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Ghost Noise 〜耳底に沈む音〜  作者: 矢崎 那央
第2幕『気づいた者から』
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19/27

Scene18:『濡れ髪の女』


 誰も、すぐには口を開かなかった。細長い記録紙には、何事もなかったように波形だけが並んでいる。


 ニノ医師は、その線へ指を置いたまま動かない。ダヴィトも筆を止めていた。紙へ落ちたインクだけが、ゆっくり滲んでいく。

 二人とも、自分の身体へ耳を澄ませている。そう気づいた途端、私も無意識に呼吸を浅くしていた。


 診療所は静かだった。奥で薬液が煮え、どこかで窓枠が鳴る。

 その音の下で、自分の胸や喉の奥にも、聞こえていないだけの何かが鳴っているのではないか。

 判断する術はなかった。


 ニノ医師が、自分の胸元へそっと手を当てる。


 「……いまも、鳴っているんでしょうか」


 私は記録紙へ視線を落とした。波形はある。

 ニノ医師にも、ダヴィトにも、症状のない者にも、患者と同じ帯域の振動が残っている。

 だが、誰にも聞こえていない。


 ……私にも。


 「おそらく」


 ニノ医師の指先が、服越しに胸をわずかに押した。


 「……一つ、仮説を捨てよう」


 二人が顔を上げる。


 「波形は症状のない者にもある……。なら違うのは、それを音として知覚しているかどうかだ」


 沈黙が落ちた。


 保存した記録を音へ戻せば、何か聞き分けられる可能性はある。以前、夫婦から採取された異常振動も、ラボで再生したときには、かすかな濁りとして耳へ届いた。


 だが、この診療所には再生に必要な機材がない。

 紙へ刻まれた線を眺め続けても、そこから音が生えてくることはなかった。


 「今夜はここまでだ」


 私は患者と非発症者の記録を分け、机の端へ重ねた。

 ニノ医師が何か言おうとしたが、その前に口元を手で覆った。欠伸を噛み殺したらしい。本人は隠せたつもりなのだろうが、目尻に浮かんだ涙までは隠せていない。


 「キミについては、波形より先に睡眠を取得する必要があるだろう?」


 「まだ診療記録の整理が残っています」


 「一昨日から眠っていない医師の診療記録は、明日の医学者を不幸にするな」


 「言い方が腹立たしいですね」


 「内容は正しい。今夜は譲歩してくれたまえ」


 ニノ医師は私を睨んだあと、机の上の紙を揃えはじめた。


 「明日の朝、続きをします」


 「結構」


 「先生も休んでください」


 「私は問題ない。該当帯域の異音を質的に分類しておく必要が……」


 彼女が顔を上げた。


 「先生。最後に眠ったのは、いつですか?」


 どうやら、意趣返しをされているらしい。


 私は返事を保留した。

 ダヴィトも、記録紙を向いていた顔を上げる。

 二人の視線が、静かにこちらへ揃った。


 数で負けたので、今夜の調査は終了となった。


————


 旅籠へ戻ったころには、村の灯りもほとんど消えていた。


  私は入口の錠を開ける。鍵穴から、錆びた粉がパラパラと落ちる。戸を開けると、古い木と冷えた灰の匂いが流れてきた。

 かつては旅人を迎えていた建物だが、いま使われているのは最低限の補修を施した数部屋だけである。雨漏りする箇所には板が打たれ、崩れかけた壁は厚い布で覆われている。部屋には寝台と机と、戸を閉めるための閂があった。

 宿泊施設として必要なものは揃っているが、快適さについては誰も保証していない。


 中に入ると、入口脇の壁にはサロメ、ダヴィト、レヴァンが使っている外套の掛け釘が並んでいる。三つとも空で、床にも彼らの靴はない。どうやら、まだ誰も戻っていないらしい。


 手提げの油灯を掲げ、食堂を横切る。

 伏せられた椅子。冷えた暖炉。壁際へ寄せられた長机。昼間なら、閉じた鎧戸の隙間から細い光が入るが、いまは灯りの届かない場所から順に、壁も床も同じ暗さへ沈んでいた。


 ……静かだ。


 風が軒を撫でる音はなく、柱が鳴る軋みさえ聞こえない。

 それにしても、人のいない建物はこんなに無音だっただろうか。外套も靴もなく、旅籠には私しかいない。衣擦れも、遠い床板の軋みもない。

 床が、ぎぃと軋む。自分の靴底が板を押す軋みだけが、この建物の静けさを破った。


 階段へ向かいかけたところで、足が止まった。


 ……何かが耳へ入った。


 聞き取ろうとするより先に、吸いかけた息が胸の途中で止まっている。油灯の芯が燃える音だけが続いた。


 私は動かず、次を待った。

 食堂の時計は止まっている。風はない。建物の奥で、何かが擦れる音もしなかった。


 聞き間違いかと思い、階段へ一歩近づいた。



 ……ぺちゃり。



 二階からだった。



 ぺちゃり。


 

 足音に似ているが、靴底が板を踏んだ音ではない。濡れたものを、平たく床へ押しつけたような音だった。

 私は階段の上へ灯りを向けた。橙色の光が段差を半ばまで照らし、その先で暗闇に切れている。


 ……次の音を待つ。


 しばらく、何も聞こえない。

 古い建物の軋みも、屋根裏を走る鼠の音もない。

 先ほどまで自分の靴が立てていた音さえ、この建物には最初から存在しなかったように思えた。



 ずる……り。



 再び音がする。先程の音とは異なる。

 なにか、重いものを引きずる音。しかし、家具のような硬いものではなかった。

 内部まで水を満たした大きな皮袋を横倒しにし、ゆっくり引きずったなら、これに近い音がするかもしれない。


 引かれたものが止まったあとも、中の液体だけが遅れて揺れた。

 

 ……それきり、また静かになった。


 私は手摺りから指を離した。


 「サロメか?」


 声は階段を上り、二階の暗がりへ消えた。

 返事はない。

 名を呼んでも反応がない以上、本人確認のためには視認するしかない。


 一段目へ足を乗せると、乾いた板が鳴った。二段、三段と上っても、自分の足音はいつもどおりだった。

 体重が一枚の板へ乗り、次の板へ移る。先ほどの音とは違う。あれは一点を踏んだ音ではない。廊下の幅いっぱいへ、何かが身体を横たえた音だった。


 階段を半ばまで上ったところで、再び聞こえた。



 ぺちゃり。



 少し間を置いて、



 ずるり。



 今度は近い。私は立ち止まり、灯りを高く掲げた。

 二階の廊下が、炎の揺れに合わせて奥から現れる。左右には使われていない客室の戸が並び、突き当たりの窓には板が打たれている。


 ……その手前に、小さな影が立っている。


 白い衣を着た少女が、こちらへ背を向けている。

 濡れたような黒髪が、細い背中を覆っていた。白い裾の下には、裸足らしいものが二つ並んでいる。


 私は最後の段へ足を置かず、その姿を見た。


 なぜ、ここにいる?


 この場所は、調査関係者の宿舎だ。鍵は閉まっていた。村の子どもが、誰もいない旅籠の二階で、暗闇へ顔を向けて立っている。

 

 私は白衣の内側へ入れかけた手を止める。患者かもしれない。その可能性が、脳裏に浮かんだ。

 夜更けに子どもが一人でここまで来たのなら、本人か家族の誰かに例の症状が現れた可能性がある。あるいは、今回の件とは無関係な病気や怪我の急患か。


 私は階段を上りながら、少女の身体へ視線を走らせた。

 目立った出血はない。立っていられないほど衰弱している様子もない。衣服の乱れもなく、暴行の痕跡は確認できなかった。


 「どうした。具合が悪いのか?」


 少女は振り向かなかった。


 「君自身か。それとも、家族の誰かに何かあったのか?」


 反応はない。症状が出ているなら、聞こえていない可能性がある。


 私は声を少し強めた。


 「怪我人がいるなら、場所を教えたまえ。歩けないなら、こちらから向かう」


 少女の肩は動かなかった。息を切らしている様子もない。


 私は最後の段へ足を置く前に、もう一度その横顔を確かめようとした。

 黒髪に隠れ、横顔は見えない。足元へ灯りを下げると、白い裾の下に裸足が並んでいた。廊下には薄く埃が積もっているが、足の周囲に跡はない。濡れて見える髪からも、水滴は落ちていなかった。


 この数日、診療所へ来た村人と、その家族には可能な限り目を通している。少なくとも、見覚えのある少女ではなかった。


 村の外から来た?

 しかし封鎖後、この村へ入った人間は把握されているはずだ。


 

 ぺちゃり。

 


 少女の足は動いていない。

 それでも、先ほどより近くにいた。


 突き当たりの窓と少女の間には、最初、客室の戸が二つ見えていたはずだった。いまは一つしかない。

 歩くところを見落としたのか。灯りの炎が揺れた時間は一瞬だった。その間に数歩進んだのなら、髪か衣の裾に動きが残る。

 だが、どちらも垂れたままだった。


 私は灯りを床へ下げた。埃の薄く積もった板が、奥まで続いている。


 足跡はない。水滴もない。何かを引きずった跡もなかった。

 音だけが濡れている。



 ずる……り。



 少女の背後から聞こえた。

 引きずる音は、そこで止まらなかった。


 私の右手が白衣の内側へ入った。意識して選んだ動作ではなかった。指先が携帯の護身器具へ触れてから、自分が構えようとしていることに気づく。


 「そこで止まりたまえ」


 少女は動かなかった。だが、顔はこちらを向いていた。

 振り返る過程を見ていない。黒髪の隙間から、白い顔が覗いている。

 年若く見えた。頬も、鼻も、唇も、人間の少女と変わらない。


 ただ、その口元には微笑みがあった。


 ぺちゃり。


 音は少女の足元ではなく、廊下の右側から鳴った。続いて、左側。


 ぺちゃり。

 

 別々の何かが、同時に床へ触れている。


 ぺちゃり。


 少し奥で。


 ぺちゃり。


 今度は、私の近くで。そして、その間を埋めるように、巨大な皮袋を引く音が続いた。



 ずるり。



 水を抱えた重みが、遅れてこちら側へ寄ってくる音。

 しかし、そんな音を立てるような物体は、少なくとも油灯の照らす範囲には見えない。


 見えているのは、少女ひとりだった。

 細い身体。二本の腕。二本の脚と、その先の素足。


 少女一人にしては、重すぎる。

 見えている姿と、聞こえている姿が噛み合っていない。


 私は一歩退いた。

 視線だけを少女の背後に向ける。そこにはやはり何もない……。


 少女へ目を戻した。白い顔は、先ほどと変わらない微笑みを浮かべていた。

 その表情を見定めようとした瞬間……。


 ずるるっっっ!!


 濡れた大きな面が床板へ吸いつき、空気を噛みながら一息に引かれる。遅れて、たっぷりと水を含んだものが内部で片側へ崩れる音がした。


 少女が遠ざかった。足は床についたままだった。

 爪先の向きも、膝の角度も変わらない。

 それなのに、白い裸足だけが床板の上を滑り、細い身体が廊下の奥へ運ばれていく。


 足裏が板の節へ引っかかり、一度だけ指が反った。それでも身体は止まらず、関節へ力が伝わる様子もないまま、引かれた分だけ同じ姿勢で後退した。

 黒髪だけが、その動きから取り残された。


 私は護身器具を引き抜きながら踏み出した。


 「待てッ……!」


 声をかけても、微笑みは崩れなかった。

 このまま壁へぶつかる。そう思ったが、振り返りも身を縮めもせず、そのまま引かれていく。

 裸足が暗がりの中へ沈み、脚が足首から順に短くなる。白い衣の輪郭が壁際で細く削られ、奥へ引き込まれていく。

 最後まで残った顔は、まだこちらを向いていた。黒髪の間から、白い頬と微笑みだけが覗いている。


 ずるっ、と音がもう一度強く引いた。


 顔が壁に吸い込まれる。姿が見えなくなっても、引きずる音は続いていた。


 ……壁の裏側を、重いものが登っていくような音。

 少女一人が動いた音ではない。もっと広く、もっと重い何かが、建物の外側へ身体を擦りつけている。


 私は壁へ灯りを向けた。ひび割れた漆喰と、塞がれた窓板しか見えない。


 ……ぺちゃり、と目の高さで鳴った。次は、その少し上。

 見えない何かが、外壁へ濡れたものを押しつけながら登っている。


 私は音を追って顔を上げた。


 ぺちゃり。


 天井近くへ移る。そこへ、先ほどの重い引きずりが続いた。


 ずる……り。


 音は天井の縁を越え、そのまま屋根の上へ回り込んでいく。

 私は階段の方へ半歩退いた。屋根の上で、濡れた接触音が鳴る。

 一つ。間を置かず、離れた場所でもう一つ。その間を、重いものが引きずられていった。

 音は旅籠の端から端へ移り、やがて私の真上で止まった。


 天井板が軋むことはない。埃も落ちてこない。それでも、頭上には確かに重量があった。

 私は灯りを掲げたまま、息を止めていた。静けさが戻る。何も見えない天井を見上げ、次の音を待った。


 ぺちゃり。


 真上で鳴った。続いて、天井いっぱいに、ゆっくりと息を吸い込む音が広がった。


 ぺちゃり。


 ずるり。


 最後の音は、建物の向こう側へ抜けた……。


 それきり、旅籠は元の無音へ戻った。床にも、壁にも、屋根にも、跡はない。音だけが通り過ぎた。そのはずなのに、私はしばらく呼吸を再開できなかった。



——to be the next scene.

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