Scene16:『窓ひとつぶんの距離』
詰所の二階にあてがわれた部屋は、夜になると紙の音ばかりがよく響いた。
私は机の上へ診療記録を並べ、発症までの日数と患者への接触時間を書き写していた。
夫婦を診察した医療機関の職員。村へ派遣された前任の担当者。ニノ医師。そして、私。
同じ人物の名前を二度書いたところで、筆を止めた。
インクが紙へ溜まり、最後の一文字だけが黒く膨らんでいく。吸い取り紙を当てながら、今しがた読んだ行を思い返した。
内容が頭に残っていない。
視線は文字を追っていたはずだ。だが、意味だけが紙の上へ置き去りになっている。
私は椅子を引いた。
二歩で窓へ着く。
留め金を外し、木枠を押すと、夜気が額へ触れた。部屋に籠もっていたインクと古紙の匂いが、背後へ薄く押し戻される。
眼下の通りには、人影がなかった。戸口に吊るされた油灯も、その多くが消えている。残った明かりは家々の窓から細く漏れ、石畳のところどころへ短い線を引いていた。
封鎖が始まってから、村は眠るのが早くなった。
眠っているのか、灯りを消して息を潜めているだけなのか。窓から見える範囲では、区別がつかなかった。
隣で、木の擦れる音がした。
首を向けると、石壁を一枚挟んだ窓が開いた。
暗い室内から、サロメが顔を出す。帽子はなく、解かれた黒髪が片側の肩へ流れていた。頬にかかった一房を指で払いながら、彼女は私の部屋を覗き込んだ。
「紙と喧嘩してんのか」
「いや、有用な議論である」
「負けて窓際へ逃げてきたように見えるが」
「議論が停滞したので、換気をしているだけだ」
「はっ。負けてるじゃねぇか」
サロメは窓枠へ肘を置いた。
その手には小さな金属杯があった。香草らしい匂いが、風に乗ってわずかに届く。
「話をするなら、そちらへ行くが?」
サロメは鼻で笑った。
「こっちも一応女だ。部屋に男を招くのは外聞が悪い」
杯を口元へ運びかけ、彼女は私を見たまま付け加えた。
「特に、てめぇと二人っきりはごめんだ」
「既に二人で話しているが」
サロメは石壁を指先で叩いた。
「この壁が、あたしの名誉を守ってる」
「随分と薄い名誉だな」
「てめぇよりは信用できる。少なくとも、人を罠へ蹴り落として『ふむ、興味深い』とか言わねぇからな」
それには答えず、私は窓辺の椅子を引き寄せた。
机へ戻るよりは、こちらの方が話しやすい。腰を下ろすと、窓枠の向こうに見えるのはサロメの上半身だけになった。
彼女は杯へ一度息を吹きかけた。
「で、何がまとまらねぇ」
「原因と感染条件だ」
「二つもあるじゃねぇか」
「原因については、まとまらないなりに整理はできる」
私は背後の机へ目を向けた。
灯りの下で、重ねた記録の端がわずかにずれている。先ほど書き損じた紙だけが、その上へ斜めに載っていた。
「患者の聴覚神経、呼吸器、循環器系。すべて精密に調べても、症状を説明できる器質的異常は見つからなかった」
「死人の仕業でもねぇ」
サロメが続けた。
「墓、家、遺品、患者本人。残留も憑依も、呪物の反応もなし。あたしが調べた範囲じゃ、心霊現象だと裏付けられるものは何も出なかった」
「かといって、精神的な幻聴だけで説明するのも難しい」
私は机の中央に置いた二枚の検査記録を思い出した。
夫婦を同時に診察し、それぞれ異なる聴診盤を使った記録だ。
「夫婦へは別々の器具で検査をしていた。それにもかかわらず、二人の身体へ取り付けた聴診盤には、同じ時刻に、ほぼ同じ構造の振動が残っている」
サロメが杯から口を離した。
「二人で話を合わせたわけじゃない」
「少なくとも、検査中には不可能だ。記録された振動も、本人たちの証言だけでは生じない」
「身体に異常はない。霊もいない。だが、頭の中だけで鳴ってるとも言い切れない」
原因を三つに分け、それぞれを調べた。
「現状は、そこまでだ」
どの道にも、途中までは歩ける。だが、最後の数歩だけがどこにも繋がっていなかった。
サロメが鼻から短く息を吐いた。
「原因が分からねぇ。それだけなら、まぁ良くある話だ」
「そうだ。現状で最も大きな問題は、別にある」
私は窓枠へ腕を置いた。
石が夜気を吸い、袖越しにも冷たかった。
「感染することだ」
サロメの指が、杯の縁で止まった。
「発症した夫婦を精密検査した医療機関では、その後、職員が相次いで発症している。しかも村の一般患者と比べ、症状の進行が早い」
「病人を診たせいで感染したと考えるのが普通だな」
「その可能性は高い。問題は、接触した順番と発症した順番が一致しないことだ」
私は机の紙へ視線を戻した。
先ほど並べた四つの名前が、紙面には残っている。
「感染するなら、真っ先に発症していなければならない者が三人いる」
指を一本立てた。
「まず、もっとも患者と接しているニノ医師」
二本目。
「前任の担当者」
三本目を立てる。
「そして、私だ」
サロメが、立てた指を順に見た。
「前任は村じゅうを聞き回ってた。ニノは毎日患者を診てる。てめぇに至っては、患者を調べるために村へ来た本人だ」
「接触した人数も、聞き取りに費やした時間も少なくない。感染条件が単純な距離や接触時間なら、三人とも既に発症しているはずだ」
「なのに、してねぇ」
「少なくとも、明確な症状は確認されていない」
私は一度、言葉を切った。
森で聞いた足音は記録へ残してある。だが、あれを発症の証拠に数えるには、まだ材料が足りない。
見間違いとして処理したものを、都合に応じて症状へ戻すべきではない。
「つまり」
サロメが言った。
「感染はする。だが、患者へ近づいた奴から順番に感染するわけじゃねぇ」
「そうなる」
「なら、今調べるべきなのは感染源だけじゃない」
「感染する者と、しない者を分ける条件だ」
声にした途端、それまで机の上で絡まっていた記録が、一本の線へ寄った。
原因は依然として分からない。だが、次に何を比較するべきかは決まった。
患者へ接した時間。質問の内容。検査中に行った行動。
症状を自覚する直前に、何を聞き、何を探そうとしたのか。
私は椅子から立ち上がり、机へ手を伸ばした。
「明日、発症者と未発症者の行動記録を取り直す。特に最初の医療機関職員について、診察手順を一人ずつ分けて確認する必要がある」
サロメは杯を窓枠へ置いた。
「なるほどな……」
彼女は窓の外へ目をやった。夜風が前髪を揺らす。
少しの沈黙のあと、小さく息を吐いた。
「……ところで、だ」
「何だ」
「ツィサナのことだ」
私は一度だけ考え、机の上の記録へ視線をやった。
「彼女については、確かに検討する必要がある」
「それで?どう思ってる?」
「最初は、他の患者と同じものを聞いているだけだと考えていた」
サロメは黙って先を待った。
「人間の脳は、曖昧な音の中から言葉を見つけ出す。トーキングピアノや、サインウェーブスピーチと呼ばれるものが分かりやすい」
「知らねぇよ」
「ただの楽器音や、細い電子音の連なりだ。何も知らずに聞けば、奇妙な抑揚にしか聞こえない。だが、"こう言う文章を話している"と示されてから聴くと、同じ音が人の言葉として聞こえ始める」
「音は同じなのに?」
「変わるのは、聞く側だ。脳が音の欠けた部分を補い、自分の知っている言葉へ整える。一度そう聞こえてしまえば、元の雑音へ戻す方が難しい」
私は、ツィサナの家で聞いた話を順に辿った。
最初は、名前だった。その次には、短い呼びかけ。
やがて彼女は、音の向こうに息子の声だけでなく、機嫌や躊躇いまで聞き取るようになった。
「ツィサナも、他の患者と同じ異常音を聞いている。そこへ、亡くした息子の声を見つけたのかもしれない」
「一度、息子の声だと思ったから、あとは全部そう聞こえた?」
「その可能性を考えた。彼女が問いかけた直後に音が鳴れば、脳はそれを返事として受け取る。意味の曖昧な音なら、質問に合う言葉へ補うこともできる」
「本人は、会話が成立してると思い込む」
「そうだ。音そのものには、最初から明確な言葉など含まれていない。彼女の記憶が、雑音へ亡き息子の声と人格を与えている。私は、そう見ていた」
窓の外で、どこかの雨樋から水が落ちた。一滴だけだった。
続く音を待ったが、何も聞こえなかった。
「だが、声が現れるタイミングと内容を見る限り、単純な音の聞き違いとは考えにくくなっている」
「返事をするからか」
「質問への応答が成立している。周囲で起きたことにも反応している。今夜は外が騒がしいと言い、私が話している間は静かになるとも言った」
私は膝へ置いた手を組み直した。
「仮に、怪異そのものと会話できているのなら、こちらにとっては都合がいい。ツィサナを介し、イリア少年へ直接聞き取りを行うという手もある」
サロメの口元が、わずかに歪んだ。呆れた時の顔だ。
彼女は小さく息を吐いた。
「症状の話は分かった……で?」
「何がだ」
「あたしが聞きてぇのは、そっちじゃねぇ」
「では、何の話だ」
サロメは杯を窓枠へ置いた。
底が木へ触れ、小さな音を立てる。
「てめぇと、あの女の話だ」
私は一度、瞬きをした。
「君から恋バナを振られるとは思わなかったな」
「その窓から突き落とすぞ」
「ふっ、慣れたものだ。二階からなら致死性は低い」
「頭から落ちろ」
サロメは低い声で吐き捨て、黒髪を耳の後ろへ掛け直した。
「ガキじゃねぇんだ。恋心を誤魔化すな」
「誤魔化してはいない」
「夕飯に誘われだろ」
「招待を受けただけだ」
「で、行った」
「断る理由がなかった」
「帰り道じゃ、あたしが三回呼んでも気づかなかった」
「考え事をしていた」
サロメは「へっ」と鼻で笑った。
「食事は終わったのに、頭だけ置いてきたか」
反論しようとしたが、適切な言葉がすぐには出てこなかった。
あの沈黙のあと、ツィサナが見せた表情を思い出そうとしていたのは事実だ。
だが、表情そのものは思い出せない。
火にかけられた鍋の匂いと、匙が器の縁へ触れた音。そのあとに置かれた彼女の言葉だけが、順序を保ったまま残っている。
「オマエは恋の一つでもした方がいい」
サロメが言った。
「少しはまともになれる」
「私がまともではないという前提に異議がある」
「娘に殺されることを愛情表現として記録する奴の、どこがまともなんだ」
「彼女たちは言語化が不得手なだけだ」
「殺意は十分言語化できてんだろうが」
私は口を閉じた。
この議論では、彼女の方に分がある。
サロメは杯を持ち上げた。口はつけず、その縁を指先でゆっくり回す。
「とにかくだ」
先ほどまでの軽さを少しだけ残した声で、そう言った。
「真人間になる第一歩くらいにはなる」
「……かつて、女性に心を寄せたこともないではない」
杯を回していたサロメの指が止まった。
私は窓の外へ目を向けた。言葉を置くと、喉の奥にわずかな乾きを感じた。
誰のことだったのか。いつのことだったのか。
記憶を辿ろうとは思わなかった。
「だが、忘れたな」
サロメは杯から目だけを上げた。数拍遅れて、「へえ」と漏らした。
「てめぇにも人並みの時代があったんだな。初耳だ」
「話す必要がなかった」
「まぁ、恋バナするような仲でもねぇか」
「その認識については一致している」
サロメは一度頷き、すぐに怪訝そうな顔へ戻った。
「……念のため聞くけどよ。あたしは入ってねぇだろうな」
「安心したまえ。月とすっぽんに誓ってあり得ない」
「誓いの証人に、すっぽんを呼ぶ奴は初めて見たぞ」
「月だけでは、昼間の証言能力に欠ける」
私は眼下の通りへ目を向けた。
向かいの窓から漏れていた灯りが消える。木枠の形だけがしばらく闇に残り、目が慣れる前に壁の色へ溶けた。
「それに、私の過去を知ってるキミならわかるだろう。どちらにしろ、誰かに恋をして許される身分ではないよ」
口にした言葉は、自分が考えていたより静かに出た。
サロメはすぐには答えなかった。
風が一度だけ石壁に沿って抜け、彼女の髪を肩から持ち上げた。サロメはそれを直さず、こちらを見ていた。
「惚れた腫れたは理屈じゃねぇよ」
「人間の感情にも原因はある」
「原因が分かるまで待ってから好きになる奴がいるか」
「感情そのものはともかく、それに基づく行動には責任が伴う」
「そりゃ、そのあとだ」
サロメは窓枠へ頬杖をついた。
「好きになるところまで裁判にかけるな」
私は返事をしなかった。
「てめぇが自分を許さねぇのは勝手だ」
彼女の声は低いままだった。荒くも、優しくもない。
ただ、聞き違えようのない速さで続いた。
「だが、相手の気持ちまで先回りして却下するな。迷惑かどうかは相手が決める」
「君は、随分と恋愛に詳しいのだな」
「話を逸らすな」
「詐欺霊媒師時代に、恋愛相談も扱っていたのか?」
「霊媒師に恋愛相談を持ち込む奴は意外と多い」
「死者に尋ねるのか」
「生きてる相手に聞けねぇから、こっちへ来るんだよ」
なるほど。
「それは霊媒というより、占いでは?」
「客はいちいち区別しねぇよ。死者が見えるなら、未来も男心も見えると思ってやがる」
「実際は?」
サロメは杯を傾け、残っていた酒を飲み干した。
「生きてる奴より、死人の方がまだ話が通じる」
「君が言うと妙な説得力があるな」
「てめぇを見て得た結論だよ」
サロメは杯の中身を飲み干した。
空になった杯を窓の内側へ置き、長い髪を片手でまとめる。
「もう寝ろ。明日は早い」
「キミもな」
「窓は閉めとけよ」
木枠へ手を掛けたところで、彼女は一度だけこちらを見た。
「今夜、また白い子どもが立ってても、部屋へ入れてやるなよ」
「迷子である可能性は」
「ねぇよ」
窓が閉じた。
留め金の掛かる音がして、隣の部屋から漏れていた細い灯りも消える。
私はしばらく、その窓を見ていた。
やがて椅子を戻し、机へ向かう。書き損じた紙を新しいものへ替え、上部へ《感染条件》と記した。
その下へ、発症した医療機関職員の名を並べる。
少し間を空け、未発症者として、私、前任の担当者、ニノ医師の名を書いた。
最後に、ツィサナ・ヴァルデリと書く。
筆先を止めた。
彼女は未発症ではない。
亡き息子……イリアの声を聞き続けている。
かといって、他の患者と同じ速度で進行しているわけでもない。精神的な錯乱もなく、難聴の程度も軽い。
発症者の側へ置くべきか。
未発症者の側へ置くべきか。
どちらにも線を引けなかった。
私は彼女の名前を、二つの欄の間へ残した。
——to be the next scene.




