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Ghost Noise 〜耳底に沈む音〜  作者: 矢崎 那央
第2幕『気づいた者から』
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15/16

Scene14:『冷める前に』


 診療所の窓へ差し込んでいた光が、いつの間にか机の端まで退いていた。


 私は村人の聴診記録を、症状の有無と発症時期ごとに分けているところだった。机の左側には、異音を訴えている者の記録。右側には、同じ家に暮らし、同じ井戸を使いながら症状の出ていない者の記録を置く。


 ニノ医師には、今日から無症状者にも同じ条件で聴診盤を使ってもらっている。

 症状のある者だけを調べていても、その記録に何が足りないのかは分からない。病気の痕跡を探すなら、病気が起きなかった身体も必要だった。


 もっとも、ここで行えるのは整理までである。


 村が封鎖された以上、ラボへ戻るわけにはいかない。だが、持ち込んだ携帯式の解析器では、音の時間構造を大まかに抽出できても、周波数帯を細かく分解するには限界がある。


 私は症例番号を書いた紙を並べ、記録時刻のずれを補正するための表を作った。最後の一枚を置き、次に使う計算紙へ手を伸ばす。


 その指が、紙へ触れる前に止まった。共同窯の鐘が一度鳴る。夕刻を知らせる音だ。

 その後、窓の外で荷車の車輪が石を踏んだ音が遠ざかる。


 私は机の上へ視線を戻した。ここから処理を始めれば、途中で止めるのは難しい。

 一つの波形を切り分ければ、隣の記録も確認したくなる。隣を見れば条件を揃えたくなり、条件を揃えれば最初から計算し直したくなる。

 気づいた時には、日付が変わっている可能性が高い。


 私は研究へ集中すると、時刻という概念を一時的に失うことがある。

 これは欠点ではない。優れた知性が、時計という単純な周期運動より重要な対象を選んでいるだけである。


 ただし、今夜はツィサナとの約束があった。夕食をすっぽかせば、煮込みが冷める。イリア少年は、冷めた煮込みにうるさいらしい。


 私は計算紙から手を離した。

 精密な比較は明日でよい。そう判断してから、少し遅れて、自分が何を選んだのかに気づいた。


 レヴァンの忠告が頭へ浮かぶ。ツィサナへ時間をかけるたび、ほかの何かへ使う時間が減っている。

 続いて、サロメの言葉も浮かんだ。あの家へ行く理由を見つけるのが上手すぎる。


 私は机の右側に置いた無症状者の記録へ目を向けた。


 ツィサナの症例には、調べる価値がある。


 言語的な応答。生活を破壊しない安定性。そして今朝から起きている変化。どれも、今夜彼女の家へ行く理由になる。

 だが、その理由を一つずつ取り除いても、私は約束を取り消そうとは思わなかった。

 そこに残ったものを、すぐには分類できない。


 私は計算紙を伏せ、記録を革紐でまとめた。

 分類できないものは、無理に名前を与えるべきではない。


 少なくとも、明日の朝までは。


————


 ツィサナの家の扉を叩くと、返事より先に足音が聞こえた。迷いのない歩幅である。来客が誰か確認してから動く者の足ではない。

 

 私はここを訪れる約束をした。そして今、日没より前にここへ立っている。


 これは、ささやかな出来事に見えて、実のところ歴史的快挙である。

 研究机に途中の計算紙を残したまま、科学者が自らの意思で立ち上がったのだ。これを人類理性の勝利と呼ばず、何と呼ぶべきだろうか。


 閂が外れ、扉が内側へ開いた。


 隙間から温かい空気が流れ出す。煮込んだ野菜と香草の匂い。その奥から、焼いた小麦の香ばしさが追ってきた。


 ツィサナはまず私の顔を見た。次に私の肩越しへ目をやり、まだ赤みの残る空を確かめる。


 「今日は、ちゃんと明るいうちに来たのね」


 「ふふふ、驚くのも無理はない」


 「そこまで驚いてはいないわ」


 私は静かに胸を張った。


 「私は今日、紙束の誘惑を振り切った。研究者としては三度ほど死んだ気分だが、人としては正しい。差し引き、生存判定である」

 

 「紙に誘惑される人、初めて見たわ」


 「紙を侮ってはいけない。連中は一枚では無力だが、束になると人間の一生を奪う」


 実際、紙束は強敵だ。静かに机の上へ横たわりながら、人間の良心へ直接語りかけてくる。

 『あと一枚だけ』『この式だけ』『比較表の枠だけ作っておこう』

 そうして気づけば朝である。薄く切り分けられた時間泥棒と言って良いだろう。


 ツィサナは私の背後へもう一度視線を送った。


 「追ってきてないでしょうね」


 「安心したまえ。計算紙に脚はない」


 「あなたが戻ってくると、信じて待っているだけ?」


 「そう考えると、少々胸が痛むな」


 「夕食より紙の心配をするなら、帰ってもいいのよ」


 「なぜそうなる」


 「紙に嫉妬される前に、返してあげようかと思って」


 彼女は身体を横へずらした。どうやら入室を許可されたらしい。敷居をまたごうとすると、彼女の手が胸元へ伸びてくる。

 私は反射的に半歩下がった。


 「何かね」


 「白衣を脱いで」


 私は固まった。


 「これは単なる衣服ではない。研究者という社会不適合者が、着ているだけで『ああ、研究者なら仕方ない』と大目に見てもらえる免罪符だ」


 「大丈夫、着ていても充分浮いてるわ。それにほら、袖に薬液がついてる」


 彼女が指した先へ視線を落とす。確かに、袖口には薄い染みが残っていた。診療所で薬液を扱った際のものだろう。


 衛生上の判断としては正しい。正論だ。

 しかし、正論とは往々にして、相手から尊厳を奪うために使われるものである。


 私はしかたなく白衣を脱ぎ、入口の壁に打たれた木釘へ掛けた。肩が急に軽くなると同時に、落ち着かなさが背中を這い上がってくる。社会へ出るための許可証を玄関に没収された気分だ。


 白衣を着ていない研究者とはすなわち、やたら理屈っぽい不審者である。


 「落ち着かないな。あの白衣には、研究者としての武装がすべて収められている」


 「武装?」


 「筆記具、試験管、薬瓶、採取袋、飴、昨日なくしたと思っていたメモ。それから、何に使うのか私にも分からない金属片が二つ」


 「最後のは捨てなさい」


 「未知の物体を調べもせず廃棄するなど、科学者にあるまじき態度だ」


 「自分のポケットの中でしょう?」


 「だからこそ未知なのだよ」


 ツィサナは棚から前掛けを取ると、私へ差し出した。


 「はい、前掛け」


 「私は客人ではなかったのかね」


 「客人よ」


 「客人へ前掛けを装着させる家庭は、私の知る範囲では少数派だ」


 「座って待っていてもいいわよ。一人で準備するから、食事は少し遅くなるけれど」


 私は黙って受け取った。客人という身分は、空腹の前では脆弱である。


 だが、前掛けを着けようとして背中へ回した紐が、どういう訳か捕まらない。

 右手で掴み、左手へ渡そうとすると、今度は左側が消える。紐は二本しかないはずなのに、背後へ回した瞬間、自由意志を獲得している。


 「……何をしているの?」


 「捕獲だ」


 ツィサナが私の後ろへ回った。腰の辺りで、紐が引かれ、すぐに結び目ができた。


 「はい、捕獲完了」


 「ふむ、人類は長い年月をかけて、この技術を獲得したのだな」


 彼女が吹き出した。右耳の銀鈴が、ちり、と鳴る。


 「あなたが獲得してないだけよ」


 私は前掛けを見下ろした。


 私はこれまで、炊事、洗濯、掃除、育児、実験、爆発事故まで、一枚の白衣で乗り切ってきた男である。違和感がひどい。

 前掛けとは、生活能力の高い者が着るべき正装だ。


 「お皿を並べて。棚の上から二段目」


 指された棚を開くと、深皿が重ねてあった。二枚を取り出し、食卓へ置く。


 ツィサナは鍋をかき混ぜながら、こちらを振り返った。


 「どうしてそんなに離して置いたの?」


 「食事中に互いの可動域が干渉しない距離を確保した。肘の衝突は、食卓における紛争原因だ」


 「ふふっ、あなたの家庭だけの統計でしょう?」


 ふむ。調査母集団に若干の偏りがあることは認めよう。


 ツィサナは鍋から離れると、私の置いた皿を二枚とも持ち上げた。向かい合わせに置き直し、片方を手のひら一つ分だけ中央へ寄せる。


 「これでいいの。食卓は戦場じゃないんだから」


 「敵意がない場所ほど警戒すべきだ。娘たちも、笑顔で近づいてきた時の方が致死率は高い」


 「ずいぶん物騒な家庭ね」


 「仲が良い証拠だよ。嫌いな相手を殺すのは単純な排除だが、わざわざ手間をかけて罠を作るのは関心の表れだ。父はそこを見誤ってはいけない」


 「その手間、普通はお弁当とか誕生日に使うのよ」


 即座に反証を出された。


 ツィサナは布を巻いた両手で鍋を持ち上げ、食卓の中央へ運んだ。前掛けの紐が腰で引かれ、葡萄酒色の長衣に沿って皺が寄る。

 私は鍋敷きを差し入れようとしたが、置く位置を迷った一瞬のうちに、彼女は自分で済ませてしまった。

 生活能力の高い者は、他人が役に立つのを待ってくれない。


 席につくと、ツィサナが鍋の蓋を開けた。豆と根菜を煮込んだ湯気が持ち上がり、焼いた肉と香草の匂いが部屋へ広がっていく。


 彼女は煮込みを深皿へよそい、私の前へ滑らせた。


 「熱いから、気をつけて」


 「私を誰だと思っている。高温、薬品、爆発には慣れている」


 「そんな経験は、食卓では役に立たないの」


 匙ですくい、息を吹きかけてから口へ運ぶ。


 豆は舌の上で柔らかく崩れた。根菜の甘みへ香草の苦みが重なり、それらを肉の脂が過不足なく結びつけている。


 「ふむ。加熱による組織の崩壊は適切だ。糖分と苦味の配分も」


 「言ったでしょう。感想は?」


 「美味しい」


 「素直でよろしい」


 ツィサナは満足そうに自分の匙を取った。

 しばらく、皿と匙の触れ合う音だけが続いた。火の中で薪が崩れる。窓の外では風が枝先を擦っていた。

 その静けさの中で、ツィサナの右耳に下がった銀の鈴が、小さく鳴った。


 彼女は匙を止め、わずかに顔を傾ける。視線は私を越え、誰も座っていない食卓の端へ向けられていた。


 「ふふっ、イリア。気になるのは分かるけど」


 返事は私には聞こえない。


 ただ、彼女の目が何かの動きを追うように、わずかに横へ流れた。


 「イリア少年は何と?」


 「あなたが本当に娘さんたちから好かれているのか、疑っているみたい」


 「当然の疑問だ。父娘の絆は、外部の観測者には理解しづらい」


 「本人にも理解できていないんじゃないかって」


 「なかなか鋭い反論だ」


 私は誰もいない場所へ向き直った。


 「だが、イリア少年。親子関係とは、表面的な言葉だけで測れるものではない。たとえば娘が『二度と来るな』と言った場合、重要なのは『来るな』ではなく、『二度と』という時間表現を選んだ点だ。つまり彼女は、過去に私が訪れた事実は既に受け入れている」


 ツィサナが額へ手を当てた。


 「その子は普通に来てほしくなかったのよ」


 「それでは言葉の表面しか読んでいない。父には深層を読む責任がある」


 「深く潜りすぎて、違う場所へ出ているわ」


 「物理的に、窓から投げ出されたこともある。あれも、自力で帰ってこられるという信頼の表明だった」


 「捨てられてるじゃない」


 「着地地点は柔らかい植え込みだった。明確に配慮があった証しだ」


 「偶然でしょう?」


 「その後、植え込みへ火を放たれたが……」


 「訂正するわ。明確な殺意ね」


 私は匙を置いた。


 「ふふふ。そう見えるだろう?」


 「ほかにどう見えるの?」


 「そう……反抗期だ」


 ツィサナは両手で顔を覆った。


 「……ふふっ」


 声を殺そうとしているらしいが、指の隙間から息が漏れている。


 まったく。


 娘たちとの尊い日常を話しただけで、これほど笑顔を引き出してしまうとは。父性には、家庭の境界を越えて人を幸福にする力があるらしい。


 右耳の鈴が、また小さく鳴った。ツィサナは顔を覆ったまま、少し横を向いた。


 「ふふ。イリアも、あなたは少しおかしいって」


 「少しで済ませてくれるとは、礼儀正しい少年だな」


 「そこは否定しないのね」


 ツィサナは一度話を止めると、煮込みを口へ運んだ。噛みながらこちらを眺め、飲み込んでから続ける。


 ……そのとき、ふと右耳の奥へ、何かが触れた。


 音ではない。薄い膜を、内側から指で押されたような感覚だった。


 私は呼吸を止めた。

 自分の脈が耳の中で鳴る。一拍遅れて、もう一つ。

 追いかけてくるような振動が残った。


 向かい側で、ツィサナが右耳へ指を添えた。

 笑みが消えている。


 彼女の目が、食卓の端から少し外れた場所へ向いた。


 「どうしたのかね?」


 すぐには答えない。

 何かを聞き終えるように、じっと動かなかった。


 「……イリアが」


 銀鈴を押さえたまま、ツィサナが言う。


 「外がうるさいって」


 私は窓へ目を向けた。

 外はもう暗い。道を歩く者はいない。低木の枝が風で揺れ、硝子の向こうを擦っているだけだった。


 「家の外か?」


 「違うみたい」


 ツィサナは首を横へ振った。


 「どこなのか、分からないって」


 手帳は白衣の胸ポケットにある。

 白衣は入口だ。数歩で届く。


 だが、私は動かなかった。今夜は診察をしない。約束は、便利な時だけ守るものではない。


 ツィサナの指が、ゆっくり銀鈴から離れた。


 「今は?」


 「あなたが喋っている間は、少し遠くなるみたい」


 「ふむ。私の声に、何らかの安定作用が……」


 「うるさいからじゃない?」


 「音量かね。内容かね」


 「両方ね」


 即答だった。

 ツィサナの口元へ、少しずつ笑みが戻る。


 彼女はパン籠を、私の方へ押した。


 「静かになると近くなるなら、何か話していて」


 「任せたまえ」


 「父性の話以外でお願い」


 私は黙った。私の持ちネタの大部分を封鎖された。


 「急激に難易度が上昇したな」


 「科学のお話でもいいわよ」


 「では、量子場理論における情報保存則とブラックホール情報パラドックスについて」


 「やっぱり父性で」


 私はツィサナを見た。


 「人間は、時に自ら危険な道を選ぶ」


 「科学の話よりは安全そうだもの」


 「娘に火を放たれた話の続きだが?」


 「それでも、あなたの専門分野よりは食欲に優しいわ」


 ふむ。

 科学の敗北である。


 私は娘たちとの最新の父性成果について説明した。

 より厳密には、私が父として受け入れられつつあることを証明する、複数の観測事例を提示した。

 ツィサナは第一事例を拒絶、第二事例を突発的殺意、第三事例を計画的殺人未遂として分類した。


 分類法には重大な異論がある。


 だが彼女は、話そのものを終わらせようとはしなかった。呆れた顔をし、時々笑い、理解できない部分では聞き返した。


 「ねぇ。もし娘さんたちに、好きな人ができたらどうするの?」


 「ふふふ。良い質問だ。既にシミュレート済みだとも」


 私は匙を置き、食卓の上で指を組んだ。


 「まず身元、思想、健康状態、資産、交友関係。あとは過去十年分の行動履歴を確認する」


 「恋人を紹介しただけで、入国審査が始まるのね」


 「安心したまえ。虚偽申告がなければ、面接は一度で済む」


 「安心の置き場所が見つからないわ」


 「もっとも、私の娘のうち二人は、すでに既婚だ。どちらも同じ少年とね」


 ツィサナの匙が、皿の上で止まった。


 「今、ずいぶん大きな話を小皿みたいに出したわね。既に質問が倍に増えたわ」


 「彼は例外だ。資産も肩書きもない。素性についても、履歴書一枚では到底収まらん」


 「審査に落ちそうだけど」


 「むしろ首席合格だ。彼は娘たちの好意につけ込まず、自分の都合より、娘たち自身の意思を優先する。互いに信頼し合う関係を構築できた男だ」


 私は静かに頷いた。


 「そして何より、彼は私をまるで信用していない」


 「それが最終審査だったの?」


 「最大の加点項目だ。私を信用するような男へ、娘を任せられるものか」


 ツィサナはしばらく私を見つめ、それからパンをひと口ちぎった。


 「ふふ。そこだけ妙に正しいのが、いちばん困るわね」


 彼女はそう言うと、私の皿へ煮込みを足した。

 まだ残っている。だが、断る理由もなかった。


 「ところで、学者さんはどうなの?」


 「どう、とは?」


 ツィサナは匙を置き、こちらを見た。


 「娘さんではなく、あなたの話。奥様はいないんでしょ?なら、こうして一緒に食事をしたり、研究や娘さんたちとの予定より、会うことを優先する女性はいないの?」


 「娘たちより優先されるものなど、万物万象に存在しない」


 即答だった。

 これは思考を挟むまでもない。自然法則に近い。


 「では、研究は?」


 私は口を開き、そのまま少し止まった。研究より優先したもの。


 娘たちの呼び出し。娘たちとの約束。娘たちの世話。娘たちが仕掛けた罠の検証。

 いずれも娘に関する事柄である。


 それ以外となると……。


 「……ふむ」


 今日、私は分析を明日に回した。

 熱中すれば夕食の時間を忘れると分かっていたから、始めなかった。

 つまり私は、研究よりも、この食卓へ来ることを選んだ。


 「娘に関わる事例以外で、研究を後回しにしたのは」


 私は改めてツィサナを見た。


 「キミが初めてかもしれない」


 ツィサナは何も言わなかった。

 ただ、右耳の銀の鈴が、彼女のわずかな動きに合わせて小さく鳴った。

 妙な沈黙だった。


 私は何か補足すべきか考えた。


 「もちろん、研究計画全体へ重大な遅延が生じるほどではない。精密分析の開始を半日ずらしただけで」


 「そこは説明しなくていいの」


 「そうか」


 どうやら、研究上の遅れを心配していたわけではないらしい。


 ツィサナは目を伏せた。

 笑ったのかと思ったが、口元はさほど動いていなかった。代わりに、右耳の鈴へ触れた指先が、一度だけ止まる。


 やがて彼女は顔を上げた。


 「それなら、煮込みを作った甲斐があったわ」


 胸の内側へ、遅れて熱が広がった。


 ふむ。私は娘を持つ父。一方で彼女は母親だ。だが、母性と父性は異なる性質を持ちながら、ともに子を守るための心理構造である。

 近接した際に相互作用が生じても、不思議ではない。


 「何を難しい顔で考えているの?」


 「キミの母性が、私の父性へ干渉している可能性についてだ」


 ツィサナは皿を胸元へ抱えたまま、声を立てて笑った。


 「それ、もっと普通の現象で説明できるんじゃない?」


 右耳の銀鈴が、何度も小さく鳴る。

 私はその音を聞きながら、残っていたパンへ手を伸ばした。


 ここに至るまで、彼女の調査を優先した理由。レヴァンとサロメの指摘も、もっともだった。

 これは確かに、私情である。すなわち、我が父性と彼女の母性が、食卓を挟んで共鳴しているのだ。


 それならば、分析を明日に回したことにも、彼女の笑い声をもう少し聞いていたいと思ったことにも、すべて説明がつく。


 実に明快な結論である。



——to be the next scene.

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