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作者への反逆〜転生したので、春の運命を書き換えてみせます〜  作者: 太幽


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第9話「安堵の光」

第9話「安堵の光」


一:生きて償え


夜が明けた。鬼ヶ島の浜辺には、柔らかな朝日が差し込んでいる。


一行は船に乗り込む準備を整えていた。村へ帰るのだ。鬼と呼ばれた者たちも、新たな生活を求めて同行する。島に残る者たちは、後日迎えに来る手筈になっていた。


椿は、船着き場から少し離れた岩場に、一人の男が立っているのを見つけた。


頭領だった。


彼は静かに海を見つめていた。その手には、短刀が握られている。


椿の心臓が跳ねた。


(そうだ……本編では、頭領は自害する)


彼女は駆け出した。足音に気づいた頭領が、ゆっくりと振り返る。


「……春、といったな…わざと気配を消さずに近づいたな」


「…もう少し先の未来、生きて見守っていきませんか?」


頭領は目を見開いた。


「お主…見抜いておったか…私は、多くの罪を犯した。生きるためとはいえ、奪い、殺め、お前たちの村も襲った。その罪は、この命をもって償うしかない」


「違う」


椿の声は、震えていなかった。


「死ぬことは、償いじゃない。逃げることだ」


頭領の眉が、ぴくりと動いた。


「生き恥を晒せと言うのか」


「生き恥を晒したくない。それはただの自尊心を守るための逃げに過ぎません。切腹の美学、武士の誇り、言い換えれば綺麗よね。でも、あなたは楽になりたいだけ。残された者たちはどうなるんですか。あなたを慕う者たちは、頭領を失い、また『鬼』と呼ばれるかもしれない。憎しみの連鎖は、終わらない」


椿は、軽やかな動きで頭領の手から短刀を取り上げた。


「生きて償ってください。あなたの手で、田畑を耕し、家を建て、新しい生活を始めるんです。それが、あなたにできる償いだと、私は思います」


頭領は、長い沈黙の後、深く息を吐いた。


「……わかった…あえて生き恥を…罪を背負いながら、生きていこう」


椿は、短刀を海に投げ捨てた。朝日を受けて、刃が一瞬きらめき、波間に消えた。短刀は鈍い水音を立てて沈んでいった。その音は、頭領の「死」がこの世から消え去る、最期の響きのようだった。


「それと、もう一つ」


椿は、岩場の近くに転がっていた石を一つ拾い上げ、頭領に差し出した。


「この島には、もう多くの亡骸が埋葬されている。あなたの名を刻んだ墓も、この場に立てましょう」


頭領は、石を受け取り、じっと見つめた。そして、その石を両手で包み込むように握った。短刀とは違う、冷たくも温かくもない、ただの石の重み。それが、これから彼が背負っていく「生」の重さそのものだった。


「……私の、墓」


「はい。鬼の頭領は、今、この瞬間に死んだんです。あなたは今日から、名もなき一人の人間として、生きていくんです」


頭領は、しばらく石を見つめていたが、やがて深く頷いた。その目には、朝日を受けて、静かな決意の光が宿っていた。


「……礼を言う。春。お前は、私に生きる道を示してくれた…だがな…短刀を捨てるのは名を刻んでからでも良かったではないか!どうするつもりだ!」


椿は両手で口に手を当て「あー!」と叫んだ。


その声は少し離れた桃太郎達の耳にまで届いたそうな。


「…まったく、手間をかけさせおって…死ぬのもバカらしく思えてきたわ」


頭領は、その石を両手で抱え、ゆっくりと島の奥へと歩き出した。自分の墓を立てるために。


(しかし、この石…重いな…春は軽々しく手渡してきたが…これは…)


その後ろ姿を、椿は静かに見送った。


(これで、一つの命が救われた。歴史が、また少し変わった)


潮風が吹き抜け、彼女の髪を揺らした。涙が一筋、頬を伝ったが、それはもう苦しみの涙ではなかった。


二:帰還


船が故郷の村に着いたのは、夕暮れ時だった。


老夫婦の庵の煙突から、細く煙が立ち上っている。お婆さんが、今日もきび団子を焼いているのだろう。


「ただいま!」


光の声に、お婆さんが顔を出した。


「おお、桃太郎! 弥助も! 衛門も! 時雨も! 春も! 無事で何よりじゃ!」


お婆さんは時雨の手を取ると、両手で包み込んだ。その手は、粉と火の温もりで、想像以上に温かかった。時雨の肩から、ほんの少し力が抜けた。


お爺さんも畑から駆け寄り、五人の無事を喜んだ。


十兵衛と宗助も、笑顔で迎えてくれた。


「光、よく戻ったな」


十兵衛が、光の肩を抱く。


「ああ、父上。ただいま」


宗助は、椿の姿を見つけると、ほっとした表情を見せた。


「春、無事で良かった。心配したんだぞ」


「兄ちゃん……ただいま」


椿は、宗助の胸に顔を埋めた。宗助の手が、彼女の頭を優しく撫でる。その手は、山仕事で固くなっていたけれど、昔と変わらず優しかった。


(帰ってきた。この家族のもとに)


彼女は、本編の記憶を思い出していた。本編では、春は鬼に殺され、この帰還を見ることはできなかった。でも、今は違う。春として、この家族の一員として、ここにいる。


時雨は、少し離れた場所で、その光景を静かに見つめていた。家族の温もりを、自分には遠いもののように感じている、そんな目だった。


「時雨、こっちにおいで」


椿が手を差し伸べると、時雨は少し戸惑いながらも、ゆっくりと歩み寄った。その歩みは、まるで薄氷を踏むかのようにおぼつかない。


「この人が、時雨。私たちの、新しい家族だよ」


お婆さんが、にっこりと笑った。


「まあまあ、綺麗な娘さんじゃ。さあさあ、中へお入り。団子を食べて、ゆっくり休んで」


時雨は、お婆さんの温かい笑顔に、わずかに目を潤ませた。


「……ありがとうございます」


その時、十兵衛が奥から顔を出した。


「おお、皆無事で何より——」


十兵衛の目が、時雨の姿を捉えた。見慣れない黒装束の少女。鋭い目つき。だが、その奥に、この場所にいて良いのか迷うような、寂しげな影を感じ取ったのか、十兵衛は小首をかしげた。


「……そちらの娘さんは?」


「ああ、父上」


光が一歩前に出た。


「彼女は時雨。旅の途中で出会って、共に鬼ヶ島まで戦ってくれたんだ。すごいくノ一なんだぜ」


「ほう、くノ一……」


十兵衛は、まじまじと時雨を見つめた。時雨は、わずかに居心地悪そうに視線を逸らす。


「……時雨、です」


「そうか、時雨殿。私は十兵衛。桃太郎——いや、光の父親だ。息子が世話になったな」


十兵衛が時雨の肩に手を置いた。その手のひらの熱に、時雨の体がわずかに強張った。誰かに触れられることに、まだ慣れていないのだ。でも、その手を振り払うことはしなかった。


「いえ、私の方こそ……」


時雨が言いかけた時、十兵衛が突然、手をポンと打った。


「もしかして、嫁さんか!」


「「「えっ」」」


光と時雨の声が、見事に重なった。椿は吹き出すのを必死にこらえている。弥助は腹を抱えて笑い出した。


「ち、父上! 何を言い出すんだ!」


「違うぞ光、私は真剣だ。こんなに美しい娘さんが、わざわざ鬼ヶ島までついてくるはずがない。これはもう、そういうことだろう」


「そういうことって何だよ!」


光の顔が真っ赤になる。時雨は俯いたまま、耳の先まで赤くなっていた。


「……べ、別に、そういうわけでは……」


「おや、違うのか?」


十兵衛は、少し残念そうに眉を下げたが、すぐににっこりと笑った。


「まあ、今は違っても、これからどうなるかわからんぞ。私は、楽しみにしておるよ」


「……もう、父上ってば」


光が頭を掻く。時雨はまだ俯いているが、その口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。拒絶ではない、戸惑いの中に芽生えた、かすかな安堵。


椿は、その光景を見つめながら、胸が温かくなるのを感じた。


(時雨が、家族に受け入れられていく。本編では描かれなかった、この温かい時間。これも、歴史が変わったからこそ生まれた、新しい「安堵の光」なんだ)


彼女は、そっと時雨の手を握った。


「……時雨、よかったね」


時雨は、椿の顔を見つめ、小さく、でも確かに頷いた。


「……うん」


「今の時雨、私が知ってる時雨とは少し違うわ」


時雨は顔を見上げた。


「物語の時雨は、鬼ヶ島で桃太郎と共に歩む決意を固めて、ここに来た時は既に妻のように凛としてた。私が生きている影響ってこんなにも出るのね…今のあなたは…妹のように愛おしく感じる」


「…ーッ」


時雨の顔が再び赤くなる。その姿はまるで、黒装束を纏ったただの乙女だった。


三:頭領の新しい生活、そして宗助と時雨


頭領は、村のはずれにある小さな空き家に住むことになった。


彼は、誰にも頭領と呼ばれることを望まなかった。名もなき一人の男として、田畑を耕し、家を建て、新しい生活を始めた。


最初は村人たちも警戒していたが、彼の真摯な働きぶりを見て、次第に心を開いていった。


「おい、手伝おうか?」


弥助が声をかけると、頭領は少し照れたように笑った。


「……助かる」


二人は並んで畑を耕した。かつて敵同士だった者たちが、今は同じ鍬を手に、同じ土を耕している。


椿は、その光景を遠くから見守りながら、静かに微笑んだ。


(これでいい。これが、私の望んだ未来だ)


ある日、宗助が頭領の家を訪ねてきた。彼の手には、十兵衛が作ったという小さな机があった。


「これ、父ちゃんが。『新しい生活に必要だろう』って」


頭領は、その机をじっと見つめた。そして、その机の表面を、傷つけることを恐れるように、そっと指でなぞった。誰かが自分のために作ってくれたもの——その感触を、彼は長い間、忘れていた。


それから宗助の顔を見た。宗助は、かつて自分たちの村を襲った鬼の頭領だとは知っている。それでも、彼の目には、敵意も恐怖もなかった。


「……ありがとう。大切に使わせてもらう」


「あの、一つ、聞いてもいいですか」


宗助は少し言いにくそうにしながらも、頭領の目をまっすぐ見て尋ねた。


「どうして、鬼ヶ島ではあんなことを……」


頭領は、遠くの山を見つめながら、静かに答えた。


「……生きるためだ。奪わねば、死ぬ。それが、あの島の掟だった。わしは、ただ、皆を生かしたかった」


宗助は、しばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「……わかりました。俺も、家族を守るためなら、何だってすると思います。でも、これからは、一緒に田畑を耕しましょう。奪うよりも、作る方が、きっといい」


その言葉に、頭領の目が、わずかに潤んだように見えた。


「……ああ」


そのやり取りを、時雨が物陰から静かに見つめていた。椿が近づき、声をかける。


「どうしたの、時雨」


「……私は、仇を討った。でも、あの男もまた、誰かにとっては、守るべき家族のために戦っていたのだな」


時雨の声には、まだ迷いがあった。復讐を終えてもなお、心の整理はついていない。


「そうだね。憎しみの連鎖って、そういうことなんだと思う」


椿は、時雨の隣に立った。


「でも、宗助は、それを知った上で、新しい道を選んだ。時雨も、もう選んでるんだよ。ここで、生きていくって」


時雨は、何も答えなかった。ただ、宗助と頭領が、並んで田畑を耕す姿を、じっと見つめていた。


四:命に寄り添う——時雨と椿


村での生活が落ち着き始めた頃、お婆さんから声がかかった。


「隣村にね、もうすぐ産まれるっていうおなかの大きな子がいるんだよ。人手が足りないらしくてね。よかったら、お前たちも手伝ってやってくれないかい?」


椿は二つ返事で引き受けた。そして、時雨の手を引いた。


「時雨も行くよ」


「……私が?なぜ」


「いいからいいから」


時雨は戸惑いながらも、椿に引っ張られるようにして、その妊婦の家を訪ねた。


家の中は暗く、空気は淀んでいた。妊婦は、薄い夜具に横たわり、苦しそうに息をしている。その頬はこけ、目はうつろだった。椿は、本編の記憶が蘇るのを感じた。これは、春の母・幸がそうだったように、栄養失調と過酷な労働で追い詰められた、この時代の妊婦の姿だ。


椿は、持参した薬草を煎じ、妊婦の額の汗を拭い、手を握った。その手は、氷のように冷たかった。


「大丈夫。赤ちゃんも、あなたも、きっと元気になるから」


時雨は、ただ立ち尽くしていた。何をすればいいのか、わからない。人を殺める術しか知らない自分が、新しい命を育む場にいることへの、強烈な場違い感。


椿は、時雨の手を取り、妊婦の大きく膨らんだ腹に、そっと触れさせた。


「……っ」


時雨の指が、ぴくりと震えた。腹の奥で、新しい命が、確かに動いていた。小さな足が、彼女の手のひらを内側から押した。それは、蹴るというにはあまりに弱々しく、でも確かに「生きている」と主張する動きだった。その感触が、手のひらから、時雨の固く閉ざされた心に、直接響いてくるようだった。


「あったかい……」


時雨の口から、かすかな声が漏れた。その目は、妊婦のお腹を見つめたまま、大きく見開かれている。椿は、時雨の横顔を見ながら、心の中で呟いた。


(時雨は今、初めて「誰かを守る」ということに、手を伸ばしたんだ。復讐じゃない。任務でもない。ただ、目の前の小さな命に)


その日から、時雨は椿と共に、毎日その妊婦の家に通った。最初は何もできなかった時雨が、椿の真似をして汗を拭き、水を飲ませ、時にはただ手を握るだけの時間を過ごした。


そして数日後、無事に元気な女の子が産まれた。


産声を上げる赤子を抱き、涙を流す母親を見つめながら、時雨は自分の手のひらを見つめていた。つい先日まで、血に塗れていたその手は、今、新しい命の温もりを、確かに覚えていた。


帰り道、時雨がぽつりと言った。


「……お前は、私がこんなことをする未来も、知っていたのか」


椿は、首を横に振った。


「ううん。これは、時雨が自分で選んだことだよ。私はただ、ちょっと背中を押しただけ」


時雨は、それ以上何も言わなかった。ただ、村へと続く道を、来た時よりも少しだけしっかりとした足取りで、椿の隣を歩いていた。


五:ふたりの門出


それから一年が過ぎた春のこと。


村の小さな庵で、桃太郎と時雨のささやかな祝言が執り行われた。


十兵衛と宗助、老夫婦、弥助、衛門、そして椿。家族だけが見守る、本当に小さな式だった。


囲炉裏の火が、パチリと爆ぜた。弥助が鼻をすする音が聞こえる。盃が触れ合う、かすかな音——それらすべてが、この小さな祝言の「証」だった。


白無垢に身を包んだ時雨は、まるで雪の精のように美しかった。いつもの黒装束からは想像もできない、穏やかで、優しい姿。


「時雨……今日から、お前は俺の妻だ」


光の声は、少し震えていた。


「……はい。心は、鬼ヶ島に行く前から、決まっていました。でも、それを素直に認められるようになったのは、ここに来てからです。桃太郎、よろしくお願いします」


時雨の声もまた、震えていた。二人は、互いの目を見つめ、そして静かに微笑み合った。


弥助が、涙を拭いながら言った。


「おいおい、泣けてきちゃったじゃねぇか……良かったな、桃太郎!」


衛門は、そんなやり取りを見ながら酒を豪快に飲み、穏やかに微笑んでいた。


「おめでとうございます。お二人の未来に、幸多からんことを」


椿は、その光景を、目の奥が熱くなるのを感じながら見つめていた。


(本編では、見ることができなかった景色だ。二人の、この笑顔。これが、私が守りたかった「未来」の、一つの形なんだ)


宴もたけなわとなった頃、十兵衛が、少し照れくさそうに時雨の前に座った。


「時雨殿、いや、時雨。私は、お前を本当の娘だと思っている。だから、これだけは言わせてほしい」


十兵衛は、時雨の目をまっすぐ見つめた。


「よく、ここに来てくれた。私たち家族になってくれて、本当にありがとう」


時雨の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。八歳のあの夜以来、ずっと孤独だった少女は、十年の時を経て、ようやく本当の「家族」を手に入れたのだ。


「……私の方こそ……ありがとう、父上……」


その夜、村中が祝いの宴に沸いた。鬼と呼ばれた者たちも、村人たちも、垣根を越えて共に酒を酌み交わし、笑い合った。椿は、その光景を見ながら、心の中で呟いた。


(父さん、母さん……私、やっと、ここで生きていく意味を、見つけたよ)


六:継がれる味、紡がれる想い


祝言から数ヶ月後、時雨はお婆さんの元に通い詰めていた。


「婆様、きび団子の作り方を、私にも教えてください」


お婆さんは、全てを悟ったように、優しく微笑んだ。


「ああ、いいとも。あんたなら、そう言ってくれると思ってたよ」


時雨は、お婆さんの手の動きを、一言一句聞き漏らすまいと、真剣に見つめた。粉の量、水加減、捏ねる強さ、火加減。全てが、長年の経験と愛情から生まれる、言葉にできない「感覚」だった。


ある日、時雨は団子を丸める自分の手を見つめながら、ぽつりと言った。


「私、失敗したことがあるんです。桃太郎に教わった通りに作ったのに、ひどい味で。それを、あの人は『美味い』と言って、全部食べてくれた」


お婆さんは、手を止め、時雨の顔を見つめた。


「そうかい。そりゃあ、いい男だねぇ。味なんてものはね、最後は気持ちなんだよ。誰かのために、おいしくなってほしいと願う、その心が一番の隠し味さ」


時雨は、自分の右手首にある、小さな火傷の痕をなぞった。あの日、初めて誰かのために作った団子。その失敗の記憶と、それを受け止めてくれた温かさが、この痕には詰まっている。


「……はい。私も、そんな団子を作れるようになりたいです」


お婆さんは、何も言わず、ただ優しく時雨の頭を撫でた。


七:喜備丸、光のもとへ


翌年の春。桜が満開の季節、時雨は激しい陣痛の末、元気な男の子を産み落とした。


「オギャア! オギャア!」


力強い産声が、庵中に響き渡った。その声は、時雨の胸の奥にまで響いてきた。それは、これまで聞いたどんな声よりも、力強く、温かく、そして——自分がこの世に生み出した命の、最初の叫びだった。


「時雨……!よく頑張ったな……!」


光は、汗でぐっしょり濡れた時雨の手を握りしめ、涙を流した。


時雨は、弱々しくも、確かに微笑んだ。その腕には、小さな、小さな命が抱かれている。


「この子……どんな子になるかしら」


「きっと、優しい子になるさ。お前みたいにな」


時雨は、笑いながら光の手を軽く叩いた。


「……もう」


光は、赤子を抱き上げた。小さな指が、光の指をぎゅっと握る。


「この子の名は……喜備丸だ。椿が言った通り男の子が産まれたな…もう本気で信じるしかないな!」


時雨は、その名前を口の中で繰り返した。


「喜備丸……喜備丸……本当にいい名前ね」


彼女の目から、涙が一筋流れ落ちた。それは、喜びの涙だった。そして、彼女は心の中で、遠い過去に別れた母に語りかけた。


(母さん……私も、母さんと同じように、この子を愛せるだろうか。あなたが私を愛してくれたように)


——その問いと共に、彼女の脳裏に、八歳のあの夜が蘇る。


押し入れの裏の隠し部屋。母の手が、震える彼女の肩を強く押した。その手も、いつもと違って冷たかった。


「絶対に、声を出してはいけません」


それが、母の最期の言葉だった。襖の隙間から見えた母の背中は、いつもよりずっと小さく見えた。そして——血に染まりながらも、母は振り返り、時雨の方を見て、微笑んだ。口が微かに動いた。「大丈夫」——いや、「愛している」——そうだったのかもしれない。


(あの時、母は私を守るために、自分の命を投げ出した。今度は——私が、この子を守る番だ)


時雨は、腕の中の喜備丸を、ぎゅっと抱きしめた。その小さな温もりが、彼女の胸にじんわりと広がっていく。


八:影の戦士として


喜備丸が生まれてしばらくした、ある夜。椿は一人、井戸のそばに立っていた。


水面に映る月が、揺れている。


(私は、影の戦士として、この歴史の裏側を支える。誰にも知られず、歴史にも残らず。でも——確かにここにいる)


彼女は、自分の手を見つめた。傷だらけで、豆が潰れて硬くなった、戦士の手。


(十兵衛は、新しい家族を得た。宗助は、自分の道を見つけた。光と時雨は結ばれ、喜備丸が生まれた。歴史は変わった。でも、大きな流れは、ちゃんと繋がっている)


風が吹き抜け、水面が揺れた。


彼女は、空を見上げた。月が、静かに輝いている。


「……私は、この世界に送り込まれたのかな…太幽によって…それならば…この改変も彼の意思…?」


実はそうなんです!と言いたい作者がいる。


九:ふたりの見送り


それから二年が過ぎた秋の暮れ。


お爺さんが、眠るように静かに息を引き取った。朝、いつものように畑に出ようとして、そのまま倒れたのだ。苦しんだ様子はなく、ただ穏やかな顔をしていた。


お婆さんは、お爺さんの遺体に寄り添い、涙一つ見せずにその手を握っていた。そして三日後の夜、まるで待ち合わせていたかのように、静かに後を追った。


二人の墓は、村を見下ろす小さな丘の上に、並んで立てられた。生前、お婆さんが「ここからなら村がよく見える」と言っていた場所だ。


葬儀の日、村人たちは皆、涙を流した。鬼と呼ばれた者たちも、深く頭を下げて別れを惜しんだ。十兵衛は墓前に酒を供え、宗助はただ黙って手を合わせていた。


光は、墓の前で長い間立ち尽くしていた。


「爺様……婆様……本当に、ありがとうございました」


その目から、涙が静かに流れ落ちた。


時雨は、そんな光の手を、そっと握った。彼女の胸には、喜備丸がすやすやと眠っている。


「二人は、幸せだったわ。私たちがいるのを見て、安心して旅立ったのよ」


光は、静かに頷いた。


「……ああ。俺たちも、あんなふうになれるだろうか」


「なれるわ。きっと」


時雨は、優しく微笑んだ。


椿は、少し離れた場所から、その光景を見つめていた。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。


(もっと長生きしてほしかった。でも、これが人の寿命なんだ。私には、それを止められない)


彼女は墓前に歩み寄り、そっと手を合わせた。


「婆ちゃん、爺ちゃん。私、ここでちゃんと生きていくから。見守っててね」


風が吹き抜け、墓の周りのすすきが揺れた。風が運んできたのは、かすかに団子の粉の匂い。それは、お婆さんがいつも台所でまとっていた、甘くて優しい匂いだった。まるで、二人が応えたかのように。


【次回予告】


(——はぁ。ようやく、少しだけ落ち着いたかな)


「頭領は生きてる。時雨は桃太郎と結婚した。喜備丸も生まれた。宗助も父ちゃんも、元気にやってる。老夫婦は……旅立っちゃったけど、最後まで笑顔だった。私、ちゃんと見送れた」


(……うん。私、この世界に来てよかった。そう思えるようになった)


「でも——ここからが、本当の『影の戦士』の始まりなんだよね」


「本編では、この後、秀吉の時代が本格的に動き出す。桃太郎たちは歴史の表舞台には立たない。でも、その『影』で、確かに生き続ける。私も、その一人として、これから歴史の裏側で動いていく」


「何を守って、何を変えるのか。それは、まだわからない。でも——決めてるんだ」


「私は、この世界で生きる。父さんの言葉を胸に、『これからどう生きるか』を、自分で選び取っていく」


「次回、第10話『影の暗躍』。私の、新しい戦いが始まる——」


「……あ、でもその前に、喜備丸の成長を見守るのも大事だよね! だってあの子、将来『時雨の焼印』を継ぐんだよ!? 歴史が変わって、もしかしたら私が団子屋を手伝う未来もあるかも……? いやいや、それはやりすぎか。自重自重」


(……でも、ちょっとだけ、想像しちゃうんだよね。私が焼印を押す団子を、五百年後の誰かが食べる未来を)


「よし、行くぞ! 待ってろ、未来! そして——太幽、見てろよ! 私はまだまだ、お前の想像を超えていくからな!」


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【第9話・完】


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