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作者への反逆〜転生したので、春の運命を書き換えてみせます〜  作者: 太幽


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第11話「犬の嗅覚」

第11話「犬の嗅覚」



羽柴秀吉の軍勢が吉備に入ったのは、紅葉が山々を赤く染める頃だった。


村には早馬が走り、秀吉の先鋒隊が近くの街道を通るという報せがもたらされた。衛門はすぐさま村人を集め、対応を指示した。表向きは従順な農民。年貢を納め、兵を出し、逆らわず、目立たず。それが彼の立てた方針だった。


椿は、十兵衛たちの家の裏手にある小さな丘に登り、遠くの街道を見下ろしていた。土埃を上げて進む兵の列。槍の穂先が陽光を反射して、無数の光の粒が揺れているように見える。鉄の匂い、馬の嘶き、地面を踏みしめる無数の足音。その振動が、足の裏から全身に伝わってくる。


(これが、秀吉の軍勢。歴史を動かす、生きた歯車だ)


本で読んだ描写が、今、現実として目の前に広がっている。でも——本で読んだ『戦国の軍勢』は、もっと無機質で、どこか遠い世界の出来事だった。文字の向こう側にある、ただの風景だった。今、肌に感じるこの振動は、生きた人間の足音だ。一人ひとりに名前があり、故郷があり、守りたいものがある。そのことを、彼女はこの時代に来て、骨の髄まで理解していた。


彼女は唇を噛み、じっとその光景を見つめた。その中には、歴史に名を残さぬ者たちも大勢いる。戦が終われば田畑に帰る兵。故郷に残した家族を想いながら、槍を担ぐ若者たち。彼らの顔は見えない。でも、その一人ひとりが、誰かにとっての「光」や「宗助」なのだ。


「春、何してるんだ」


振り返ると、時雨が立っていた。相変わらずの黒装束だが、村に来てからは少しだけ表情が柔らかくなった気がする。


「見てただけ。すごい数だね」


「ああ。あの中に、これからの天下を動かす者たちがいる。そして——その影で、名も残さず死んでいく者たちも」


時雨は椿の隣に立ち、同じように街道を見下ろした。風が吹き、二人の髪を揺らす。


「衛門から聞いた。お前は、あの軍勢に潜り込むつもりか」


「まだ決めてない。でも、情報は必要だし」


「なら、私が行く」


時雨の声に迷いはなかった。


「くノ一としての経験は、私の方が上だ。炊事場にでも潜り込めば、兵たちの雑談から多くのことが拾える」


「でも、危険だよ」


「危険でない戦などない」


時雨は、少しだけ口元を緩めた。


「それに、お前はここで桃太郎たちを守れ。お前には、お前にしかできないことがある」


椿は何か言いかけたが、時雨の目を見て、言葉を飲み込んだ。その瞳には、かつての冷たさはなく、代わりに静かな決意が宿っている。それは、鬼ヶ島で見せた復讐の炎とも違う、誰かを守るための覚悟の光だった。


「……わかった。でも、無理はしないで。何かあったら、すぐに知らせて」


「ああ」


時雨は踵を返し、丘を下りていった。その後ろ姿が、やがて木々の間に消える。椿はもう一度、街道の軍勢を見下ろした。


(時雨が動くなら、私は私で動こう。救えるものは、何でも)


彼女は拳を握りしめ、丘を駆け下りた。



秀吉の陣営は、村から半日ほどの距離にある川沿いの平地に設営された。


数百の幔幕が立ち並び、炊事の煙があちこちから上がっている。馬の嘶き、兵士たちの怒号、鎧の擦れる音——戦場の喧騒が、静かな吉備の地に異様な空気を運んでいた。


時雨は、村娘に扮して陣営に潜り込んでから、すでに半月が経っていた。炊事場で釜の火をくべながら、彼女は耳を研ぎ澄ませていた。兵士たちの雑談は、思いのほか多くの情報を含んでいる。


「聞いたか、秀吉様が備中高松城を水攻めにするって話」


「ああ、堤防を築くために人足を集めてるらしいぜ」


「毛利の援軍が来る前に、一気に落とすつもりか」


時雨は釜の灰を掻き出しながら、その言葉を一つ一つ記憶に刻んだ。水攻め。堤防。毛利の援軍。すべてが、椿から聞かされていた「未来」と一致する。


(あの女は、本当に何でも知っている。だが——それだけじゃない)


椿は「知っている」だけではなかった。彼女は、その知識を「誰かを救う」ために使おうとしている。宗助を救い、光を救い、そして今、この戦の影で犠牲になる名もなき者たちを救おうとしている。時雨は、そのひたむきさに、言葉にできない敬意を抱き始めていた。


彼女は小さくため息をつき、次の釜へと移動した。


その時、陣営の入り口の方で、兵士たちのざわめきが大きくなった。時雨は顔を上げ、声のする方を見やる。


一匹の犬が、陣営に入ってきた。


白い毛並み。耳には古い傷跡。首には金箔の施された立派な首輪。その犬は、兵士たちの間を縫うように歩き、やがて秀吉の幔幕の方へと消えていった。その歩みには、一切の迷いがない。まるで、この陣営の主は自分だとでも言うように。


「鬼の犬だ」


隣で釜をかき混ぜていた若い兵士が、畏怖のこもった声で呟いた。


「あの犬、秀吉様が一番信頼してるんだとよ。戦場じゃ誰よりも早く敵を見つけ、誰よりも多く敵を噛み殺す。化け物だ」


時雨は無言で釜の火をくべ続けた。だが、その目は、犬が消えた方角をじっと見つめていた。


(あの犬——ただ者ではない。椿が言っていた「鬼の犬」……)


彼女のくノ一としての勘が、警鐘を鳴らしていた。あの犬の纏う空気は、戦場で何度も嗅いだ死の匂いに似ている。だが、それだけではない——もっと深い、絶望のようなものが混ざっていた。獲物を狩る獣の目。しかし、その奥に、何か別のもの——深い孤独のようなものが潜んでいる気がした。



同じ頃、椿は村の近くの山道を歩いていた。


弥助から「山で妙な気配を感じる」と聞かされたからだ。鬼ヶ島の一件以来、弥助の野生の勘は誰よりも信用できる。彼が「妙だ」と言うなら、本当に何かがある。


椿は気配を消し、足音を立てずに山道を進んだ。木々の間を縫い、倒木を越え、沢の音に耳を澄ませる。くノ一としての訓練は、彼女の五感を限界まで研ぎ澄ませていた。


(——いる)


彼女は足を止めた。


前方の茂みの陰に、何かが潜んでいる。息遣いが聞こえる。獣のものだ。だが、ただの獣ではない。研ぎ澄まされた気配。獲物を狩る者の、静かな殺意。それは、時雨が初めて森に現れた時の気配に似ていた。


茂みが揺れ、その姿が現れた。


白い犬。耳には古い傷。首には金の首輪。


犬は椿をじっと見つめていた。唸り声一つ上げない。ただ、その目で彼女のすべてを見透かすように、静かに立っている。


椿の背筋を、冷たいものが走った。


【彼にとって、戦場こそが世界のすべてだった。勝利の歓声、敗者の断末魔、血の匂い、土の匂い——それらが混ざり合った戦場の空気こそが、彼の生きる場所だった。】

(『時雨の焼印』第18話:血と泥にまみれた過去)


(この犬——本で読んだ。秀吉の愛犬。戦場で「鬼の犬」と呼ばれた獣。そして、後に「シロ」として老夫婦に愛され、桜の奇跡を起こす——)


彼女は動かなかった。動けば、喰われる。理屈ではなく、本能がそう告げていた。全身の産毛が逆立つ。


犬はゆっくりと椿に近づいた。その足音は、ほとんど聞こえない。鼻先が、彼女の手の甲に触れる。湿った感触。温かい息。鉄と、土と、そして——かすかな血の匂い。


そして——犬は、ゆっくりと尾を振った。


椿は息を呑んだ。


「……お前、私を知ってるの?」


犬は答えない。ただ、じっと彼女の目を見つめている。その目は、何かを訴えていた。言葉を持たない獣が、ただ一つの方法で「助けてほしい」と叫んでいる——そんな目だった。その瞳の奥に、椿は不思議な既視感を覚えた。


(この目——。本で読んだ、忠助の目だ。戦場でしか生きられなかった獣が、初めて「誰かに愛される」ということを知った時の、あの目の原型が、ここにある)


彼女は恐る恐る手を伸ばし、犬の頭を撫でた。毛並みは思ったより柔らかく、耳の傷跡が指に触れる。


【その犬は、生まれながらにして戦場で生きることを運命づけられていた。戦乱の時代、武将たちは優れた猟犬を訓練し、戦場での斥候や追撃に利用した。彼はその中でも特に優れており、鋭敏な嗅覚と研ぎ澄まされた聴覚は、敵の動きを正確に読み取り、幾度となく主を勝利に導いた。】

(『時雨の焼印』第18話:血と泥にまみれた過去)


指先に伝わる硬い傷跡。それは、この犬がどれだけの戦場を生き抜いてきたかの証だった。刀傷か、矢傷か——一つ一つの傷が、彼の「生きるための戦い」を語っている。


「お前、私が知ってる以上に戦ってきたんだね。たくさん」


犬はされるがままになっていた。時折、尾を小さく揺らす。その仕草が、これまで誰にも許さなかった心の扉を、ほんの少しだけ開いたように見えた。


「春!」


遠くから弥助の声がした。犬は耳を立て、素早く身を翻すと、茂みの奥へと消えていった。その去り際、一瞬だけ椿を振り返ったように見えた。茂みに消える直前、彼は一度だけ立ち止まり、尾を小さく振った。まるで「また会おう」と言うように。


「春、大丈夫か! 今の、あの犬——」


「うん。大丈夫。可愛い犬だったね。」


椿は立ち上がり、犬が消えた方角を見つめた。胸の奥が、ざわついている。


(あの犬——ただの獣じゃない。何かを訴えている。それに、あの目は、助けを求めているようにも見えた)


弥助は眉をひそめ、犬の消えた茂みを見つめた。彼の鼻が、まだ空気の残り香を追っている。


「あの犬、秀吉の陣営にいたやつだ。なんでこんな所に」


「わからない。でも、敵意はなかった。むしろ——」


椿は言葉を切り、自分の手のひらを見つめた。犬の鼻先が触れた場所が、まだ少し温かい。


「私に、何かを伝えようとしてる気がする。それと、もしかしたら——誰かに、気づいてほしかったのかも」


(戦場で「鬼」と呼ばれても、お前はただの犬だ。誰かに撫でられたかった。ただ、それだけなんじゃないか…)



その夜、椿は家の縁側に座り、月を見上げていた。


時雨からの報告は定期的に届いている。秀吉の水攻めは着々と準備が進み、毛利の援軍を遅らせるための偽情報も流し始めたという。すべては順調に進んでいる。歴史の通りに。


(でも——あの犬)


彼女は目を閉じ、昼間の出来事を思い返した。白い犬。古い傷跡。金の首輪。そして、あの目。


(本で読んだ。秀吉の愛犬は、小牧・長久手の戦いで崖から落ち、桃太郎に救われる。そして、新たな生き方を教えられる。それはまだ、先の話だ)


彼女は立ち上がり、井戸のそばまで歩いた。水面に映る月が、静かに揺れている。ふと顔を上げると、遠くの山の稜線に、あの高台が見えた。桃太郎と時雨が、永遠の時を生きる精霊のように立っている場所。今、私はその麓で、同じ月を見上げている。


(あの犬は、軍犬だ。花咲か爺さんのお伽話でお馴染みの『ここ掘れワンワン』。軍犬で訓練を受けたからこそ財宝の匂いを嗅ぎ分けられる特殊能力。その能力が奇跡を起す。)


もしそうなら、彼女にできることは何だろう。歴史を大きく変えずに、一匹の犬を救う方法。それとも、物語の通り桃太郎の介入を待つか…。いや、違う。

救える命があるなら、手を伸ばす。それが、春としてここにいる自分の役目だ。


「眠れないのか」


声がして、振り返ると衛門が立っていた。


「衛門さん」


「時雨から聞いた。秀吉の陣営に、妙な犬がいるそうだな」


「うん。今日、山で会った。白くて、耳に傷があって、金の首輪をした犬」


衛門は少し考え込むように顎に手を当てた。


「その犬、ただの獣ではあるまい。お前も感じただろう」


「……うん。何か、人とは違うけど、獣とも違う。そんな目をしてた」


「関わるなとは言わん。だが、深入りもするな。お前には、守るべきものがある。お前自身も含めてな」


椿は小さく頷いた。衛門の言うことは正しい。だが、彼女の胸の奥で、何かが引っかかっている。


(あの犬は、私を待っていたような気がする。受ける印象が時雨の焼印の忠助と少し違う。それに——あの犬もまた、この戦国の世に翻弄される、一つの命なんだ)


彼女はもう一度、月を見上げた。どこかで、遠吠えが聞こえた気がした。



数日後、椿は再び山に入った。弥助には内緒だ。もし見つかれば、余計な心配をかける。


彼女は前回と同じ山道を進み、犬と出会った茂みの近くで足を止めた。気配を消し、耳を澄ませる。風の音、木々のざわめき、遠くの沢のせせらぎ。


そして——微かな息遣い。


茂みが揺れ、白い犬が姿を現した。相変わらず、唸りもせず、吠えもせず、ただじっと椿を見つめている。まるで、彼女が来るのをずっと待っていたかのように。


「……来たよ」


犬はゆっくりと近づき、彼女の手の甲に鼻先を触れた。前回と同じ仕草。椿はしゃがみ込み、犬の目線に合わせた。


「お前、名前はあるの」


犬は答えない。ただ、じっと彼女を見つめている。その首輪には、五三桐の紋が刻まれていた。秀吉の家紋だ。


「そっか。お前は、秀吉の犬なんだね。でも、それだけじゃないんだろ」


犬は尾を一度だけ、ゆっくりと振った。


「お前はただの犬じゃない。戦場でたくさん戦って、たくさん傷ついて、それでも生きてる。違う?」


犬は彼女の手のひらに、そっと自分の頭を押し付けてきた。撫でてほしいという仕草だった。その動作は、まるで何かを懇願するかのように、切実だった。


椿はその頭を、ゆっくりと撫でた。耳の傷跡。硬くなった皮膚。戦場で負った傷が、いくつも残っている。


「お前も、誰かに救われたかったのかな。戦うだけじゃない、ただ、生きるための理由が欲しかったのかな」


【桃太郎は、忠助の目をまっすぐ見つめて言った。「お前は、もう十分に戦った。次は、誰かに愛されて生きる番だ」その言葉を、忠助は全身で受け止めた。彼の尾が、初めてゆっくりと揺れた。】

(『時雨の焼印』第18話:血と泥にまみれた過去)


犬は何も答えない。ただ、されるがままに、彼女の手の温もりを受け入れている。その目が、うっすらと潤んでいるように見えたのは、気のせいだろうか。


椿は顔を上げ、空を見た。木々の隙間から、青い空が覗いている。


(この犬は、これから小牧・長久手で崖から落ちる。そして、桃太郎に救われる。それが、本で読んだ歴史)


(でも——)


彼女は犬の頭を撫で続けながら、考えた。


(もし、私がこの犬を救っても、歴史は大きく変わらないかもしれない。この犬が生きるか死ぬかで、誰かの命運が変わるわけじゃない。でも——この犬にとっては、それがすべてだ)


犬が、彼女の手のひらを舐めた。ざらりとした舌の感触。温かい。それは、戦場で敵を噛み殺す牙を持つ獣のものとは思えない、優しい仕草だった。


「……わかった。私にできることがあれば、するよ。でも、今はまだ、その時じゃないみたい。お前にはお前の、進むべき道がある」


犬はゆっくりと尾を振り、茂みの奥へと消えていった。その背中が、少しだけ寂しそうに見えた。茂みに消える直前、彼は一度だけ立ち止まり、尾を小さく振った。まるで「また会おう」と言うように。


椿は立ち上がり、服についた草を払った。


(歴史を変えずに、救えるものは救う。それが、私のやり方だ。歴史に影響しない者たちの命を、一つでも多く)


彼女は山道を下りながら、胸の奥でそう誓った。私は、桃太郎や時雨のように歴史を大きく動かすことはできない。でも——この犬の命を救うことは、私にしかできないかもしれない。誰にも知られず、歴史にも残らず、それでも確かに、そこにある命を。


【次回予告】


(——来た。ついに、秀吉の水攻めが目前に迫る!)


「時雨からの報告で、すべては順調に進んでる。毛利の援軍を遅らせる偽情報も流し始めた。歴史は、ちゃんと動いてる。でも——」


(私の胸には、もう一つのことが引っかかってる)


「あの白い犬。忠助。後のシロ。彼は今、まだ『鬼の犬』として戦うことしか知らない。でも、彼の目は、確かに私に何かを伝えようとしてた。『助けてほしい』って——」


「歴史を変えずに、救えるものは救う。それが、私のやり方だ。でも、彼を救う方法は、まだ見つからない。彼には彼の、進むべき道がある。桃太郎との出会いが、彼を変える——それは、私が邪魔していいものじゃない」


(でも——それでも、私は)


「次回、第12話『水面の月』。秀吉の水攻めが始まろうとする中、私は、影の戦士として、もう一つの戦いに挑む。誰にも知られず、誰にも気づかれず——それでも確かに、そこにある命を守るために」


「……忠助。待ってろよ。いつか必ず、お前が本当の幸せを見つける日まで——私は、お前を見守り続けるから」


(よし、行くぞ! 影の戦士、第二幕、開幕!)


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【第11話・完】

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