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Ghost Noise 〜耳底に沈む音〜  作者: 矢崎 那央
第2幕『気づいた者から』
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16/23

Scene15:『影より先に』


 ツィサナの家を出て、二つ目の角を曲がった。


 背後の窓明かりが石壁の向こうへ消え、通りは急に暗くなる。左右の家はどれも戸を閉ざし、隙間から灯りが漏れている。


 封鎖が始まる前なら、夕食を終えた人々が井戸端に集まり、荷車の戻る音がどこかで続いていた時間だっただろう。

 しかし今夜は、自分の靴底が砂利を押す音だけが続いている。


 私は今日、研究を途中で切り上げた。にもかかわらず、不思議と心残りはなかった。


 これは非常に珍しい。


 通常、未処理の記録を机へ残した場合、私の思考の一部はそこへ取り残される。歩いていても、食事をしていても、未完の計算式が頭の隅からこちらを見ている。

 だが今夜は、別のものが残っていた。


 分析を半日延期した。それ以上でも、それ以下でもない。にもかかわらず、彼女はしばらく黙り、それから煮込みを作った甲斐があったと言った。


 あの沈黙には、何が含まれていたのだろう。


 私は歩きながら、彼女の表情をもう一度思い出そうとした。


 ……その時だった。


 不意に身体が後ろへ持っていかれた。足が止まり、半歩だけ重心が崩れ、何かに袖を引かれたのだと気づく。

 振り返ると、サロメが私の袖を掴んでいた。黒い帽子の下で、ひどく不機嫌そうな顔をしている。


 「……何かね」


 「三回呼んだ」


 「そうなのか?」


 サロメは私の袖を離した。


 「最初は先生。次は白衣。最後は、てめぇだ」


 「呼びかけるたび、敬意が急速に失われているな」


 「三回目まで無視された奴の気持ちを考えろ」


 「無視したつもりはない」


 「なら、聞こえなかったのか?」


 「……聞こえていなかった」


 サロメは私を見たまま、わずかに目を細めた。


 「本当に聞こえなかったのか?」


 「いや、聞こえなかった、というより……気づくのが遅れた」


 私は先ほどの感覚を思い返していた。


 答えてから、今歩いてきた道を振り返った。言われてみれば、少し前に何か声がしたような気もした。

 だが、それが本当に声だったのか、サロメに言われたことで後からそう思えているだけなのか、自分でも判断できなかった。


 「考え事をしていたせいだ」


 「何を考えてた」


 「人間の行動選択における非合理的要素の有用性についてだ」


 サロメは一度、私の頭から足元までを見た。そして、わずかに息を漏らし、口角を上げた。


 「夕飯が美味かったんだな」


 「なぜそうなる」


 「その顔で誤魔化せると思うな」


 彼女はニヤリと笑うと、帽子を直し先に歩き出した。

 宿舎へ戻る道だ。

 私は隣に並ぶ。サロメの歩幅は昼よりわずかに広い。革鞄を肩に掛け、巻いた白糸の端を指で確かめながら進んでいる。


 森沿いの道は、二人分の油灯を並べても暗かった。光は数歩先の石畳までしか届かず、その外側では木々の幹が互いに重なっている。


 「そっちはどうだった?」


 私が尋ねると、サロメは革鞄の金具へ指を置いた。考えるときの癖だ。


 「予定してた調査の、四割ほどは終わった」


 指先で金具を一度押し、彼女は続けた。


 「墓も見た。家も、診療所も、患者が持ち込んだ物も一通りな。少なくとも、死人が悪さしてる気配はねぇ」


 油灯の明かりが、道の窪みに溜まった水を照らした。私たちは片側へ避け、そのまま歩いた。


 「憑依は?」


 「なし。患者の内側に他人が入り込んだ形跡はねぇ。身体の外から何かが触ってる様子も、あたしには見えなかった」


 「呪物」


 「それもなし。家財、衣服、遺品、食器。怪しい物を集めたが、どれも空振りだ。少なくとも、特定の物を介して広がってる現象じゃねぇ」


 サロメが鼻から短く息を吐いた。

 死者霊でもない。憑依や呪物の痕跡もない。なら別のものだ。


 「なら、動物霊。自然霊や精霊。あるいは、この土地で祀られていた神格霊の可能性は?」


 サロメの歩調がわずかに緩んだ。


 「神格級の霊が何かやってんなら、村へ入った時点で嫌でも分かる。ああいうのは隠れる隠れねぇの話じゃない」


 「では、除外していい」


 「今のところはな」


 彼女は森の方へ顎を向けた。

 油灯の届かない先で、木々が重なっていた。一本ずつの幹は見えず、夜そのものが根を下ろしているようだった。


 「自然霊や精霊が、人間の生活圏へ入り込んで悪さしてる可能性は残ってる。明日からは森と水源を当たるつもりだ。古い祠があるなら、それもだ」


 「調査対象を、"人間"以外にも広げると」


 「そういうことだ」


 話が一つの形へ収まると、それまで会話の底に沈んでいた森の静けさが、ゆっくりと浮かび上がってきた。


 虫の声はしていた。どこか遠くで、水も流れている。けれど、それらは森の奥に薄く貼りついているだけで、私たちの周囲には届いてこなかった。


 油灯の明かりが照らすのは、せいぜい数歩先までだ。

 その外側には木々が立っているはずだったが、幹も枝も見えない。闇の中に森があるのではなく、森そのものが闇になり、道の両側からこちらを挟んでいるように思えた。


 ……風が止んだ。葉擦れの音も消えた。


 私たちは、いつの間にか言葉を失っていた。

 何かを警戒したわけではない。話す必要がなくなっただけだ。


 それなのに、声を出せばならない気がした。沈黙を長く続けることが、この場所では何かを招く行為であるような、理由のない居心地の悪さがあった。


 私は口を開きかけた。


 ……そのとき、靴底の下で小石が転がった。

 コン、と硬い音がした。音は思いのほか遠くまで響いた。

 道の先へ走り、木々の間へ入り込み、見えないところでいくつかに分かれたように聞こえた。


 少し遅れて、サロメの編み上げ革靴が土を踏んだ。

使い込まれた硬い革底が、小石をひとつ噛んで、カツンと乾いた音を返す。


 私の足音。

 サロメの足音。

 それだけだった。


 私はもう一歩進んだ。


 コン。


 サロメが続く。


 カツン。


 そのあとで、


 ……ぺた。


 と、小さな音がした気がした……。

 濡れた掌を、土の上へ静かに置いたような音だった。


 私は歩みを緩めなかった。だが、耳だけを後ろへ残す。


 次の一歩。


 コン。


 カツン。


 何もない。


 やはり、聞き違いだったか。その考えが形を結ぶ前に、もう一度、音がした。


 ……ぺた。


 先ほどより近かった。私とサロメのあいだではない。私の、すぐ後ろだ。

 サロメの横顔を見る。彼女は前を向いたまま歩いていた。


 「サロメ」


 「ん?どうした」


 「足音が一つ多くなかったか?」


 彼女は足を止めなかった。

 数歩のあいだ黙り、それから帽子の鍔を少し持ち上げた。耳を隠していた髪が、肩の後ろへ滑る。


 「いや、聞こえなかったが……」


 私も黙った。靴底を土へ下ろす。サロメが続く。

 そのあとに、裸足で浅い水を踏んだような音がした。


 今度は、私の右後ろだった。

 遠くではない。

 振り向けば、すぐそこに誰かの足がある。そう思えるほど近い場所で、濡れた土を踏む音がした。


 私は歩みを止めた。


 サロメも二歩ほど先で立ち止まり、肩越しにこちらを見た。


 森からは、何も聞こえなかった。枝も鳴らない。草も擦れない。

 先ほどまで私たちの後をついていた音だけが、黙ってそこに立っているようだった。


 「ん?どうした?」


 サロメが言った。答えようとして、口を開いた。

 そのとき、右の耳のすぐ後ろで、空気がわずかに動いた。


 ……声ではなかった。息遣いでもない。けれど、誰かが私を呼び、返事を待っている。


 そんな気がした。


 私はすぐには振り返らなかった。耳を澄ませたまま、目だけを右へ動かす。

 視界の端を、油灯の光がぼんやりと流れた。


 道の脇に、太い木の幹が見えた。その隣に、白いものがあった。


 はじめは、布だと思った。

 枝に引っかかった衣服か、雨に濡れた古い標かもしれない。だが、それは地面から立ち上がり、木の陰へ半分ほど隠れていた。


 ……人の形をしていた。


 子どもほどの背丈だ。

 長い髪が顔を覆い、その下に白い衣服の胸元だけが見えている。顔は見えない。それでも、肩の向きはまっすぐこちらへ向いていた。


 私は身体ごと振り返った。油灯の明かりが、道端の草を白く照らした。


 ……木の陰には、誰もいなかった。


 幹の後ろへ隠れたのではない。森の奥へ逃げたのでもない。白い姿があった場所へ視線を合わせた、その短い間に、そこから人の形だけが抜け落ちていた。


 残っているのは、雨を吸った黒い樹皮と、根元に絡みついた草だけだった。


 「おい、どうした」


 サロメの声が、少し遠くから届いた。私は木を見たまま答えた。


 「子どもがいた」


 「……どこに?」


 「あの木の陰だ。白い服を着ていた」


 サロメが戻ってきた。私の示した先へ油灯を向け、目を細める。


 「あたしは、見てないな」


 「私も、今は見えていない」


 「逃げた音は?」


 「なかった」


 彼女は黙って革鞄を下ろした。

 金具を外し、香草巻きを一本取り出す。油灯の火を先端へ移すと、乾いた葉の匂いが湿った空気へ広がった。

 サロメは煙を吸い込まず、指の間に挟んだまま木へ近づいた。


 煙は一度、幹の手前で横へ流れた。彼女は位置を変え、木の裏へ回る。根元へしゃがみ、土へ指を触れた。次に蓋付きの小さな鏡を開き、煙越しに暗がりを覗いた。


 私は油灯を高く掲げた。


 光の輪から外れるたび、彼女の黒衣は森へ溶けた。鏡の縁だけが、時折、冷たい光を返した。


 やがてサロメは戻ってきた。

 香草巻きの火を土へ押しつけ、革手袋の指で消す。


 「何も居ねぇな」


 「見えない、ではなく?」


 「あたしに引っかかるものは、何も居ない。少なくとも、ここに留まってる霊的な何かはな」


 私はもう一度、木の陰を見た。


 「なら、本物の人間かもしれない」


 サロメが鏡の蓋を閉じる。


 「は?」


 「子どもが夜の森に一人でいるなら、放置はできない。迷い込んだ可能性がある。手分けして探そう」


 私は道を外れようとした。サロメの手が白衣の袖を掴んだ。


 「こんな暗い中を、油灯もなしに子どもが歩くか」


 「家を抜け出したなら、灯りを用意できなかった可能性はある」


 「迷子なら、あたしたちを見つけた時点で声を出す。助けを求めるか、逃げるかする。黙って木の陰から覗いて、音も立てずに消える子どもがいるかよ」


 「怯えていたのかもしれない」


 「……それでも、枝の一本くらい鳴るだろ」


 サロメは油灯を受け取り、木の根元へ光を落とした。


 湿った土は平らだった。私たちが道から踏み込んだ靴跡だけが、黒く沈んでいる。木の裏へ続く小さな足跡も、草を押し分けた跡もなかった。


 彼女は私を見た。


 「見間違いだよ」


 「しかし……」


 反論は口元まで来て、そこで止まった。


 自分の知覚。しかも、ほんのわずか見えただけのものを証拠として、人のいない森へ踏み込むのは賢明ではない。サロメの検査にも反応はなく、地面にも痕跡がない。

 子どもがいたと考えるより、疲労かなにかが視覚へ影響したと考える方が筋は通る。


 「確かに、君の言う通りだ」


 「ほら、行くぞ」


 サロメは革鞄を肩へ掛けた。私たちは道へ戻り、再び歩き出した。


 ……今度は、二人分の足跡しか聞こえなかった。


 森の入口を離れる前に、一度だけ振り返った。

 油灯の光が、先ほどの木の幹を下から照らしていた。樹皮は雨を含んで黒く、根元の草も同じ色に沈んでいる。


 白いものは、どこにもなかった。



——to be the next scene.

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