第8話「共犯の誓い」
第8話「共犯の誓い」
一:波の音だけが
鬼ヶ島の浜辺。
焚き火を囲む五人の間に、言葉はなかった。
光は膝を抱え、炎をじっと見つめている。炎が揺れるたび、彼の顔に濃い影が落ちては消えた。つい先ほどまで「鬼を退治する」と信じて疑わなかった少年の目は、もうどこにもない。正義も悪も、すべてがひっくり返った世界で、彼はただ、自分の手のひらを見つめていた。
弥助は仰向けに寝転がり、満天の星を見上げていた。手に持った木の実を弄ぶ指だけが、落ち着きなく動いている。彼の鼻は、まだ血と焦げた匂いを覚えている。炎が揺れるたび、彼の顔にも影が走った。
衛門は目を閉じ、背筋を伸ばして座っていた。だが膝の上の拳は固く握られ、時折、深いため息が漏れる。彼は最初から疑っていた。疑っていながら、何も言えなかった自分を、心の奥で責め続けていた。焚き火の光が、彼の皺深い顔を照らし出し、その苦悩を浮き彫りにしていた。
時雨は炎を見つめながら、自分の右手——つい先ほど、頭領の弟を斬った手——を見下ろしては、唇を噛んでいた。七年間、この瞬間だけを待っていた。その果てに残ったのは、血の温もりと、底の見えない虚無だけだった。左手は無意識に、火傷の痕がある右手首をなぞっている。その仕草だけが、彼女をかろうじて「人間」の場所に繋ぎ止めているようだった。炎が、彼女の横顔を不気味に照らし出していた。
椿は、焚き火の向こう側で、両腕で自分の体を抱えていた。
夜風は冷たくない。なのに、体の芯が震える。歯の根が合わないほどの寒さが、内側から這い上がってくる。
(もうすぐだ)
波の音が、遠くで繰り返す。寄せては返し、寄せては返し——まるで時間そのもののようなその響きが、やけに耳についた。
(もうすぐ、この夜が終わる。そして、何かが始まる)
彼女は、焚き火の向こうの四人を見つめた。光。弥助。衛門。時雨。この旅が始まってから、何度この光景を見ただろう。でも今夜は、空気が違う。誰も口を開かない。誰も笑わない。焚き火の爆ぜる音だけが、やけに大きく響く。
(ずっと、この瞬間が怖かった)
椿は、爪が手のひらに食い込むほど強く、拳を握った。痛みが、かろうじて彼女を正気に保っていた。
鬼の正体。頭領の弟。時雨の復讐。弥助の言葉。そして、みんなが立ち上がる瞬間。すべて、本で読んだ通りだった。一字一句、間違うことなく、この世界は「物語」の通りに進んだ。
(私は、ただ見ていた。全部知っていながら、指一本動かさずに)
それは正しいことだと、自分に言い聞かせてきた。歴史を大きく変えれば、喜備丸は生まれない。時雨の焼印も未来に紡がれない。だから——そう、だから。
(でも)
光が膝から崩れ落ちる姿が、脳裏に蘇る。
「……俺は……俺は一体……何を……」
あの声。あの涙。本で読んだ「文字」とは、まったく違うものだった。紙の上ではただの記号だったものが、今は生きた人間の、魂の悲鳴として、椿の胸に突き刺さる。
時雨が復讐を遂げ、虚しさに打ちひしがれる姿も。漁村で見た、ひっくり返った揺り籠も。すべて、本の中の出来事だったはずなのに——今は、あまりにも生々しく、あまりにも重く、椿の全身にのしかかっていた。
(私は、見ていることしかできなかった)
唇を噛む。血の味がした。鉄の味。今日、この島で流れた血と同じ味。
(それが、私の役目だって、わかってる。でも——)
彼女の目から、涙が一筋こぼれた。焚き火の光に照らされて、それは一瞬だけ輝き、土に吸い込まれて消えた。誰にも気づかれない、静かな涙だった。
二:衛門の目
「……春」
その声に、椿の心臓が跳ねた。
顔を上げると、衛門が目を開け、じっとこちらを見つめていた。焚き火の炎が、その瞳の中で揺れている。
「……はい」
声が掠れた。咄嗟に表情を取り繕うが、衛門の目はすべてを見透かしているようだった。
「お前、何か隠しているな」
光が顔を上げた。弥助が起き上がった。時雨も、手首から指を離し、椿を見つめた。四人の視線が、一斉に彼女に突き刺さる。
「……何のことですか」
「とぼけるな」
衛門の声に、怒りはなかった。ただ、静かで深い哀しみが滲んでいた。
「漁村に着いた時、お前は他の者ほど動揺していなかった。焼け落ちた家々を見ても、まるで——」
衛門は一瞬、言葉を切った。自分の口にすべき言葉ではないかもしれない。だが、それでも——その内面の葛藤が、彼の眉間の皺となって表れていた。
「まるで、すでに知っている光景を見るようだった」
弥助が眉をひそめる。
「言われてみれば……春、お前、あの時すげぇ落ち着いてたよな。俺なんか匂いだけで吐きそうだったのに。揺り籠がひっくり返ってるのを見ても、お前だけは目を逸らさなかった」
「鬼の正体を知った時もそうだ」
衛門は続けた。
「桃太郎も弥助も時雨も、打ちのめされた。当然だ。自分たちが斬ってきた『鬼』が、ただ生きるのに必死な人間だったと知れば、誰だってそうなる。だが——お前だけは違った」
衛門の目が、椿を射抜く。
「お前の驚きは、初めて知った者のそれではなかった。予想していたことが、そのまま現実になった——そんな顔だった」
沈黙が、浜辺を包んだ。
波の音だけが、静かに響いている。誰も口を開かない。ただ、焚き火の爆ぜる音だけが、やけに大きく聞こえた。
光が、困惑した顔で椿を見つめた。
「……春?」
「なあ、俺も前から思ってたんだよ」
弥助が、頭を掻きながら言った。
「春って、時々すげぇ変だよな。なんつーか、俺たちよりずっと年上みてぇな落ち着きがあって。時雨が来た時も、全然驚いてなかったし。初めて会うはずの相手に、あんな態度とれるもんか?まるで、来るのを知ってたみてぇに」
時雨は何も言わず、ただ椿の横顔を見つめている。その目には、困惑と、かすかな共感のようなものが浮かんでいた。
「それだけではない」
衛門はゆっくりと立ち上がった。その影が、焚き火の光で長く伸びる。
「私は、十兵衛殿から聞いた」
光の顔が、衛門に向けられた。
「十兵衛殿は言っていた。宗助が山で命を落としかけた時、お前はまるでそれを予見していたかのように、山に行くのを止めたそうだな」
光の目が、大きく見開かれた。
「『雪で崖が脆くなっている』。そう言って宗助を引き止めた。十兵衛殿がお前の言葉に従って一人で山に入ったところ、その崖は確かに崩れやすくなっていた。あの山の上のことを、なぜお前だけが知っていた」
椿は、唇を噛んだまま答えない。言えることなど、何もなかった。
「母・幸の出産の時もそうだ」
衛門は続けた。その声は、淡々としていたが、一言一言が重く、浜辺の空気に沈んでいく。
「お前は生まれてくる子が男だと知っていたような口ぶりだった。幸が産んだ子を『光』と呼んだ時も、お前は驚かなかった。まるで、その名をずっと前から知っていたかのようだった——と」
弥助がごくりと唾を飲み込んだ。その音さえも、やけに大きく響く。
「春。俺はお前を疑いたくない」
衛門の声は、静かだった。波の音よりも、ずっと静かで、ずっと深かった。
「お前は桃太郎の姉であり、十兵衛殿の娘であり、この旅を共にした仲間だ。だが——どうしても拭えぬ違和感がある。お前は、一体何を知っている。何者なんだ」
三:時雨の疑念
「……衛門、私からも良いか」
時雨が口を開いた。その声に、全員の視線が集まる。
時雨は立ち上がり、椿の正面に歩み寄った。焚き火の光が、二人の影を砂浜に長く伸ばしている。影と影が、触れ合いそうで、触れ合わない。
「春。お前は、私がまだ何も語っていないのに、私の過去を知っていた」
「……時雨」
「私は八歳の時、目の前で両親を殺された。それ以来、七年間、復讐だけを生きがいにしてきた。このことは、誰にも話したことがない。桃太郎にも、弥助にも、衛門にもだ。なのに、お前は知っていた」
時雨の声は、氷のように冷たかった。だが、その奥に、かすかな震えがあるのを、椿は聞き逃さなかった。
「『復讐だけが生きる理由になっちゃう気持ちはよく分かる』——あの夜、お前はそう言った。あの時、私は自分の耳を疑った。なぜ、初対面の村娘が、私の心の奥底を見透かすようなことを言うのか。なぜ、私だけが知っているはずの痛みを、お前が知っているのか」
光が、信じられないものを見る目で椿を見つめた。その肩が、びくりと跳ねていた。
「……春、お前……」
「それだけではない」
時雨は続けた。彼女の右手が、無意識に短刀の柄に触れる。それは、彼女が心を閉ざす時の癖だった。誰にも触れられたくない、誰にも入ってきてほしくない——そう思う時、決まってこの柄に手が伸びた。
「お前の体の動き。気配の消し方。呼吸の合わせ方。すべてが、くノ一として訓練を積んだ者のそれだった。衛門から教わったと言っていたな。だが、あれだけの動きを、たった数年の訓練で身につけられるものではない。私は、七年かけてようやくあの域に達した。お前の動きは、それに匹敵する」
時雨は、じっと椿の目を見つめた。二人の視線が、焚き火越しに交錯する。
「私も最初は、ただの村娘が偶然そう見えただけだと思おうとした。だが、違う。お前は明らかに、私と同じ——影を生きる者だ。そして、私の知らない何かを、お前は知っている」
「……時雨まで」
弥助が、困ったように頭を掻いた。
「なあ、ちょっと待てよ。俺にはさっぱりわからねぇんだけど、春は一体何者なんだよ。未来から来たとか、そういう話か?そんなの、あるわけねぇだろ」
「それを今、問うているのだ」
衛門が静かに言った。その眉が、わずかに動いていた。
「春。頼む、話してくれ。お前が何を知っているのか。なぜ、この時代に起こることを知っているようなふしがあるのか。お前は——一体、何者なんだ」
全員の視線が、椿に突き刺さる。
光の困惑。弥助の戸惑い。衛門の哀しみ。時雨の、どこか痛みを分かち合おうとするような眼差し。
椿は、唇を噛みしめたまま、俯いていた。肩が小刻みに震えている。心臓が、破裂しそうだった。
(もう、逃げられない)
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。その目は、涙で濡れていた。四人の顔を、一人ずつ見つめる。光。弥助。衛門。時雨。この旅で、たった一つの家族になった人たち。
(話さなきゃ。全部。たとえ、嫌われても。信じてもらえなくても)
「……わかった。話す。全部」
四:告白
椿は、震える息を整えるように、深く、一度だけ呼吸をした。
心臓が痛いほど脈打っている。指先は氷のように冷たく、手足の感覚が遠い。頭の中では、何から話すべきか、言葉がぐるぐると渦巻いていた。喉がからからに乾いている。
でも——もう、隠せない。隠し通せるはずがなかった。
「私は——」
声が、震えた。それでも、彼女は言葉を紡いだ。
「私は、五百年先の未来から来た」
その一言に、浜辺の空気が凍りついた。波の音だけが、変わらずに響いている。
弥助が、ぽかんと口を開ける。手に持っていた木の実が、ぽろりと砂の上に落ちた。光の肩が、びくりと跳ねた。衛門の眉が、わずかに動いた。時雨の指が、膝の上で一瞬だけ強張った。
「……は?未来?」
「『時雨の焼印』という物語を読んだ。その中に、この時代のことが書いてあった。宗助が山で死ぬ運命だったことも、母ちゃんが光を産んで死ぬことも、光が川に流されるはずだったことも、鬼ヶ島の真実も、時雨が復讐を遂げることも——全部、本で読んだ」
言葉が、溢れ出る。止められなかった。堰を切ったように、全ての秘密が彼女の口からこぼれ落ちていく。
「ちょ、ちょっと待てよ!」
弥助が立ち上がった。砂を蹴る音が、やけに大きく響く。
「未来から来た?本で読んだ?何言ってんだよ、そんな非現実的な話——」
「でも、それしか説明がつかない」
時雨が静かに言った。その声に、弥助の言葉が止まる。
「……時雨?」
「私は、くノ一として、人の嘘を見抜く術を身につけてきた。春の言葉に、嘘は感じられない。そして——それ以外に、彼女の行動を説明する方法が思いつかない」
時雨は、椿の前に片膝をつき、彼女と同じ目線になった。焚き火の炎が、二人の顔を等しく照らしている。
「春。お前が言っていることは、にわかには信じがたい。未来から来たなど、普通なら笑って捨てる話だ。だが——お前の動き、お前の知識、お前の眼差し。すべてが、その言葉を裏付けている」
「……信じてくれるの?」
「信じるかどうかは、まだわからない」
時雨の声は、正直だった。取り繕うことも、慰めることもない。ただ、真実だけがあった。
「だが、少なくとも——お前が嘘をついていないことはわかる。お前の目が、それを語っている」
「ちょっと待てよ、時雨!」
弥助が声を上げた。
「お前、そんな話簡単に信じんのかよ!未来から来たとか、本に書いてあったとか、夢物語にもほどがあるだろ!」
「では弥助、お前はどう説明する」
衛門が口を開いた。その声は、驚くほど落ち着いていた。まるで、こうなることを予期していたかのように。
「春が、宗助の危険を予見したことを。生まれてくる子が男だと知っていたことを。鬼ヶ島の真実に動揺しなかったことを。時雨の過去を知っていたことを。すべて、偶然で片付けるのか」
「そ、それは……」
弥助は言葉に詰まった。何か言おうとして、口を開けては閉じる。彼の頭の中でも、すべての辻褄が合い始めているのだろう。弥助が、息を呑む音が聞こえた。
「私も、最初は信じられなかった」
衛門は、ゆっくりと椿に歩み寄った。砂を踏む足音が、静かに響く。
「未来から来たなど、にわかには信じがたい。だが——そう考えなければ、説明がつかないことも確かだ」
衛門は、椿の前に立ち、じっと彼女の目を見つめた。
「春。いや、春の中に宿ってる者よ…本当の名は何という」
「……椿」
「椿。お前は、その物語とやらを読んで、この時代のすべてを知っていた。だから、宗助を救い、光を川に流さず、鬼ヶ島でも動じなかった。そういうことか」
「……はい、もう一つ付け加えると…私も子を身籠り、出産を待ってた時に野盗に襲われ命を落とします」
春の思いもよらない告白に、全員が静まり返った。弥助が、息を呑む音が聞こえた。時雨の目が、わずかに見開かれた。光の顔から、血の気が引いていくのが、焚き火の明かりでもわかった。衛門だけが、静かに目を閉じた——その苦しみを、誰よりも理解しているかのように。
「…なぜ、黙っていた」
衛門の声は、静かだった。責めるような響きはない。ただ、真実を知りたいという、純粋な問いかけだった。それが、かえって椿の胸を締め付けた。
「なぜ、私に話さなかった。なぜ、桃太郎にも、弥助にも、時雨にも。お前は、一人でこの重荷を背負ってきたのか」
椿の目から、再び涙が溢れた。今度は、もう隠さなかった。隠せるはずもなかった。
「……まず、信じてもらえる内容じゃない。話せば、歴史が変わる。私が何かを変えれば、その先にある未来が消える。時雨と桃太郎の子も、時雨の焼印も、五百年後の誰かの笑顔も——全部、消えてしまう」
声が、震える。喉の奥が熱くて、言葉がうまく出てこない。
「だから、黙っていたのか」
「……はい。ずっと、そうするしかないと思ってました。たった一人で、全部抱え込むしかないって」
衛門は、長い沈黙の後、深く息を吐いた。その吐息は、焚き火の煙に混ざって消えていった。
「……わかった。私は、お前の言葉を信じる」
弥助が目を丸くした。
「ええっ!衛門まで!」
「理屈ではない」
衛門は静かに言った。その声には、長年戦場を生き抜いてきた者だけが持つ、確かな重みがあった。
「私は、椿の目を見て確信した。この娘は嘘をついていない。そして——彼女が背負ってきた重荷の大きさを思うと、これ以上追及することはできぬ」
衛門は、椿の肩に手を置いた。大きく、節くれだった、温かい手だった。
「よく耐えたな。たった一人で」
その言葉に、椿の中で何かが決壊した。涙が、止めどなく溢れる。声を殺すこともできず、彼女は子どものように泣きじゃくった。
「……衛門……さん……」
五:桃太郎の怒り
「……ふざけるな」
低く、震える声が響いた。
光だった。
彼は立ち上がり、拳を握りしめていた。その顔は怒りと混乱で歪み、目には涙が浮かんでいる。焚き火の炎が、彼の横顔を不気味に照らし出していた。
「未来から来た?本で読んだ?そんな非現実的な話、信じられるかよ!」
「光……」
「第一、そんなことが本当なら、なんで今まで黙ってたんだよ!知ってたなら、どうして教えてくれなかった!父ちゃんにも、兄ちゃんにも、誰にも言わずに、一人で抱え込んで——!」
光は椿の肩を掴んだ。その手は、怒りで震えていた。指が、彼女の細い肩に食い込む。痛かった。でも、その痛みより、光の手の震えが、彼女の胸を締め付けた。
「俺たちは家族だろ!ずっと、そう思ってた!なのに、お前だけが全部知ってて、俺たちは何も知らされずに——!」
「光、落ち着けって!」
弥助が間に入ろうとしたが、光はその手を振り払った。
「お前は、俺の姉なんかじゃない!全部知ってて、平気な顔で、姉のフリをして——!」
「違う!」
椿は、初めて声を上げた。喉が張り裂けそうなほど、大きな声だった。
「違う……姉のフリなんかじゃない……私は、本当に、あなたたちの家族でいたかった……!ただ、それだけだったんだ……!」
「だったら、なんで!」
光の叫びが、浜辺に響き渡った。波の音も、風の音も、すべてをかき消すような絶叫だった。
「だったらなんで、俺たちを騙し続けたんだよ!全部知ってて、笑ってるお前を見るのが、どれだけ辛かったか……!俺は、お前を信じてたのに……!」
「私だって辛かった!」
椿もまた、声を張り上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔で、彼女は叫んだ。もう、何もかもがめちゃくちゃだった。
「私だって、何度言おうと思ったか……!でも、言えなかった!言ったら、歴史が変わって、あなたと時雨の未来が消えるかもしれない。喜備丸が、この世に生まれてこないかもしれない。だったら、私は……私は、一生、嘘つきのままでいるしかなかったんだ!」
「喜備丸って誰だよ!」
「あなたと時雨の、未来の息子……」
光の手が、ぴたりと止まった。肩を掴んでいた指から、力が抜けていく。
「……俺と、時雨の……?」
「そう。あなたたちは結ばれる。そして喜備丸が生まれ、時雨の焼印が未来に紡がれる。それが、私の知っている『物語』だ」
光は、椿の肩から手を離し、よろめきながら後退った。その顔には、怒りと困惑と、そして——かすかな恐怖が浮かんでいた。
「……そんなの、信じられるかよ」
「信じられなくても、事実です」
時雨が、少し動揺した声で椿に尋ねた。その声は、いつもの冷たさとは違っていた。
「時雨の焼印?それは何?」
「あなたが主人公の物語よ。復讐に燃える少女が愛を知り、きび団子の味を受け継ぎ、五百年の想いを紡ぐ……あなたの、決められた宿命と言った方がいいかもしれない」
時雨は深いため息をついた。その吐息は、驚くほど長く、重かった。
「桃太郎、私は彼女の言葉を信じる。理屈ではない。だが、信じるに足るだけのものを、私は彼女の中に見た」
「時雨……」
「それに——彼女が言う『未来』が本当なら、私はあなたと結ばれ、子を産む。それは、私にとって、考えたこともない未来だ」
時雨の声は、かすかに震えていた。復讐だけを生きがいにしてきた少女が、初めて口にした「未来」の形。
「復讐だけを生きがいにしてきた私が、誰かを愛し、母になる。そんな未来を、彼女は知っている。そして、その未来を守るために、彼女は一人で黙っていた。誰にも言わず、たった一人で」
時雨は、光の目をまっすぐ見つめた。
「そんな途方もない事、少なくとも私にはできない。お前にはできるか」
光は、言葉を失った。何かを言おうとして、口を開けては閉じる。その目は、椿と時雨の間を、迷子のように彷徨っていた。
光が椿の肩を掴んだまま…長い沈黙が流れた。
波の音だけが、永遠のように響いている。誰も、口を開かない。
やがて、光は深いため息をついた。肩から力が抜け、その場に座り込む。
椿の肩を掴んでいた自分の手を見つめた。
自分の手の震えか、椿の震えかは分からない。
(…俺は、何をしてるんだ)
言いたかったのは、こんなことじゃない。
言いたかったのは——ただ、悩みや苦しみを打ち明けてほしかった…言ってほしかった…
手の力が抜け、するりと肩から滑り落ちた。
「……ごめん」
「光?」
「信じるとは言ってない。でも——時雨がそこまで言うなら、信じたいとは思う。」
光は、椿の方を向いた。その目には、まだ迷いがあった。でも、さっきまでの激しい怒りは、もうなかった。代わりに、深い疲労と、かすかな哀しみが浮かんでいる。
「お前の言うことが本当かどうか、俺にはまだわからない。でも——もし本当なら、お前は一人でずっと抱え込んでたんだな。誰にも言えず、誰にもわかってもらえず」
「……光」
「俺は、お前を許したわけじゃない。でも、お前のその重荷を、これからは俺も背負う。…俺にはそれくらいしかできない。」
光は、椿の前に歩み寄り、手を差し出した。
「いや、それが俺にできることだ」
椿は、涙で濡れた顔で、その手を握った。温かい手だった。怒りに震えていたはずの手は、今は確かな温もりを伝えていた。
「……ありがとう」
六:共犯の誓い
夜が更け、焚き火だけが浜辺を照らしていた。炎は先ほどより小さくなり、辺りの闇が濃くなっている。
光、時雨、椿の三人は、波打ち際に並んで座っていた。冷たい砂の感触が、彼らを現実に繋ぎ止めている。衛門と弥助は、少し離れた場所で、三人の背中を静かに見守っていた。
衛門は、娘・圓のことを思い出していた。自分もまた、誰にも言えぬ重荷を背負って生きてきた。椿の孤独が、痛いほどわかった。そして——それでも彼女は、一人で立っていた。その強さが、衛門の胸を打った。
弥助は、何も言わずに三人を見つめていた。これが、家族というものなのかもしれない——そう、ぼんやりと思った。血は繋がっていなくても、共に泣き、共に背負い、共に生きていく。それが、家族なのだと。
「……なあ、椿」
光が、ぽつりと言った。波の音に紛れそうな、小さな声だった。
「ん?」
「お前は、これからどうするんだ」
椿は少し考えてから答えた。答えは、ずっと前から決めていたことだった。
「私は、影の戦士として生きる。桃太郎一行は、これから御伽話として語り継がれる。『桃から生まれた桃太郎が犬、猿、雉を連れて鬼ヶ島に行って鬼退治をする。そして平和な世を作る』と。この語り部は時雨、あなたよ」
時雨が目を見開いた。焚き火の光が、その瞳の中で揺れている。
「……私が?」
「うん。時雨は、この物語の『語り部』だ。すべてを見届け、後世に伝える役割。そして——春は本来、もう死んでるの。だから私の存在を未来に残すわけにはいかない。あなたは私の存在を隠すために、自分が『雉』だったと偽って語り継ぐ」
時雨はしばらく考えていた。その目は遠くを見つめ、何かを噛みしめるようだった。やがて、彼女は静かに、しかし確かに頷いた。
「……わかった。私がその役割を引き受けよう」
「ありがとう」
「お前は確かに、この旅の仲間だ。だから私は、お前の分まで、この物語を紡いでいこう」
椿は、涙を浮かべながら微笑んだ。やっと、少しだけ肩の荷が降りた気がした。
「……うん」
「なあ、椿」
光が言った。その声は、さっきよりも少しだけ柔らかくなっていた。
「俺も、お前を許したわけじゃない。でも——共に背負うことはできる。誰にも言えないこの重みを、お前も背負うんだろ」
椿は、力強く頷いた。
「うん。私も背負う。あなたたちと一緒に」
三人は、静かに拳を突き合わせた。三つの拳が、月明かりの下で一つに重なる。
「これは許しの誓いじゃない」
光が言った。その声には、少年の面影を残しながらも、確かな大人の決意が宿っていた。
「共犯の誓いだ。俺たちはこれから、歴史を裏から支える。誰かを救い、誰かを救えない。その選択を何度もするだろう。その罪を、三人で背負う」
時雨が頷く。
「ええ。私も背負う」
椿も、涙を拭い、力強く言った。
「私も。ずっと、一緒に」
月明かりが、三人の姿を静かに照らしていた。
波の音だけが、永遠のように響いている。その音は、これから始まる長い旅路を、静かに見守っているようだった。
焚き火が、パチリと大きく爆ぜた。まるで場の空気を切り替える合図のように、その音が浜辺に響いた。
「……あれ?春?」
光がふと思い出したように目を丸くして質問してきた。空気が、ふっと軽くなる。波の音が、さっきより少しだけ穏やかになった気がした。
「…なに?」
「お前、あの時……だいゆうぅぅぅぅ!って叫んでたよね」
椿の鼓動が、今度は別の意味で激しく脈打った。全身から冷や汗が噴き出す。
(うっ……!忘れてた……!いや、忘れたい……!)
「だいゆう、って何だ?」
「えーっと……それは……あなた達の産みの……親?」
桃太郎と時雨は、同時に首を傾げた。その仕草が、なんだか似ていて、椿は一瞬、心の中で「お似合い!」と叫んだが、それどころではなかった。
「えっとね!時雨の焼印という物語があって、それを書いたのが太幽で……まあ、つまり、この世界を創った神様みたいなものっていうか……!」
椿は、顔を真っ赤にしながら、本来の歴史の鬼ヶ島編までを二人に必死に話した。宗助の最期、桃太郎の口減し、自分の最期、時雨の変化、桃太郎の責任感、時雨との結婚、子どもの誕生まで。
そこから先は、言葉を濁した。未来のすべてを話すことはできない。それは、希望を奪うことでもあるから。
「そこから先は……歴史が教えてくれる。信じる道を進めば、二人は永遠の安堵を迎える。それは、約束する」
光と時雨は、顔を見合わせた。それから、小さく笑った。
「なんだか、よくわからねぇけど……わかった。信じるよ、お前を」
「私もだ。椿、お前の言葉を信じよう」
椿は、心の中でガッツポーズを決めた。そして、遠くの空に向かって、心の中で叫んだ。
(太幽ぅぅぅっ!なんとか乗り切ったぞぉぉぉっ!)
【次回予告】
(——はぁぁぁぁ、言っちゃった。ついに、全部言っちゃったよ……!)
「五百年先の未来から来ました、本で読みました、あなたたちは結ばれて子どもが生まれます——って、我ながら何を言ってるんだろうね!? でも、信じてくれた。衛門さんも、時雨も、光も。弥助は……まだ半信半疑っぽいけど、まあ、あの様子なら時間の問題でしょ!」
(そして——ついに、故郷の村に帰る。十兵衛、宗助、老夫婦。みんな、待っててくれてるかな)
「本編では、ここからが『第二部』の始まりなんだよね。表舞台は秀吉や家康に譲って、桃太郎たちは歴史の影で生きる道を選ぶ。私も、その『影』の一人として、これから動き出す」
「……でも、その前に。まずは、ただいまって言わせてほしい。おかえりって、言われたい」
「次回、第9話『安堵の光』。私の、私たちの、新しい物語が始まる——」
「……あ、でもその前に、十兵衛にどうやって説明しよう。『あなたの娘さん、実は未来から来た別人でーす』って……いや、待てよ。衛門さん、なんとかしてくれないかな。あの人、そういうの得意そうだし」
(……ダメだ、逃げるな私。自分で話すんだ。それが、春として生きるってことなんだから)
「よし、行くぞ! 待ってろ、父ちゃん! 兄ちゃん! 爺様! 婆様! そして——まだ見ぬ未来の、すべての人たち!」
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【第8話・完】




