔はこちらを向いていた。
振り返る過程を見ていない。黒髪の隙間から、白い顔が覗いている。
年若く見えた。頬も、鼻も、唇も、人間の少女と変わらない。
ただ、その口元には微笑みがあった。
ぺちゃり。
音は少女の足元ではなく、廊下の右側から鳴った。続いて、左側。
ぺちゃり。
別々の何かが、同時に床へ触れている。
ぺちゃり。
少し奥で。
ぺちゃり。
今度は、私の近くで。そして、その間を埋めるように、巨大な皮袋を引く音が続いた。
ずるり。
水を抱えた重みが、遅れてこちら側へ寄ってくる音。
しかし、そんな音を立てるような物体は、少なくとも油灯の照らす範囲には見えない。
見えているのは、少女ひとりだった。
細い身体。二本の腕。二本の脚と、その先の素足。
少女一人にしては、重すぎる。
見えている姿と、聞こえている姿が噛み合っていない。
私は一歩退いた。
視線だけを少女の背後に向ける。そこにはやはり何もない……。
少女へ目を戻した。白い顔は、先ほどと変わらない微笑みを浮かべていた。
その表情を見定めようとした瞬間……。
ずるるっっっ!!
濡れた大きな面が床板へ吸いつき、空気を噛みながら一息に引かれる。遅れて、たっぷりと水を含んだものが内部で片側へ崩れる音がした。
少女が遠ざかった。足は床についたままだった。
爪先の向きも、膝の角度も変わらない。
それなのに、白い裸足だけが床板の上を滑り、細い身体が廊下の奥へ運ばれていく。
足裏が板の節へ引っかかり、一度だけ指が反った。それでも身体は止まらず、関節へ力が伝わる様子もないまま、引かれた分だけ同じ姿勢で後退した。
黒髪だけが、その動きから取り残された。
私は護身器具を引き抜きながら踏み出した。
「待てッ……!」
声をかけても、微笑みは崩れなかった。
このまま壁へぶつかる。そう思ったが、振り返りも身を縮めもせず、そのまま引かれていく。
裸足が暗がりの中へ沈み、脚が足首から順に短くなる。白い衣の輪郭が壁際で細く削られ、奥へ引き込まれていく。
最後まで残った顔は、まだこちらを向いていた。黒髪の間から、白い頬と微笑みだけが覗いている。
ずるっ、と音がもう一度強く引いた。
顔が壁に吸い込まれる。姿が見えなくなっても、引きずる音は続いていた。
……壁の裏側を、重いものが登っていくような音。
少女一人が動いた音ではない。もっと広く、もっと重い何かが、建物の外側へ身体を擦りつけている。
私は壁へ灯りを向けた。ひび割れた漆喰と、塞がれた窓板しか見えない。
……ぺちゃり、と目の高さで鳴った。次は、その少し上。
見えない何かが、外壁へ濡れたものを押しつけながら登っている。
私は音を追って顔を上げた。
ぺちゃり。
天井近くへ移る。そこへ、先ほどの重い引きずりが続いた。
ずる……り。
音は天井の縁を越え、そのまま屋根の上へ回り込んでいく。
私は階段の方へ半歩退いた。屋根の上で、濡れた接触音が鳴る。
一つ。間を置かず、離れた場所でもう一つ。その間を、重いものが引きずられていった。
音は旅籠の端から端へ移り、やがて私の真上で止まった。
天井板が軋むことはない。埃も落ちてこない。それでも、頭上には確かに重量があった。
私は灯りを掲げたまま、息を止めていた。静けさが戻る。何も見えない天井を見上げ、次の音を待った。
ぺちゃり。
真上で鳴った。続いて、天井いっぱいに、ゆっくりと息を吸い込む音が広がった。
ぺちゃり。
ずるり。
最後の音は、建物の向こう側へ抜けた……。
それきり、旅籠は元の無音へ戻った。床にも、壁にも、屋根にも、跡はない。音だけが通り過ぎた。そのはずなのに、私はしばらく呼吸を再開できなかった。
——to be the next scene.




