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作者への反逆〜転生したので、春の運命を書き換えてみせます〜  作者: 太幽


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第10話「影の暗躍」

第10話「影の暗躍」



村に平和が戻ってから、いく月日が流れただろう。


椿は、十兵衛たちと暮らす家の縁側に座り、遠くの山々をぼんやりと眺めていた。空は高く、秋の雲がゆっくりと流れている。風が運ぶ稲穂の香りに、今年の収穫も悪くないと、ふと思う。


かつてお婆さんが座っていた場所に、今は自分がいる。そのことが、少しだけ不思議に感じられた。


(婆ちゃんは、ここから何を見てたんだろう)


家族の笑顔。村の営み。そして、遠くから忍び寄る戦の影。お婆さんはすべてを知りながら、あの温かい笑顔で団子を焼き続けていた。その強さが、今の椿には少しだけわかる気がした。


遠くの山の稜線が、夕日に染まっていた。あの高台——桃太郎と時雨が、いつも村を見下ろしている場所だ。本編の最終話で、二人が永遠の時を生きる精霊のように立っていた、あの場所。今、自分はその麓で、同じように村を見つめている。


(私も、いつかあの高台に立てるだろうか。誰かを見守る者として)


ふと、母・幸のことを思い出す。出産の直前、彼女は「光が生きるなら、それでいい」と微笑んだ。自分の命と引き換えに、我が子の未来を選んだのだ。


(あれが、母の覚悟か。時雨も、いつか母になる。その時、同じ覚悟を持つんだろうか)


自分には、まだわからない。誰かのために命を懸けるということが、どれほどの重みなのか。


「春、何をぼうっとしてるんだ」


宗助が鍬を担いで通りかかった。額には汗が光っている。


「別に。兄ちゃんこそ、また畑?」


「当たり前だろ。頭領——いや、あの人が意外と力仕事が得意でな。助かってる」


宗助は笑いながら、村はずれの方角を親指で指した。かつて鬼と呼ばれた男が、今では村一番の働き者になりつつある。椿はその姿を思い浮かべ、口元をほころばせた。


(あの人の墓、ちゃんと立ったんだろうか)


潮風と共に投げ捨てた短刀のことを、ふと思い出す。もう遠い昔の出来事のようにも感じられた。


「そういえば、都から旅の商人が来てるらしいぞ。珍しい布とか売ってるみたいだ。時雨あたり、喜ぶんじゃないか」


「時雨はそういうの興味あるのかな」


「さあ。でも、たまには女らしいものを見せてやれよ。お前が選んでやればいい」


椿は小さく笑って、縁側から腰を上げた。


(都の商人、か)


ただの布売りではない。この時代、行商人は情報を運ぶ媒体でもある。彼女は宗助に手を振り、村の入り口へと歩き出した。



商人は、村の入り口にある大きな榎の木の下に、簡素な筵を広げていた。色とりどりの布や紐、針などの小間物が並べられている。すでに数人の村の女たちが集まり、品定めに夢中になっていた。


椿はその輪の外れから、商人の顔を盗み見る。年の頃は四十前後、浅黒い肌に無精髭。目つきは鋭いが、客に話しかける口調は柔らかい。手の動きに無駄がなく、品物を広げる仕草も手慣れている。


(この人、只者じゃないな)


商いの最中、時折、商人の視線が村の奥——十兵衛たちの家や、頭領が住む空き家の方角——に向けられるのを、椿は見逃さなかった。それだけではない。商人の纏う空気には、かすかに鉄の匂いが混ざっていた。まだ遠くの戦場の、しかし確実に近づいている戦の気配。戦を知る者だけが漂わせる、独特の緊張感だ。


「これはまた、綺麗な布だねえ」


一人の女が、藍色に染められた布を手に取った。


「お目が高い。それは京の都でも流行りの染めでございます。お嬢さんのお着物にいかがです?」


商人はにこやかに答えながらも、その目は笑っていない。椿は一歩前に出た。


「都の流行り、か。でも、こんな山奥の村にまで売りに来るなんて、よっぽど売れ残ったのかな」


商人の視線が、椿に留まった。一瞬、その瞳の奥が値踏みするように細められる。


「これはこれは、お若いのに手厳しい。しかし、良い品は場所を選びません。それに——」


商人は声を潜めた。


「都は今、物騒でございますからな。戦の噂が絶えず、落ち着いて商いもできません。こうして地方を回る方が、よほど気が楽でございます」


「戦の噂?」


「ええ。尾張の織田様が、いよいよ京を目指すとか。それが本当なら、これからもっと物が動きます。品物だけではございません。人も、情報も——」


商人はそこで言葉を切り、再び愛想笑いを浮かべた。


「お嬢さん、この布、いかがです? お肌に優しく、それでいて丈夫。これからの季節にぴったりですよ」


椿は藍色の布を受け取り、しげしげと眺めるふりをした。指先に伝わる織りの感触。悪くない。しかし彼女の頭の中は、別のことでいっぱいだった。


(織田信長、京を目指す。本で読んだ通り、時代は動き始める)


彼女は布を筵に戻し、首を振った。


「ごめんなさい、今はいいわ」


「そうでございますか。またの機会に」


商人は特に残念がる様子もなく、次の客に向き直った。


椿はその場を離れ、家へと足を向けた。胸の奥が、ざわついている。商人がただの布売りでないことは、ほぼ間違いない。誰かの手の者だ。問題は、誰の、どんな目的でこの村を探っているのか。


(秀吉か、それとも——)


まだ名前も知らぬ武将たちの影が、頭の中を巡る。彼女は足を速めた。



「衛門さん、相談があるの」


椿は家の裏手にある小さな納屋を訪ねた。衛門が刀の手入れをしながら、一人静かに過ごす場所だ。圓との再会を果たしてからというもの、彼は以前にも増して落ち着きを身につけたように見える。その目には、長年探し続けた娘を取り戻した者の、静かな安堵があった。


衛門は顔を上げ、椿のただならぬ様子に眉を動かした。


「どうした、珍しいな。お前が相談とは」


椿は、先ほどの商人のことを話した。都の情報、村への不自然な関心、そして「織田信長が京を目指す」という言葉。


衛門は刀を置き、腕を組んだ。


「なるほど。その商人、おそらくは織田方の間者だろう。この辺りの地理や、村々の様子を探っている。中国攻めの足がかりとして、吉備の地は重要な拠点だからな」


「やっぱり、そうなんだ」


「いずれ、もっと大々的に人が来るだろう。その下調べというところか」


衛門の声は落ち着いていた。動じる様子はない。


「衛門さんは、どうするつもり?」


「どうもしないさ。我々はただの農民だ。領主に従い、年貢を納め、静かに暮らす。それ以外の顔を見せる必要はない」


「でも——」


「椿」


衛門は、初めて椿の本当の名を呼んだ。その声には、諭すような響きがある。そしてその目は、圓を見つめる時のそれと同じだった。娘を案じる、父の目だ。長年、圓という娘を探し続け、ようやく再会を果たした衛門は、今、もう一人の「守るべき娘」を、確かに見つけていた。


「お前は多くのことを知っている。だからこそ、焦るな。動くべき時は、必ず来る。だが今はまだ、その時ではない」


椿は唇を噛んだ。衛門の言うことは正しい。だが、じっとしていることの難しさを、彼女は鬼ヶ島で痛感していた。


「……わかった。でも、私にもできることをさせて。情報を集めるとか、村の見回りをするとか」


衛門はしばらく考え、小さく頷いた。


「よかろう。ただし、無理はするな。お前は一人で抱え込む癖がある」


「……うん」


椿が納屋を出ようとした時、衛門の声が背中にかかった。


「椿、一つ聞きたいことがある」


その声の調子が、先ほどまでとは違っていた。諭すような響きではなく、もっと深い、個人的な問いかけの気配。椿は足を止め、振り返った。


「……はい」


衛門はしばらく迷うように視線を落とし、それからゆっくりと口を開いた。


「お前は、その……『物語』とやらで、私のことも知っているのだろう」


椿の胸が、小さく跳ねた。


「……はい」


「ならば、私が娘を探していることも、知っているな」


衛門の声は静かだった。責める響きはない。ただ、長年抱え続けてきた重荷を、そっと差し出すような声音だ。


「……知っています。圓という名の、二歳で生き別れた娘さんを。二十五年以上、ずっと探し続けていることも」


衛門の目が、わずかに見開かれた。やはり、という表情。そして、その後に続く言葉を、彼はじっと待っている。


椿は唇を噛んだ。言いたい。圓は生きている。秀吉の側近として、くノ一として、立派に育っている。そしていつか、あなたと再会し、「お前は私の誇りだ」という言葉を受け取る——そう伝えたい。


でも、言えない。それを言ってしまえば、衛門と圓の再会の形が変わる。圓が父の存在をより早く知れば、彼女の人生が変わる。歴史が、また大きく揺らぐ。


「……ごめんなさい。言えないんです」


椿は俯いた。自分の無力さが、情けなかった。


「圓さんのことは知っています。でも、それを今、あなたに伝えることはできない。伝えてしまったら、きっと、変わってしまう未来があるから」


長い沈黙が、納屋を包んだ。


やがて、衛門は深く息を吐き、小さく頷いた。


「……わかった」


「衛門さん……?」


「お前が言えぬというなら、それでいい。私も、聞くまい」


衛門の声には、諦めではなく、確かな覚悟が滲んでいた。


「お前が黙っているのは、何か意味があるからだろう。圓のためか、私のためか、あるいはもっと大きな『歴史』のためか——それはわからぬ。だが、お前を信じると決めた以上、私は待とう」


椿の目が、熱くなった。衛門は、圓の生存を確かめたいはずだ。一目でいい、生きていると知りたいはずだ。それでも彼は、「待つ」ことを選んだ。椿の言葉を、椿の沈黙を、信じることを選んだのだ。


「……ありがとうございます」


「礼には及ばぬ」


衛門は、納屋の小さな窓から差し込む夕日を見つめた。その横顔には、深い疲労と、それでも消えない希望が刻まれている。


「私は、二十五年待った。あと数年、待てぬわけがない」


椿は何も言えず、ただ深く頭を下げた。


(あと数年——その言葉が、胸に刺さる)


彼女は知っている。衛門は圓と再会した後、二年ほどで亡くなることを。張り詰めていたものが切れてしまうことを。


不意に、衛門が低く呟いた。


「生きて……いるのだな。圓は」


その声は、問いかけというよりも、自分自身に言い聞かせるような響きだった。椿は答えなかった。答えられなかった。しかし、その沈黙こそが、衛門にとっては何よりの答えだった。


「……そうか」


衛門の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。それは笑みと呼ぶにはあまりに小さく、しかし確かに、二十五年間張り詰めていた何かが、ほんのわずかに解れた瞬間だった。


(——まずい)


椿の胸が、ぎゅっと締め付けられた。衛門は今、「圓は生きている」という事実だけで、少しだけ救われてしまった。でも、それでは足りない。それだけでは、彼は——


その時、衛門が再び口を開いた。


「だが……まだ死ぬわけにはいかぬ」


椿は顔を上げた。衛門の目に、先ほどまではなかった光が宿っている。


「俺は、あいつに伝えねばならぬことがある」


「……伝えねばならぬこと?」


「ああ」


衛門は、懐からあのぼろぼろの産着を取り出し、じっと見つめた。


「母は、お前を守って死んだのだと。お前の母は、最期までお前を愛していたのだと。それを、この口で伝えねばならぬ」


産着を握る手に、力がこもる。二十五年間、彼の胸の中で温められてきた布。そこには、妻の想いと、自分が伝えられなかった言葉が、ぎゅっと詰まっている。


「すまなかった、とは言うまい。私は、父として、何もしてやれなかった。だが——母だけは、お前を愛していた。それだけは、絶対に伝えねばならぬ」


衛門の声は、かすかに震えていた。それは、二十五年間、誰にも言えなかった言葉だった。妻が最期に残した「すまない」という言葉。その真意を、衛門は娘に伝えたいのだ。母は、お前を置いていくことを、誰よりも悔やんでいたのだと。


椿の目から、涙がこぼれた。


(そうか。衛門さんは、圓に「母の愛」を伝えるために生きているんだ。「お前は私の誇りだ」だけじゃない。「母はお前を愛していた」——その言葉を、自分の口で伝えるまでは、死ねないんだ)


「……衛門さん」


「だから、私はまだ死ねぬ。圓に会うまでは。そして、あいつに伝えるまでは」


衛門は産着を懐にしまい、椿を見つめた。その目には、先ほどまでの疲労とは別の、確かな炎が灯っていた。二十五年間、彼を生かしてきたのは「娘を探す」という執念だった。しかし今、彼の中に新たな炎が灯った。「娘に伝える」という、より強い、より具体的な使命が。


「椿。お前は、その『物語』の中で、私が圓にそれを伝えられたかどうか——知っているのか」


椿は、涙で濡れた顔で、静かに微笑んだ。


「……はい。知っています。あなたは、ちゃんと伝えられます。圓さんに、あなたの言葉で」


衛門は、長い沈黙の後、深く息を吐いた。


「……そうか」


その一言には、二十五年分の安堵と、まだ見ぬ未来への決意が、静かに滲んでいた。


椿は、衛門の目をまっすぐ見つめて、続けた。


「でも——物語の圓と、この世界の圓は違います。だから、あなたの口で、その責任を果たしてくださいね」


衛門の目が、わずかに見開かれた。それから、彼は小さく笑った。長年、知将として数多の者を見抜いてきた男が、今、一人の少女に諭されている。そのことが、なぜだか彼には心地よかった。


娘が生きている。伝えねばならぬことがある。その責任は、誰にも委ねられぬ。物語の自分ではなく、今ここに生きている自分が、果たさねばならないのだ。


「……ああ。必ず」


衛門は、夕日に染まる納屋の中で、静かに、しかし確かに誓った。


(責任、か。そうだ。私は二十五年、ただ娘を探すことだけに必死で、その先のことなど考えられずにいた。だが——「伝える」こともまた、私の責任なのだな。圓の母が、最期まで圓を愛していたことを。その責任を果たすまでは——死ねぬ)


椿は、衛門のその横顔を見つめながら、心の中で呟いた。


(これで、衛門さんの「緊張の糸」は切れない。圓に「母の愛」を伝えるまでは。それに——「物語と違う」って伝えたことで、衛門さんはきっと、もっと強く生きようとするはず。だって、「この世界の圓」に会うまでは、死ねないんだから)


椿はもう一度頭を下げ、今度こそ納屋を後にした。外に出ると、夕日が村を赤く染めていた。彼女は立ち止まり、空を見上げる。涙が一筋、頬を伝った。


(衛門さんは、あと数年で逝ってしまう。でも、その前には必ず圓と再会する。その瞬間を、私は見届ける。見届けて、そして——「よかったね」って、心の中で言うんだ)


彼女は涙を拭い、歩き出した。



山に入ると、木々の間から弥助の声が聞こえてきた。


「桃太郎! 踏み込みが甘い! もっと腰を入れろ!」


「わかってるって!」


光と弥助が、木刀を手に打ち合っている。弥助の動きは相変わらず猿のように素早く、光はそれを必死に追いかけていた。


(——キタァァァァ!! 弥助の、あの動き! 本編で読んだ通りの、まるで猿のような身のこなし! 文字で読んで想像してたのと、実際に見るのとじゃ、全然違う! 重心の移動が無駄なく滑らかで、それでいて野生の獣みたいな躍動感がある!)


椿は少し離れた倒木に腰を下ろし、二人の訓練を眺めた。表向きは静かに。しかし心の中は、お祭り騒ぎである。


(ああっ、今のステップ! 右に行くと思わせて左! 光が完全に翻弄されてる! かわいい…! いや、かっこいい…! もう、どっちも最高!)


弥助の動きには、人間の師から教わったものとは違う、もっと原始的な何かがあった。山そのものが、彼の師だったのだ。本編で読んだ、幼い頃に老猿に手を引かれて村に戻ったエピソードが、椿の脳裏に蘇る。あの日、山の精霊に導かれた少年は、今、山の王のように木々の間を舞っている。


(この動きは、弥助が山で生き抜いてきた証なんだ。誰にも真似できない、彼だけの戦い方)


光の剣筋は、旅に出る前よりもずっと鋭くなっている。無駄な力みが抜け、体重移動が滑らかだ。衛門の指導の成果だろう。


(桃太郎は、ちゃんと強くなってる。英雄としての道を、一歩ずつ進んでるんだ)


本で読んだ英雄の姿が、今、自分の目の前で形作られていく。その事実が、椿の胸をじんわりと温めた。


「春! 見てたのか!」


光が椿に気づき、手を振った。弥助も木刀を肩に担いで、にやりと笑う。


「どうだ、俺たちの腕前は」


「うん、すごく良かった。特に光、前よりずっと剣に迷いがなくなったね。弥助は…もう、言葉にならないくらい最高だった」


「ん? なんか俺への評価だけ気持ち悪いな」


「気のせいだよ!」


弥助は首をかしげながらも、まあいいかと笑った。


「そうか? 自分じゃよくわからないけど」


光は照れくさそうに頭を掻いた。その無邪気な仕草に、椿はふと、十兵衛が「嫁さんか!」と叫んだ時の真っ赤な顔を思い出し、笑いそうになるのを堪えた。


「なあ、春。俺、もっと強くなるからな」


光の声が、急に真剣なものに変わった。


「いつかまた、こういう戦が起きても、今度こそ誰も失わない。そのために、俺は強くなる」


椿は何も言えず、ただ頷いた。光の目には、鬼ヶ島で見た絶望の色はもうない。代わりに、守るべきものを自覚した者の、静かな炎が宿っていた。


(この子は、大丈夫だ。だって、彼は桃太郎なんだから)


彼女は立ち上がり、二人に背を向けた。


「私も、訓練するね。弥助、また相手して」


「おう、いつでも来い!」


椿は森の奥へと歩き出した。足音を消し、気配を薄め、風に溶けるように移動する。くノ一としての訓練は、彼女の心を無にし、余計な思考を洗い流してくれた。


(情報を集める。準備をする。でも、まだ動かない)


衛門の言葉が、頭の中で繰り返される。


木々の間を縫うように走りながら、椿は一つ、ため息をついた。


(焦るな、か。それが一番難しいんだよな)


その時、弥助がふと足を止め、鼻をひくつかせた。山の空気を、何かを探るように嗅いでいる。


「どうしたの、弥助」


「……いや、なんでもねぇ。気のせいだと思うが、最近、この山に見慣れねぇ匂いが混じることがある。獣でも、人でもねぇ。なんつーか…戦場の匂いに似てる。血の匂いでも、死の匂いでもない。もっと深く、もっと重い——何かを守るために戦い続けてきた者の、誇りと哀しみが混ざったような匂いだ」


椿の胸が、小さく跳ねた。


(戦場の匂い。何かを守るために戦い続けてきた者の匂い。それって、もしかして——)


まだ見ぬ「鬼の犬」——忠助の影が、彼女の脳裏をよぎった。本編で読んだ、秀吉の愛犬。戦場を駆け抜け、最後には老夫婦を愛し、桜の奇跡を起こした、あの白い犬。彼もまた、この時代のどこかで、戦っているのだ。



それから数日後、再び村に商人が現れた。前回とは別の男だったが、やはり品物の中に「都の情報」を紛れ込ませていた。


椿はさりげなく近づき、今度は少しだけ品物を買った。藍色の布ではない。ごく普通の木綿の布だ。


「お嬢さん、先日はお連れの方に藍染めをお勧めしましたが、今日はいかがです?」


「ああ、あの時の。あれはちょっと派手すぎて。こういうので十分よ」


椿は布を受け取りながら、何気なく尋ねた。


「そういえば、都の様子はどう? この前、戦が近いって言ってたけど」


「おや、お嬢さんは戦が気になりますか」


「気になるわよ。もし戦になったら、ここも危なくなるかもしれないし」


商人は声を潜めた。


「どうやら、織田様の家臣、羽柴秀吉というお方が、近々この吉備に兵を進めるとか。毛利と戦をするための、拠点づくりだそうです」


椿の指先が、布を握りしめた。


(秀吉。やはり来る。歴史は、ちゃんと動いてる)


商人の言葉の端々に、秀吉という男の人となりが滲んでいた。戦う前に、まず知る。それが彼の流儀なのだろう。本編で読んだ通り——秀吉は、武力だけでなく情報をも制する男だ。


「そう……ありがとう。気をつけて帰ってね」


彼女は布を抱え、商人から離れた。心臓が早鐘を打っている。秀吉が吉備に来る。それは、歴史の大きな歯車が、確実に動き始めたことを意味していた。


(準備をしなくちゃ。村を守るために。みんなを守るために)


椿は足早に家へと戻りながら、頭の中でこれから起こる出来事を整理した。備中高松城の水攻め。本能寺の変。秀吉の中国大返し。すべては繋がっている。その大きな流れの中で、自分は何ができるのか。


(今はまだ、動けない。でも——)


彼女は空を見上げた。秋の雲が、西から東へと流れていく。風向きが、少しずつ変わり始めていた。


弥助が感じ取った「戦場の匂い」。それが何を意味するのか、椿にはわかっていた。やがてこの村にも、秀吉の軍勢が訪れる。そして——あの「鬼の犬」も。


(シロ…いや、忠助。あなたも、この物語の大切な登場人物だ)


彼女は、遠くの山並みを見つめながら、心の中で呟いた。


(待ってるよ。あなたが、この村に来るのを。そして、あなたが桃太郎と出会い、新しい生き方を見つける瞬間を——私は、この目で見届ける)


家の近くまで戻ると、縁側で時雨が喜備丸をあやしている姿が見えた。時雨の手つきはまだ少しぎこちないが、その目は確かに「母」のものだった。喜備丸が小さな手で時雨の指を握り返すと、時雨の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


(時雨、お前はもう、ちゃんと母さんになってるよ)


椿は声をかけず、そのまま家の中へ入った。


【次回予告】


(——来た。ついに、来る。秀吉の軍勢が、吉備の地へ!)


「歴史の教科書でしか知らなかった戦国武将が、今、この村のすぐ近くまで迫ってる! しかも、その先鋒には——蜂須賀小六! 本編でもお馴染みの、あの豪傑が! そして、そして……!」


(心臓がバクバク言ってる。だって、秀吉の陣営には——)


「鬼の犬! 忠助! 後のシロ! 戦場を駆け抜けた伝説の軍犬が、今、この村の近くにいるんだよ! 弥助の鼻が捉えた『戦場の匂い』は、間違いなく彼のものだ!」


「本編で読んだ、桃太郎が忠助を救う場面。あれが、もうすぐ現実になる。私が、この目で見られるんだ……!」


(でも——それだけじゃない。秀吉の側近には、もう一人、重要な人物がいる)


「圓。衛門さんの娘。彼女もまた、この時代のどこかで、くノ一として生きている。衛門さんと圓の再会は、まだ先の話。でも、その伏線は、もうすぐそこまで来てる」


「次回、第11話『犬の嗅覚』。弥助の鼻が捉えた匂いの先に、何があるのか。私は、影の戦士として、この村を守り抜く——そして、推しの勇姿を、この目に焼き付ける!」


「……あ、でも忠助って、もふもふなのかな。白くて、ふわふわで、耳の先だけちょっと茶色い、みたいな? 想像しただけで癒される……って、違う違う! 戦支度、戦支度!」


(よし、行くぞ! 待ってろ、忠助! そして——圓! あなたのお父さんは、ここでちゃんと生きてるから!)


---


【第10話・完】

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