Scene15:『影より先に』
ツィサナの家を出て、二つ目の角を曲がった。
背後の窓明かりが石壁の向こうへ消え、通りは急に暗くなる。左右の家はどれも戸を閉ざし、隙間から灯りが漏れている。
封鎖が始まる前なら、夕食を終えた人々が井戸端に集まり、荷車の戻る音がどこかで続いていた時間だっただろう。
しかし今夜は、自分の靴底が砂利を押す音だけが続いている。
私は今日、研究を途中で切り上げた。にもかかわらず、不思議と心残りはなかった。
これは非常に珍しい。
通常、未処理の記録を机へ残した場合、私の思考の一部はそこへ取り残される。歩いていても、食事をしていても、未完の計算式が頭の隅からこちらを見ている。
だが今夜は、別のものが残っていた。
分析を半日延期した。それ以上でも、それ以下でもない。にもかかわらず、彼女はしばらく黙り、それから煮込みを作った甲斐があったと言った。
あの沈黙には、何が含まれていたのだろう。
私は歩きながら、彼女の表情をもう一度思い出そうとした。
……その時だった。
不意に身体が後ろへ持っていかれた。足が止まり、半歩だけ重心が崩れ、何かに袖を引かれたのだと気づく。
振り返ると、サロメが私の袖を掴んでいた。黒い帽子の下で、ひどく不機嫌そうな顔をしている。
「……何かね」
「三回呼んだ」
「そうなのか?」
サロメは私の袖を離した。
「最初は先生。次は白衣。最後は、てめぇだ」
「呼びかけるたび、敬意が急速に失われているな」
「三回目まで無視された奴の気持ちを考えろ」
「無視したつもりはない」
「なら、聞こえなかったのか?」
「……聞こえていなかった」
サロメは私を見たまま、わずかに目を細めた。
「本当に聞こえなかったのか?」
「いや、聞こえなかった、というより……気づくのが遅れた」
私は先ほどの感覚を思い返していた。
答えてから、今歩いてきた道を振り返った。言われてみれば、少し前に何か声がしたような気もした。
だが、それが本当に声だったのか、サロメに言われたことで後からそう思えているだけなのか、自分でも判断できなかった。
「考え事をしていたせいだ」
「何を考えてた」
「人間の行動選択における非合理的要素の有用性についてだ」
サロメは一度、私の頭から足元までを見た。そして、わずかに息を漏らし、口角を上げた。
「夕飯が美味かったんだな」
「なぜそうなる」
「その顔で誤魔化せると思うな」
彼女はニヤリと笑うと、帽子を直し先に歩き出した。
宿舎へ戻る道だ。
私は隣に並ぶ。サロメの歩幅は昼よりわずかに広い。革鞄を肩に掛け、巻いた白糸の端を指で確かめながら進んでいる。
森沿いの道は、二人分の油灯を並べても暗かった。光は数歩先の石畳までしか届かず、その外側では木々の幹が互いに重なっている。
「そっちはどうだった?」
私が尋ねると、サロメは革鞄の金具へ指を置いた。考えるときの癖だ。
「予定してた調査の、四割ほどは終わった」
指先で金具を一度押し、彼女は続けた。
「墓も見た。家も、診療所も、患者が持ち込んだ物も一通りな。少なくとも、死人が悪さしてる気配はねぇ」
油灯の明かりが、道の窪みに溜まった水を照らした。私たちは片側へ避け、そのまま歩いた。
「憑依は?」
「なし。患者の内側に他人が入り込んだ形跡はねぇ。身体の外から何かが触ってる様子も、あたしには見えなかった」
「呪物」
「それもなし。家財、衣服、遺品、食器。怪しい物を集めたが、どれも空振りだ。少なくとも、特定の物を介して広がってる現象じゃねぇ」
サロメが鼻から短く息を吐いた。
死者霊でもない。憑依や呪物の痕跡もない。なら別のものだ。
「なら、動物霊。自然霊や精霊。あるいは、この土地で祀られていた神格霊の可能性は?」
サロメの歩調がわずかに緩んだ。
「神格級の霊が何かやってんなら、村へ入った時点で嫌でも分かる。ああいうのは隠れる隠れねぇの話じゃない」
「では、除外していい」
「今のところはな」
彼女は森の方へ顎を向けた。
油灯の届かない先で、木々が重なっていた。一本ずつの幹は見えず、夜そのものが根を下ろしているようだった。
「自然霊や精霊が、人間の生活圏へ入り込んで悪さしてる可能性は残ってる。明日からは森と水源を当たるつもりだ。古い祠があるなら、それもだ」
「調査対象を、"人間"以外にも広げると」
「そういうことだ」
話が一つの形へ収まると、それまで会話の底に沈んでいた森の静けさが、ゆっくりと浮かび上がってきた。
虫の声はしていた。どこか遠くで、水も流れている。けれど、それらは森の奥に薄く貼りついているだけで、私たちの周囲には届いてこなかった。
油灯の明かりが照らすのは、せいぜい数歩先までだ。
その外側には木々が立っているはずだったが、幹も枝も見えない。闇の中に森があるのではなく、森そのものが闇になり、道の両側からこちらを挟んでいるように思えた。
……風が止んだ。葉擦れの音も消えた。
私たちは、いつの間にか言葉を失っていた。
何かを警戒したわけではない。話す必要がなくなっただけだ。
それなのに、声を出せばならない気がした。沈黙を長く続けることが、この場所では何かを招く行為であるような、理由のない居心地の悪さがあった。
私は口を開きかけた。
……そのとき、靴底の下で小石が転がった。
コン、と硬い音がした。音は思いのほか遠くまで響いた。
道の先へ走り、木々の間へ入り込み、見えないところでいくつかに分かれたように聞こえた。
少し遅れて、サロメの編み上げ革靴が土を踏んだ。
使い込まれた硬い革底が、小石をひとつ噛んで、カツンと乾いた音を返す。
私の足音。
サロメの足音。
それだけだった。
私はもう一歩進んだ。
コン。
サロメが続く。
カツン。
そのあとで、
……ぺた。
と、小さな音がした気がした……。
濡れた掌を、土の上へ静かに置いたような音だった。
私は歩みを緩めなかった。だが、耳だけを後ろへ残す。
次の一歩。
コン。
カツン。
何もない。
やはり、聞き違いだったか。その考えが形を結ぶ前に、もう一度、音がした。
……ぺた。
先ほどより近かった。私とサロメのあいだではない。私の、すぐ後ろだ。
サロメの横顔を見る。彼女は前を向いたまま歩いていた。
「サロメ」
「ん?どうした」
「足音が一つ多くなかったか?」
彼女は足を止めなかった。
数歩のあいだ黙り、それから帽子の鍔を少し持ち上げた。耳を隠していた髪が、肩の後ろへ滑る。
「いや、聞こえなかったが……」
私も黙った。靴底を土へ下ろす。サロメが続く。
そのあとに、裸足で浅い水を踏んだような音がした。
今度は、私の右後ろだった。
遠くではない。
振り向けば、すぐそこに誰かの足がある。そう思えるほど近い場所で、濡れた土を踏む音がした。
私は歩みを止めた。
サロメも二歩ほど先で立ち止まり、肩越しにこちらを見た。
森からは、何も聞こえなかった。枝も鳴らない。草も擦れない。
先ほどまで私たちの後をついていた音だけが、黙ってそこに立っているようだった。
「ん?どうした?」
サロメが言った。答えようとして、口を開いた。
そのとき、右の耳のすぐ後ろで、空気がわずかに動いた。
……声ではなかった。息遣いでもない。けれど、誰かが私を呼び、返事を待っている。
そんな気がした。
私はすぐには振り返らなかった。耳を澄ませたまま、目だけを右へ動かす。
視界の端を、油灯の光がぼんやりと流れた。
道の脇に、太い木の幹が見えた。その隣に、白いものがあった。
はじめは、布だと思った。
枝に引っかかった衣服か、雨に濡れた古い標かもしれない。だが、それは地面から立ち上がり、木の陰へ半分ほど隠れていた。
……人の形をしていた。
子どもほどの背丈だ。
長い髪が顔を覆い、その下に白い衣服の胸元だけが見えている。顔は見えない。それでも、肩の向きはまっすぐこちらへ向いていた。
私は身体ごと振り返った。油灯の明かりが、道端の草を白く照らした。
……木の陰には、誰もいなかった。
幹の後ろへ隠れたのではない。森の奥へ逃げたのでもない。白い姿があった場所へ視線を合わせた、その短い間に、そこから人の形だけが抜け落ちていた。
残っているのは、雨を吸った黒い樹皮と、根元に絡みついた草だけだった。
「おい、どうした」
サロメの声が、少し遠くから届いた。私は木を見たまま答えた。
「子どもがいた」
「……どこに?」
「あの木の陰だ。白い服を着ていた」
サロメが戻ってきた。私の示した先へ油灯を向け、目を細める。
「あたしは、見てないな」
「私も、今は見えていない」
「逃げた音は?」
「なかった」
彼女は黙って革鞄を下ろした。
金具を外し、香草巻きを一本取り出す。油灯の火を先端へ移すと、乾いた葉の匂いが湿った空気へ広がった。
サロメは煙を吸い込まず、指の間に挟んだまま木へ近づいた。
煙は一度、幹の手前で横へ流れた。彼女は位置を変え、木の裏へ回る。根元へしゃがみ、土へ指を触れた。次に蓋付きの小さな鏡を開き、煙越しに暗がりを覗いた。
私は油灯を高く掲げた。
光の輪から外れるたび、彼女の黒衣は森へ溶けた。鏡の縁だけが、時折、冷たい光を返した。
やがてサロメは戻ってきた。
香草巻きの火を土へ押しつけ、革手袋の指で消す。
「何も居ねぇな」
「見えない、ではなく?」
「あたしに引っかかるものは、何も居ない。少なくとも、ここに留まってる霊的な何かはな」
私はもう一度、木の陰を見た。
「なら、本物の人間かもしれない」
サロメが鏡の蓋を閉じる。
「は?」
「子どもが夜の森に一人でいるなら、放置はできない。迷い込んだ可能性がある。手分けして探そう」
私は道を外れようとした。サロメの手が白衣の袖を掴んだ。
「こんな暗い中を、油灯もなしに子どもが歩くか」
「家を抜け出したなら、灯りを用意できなかった可能性はある」
「迷子なら、あたしたちを見つけた時点で声を出す。助けを求めるか、逃げるかする。黙って木の陰から覗いて、音も立てずに消える子どもがいるかよ」
「怯えていたのかもしれない」
「……それでも、枝の一本くらい鳴るだろ」
サロメは油灯を受け取り、木の根元へ光を落とした。
湿った土は平らだった。私たちが道から踏み込んだ靴跡だけが、黒く沈んでいる。木の裏へ続く小さな足跡も、草を押し分けた跡もなかった。
彼女は私を見た。
「見間違いだよ」
「しかし……」
反論は口元まで来て、そこで止まった。
自分の知覚。しかも、ほんのわずか見えただけのものを証拠として、人のいない森へ踏み込むのは賢明ではない。サロメの検査にも反応はなく、地面にも痕跡がない。
子どもがいたと考えるより、疲労かなにかが視覚へ影響したと考える方が筋は通る。
「確かに、君の言う通りだ」
「ほら、行くぞ」
サロメは革鞄を肩へ掛けた。私たちは道へ戻り、再び歩き出した。
……今度は、二人分の足跡しか聞こえなかった。
森の入口を離れる前に、一度だけ振り返った。
油灯の光が、先ほどの木の幹を下から照らしていた。樹皮は雨を含んで黒く、根元の草も同じ色に沈んでいる。
白いものは、どこにもなかった。
——to be the next scene.




