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Ghost Noise 〜耳底に沈む音〜  作者: 矢崎 那央
第2幕『気づいた者から』
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18/24

Scene17:『聞こえない者の波形』


 診療所の奥にある机を、古い報告書が端から端まで埋めていた。

 いちばん上の冊子に記された日付は、この村で最初の症状が報告されてから数日後。私が呼ばれた、およそ六週間前である。


 「我々も、何もしてこなかったわけではありません」


 ダヴィトの声に、わずかな硬さがあった。

 責めたつもりはなかったが、資料の再整理をしたいと頼んだ際に、そう聞こえる問い方をしたのかもしれない。


 「そのようだな。資料の量だけを見れば、すでに事件は三度ほど解決していてもよさそうだ」


 「解決していないから、全部残してあるんです」


 「なるほど。敗北の全集か」


 ニノ医師が顔を上げた。

 ダヴィトも、資料へ日付を書き込んでいた筆を止めた。

 ……どうやら私は、冗談と皮肉の調合比率を誤ったらしい。今回は皮肉が九割八分ほどを占めていた。


 私は咳払いをし、手元の冊子を開いた。


 「訂正しよう。答えへ届かなかった記録は、敗北ではない。後から来た者が同じ道で迷わないための標識だ」


 ニノ医師はしばらく私を見てから、再び資料へ視線を落とした。


 「最初から、そう言ってください」


 「次からは善処する」


 「次からではなく、今日からお願いします」


 ふむ、手厳しい。


 私は最初の報告書へ目を通した。

 症状が広がり始めた直後、村へ呼ばれたのは医学者だった。耳と神経を診察し、通常の難聴や既知の感染症を疑ったが、決定的な器質異常は見つけられなかった。


 次に入った疫学者は、家族関係、食事、水源、職業、行動歴を調べている。発症者の名前を結ぶ線が何度も引き直され、ある頁では一つの家族へ集まり、次の頁では家同士の間で途切れていた。

 同じ家に暮らしながら、一人だけ症状を訴えていない者がいる。ほとんど接点のない二つの家から、同じ日に患者が出た例もある。

 人から人へ移ったように見える事例と、それでは説明できない事例が、同じ冊子の中に並んでいた。


 「この時点では、感染するものとは考えていなかったのだな」


 私が尋ねると、ダヴィトが疫学者の補足記録を引き寄せた。


 「可能性には挙げられています。ただ、村の外へ広がった例がありませんでした」


 彼は頁を押さえ、交流記録の欄を示した。


 「発症が始まってからも、商人や親族は村へ出入りしています。症状のある住民と接触した者もいましたが、帰還後の発症は確認されていません」


 「患者数の増え方も、今ほど急ではありませんでした」


 ニノ医師が続けた。


 「症状を訴えても、数日で落ち着く人がいたんです。耳や家の床を傷つけるほど悪化する人も、ほとんどいませんでした」


 今回、医療院へ移送された夫婦と接触した職員が、村の外で発症した。

 それまで村の中だけで曖昧に続いていたものが、初めて外へ出たように見えた。だから感染が疑われ、村は封鎖された。


 だが、現在の事実をそのまま過去へ当てはめることはできない。病の性質が変化したのか、発症に必要な条件が揃っていなかったのか、それとも感染という見方そのものが間違っているのか。現状では、まだ分けられない。


 私は次の報告書を開いた。

 地質学者は、地下水、土壌、天然ガス、鉱毒を調べていた。廃坑にも入った形跡がある。採取地点は細かく記録され、発症した家屋の位置と何度も照合されている。

 異常値は見つかっていた。ただし、どれも土地の範囲内に収まる程度であり、患者の分布とも一致しない。発症者が増えた時期にだけ変化した物質もなかった。


 民俗学者の報告には、《死者の声を聞く》《祖霊が家へ戻る》という伝承が集められていた。

 夜中に亡くした家族の声を聞いた者。誰もいない道で、背後から名前を呼ばれた者。現象だけを抜き出せば、今回の症状と重なる。

 しかし、同じ時期に村人が次々と聴覚を失った記録はない。声を聞いた者が耳や家屋を傷つけたという話も残されていなかった。

 似ている部分はある。

 だが、似ている部分だけをつないでも、同じ現象にはならない。


 医学者は身体を調べ、疫学者は人のつながりを追い、地質学者は土地を掘り、民俗学者は過去の声を集めた。それぞれが事件の一部へ触れているように見えながら、どの記録も他の記録とは結びついていなかった。


 私は最後の冊子を閉じた。

 乾いた紙の音が、しばらく部屋に残った。


 「この者たちの、その後は?」


 ダヴィトはすぐに返事をせず、机の端に積んでいた薄い綴りを取った。

 所属先からの回答、医療記録の照会結果、本人への追跡質問が、調査者ごとに整理されている。


 「全員、帰還後も経過を確認されています」


 ダヴィトの指が、一人ずつ名前を追った。


 「発症報告はありません。医学者、疫学者、地質学者、民俗学者。それぞれの助手も含めて、今回の病に該当する症状は出ていません」


 「患者を直接診察した医学者もか」


 「はい。診療所に滞在し、発症者の家にも入っています」


 過去の調査者たちは、この村で患者と話し、身体へ触れ、家屋や水源を調べていた。それでも発症しなかった。

 医療院の職員たちとは違う。


 私は椅子の背へ身体を預けた。何が違ったのか考えようとしたが、比較するための条件が揃っていない。接触時間、患者の重症度、会話の内容、発症者が聞いていた異音の状態。過去の記録には、そこまで残されていなかった。


 調査者が無事だったという事実は、感染を否定しない。ただし、この村へ入り、患者へ触れれば発症するという単純な病ではないことだけは分かる。


 私は前任の医学者が残した診療簿を開いた。


 《心音正常。呼吸音に左右差なし。副雑音を認めず》


 数日前、ラボで解析した患者の記録と同じ所見だった。

 保存媒体には、心音や呼吸音の下へ、分類できない低い振動が残っている。だが、前任の医学者はそれを診察所見として記録していなかった。


 ……私自身も同じだ。


 患者を診察したとき、その振動は私の耳にも入っていたはずだ。事実、保存記録から位置を特定したあとで再生すれば、心音の下にある低い濁りを聞き分けられる。

 にもかかわらず、診察時の記憶には残っていない。


 私はそれを選択的聴取による見落としとして処理した。

 心音の周期や呼吸の左右差へ注意を向けていたため、診断に不要な刺激が意識へ上る前に除かれた。臨床では珍しいことではない。医師は、鼓膜へ届いたすべての振動を診察所見として記憶するわけではない。


 説明としては、成立している。

 ただ、前任者と私が、同じ音を同じように聞き落としていたという点だけが、わずかに引っかかった。


 答えのない問いへ意識が沈みかけたところで、隣の机から紙を擦る音がした。


 「過去の資料は、以上ですか」


 「医学、民俗、疫学、地質についてはな。どの報告も、少なくとも調べるべき場所は調べている」


 ニノ医師は私の隣に椅子を寄せた。机の上に開かれた診療簿へ目を落としたあと、手元の記録を表へ返した。


 「では先生。こちらを見てください」


 私は彼女の方へ椅子を寄せた。


 「比較用に採取した非発症者の記録です。測定自体は、先日の打ち合わせで共有した手順どおりに行いました」


 ニノ医師は十五名分の問診票を右手に残し、別の紙を机の中央へ置いた。


 「昨日までに採取した分の差分波形を出しました」


 細長い方眼紙の上を、複数の線が走っていた。

 心音が一定の間隔で山を作り、その間を呼吸による緩やかな揺れが流れている。形式は患者の資料と同じだが、印刷されたものではない。

 線の一部が微かに震え、鉛筆の濃さにもわずかなむらがある。


 私は紙の端を持ち上げた。


 「これは……外向き参照膜との差分か?」


 「はい。室内音、床から伝わった振動、衣擦れ、器具への接触は、可能な範囲で分離しました」


 ニノ医師は当然のことを報告するように答えた。


 ……解析手順に問題はない。


 問題は、差分解析に必要な装置が、この診療所には存在しないことである。

 ラボであれば、二つの記録を端末へ読み込み、時刻を合わせて共通成分を差し引けばよい。だが、村が封鎖されてから新しい解析機材は持ち込めていない。

 机の下を覗いても、昨日まで存在しなかった計算機が生えている様子はなかった。


 「これは、どこで処理した?」


 「ここです」


 「ここには必要な装置がないはずだが」


 ニノ医師は何を確認されているのか分からないという顔で、机の端に積まれていた診療簿をずらした。


 その陰から、金属製のパントグラフが現れた。

 接合部には、固定位置を何度も変えた細かな傷が走っている。二本の腕の先には、長さの違う鉛筆と針が取りつけられていた。

 その横には、薄葉紙、定規、包帯の木軸、空になった薬瓶が並んでいる。


 「パントグラフです」


 「それは見れば分かる」


 「では、何が分からないんですか?」


 「これで、どうやって差分波形を作った?」


 ニノ医師は外向き参照膜の記録を一枚取り出した。


 「まず二つの波形を、パントグラフで同じ振幅へ拡大します。外向きの記録は薄葉紙へ反転して写し、時刻線を合わせて身体側の記録へ重ねました」


 彼女は紙を二枚重ね、端の基準線を揃えた。


 「共通している部分を消し込み、残った成分だけを別紙へ移しています。ずれが出たものは、測定時の記録へ戻ってやり直しました」


 私はパントグラフへ目を戻した。

 ダヴィトも鉛筆を持ったまま、器具と波形を交互に見ている。


 「……手で?」


 「はい。機材がありませんから」


 私は自分が、口を半開きにして器具を見つめていたことに気づいた。

 科学者として、あまり褒められた顔ではない。


 ……いや、違う。

 私が悪いのではない。目の前の現実がおかしいのである。


 ……これは、なるほど。


 創作の世界では、周囲を驚かせるのは"転生した中年のおっさんが持つチート能力"である。

 しかし現実は違う。周囲を震撼させるのは、往々にして"現場のおばちゃん"だ。


 設備がない。予算もない。人手もない。だが、なぜか期限だけは存在する。そういう現実の理不尽を、気合と集中力と熟練のテクニックで黙らせる。

 倉庫から用途不明の器具を掘り出し、壊れた道具を別の道具の部品で直し、誰も教えていない手順を編み出して、翌朝には完成品を机へ置く。


 我々は彼女たちを現場のチート能力者と呼んでいる。


 「何か問題がありましたか?」


 ニノ医師は、私たちの沈黙を不思議そうに見返す。その顔には、実に見覚えのある種類の無自覚さがあった。

 圧倒的な成果を前にして周囲が言葉を失っているのに、本人だけが、『何を困惑しているのかわからない』とでも言いたげにこちらを見ている。


 いわゆる、『またオレ何かやっちゃいました?』の顔である。


 「作業には、どれくらいかかった?」


 「昨日の診療が終わってから、今日の昼までです」


 「十五人分を?」


 「最初の二人で手順を決めたので、あとは同じです」


 同じであることと、短時間で終わることは同義ではない。私は思わず、白衣の内ポケットから問診用紙を取り出しかけた。

 ニノ医師は、それを見るなり椅子ごと半歩下がった。


 「私の診察はあとにしてください」


 「最後に寝たのはいつだ」


 「一昨日です」


 「何時間?」


 「細かいことを気にすると、研究は進みません」


 「睡眠時間を細かいことへ分類した時点で、医師としてはかなり危険な領域にいるぞ」


 「判断力が残っているうちに作りました」


 「判断力が低下している者ほど、自分の判断力を高く評価する傾向がある」


 「波形を見てください」


 ……強い。


 「分かった。先に波形を見る」


 「最初から、そうお願いしています」


 声に、先ほどより明確な棘があった。

 ダヴィトが顔を伏せた。笑ったのではない。咳を堪えただけだ。


 ……たぶん。


 私は一枚目の記録を患者群の資料の隣へ置いた。

 未発症者の記録が対照として機能するなら、患者で確認された低い帯域には、何も残らないはずだった。

 もちろん、人体が無音になるわけではない。心拍、血流、筋肉、気道、消化管。身体は、外から見えるほど静かな構造ではない。だが、患者の記録で繰り返し現れた帯域に、心拍や呼吸へ分類できない振動が残らなければ、それを発症者に固有の所見として扱える。


 私は患者側へ印をつけた範囲を確認し、未発症者の波形へ視線を戻した。


 ……最初は、鉛筆の濃淡だと思った。

 心音の裾に、細い影が伸びている。患者のものほど濃くなく、途中で切れ、別の線に紛れていた。

 パントグラフを動かした際のずれかもしれない。手作業なら、紙の伸縮や固定位置の誤差が入る。


 私は影の始まりへ指を置いた。心拍の山とは同期していない。呼吸の傾斜からも外れている。


 「処理前の記録を」


 ニノ医師は、処理前の記録を机へ広げた。

 私は紙を一枚めくる。

 今度は差分波形ではなく、処理前の二枚をそのまま並べた。時刻線だけを揃え、身体側の影が現れる位置へ視線を落とす。

 身体側の記録には低い振動が残っている。同じ時刻の外向き参照膜は、何も記録していなかった。


 「この波形が見えたのは、一人だけか?」


 ニノ医師は答える代わりに、伏せていた紙を表へ返した。

 二枚目の記録にも、同じ帯域へ短い影があった。三枚目では心音の下へ沈み、別の一枚では呼気の終わりと重なっている。形は同じではない。測定し同士の記録も、身体を通ったあとの波形はそれぞれ異なっていた。

 それでも、どの記録にも、心拍、呼吸、体動、外部音のいずれにも分けられない成分が残っていた。


 ダヴィトが一枚を取り、上部に記された番号を追った。


 「器具の雑音ではないのですか?」


 彼は隣の記録から装置番号を拾い、二つを見比べた。


 「いえ、こちらは別の器具です」


 ニノ医師が測定表を開いた。


 「私も初め、雑音を疑いました。なので、聴診盤を替えて三回測っています。心拍と呼吸の形は変わりましたが、三回とも同じ帯域に振動が残りました」


 ダヴィトは別の記録を選び、測定時刻と校正欄を確認した。


 「こちらも、途中で器具を替えているんですか?」


 「ええ。その人は一度目に咳が入ったので、最初から測り直しました」


 二人は自分たちの記録を照合し、機器、時刻、測定条件の違いを確認していく。私は書類を交互に滑らせながら、その会話を聞いていた。

 除外できる原因が、一つずつ消えていった。

 問診票の上では、患者と未発症者は明確に分かれている。片方は、人の声が遠くなり、獣の唸りや湿った呼吸を聞いている。もう片方は日常の音を日常のまま聞き、診察を受ける理由すら持たない。

 その境界をまたぐように、同じ低い帯域へ振動が残っていた。


 私は問診結果へ視線を移した。


 《関連症状なし》


 その下の記録にも、同じ言葉が書かれている。


 「測定した者たちは、本当に何も訴えていないのか」


 ニノ医師の指が、問診票の上で止まった。記録を忘れたわけではない。私が何を疑い始めたのかを、言葉にする前に測っているような間だった。


 「はい。現在まで、今回の病に該当する症状はありません」


 「会話が遠く感じることも?」


 「ありません」


 「唸りや呼吸音も」


 「聞いていません」


 その言葉が、紙の上にある振動と噛み合わなかった。患者にあるから、病変が生じさせた音だと考えた。

 《身体のどこかで未知の振動が発生し、それを内耳が拾っている》

 《精密検査で発生源を特定すれば、症状の原因へ届く可能性がある》

 その仮説の出発点にあったものが、症状のない者の身体にも存在している。


 私は患者側と未発症者側の資料を入れ替えた。場所を変えても、線の位置は変わらなかった。


 ……誰も頁をめくらなかった。


 窓の外で荷車が石畳の継ぎ目を越え、車輪の音が一度だけ大きくなった。


 三人の視線が、ほぼ同時に窓へ向いた。

 荷車だと分かる。どこから聞こえ、何によって生じた音なのか、迷う余地はなかった。

 車輪の音が遠ざかるのを待ってから、ニノ医師が測定器を引き寄せた。


 「今、この場で確かめましょう」


 彼女は自分の襟元を大きく開き、測定用の端子を自分の胸と耳の後ろへ取りつけた。


 「躊躇いがないな。君が測られる側になるのか」


 「症状がなく、直前まで診療所の中にいた者が必要です。私がいちばん条件に合います」


 「医師というものは、自分を実験台にする判断だけは妙に早い」


 「狂気の科学者マッドサイエンティストにだけは言われたくありませんね」


 反論の余地はなかった。


 私は測定器のつまみを回した。紙がゆっくり送り出され、心拍の山が刻まれる。その間へ呼吸の傾斜が重なった。


 数十秒が過ぎた。ニノ医師は動かない。


 窓の外から入る音は、外向き参照膜にも記録されている。室内の椅子が軋めば、二つの膜へ同時に線が走る。

 それらを目で追いながら、低い帯域が空白のままであることを確かめる。


 ……何も出ない。


 そう思い始めたころ、心音の下へ細い揺れが現れた。患者の記録で見つけたものと同じ帯域だ。

 私は紙を止めず、外向き参照膜の線を確認した。対応する振動はない。

 ニノ医師の呼吸が一度だけ浅くなった。だが、彼女は測定が終わるまで口を開かなかった。


 紙が止まると、ダヴィトが椅子から立った。


 「次は私を測ってください」


 彼は自分で端子を受け取り、胸元へ固定した。耳の後ろへ取りつける位置だけをニノ医師に確認し、測定台の前へ座る。


 「症状は?」


 私が尋ねると、ダヴィトは首を横に振った。


 「ありません。少なくとも、自覚している範囲では」


 その言葉を聞き、ニノ医師が一瞬だけ彼を見た。私は二人目の測定を始めた。

 ダヴィトの心拍は、ニノ医師よりわずかに遅かった。呼吸も深く、紙へ刻まれる線の形はまるで違う。

 それでも、しばらくすると、心音にも呼吸にも属さない細い振動が現れた。


 ……患者の記録と同じ低い帯域だった。


 測定が終わっても、ニノ医師はすぐに端子を外さなかった。彼女は自分の記録とダヴィトの記録を机へ並べ、患者群の資料をその横へ置いた。

 異なる心拍。異なる呼吸。異なる身体を通ったため、波形の形も揃っていない。

 だが、分類できない振動だけが、同じ低い範囲へ沈んでいる。


 「……あります」


 ニノ医師が呟いた。

 少なくとも、結果を予想していたようには見えない。手作業の波形に残ったものが誤差ではないか確かめるため、自分を測った。


 ……その結果が、目の前にある。


 患者だけに存在するものではなかった。

 ならば、発症者と非発症者を分けているのは、振動の有無ではない。


 首筋へ、細い氷柱をそっと押し当てられたような悪寒が走る。


 聞こえていない。私たちは誰一人、その音を聞いたとは言っていない。

 なのに、聞こえているはずの獣の声が、いまこの瞬間も、少なくとも、症状のない二人の身体の奥で黙って鳴り続けている。

 その事実だけが、理屈を追い越して皮膚の内側へ入り込んできた。


 私は紙面へ視線を戻そうとした。


 ……その前に、ふと首が動いた。


 何かが見えたわけではない。音を聞いた記憶もない。

 それでも視線だけが、診察台の向こう、壁と薬棚の間にある暗い隅へ向いていた。


 そこには何もなかった。

 棚の脚。壁の染み。床へ落ちた細い影。見慣れたものが、見慣れた位置にある。


 私は息を吐き、机へ顔を戻した。

 だが……ニノ医師も、同じ方向から視線を戻すところだった。

 その隣で、ダヴィトの肩がわずかに動いた。彼もまた、部屋の隅を見ていたらしい。


 三人の視線が重なった。

 誰も、すぐには口を開かなかった。


 「……なにか?」


 ニノ医師が尋ねた。

 その問い方は、私とダヴィトに向けたものなのか、それとも自分自身へ向けたものなのか、判別できなかった。


 「いや」


 私は机の上へ視線を落とした。


 「何でもない」


 ダヴィトも何も言わず、記録用の鉛筆を持ち直した。

 ただ偶然、三人の注意が同じ場所へ向いただけだ。


 疲労している。異音の話を続け、聞こえない音の波形を眺めていたため、誰か一人の動きへ残りの二人が反応した可能性もある。


 ……説明はできる。


 私はそう判断し、患者と未発症者の記録を重ね直した。


 窓の外を遠ざかる荷車の音は、最後まで輪郭を失わなかった。

 その音が聞こえなくなったあとも、ダヴィトの鉛筆の先だけが、部屋の隅を向いたまま止まっていた。



——to be the next scene.

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