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作者への反逆〜転生したので、春の運命を書き換えてみせます〜  作者: 太幽


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第6話「時雨、来たる」

第6話「時雨、来たる」


一:森の中の影


鬼ヶ島への旅立ちが迫る中、光と弥助、衛門、そして椿の四人は、最後の仕上げとして森の中で実戦訓練を重ねていた。


木漏れ日が差し込む中、光と弥助が互いに技を競い合い、衛門がそれを見守る。椿は少し離れた場所で、衛門から教わったくノ一の体術を反復していた。倒木の上を音もなく移動し、不意をついて背後に回る。我ながら、上達したものだと思う。


その時だった。


ふと、空気が変わった。鳥のさえずりが止み、風が一瞬だけ息を潜める。それだけではない——空気が、ほんの少し冷たくなった。木々の葉のざわめきが、何かを避けるように静まり、土の匂いに混じって、かすかに鉄の匂いが漂ってくる。椿の肌が、ぴりりと粟立った。


(この気配——)


衛門の声が、訓練を中断させた。


「……誰かいる」


四人は即座に身構えた。光は竹刀を、弥助は木の枝を、衛門は腰の刀に手をかける。椿は冷静に木の上から全体を伺いながら、自分の心臓が早鐘を打つのを抑えられなかった。心臓が口から飛び出しそうだった。手のひらにじっとりと汗が滲み、喉の奥がからからに渇いていく。


(来た。ついに、この瞬間が)


風が吹き抜ける。木々の葉がざわめく。


そして——彼女は現れた。


黒装束に身を包み、顔の下半分を布で隠した少女。年の頃なら十五、六。細身ながらも、その立ち姿には一切の無駄がなく、獲物を狙う獣のような緊張感が漂っている。


(……時雨)


心の中で、その名を呼んだ。何十回、何百回と読み返した物語の中で、最も複雑な感情を抱かされた女。復讐だけを生きがいにし、桃太郎に近づき、やがて彼を愛し、母となり、そして——「時雨の焼印」を未来に遺した女。


その時雨が、今、目の前にいる。


椿は、叫び出しそうになる口を自分の手で物理的に塞いだ。木の幹に爪を立てる。ぎりぎりと、指先に木くずが食い込む感触。その痛みだけが、彼女を現実に繋ぎ止めていた。


(落ち着け、落ち着け、落ち着け私……! これは任務だ。これは歴史の一幕だ。私はただの「同行者」でなければならない。オタクがバレるわけにはいかない……!)


時雨は一切の言葉を発さず、ただ静かに光を見据えていた。その瞳は冷たく、氷の欠片のようだ。


「もし、何か困っているのかい?」


光の純粋な問いかけにも、時雨は答えない。ただ、わずかに首を傾げたように見えた。


少しの沈黙の後、時雨は初めて口を開いた。


「……鬼の居場所を教えてほしい」


その声は、森の静けさに溶け込むように小さく、感情が読み取れなかった。


「鬼を討伐するため、我々も鬼ヶ島へ向かおうと話をしてたところだ。もし良ければ、共に旅をしないか?」


光の提案に、時雨は一瞬ためらったように見えた。


「……利害は一致している。同行する」


そう言って、彼女は静かに光の後ろに立った。


(——キタァァァァァ!!)


椿は、心の中で雄叫びを上げた。木の上で、声にならない声で叫ぶ。口を塞いでいた手を離し、代わりに両手で顔を覆った。声に出さずに叫ぶという、新体操では決して学ばなかった特技を、彼女は今、習得しつつあった。


(ついに、ついにこの旅に時雨が加わった……! これで「犬、猿、雉」ならぬ「犬、猿、俺の推し、そして影」が揃ったんだ……!)


(落ち着け、私。まだ何も始まってない。これは、ただの始まりに過ぎないんだから)


彼女は、高鳴る胸を必死に押さえつけながら、木から静かに飛び降りた。


二:時雨という女


旅に加わった時雨は、必要最低限の会話しか交わさなかった。


朝は誰よりも早く起き、夜は誰よりも遅くまで起きている。食事もほんのわずかしか取らず、常に周囲を警戒していた。まるで、自分の命などどうでもいいとでも言うように。


椿は、時雨の姿を見るたびに、胸が締め付けられる思いだった。これは『時雨の焼印』で何度も読んだ描写だ。だが、文字で読むのと、こうして生身の人間として目の当たりにするのとでは、重みが全く違う。


八歳の夜、両親を目の前で殺された貴族の娘。それ以来、七年間、ただ復讐だけを考えて生きてきた。山中の廃寺で一人、くノ一の技を磨き、誰にも心を開かず、誰にも頼らず。


(廃寺で一人、凍えながら眠った夜があったはずだ。木の実を盗んで生き延びた日々があったはずだ。父の手紙だけを握りしめて、声を殺して泣いた夜があったはずだ)


椿は、『時雨の焼印』で読んだ時雨の過去を、一つ一つ思い出していた。文字で読んだそれらの情景が、今、目の前にいる時雨の痩せた横顔と重なる。


(私には、春の家族がいた。宗助も、十兵衛も、光も、老夫婦も、弥助も、衛門も。みんなが私を支えてくれた。でも、時雨には誰もいなかった。たった一人で、ここまで生きてきたんだ)


ある夜、椿は見張りをしていた時雨の隣に座った。


川のせせらぎが、二人の沈黙を優しく埋めていた。風が吹き抜け、時雨の髪を揺らす。月明かりが、彼女の横顔を青白く照らしていた。


「眠らなくて大丈夫?」


時雨は、ちらりと椿を見たが、すぐに視線を前に戻した。


「……お前には関係ない」


「そうかもしれない。でも、気になったから」


椿は、焚き火の炎を見つめながら、静かに言った。


「私もね、大切な人を失ったことがあるの。この時代だから仕方ない、そう割り切れるほど、人の心は単純じゃない。復讐だけが、生きる理由になっちゃう気持ちも、よく分かるわ」


時雨の指が、わずかに動いた。


「……何故…お前が私の過去と目的を知っている?」


時雨は突き刺すような目で春を睨んだ。


(うっ……! しまった、熱が入りすぎた! まだ時雨は何も語ってない!)


椿は一瞬息を詰まらせ、それからゆっくりと、時雨の目をまっすぐ見つめ返した。


「あなたの目よ。復讐だけを宿して、何年も人を信じず、独りで戦ってきた人の目。そういう目を、私は知ってる」


「あなたがこれから出会う人たちは、あなたを裏切らない。桃太郎も、弥助も、衛門も。だから、いつか心を開ける日が来るといいなって、そう思ってる」


時雨は何も答えなかった。ただ、焚き火の炎をじっと見つめている。


「…くだらん」


ぼそっと、聞こえないほどの声で時雨は呟いた。風がその言葉を攫っていく。


椿はそれ以上何も言わず、その場を離れた。心の中は、感動と興奮でぐちゃぐちゃだったが、表情には出さない。


(今はまだ、これでいい。時雨が心を開くのは、きび団子を食べた時だ。それまでは、私はただ、見守ることしかできない。……でも、その時が、待ち遠しくて仕方ない!)


三:きび団子の味


旅に出て数日目のことだった。


お婆さんが持たせてくれたきび団子を、光が時雨に差し出した。


「時雨も食べるか? 婆ちゃんのきび団子、美味いんだよ」


(——来たァァァァ!!)


椿は、叫び出しそうになるのを、全身の筋肉を総動員して堪えた。来た、この場面だ。『時雨の焼印』で最も好きな場面の一つ。時雨が初めて「味」を感じ、その冷え切った心に、ほんの少しだけ温かいものが流れ込む、あの伝説の瞬間が。


時雨は無言で団子を受け取ったが、警戒心からか、一瞬ためらう。


しかし、光の瞳があまりにも澄んでいたからだろう。彼女はゆっくりと顔を覆う布を少しだけずらし、団子に歯を立てた。


——その瞬間、彼女は目を見開いた。


【その瞬間、彼女は目を見開いた。口の中に広がる優しい甘さ、そして米の温かい香ばしさが、冷え切った彼女の心にじんわりと染み渡る。】


(『時雨の焼印』第6話:時雨(桃太郎物語の雉))


口の中に広がる優しい甘さ、そして米の温かい香ばしさが、冷え切った彼女の心にじんわりと染み渡っていく。喉の奥がきゅっと締まった。涙が出そうになるのを、彼女は目を大きく見開いて堪えた。舌が、甘さというものを思い出すのに、少しだけ時間がかかった。七年ぶりの「味」だった。


「どうだ、時雨?」


光が期待を込めて尋ねると、時雨は小さく、しかしはっきりとした声で答えた。


「……おいしい」


(あ"あ"あ"あ"あ"っ!! 時雨が!「おいしい」って言った!! あの時雨が!!)


椿は、心の中で転げ回った。この感動を誰かと分かち合いたい。しかし、そんな相手はどこにもいない。彼女はただ、涙をこらえながら、その光景を目に焼き付けた。


(これだ。この瞬間から、時雨は変わり始めるんだ)


その時、ふと弥助の視線が彼女に向いていることに気づいた。弥助は、きょとんとした顔で椿を見つめている。


「……春、お前、なんか変な顔してるぞ」


「えっ!? な、なんでもない! ちょっと団子が喉に詰まっただけ!」


椿は慌てて取り繕い、咳払いをした。心臓がばくばくと鳴っている。(危なかった……! オタクがバレるところだった……!)


弥助は「ふーん」と言いながらも、まだ何か言いたげな目をしていたが、すぐに団子の方に興味を戻した。椿はほっと胸をなでおろし、再び時雨と光の様子をこっそりと窺う。


「…桃太郎、これどうやって作るの?」


時雨はこの後、桃太郎からざっくりとした作り方を聞いていた。椿は桃太郎の説明を聞いて、ひそかに冷や汗をかいた。


(あわわわ! 桃太郎! その作り方、色々と端折りすぎ! 水の量も、捏ねる時間も、火加減も、全然足りてない! 時雨も私に聞けば良いのに! ……でも、待てよ。失敗した団子が無ければ、あの名場面は生まれない……)


椿は、複雑なオタク心を抱えながら、二人の様子を固唾を飲んで見守った。この後、時雨は密かに団子を作り、見事に失敗する。そして桃太郎がそれを「美味い」と食べる。その一連の流れこそが、二人の絆の始まりなのだ。


(太幽……あなたの書いた物語は、やっぱり最高だ。この絶妙なエグさと温かさの配合……反則だろ……!)


四:失敗した団子


きび団子を口にしてから、時雨の中で何かが変わり始めていた。


(あの味……)


彼女は、誰にも気づかれないよう、川辺にしゃがみ込み、笹の上に粉を広げた。桃太郎から教わった作り方を頼りに、水を加え、手で捏ねる。粉が指の間にべったりと絡みつき、思うようにまとまらない。彼女は眉をひそめ、さらに水を足した。今度は柔らかすぎて、形が崩れる。それでも彼女は、小さな団子を必死に丸め、火の上に並べた。煙が目に染みる。彼女は瞬きもせず、団子を見つめ続けた。


やがて表面が焦げ始め、彼女は慌てて火から下ろそうとした。その時、熱した石の縁に手首がかすかに触れた。


——ッ。


声にはならなかった。彼女は手を引っ込め、手首を見つめた。ほんの指先ほどの赤みが、白い肌に浮かんでいる。たいした火傷ではない。それでも彼女は、その赤みをじっと見つめた。七年間、どれだけ深い傷を負っても痛みを感じなかったこの体が、たかが団子ひとつで傷ついた。そのことが、なぜか彼女の胸の奥をかすかに揺らした。


彼女はその赤みを、まるで宝物でも見るように、しばらく見つめていた。誰かのために何かをしようとして、できなかった証。その証が、今、自分の手首に刻まれている。それが、なぜだか彼女には、とても大切なもののように思えた。


手に取った団子は、外は黒く焦げ、中は生のままだった。彼女は多くの技を完璧にこなしてきた。暗殺も、潜入も、情報収集も。しかし、出来上がった団子は、一口食べるとべったりと歯にくっつき、まるで土のような味がした。


食べられるものではなく、時雨は人知れずそれを笹に包み、森の奥へと捨てに行った。その時の彼女の顔は、ひどく落ち込んでいた。


(なぜ……こんなものが作れない)


復讐とは何の関係もない、ただの団子なのに。その事実が、彼女の心に予想外の打撃を与えていた。


その日の夕食時、桃太郎と弥助が採ってきた食材を衛門が調理し、五人は輪になって食べていた。


時雨は、自分の失敗した団子のことを考えながら、上の空で箸を進めていた。


「ん?」


時雨は見覚えのある包みに気づき、桃太郎の手元に目を向けた。彼の手に握られていたのは、先ほど自分が捨ててきたはずの、あの笹の包みだった。


桃太郎は、嬉しそうにその中から団子を取り出し、ためらうことなく一口食べた。


「え? あ! ちょっと! 桃太郎!」


普段無口でほとんど喋らない時雨が、思わず声を張り上げた。慌てて食べるのを止めようとしたが、間に合わない。彼の口は、もう二口目を運んでいた。


「その……ベトベトしたの、団子か? どうしたの? それ?」


弥助が戸惑ったように尋ねたが、桃太郎は悪戯っぽい笑顔で「教えなーい」とニヤニヤしながら答えた。その目は、時雨だけを見ていた。


桃太郎は、団子を独り占めするように口に運びながら、時雨の目を真っ直ぐ見つめた。


(口の中に広がる焦げた苦さと、生の粉のざらつき。こんなもの、誰がどう食べても不味いに決まってる。でも——これを時雨が、俺のために作った。その事実が、何よりも甘かった)


およそ四人前はあろうかという団子を一人で食べ尽くし、笹にへばりついた残りまで舐め取り、両手を合わせて「ご馳走様でした」と、作り手と食材に感謝を込めた。


時雨の全身に、雷に打たれたような衝撃が走った。


——なぜ? まずいはずなのに、なぜ?


彼女の手が、わずかに震えていた。七年間、誰にも震えたことのなかったこの手が。


「お……お粗末……様でした」


時雨は明らかに動揺していた。その顔は、ほんのりと赤く染まっている。口元が、わずかに緩んでいる。七年間、一度も緩めたことのなかったその口元が。


衛門は、桃太郎の表情と時雨の動揺を見て全てを把握し、静かに笑う。


「さすがは我が主、計算なのか天然なのか、それともただの優しさなのか、わからぬわ。しかし——あの娘の顔、ようやく人間らしくなってきたな」


椿は目を輝かせながらこのシーンを、映画を見るように一人感動していた。


(時雨! 可愛いぃぃぃぃ! もうダメ! この感情をどう処理すればいいの! 誰か! 誰かこの感動を分かち合って! ……無理か。この時代に『時雨の焼印』の読者なんて私だけだもんな! くっ……!)


桃太郎の行動は、彼女の冷酷な心が初めて感じる、温かい痛みだった。憎しみでも、復讐心でもない、もっと優しく、もっと温かい何か。彼女の知らない感情が、確かにそこにあった。


時雨の心の変化に気づいたのは、衛門ただ一人。旅が終わったらどうなることやら……と、少し気恥ずかしい気持ちになった衛門であった。


そして衛門は、春の態度に疑問を抱いていた。


(椿……あの娘、まるでこの展開を知っていたかのような目で見ていたな。それに、時雨があの団子を捨てる瞬間も、桃太郎が拾う瞬間も——すべてを見届ける位置にいた。偶然か? いや……)


その夜から、衛門は椿を見る眼差しがほんの少し変わった。訓練の時、彼女の動きをより注意深く観察するようになり、彼女が何かを「知っている」ような口を滑らせるのを待っているかのような「間」が生まれた。椿はその視線に気づきながらも、気づかないふりを続けた。


その夜、椿は川辺で時雨が団子を作り、失敗し、捨てたことを全て見ていた。そして、桃太郎がそれを拾い上げ、嬉しそうに食べる姿も、遠くから見ていた。


(時雨が、初めて「誰かのために」何かをした瞬間だ。復讐でも、任務でもない。ただ、誰かに食べてほしいと思った)


(そして桃太郎は、それを「美味い」と食べた。時雨の心が、決定的に動いた瞬間)


椿は、自分の手首をなぞる時雨の姿を思い出した。あの火傷の痕。本編で時雨が無意識に触れ続けていた、あの場所。


(あれは、彼女が初めて「誰かのために」何かをした証だ。その記憶が、あの小さな火傷の痕に、ぎゅっと詰まってる)


椿は、そっと目を閉じた。胸の奥が、熱かった。


五:影の共鳴


その夜、椿は一人で川辺に座っていた。月明かりが水面に映り、静かに揺れている。


川のせせらぎが、あたりの静けさを優しく包み込んでいた。風が吹き抜け、椿の髪を揺らす。


「……お前も、眠れないのか」


振り返ると、時雨が立っていた。月明かりが彼女の横顔を照らし、その黒い瞳に小さな光を宿している。


「時雨……うん、ちょっとね」


時雨は、椿の隣に腰を下ろした。二人の間に、しばらく沈黙が流れる。川のせせらぎだけが、その沈黙を優しく埋めていた。


「……お前は、何者だ」


時雨の声は、いつもの冷たさとは少し違っていた。どこか、探るような、それでいて——ほんの少しだけ、心を開きかけた者の声だった。


「ただの村娘だよ。桃太郎の姉で、光のことを守りたくて旅についてきただけ」


「……嘘だ」


時雨の目が、じっと椿を見つめる。


「お前の動き、ただ者ではない。気配の消し方、体の使い方——くノ一のそれだ。どこで習った」


椿は、少し考えてから答えた。


「衛門に教わったの。私、体を動かすのは得意でね。独学で身につけた体術を、衛門がくノ一の技に応用できるって見抜いてくれたんだ」


時雨は、しばらく椿の顔を見つめていた。


「……お前も、影を生きる者なのだな」


その言葉に、椿の胸が熱くなった。喉の奥がぎゅっと締まり、こめかみが脈打つのを感じた。 時雨が、自分を「同類」と認めた。推しに、同志として認められた——その事実が、彼女の心を震わせた。


(時雨……! あなたにそう言ってもらえることが、どれほど私の力になるか……!)


椿は、静かに頷いた。心の中の雄叫びを、必死に表情の奥に押し込めて。喉の奥の熱さを、ぐっと飲み込んだ。


「うん。でも、私は一人じゃない。光も、弥助も、衛門も、そして——あなたもいる」


時雨は、何も答えなかった。ただ、月を見上げた。風が吹き抜け、彼女の黒髪をそっと揺らす。


「……私は、復讐のために生きてきた。それだけが、私のすべてだった」


「今も?」


時雨は、少しだけ間を置いてから、静かに言った。


「……わからない。あの団子を食べてから、何かが変わった気がする。でも、それが何なのか、まだわからない」


椿は、そっと時雨の手に触れた。冷たい手だった。七年間、誰にも触れられることなく、誰にも触れることなく生きてきた手。


「それでいいんだよ。ゆっくりでいい。私も、ここにいるから」


時雨は、触れられた手を見つめ、それから椿の顔を見た。


「……お前は、不思議な女だ」


椿は、小さく笑った。


「よく言われる…でもね! 私の方がお姉さんなんだから、もっと敬意ある呼び方をして欲しいわ!」


時雨の口元が、ほんのわずかに——本当にわずかに——緩んだように見えた。それはまだ「笑顔」と呼べるものではなかったが、確かに、氷の表面に最初の亀裂が入った瞬間だった。


六:もう一人の雉


時雨が去った後、椿は一人、月を見上げていた。


川のせせらぎが、彼女の心を静かに満たしていく。風が、彼女の熱くなった頬を冷ましていった。


(時雨は、これから鬼ヶ島で真実を知り、復讐の虚しさに打ちひしがれる。でも、桃太郎と共に新しい道を選び、やがて彼を愛し、母となる。そして——「時雨の焼印」を未来に遺す)


椿は、自分の両手を広げて見つめた。


(そのすべてを、私は隣で見ている。支えることも、変えることもできないけれど、それでも——彼女の側にいることはできる)


本編では、時雨は「雉」として語られていた。桃太郎一行の「犬、猿、雉」のうち、雉は時雨だった。でも——それは、後世に伝えるための偽りの物語。


(本当の「雉」は、私になる。春——椿。影の戦士として、桃太郎一行と共に戦い、そして歴史から姿を消す者。時雨は「語り部」として、光の妻として生きていく。それが、私がこの物語で選んだ役割だ)


椿は、拳を握りしめた。


(父さん、私、この世界で自分の役割を見つけたよ。誰にも知られないけど、確かにここにいる。それが、私の戦い方なんだ)


「私は、影の戦士になる。誰にも知られず、歴史にも残らない。でも——確かに、ここにいる」


月明かりが、彼女の決意を静かに照らしていた。


【次回予告】


(時雨を加えた一行は、ついに鬼ヶ島へと向かう。その道中で——私は、自分の「知」の重さに押し潰されそうになる)


「鬼ヶ島の真実。本編で、私はこの場面を何度も読んだ。鬼と呼ばれた者たちは、ただの貧しい民だった。奪い、殺し、それでも生き延びようとした、哀れな人々だった」


「……でも、私は知っている。それを口にすれば、歴史が変わる。時雨の復讐も、桃太郎の覚醒も、すべてが消えるかもしれない」


(知っていながら、黙っていることの重み。それが、影の戦士の宿命だとしても——)


「私は、目の前で繰り広げられる悲劇を、ただ見ていることしかできない。手をこまねくことしかできない。それが、こんなにも苦しいなんて——太幽、あんたって人は本当に残酷だな……!」


「でも——それでも、私はここにいる。時雨の側に。光の側に。弥助の側に。そして、この目で、彼らが真実と向き合う瞬間を見届ける」


「次回、第7話『鬼ヶ島の真実』。私は、黙って見ている。それが、私の戦いだから」


「……でも、心の中では叫ばせてくれ。時雨、がんばれ! 桃太郎、負けるな! 弥助、お前はやっぱり最高だ! 衛門さん、その眼力で私の正体も見抜いてくれていいんだからね! ……あ、やっぱり見抜かれない方がいいかも。複雑なオタク心だ……」


---


【第6話・完】

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