第5話「影の戦士」
第5話「影の戦士」
一:もう一人の家族
夕暮れ時、十兵衛が畑から戻ってきた。いつもと違うのは、その背後に、見知らぬ男の影があったことだ。
「春、宗助、ちょっと来てくれ」
十兵衛の声に、椿が表に出ると、そこには一人の男が立っていた。痩せ細り、着物は泥と擦り切れで元の色がわからない。顔には深い疲労の色が刻まれ、今にも倒れてしまいそうなほどだった。
彼からは、長い旅の疲れが染みついた汗の匂いと、かすかに血の匂いがした。息をするたび、喉の奥でヒュウと乾いた音が鳴っている。指先は土と垢で黒ずみ、爪は割れていた。どれだけの間、彷徨い続けてきたのか——その姿だけで、言葉以上に男の苦しみが伝わってきた。
しかし、その背筋だけは、不思議と伸びていた。
「この人は、都で名の知れた武士だったらしい。訳あって都を追われ、行き倒れていたところを俺が見つけた」
その言葉に、椿の胸の奥で、何かが鋭く鳴った。
(この人……!)
男は、深々と頭を下げた。その動作一つにも、武家の者の誇りが滲んでいる。
「衛門と申します。この度は、助けていただき、感謝の言葉もございません」
(——っ、来た……!)
心臓が、早鐘を打つ。手足の先から、じわりと熱が広がっていく。
(衛門……! 本物の、衛門だ……! 握手したい、サイン欲しい、いやこの時代にサインはないけど……! って、違う、そうじゃない。今の私は春で、彼はこれから私の師になる人で——)
オタクとしての興奮と、春としての立場。その二つが、彼女の中で激しく渦を巻く。指先が震え、目の奥が熱くなっていくのを、彼女は必死に堪えた。
『時雨の焼印』で、桃太郎の軍師となり、「犬」として語り継がれる男。二十年以上も生き別れた娘・圓を探し続け、最後には「お前は私の誇りだ」と言い残して逝った、あの衛門が。今、自分の目の前に、確かに立っている。
(落ち着け私。今はオタクしてる場合じゃない。この人は、これから桃太郎たちを導く師になる人だ。私の「推し」の一人ではあるけど、まずは「人」として向き合わなきゃ)
「私は、何もかも失いました。地位も、名誉も、家族も……。ただ、娘だけを探し続けて、二十年以上が経ちました」
衛門の声は、疲れ果て、掠れていた。でも、その目だけは、まだ消えない炎を宿している。何かを、誰かを、信じ続ける者の目だった。
(衛門……あなたはこれから、桃太郎と出会って、新たな生きる意味を見つける。そして、娘とも再会する。その長い旅路の、ほんの始まりに、今、あなたは立ってるんだ)
椿は、ぐっと唇を噛みしめた。感動で、目の奥が熱くなる。
「どうか、しばらくここに置いてください。私は、必ずや、あなたのお役に立てるはずです」
十兵衛は、衛門の手を取った。
「もちろんだ。困った時はお互い様だ。ゆっくり休んでくれ」
椿は、静かに、しかし深く息を吐いた。高ぶる感情を、落ち着けるように。
(本来なら、桃太郎と弥助が旅に出たその日に、道端で倒れてる衛門を見つけるはずだった。それが、こんな形で出会うなんて……私たちが生きてるから、歴史が変わったんだ)
けれど、それでいい。これで、桃太郎、弥助、衛門が揃った。
(あとは——時雨だけだ)
彼女の胸に、熱い決意が、改めて芽生えていた。
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二:衛門の訓練
衛門が老夫婦の庵に居着くようになってから、桃太郎と弥助の日課は、文字通り一変した。
毎朝、夜明けと共に叩き起こされ、山の中での訓練が始まる。それはもはや、遊びや鍛錬の域を超えていた。
春の柔らかな陽射しが、やがて夏の蝉時雨に変わり、秋の紅葉が山を染め、冬の雪が稽古場を白く覆う——季節が巡るたび、三人の絆は深まり、技は研ぎ澄まされていった。
雪の中でも、桃太郎は素振りをやめなかった。吐く息が白く凍り、手足の感覚がなくなっても、彼は竹刀を振り続けた。蝉の声がうるさい夏の日には、弥助が「負けてたまるか」とばかりに、さらに大きな声を張り上げて木々を駆け回った。紅葉が舞い散る夕暮れ、衛門は二人を前に、静かに武士の心得を語った。
「桃太郎! 踏み込みが甘い! もっと腹から声を出せ!」
衛門の厳しい声が、山中に鋭く響き渡る。
桃太郎は竹刀を握りしめ、何度も何度も素振りを繰り返す。手のひらには血豆ができ、それが破れて皮がめくれ、竹刀の柄に血が滲んでも、彼は決して止めなかった。その横顔からは、鬼の惨劇を目の当たりにした少年の、静かな怒りが滲み出ていた。
弥助は、木の枝を手に、猿のような身のこなしで桃太郎の攻撃をかわす。時に枝から枝へと飛び移り、時に地面すれすれを駆け抜け、桃太郎を翻弄する。
「どうした桃太郎! その程度か!」
「くそっ! 待て、弥助!」
二人の動きは、もはや子供のそれではない。遊びの延長から、本格的な、命を懸けた戦いの準備へと、確実に変わっていた。
椿は、その様子を遠くから見つめながら、自分の体を入念に動かしていた。新体操で培ったストレッチで全身の関節を解し、体幹を鍛えるバランス訓練を繰り返す。
(弥助のあの体重移動、真似できない。野生の勘ってやつか。重心が完全に前に乗ってるのに、いつでも後ろに跳べる。あれ、理屈じゃないんだよな……)
(桃太郎の踏み込み、衛門に指摘される前にかかとが浮いてる。あれ、私も気をつけよう。力が入る瞬間に、無意識に力みが出るんだ)
彼女は、ただ見ているだけではなかった。二人の動きを分析し、自分の糧に変えていく。それが、彼女にできる唯一の「戦い」だった。
(本編では、衛門は桃太郎と弥助に「あと二年鍛えねば、お前たちは命を落とす」と言った。そして、実際に二年間の厳しい訓練が始まった)
(今は、その訓練が始まったばかり。でも——)
彼女は、自分の手を見つめた。まだ幼さの残る、小さな手のひら。
(見てるだけじゃ、ダメだ。私も、もっと強くならなきゃ)
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三:椿の決意
その夜、椿は衛門の元を訪れた。
衛門は、囲炉裏の火の前で、一人、刀の手入れをしていた。ぬらりと光る刃に映る自分の顔を、どこか遠くを見るような目で見つめている。その背中は、言葉にできない孤独を背負っているように見えた。
「衛門さん、お願いがあります」
衛門は、顔を上げた。
「どうした、春」
「私にも、戦いを教えてください」
衛門の手が、ぴたりと止まった。彼はしばらく椿の顔をじっと見つめ、それから静かに刀を置いた。
「なぜだ。女が戦う必要などない。お前は、光や弥助とは違う」
「私には、守りたいものがあります」
椿の声は、震えていなかった。
「光を、弥助を、兄ちゃんを、父ちゃんを——そして、この先出会う、大切な人たちを。そのために、私は強くなりたいんです」
衛門は、じっと椿の目を見つめた。その目には、彼女の覚悟の真偽を測るような、鋭い光があった。
「……わかった。ただし、俺の訓練は厳しいぞ。音を上げるなら、今のうちだ」
椿は微動だにせず、衛門を見つめ返した。その瞳に、一切の揺らぎはない。
「なら、手合わせしましょうか。あなたの想像を超える結果を出せる自信はあります」
衛門は、椿の全身に目を走らせた。
肩甲骨の可動域——普通の九歳の少女ではありえない柔らかさだ。体幹の安定感——立っているだけで、重心がぶれない。足首のしなやかさ——裸足で地面を掴む感覚が、まるで野生の獣のようだ。
「…お主…一体、どんな訓練をしてきたのだ」
椿はふと視線を落とすと、指先を櫛のようにして、耳際からこぼれた一房を掬い上げた。
20歳という、女としての華やかさと戦士としての鋭さが同居した横顔。
鍛え抜かれた指先が黒髪を流すその動作には、もはや幼さなど微塵もなく、見る者を圧倒するような色気と気高さが宿っていた。
「合格…でよろしいかしら?」
(き! 決まったぁーーーーっ! 一度言ってみたかったセリフ! 俺! 最高!)
春として凛とした裏側には、計り知れないオタク心が宿っていた。
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四:新体操の力
翌朝から、椿も衛門の訓練に加わった。
最初は、桃太郎や弥助と同じように竹刀を振るう基礎訓練から始まった。しかし、椿の体はまだ幼く、武器を持つ訓練に慣れていない。何度も足を取られ、転び、竹刀を取り落とした。膝には擦り傷が絶えず、手のひらは豆で潰れそうだった。
「春、無理するな」
宗助が心配そうに声をかけるが、椿は首を振った。
「大丈夫。私、これでも体を動かすのは得意なんだ」
彼女は、竹刀を置き、その場で軽く跳ねた。
——そして、新体操で鍛えた体幹と柔軟性を活かし、くるりと後方に一回転して、音もなく着地した。
衛門の目が、大きく見開かれた。
「……今のは?」
「私が編み出した体術…ってところかな?」
椿は、続けて側転を見せ、バランスを保ったまま片足で立ち上がる。その動きは、重力を感じさせないほど滑らかで、無駄がなかった。
衛門は、しばらくその動きを脳裏で反芻していた。
(着地の際、膝がまったくブレていない。これなら、どんな体勢からでも次の攻撃に移れる。あの側転、途中で軸足を変えれば、敵の死角に回り込める……)
「……面白い。その動き、くノ一の技に通じるものがある」
「くノ一……?」
「女の忍びだ。力ではなく、体の柔らかさと技で敵を制する。お前のその、まるで舞のような動きは、くノ一の体術と非常に相性がいい」
椿の胸が、高鳴った。
(くノ一……時雨だ。時雨も、くノ一として戦っていた。その技の一端を、今、私が学ぼうとしてるんだ)
「春、お前には普通の剣術ではなく、くノ一の技を教えよう。ついてこられるか」
椿は、力強く、何度も頷いた。
「はい!」
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五:影の戦士として
数ヶ月に及ぶ厳しい訓練を経て、椿はくノ一の基礎を身につけ、新体操の動きを戦闘に応用する術を、独自に模索し続けていた。
ある夜、椿は一人、井戸のそばに立っていた。
水面に映る月が、静かに揺れている。空には、無数の星が、手の届きそうなほどに瞬いていた。
(私は、春として、この家族を守ってきた。それで十分だと思ってた。でも——それだけじゃ足りない)
彼女は、自分の両手を見つめた。傷だらけで、豆が潰れて硬くなった、戦士の手。
(私は、影の戦士になる。桃太郎一行には「犬、猿、雉」がいる。でも、本当はもう一人——「雉」は時雨じゃない。私が「雉」になるんだ)
雉は、派手な羽根を持つが、その鳴き声は決して大きくない。それでも確かに、仲間に危険を知らせ、空から戦場を見渡し、誰にも知られることなく戦いを支える。それは、椿がこれから担おうとしている役割そのものだった。
本編では、時雨が「雉」として語られていた。でも、それは後世に伝わるための、偽りの物語。本当の「雉」は、春——椿だった。誰にも知られず、歴史にも残らず、それでも確かに、彼らの旅を支えた戦士。
(私は物語の都合に振り回されない。あなたの書いた物語を、私は裏側から支える。あなたが書かなかった「もう一人の戦士」として)
彼女は、空を見上げた。天の川が、くっきりと夜空を横切っている。その向こう側——はるか五百年先の、現代という世界。
(父さん、私、強くなるよ。父さんが守ってくれたように、今度は私が誰かを守る番だから)
彼女は、拳を握りしめた。その小さな拳に、今夜の月明かりが、静かに力を注ぎ込むようだった。
「絶対に、守り抜く。光を、弥助を、衛門を、そして——これから出会う時雨を」
月明かりが、彼女の決意を静かに、しかし力強く照らしていた。
次回予告(椿のオタク全開モード)
(深く息を吸って、心を落ち着ける。だって、次回——ついに、ついにあの人が来るんだから……!)
「くっ……! 来る……! 時雨が、来る……! 黒装束に身を包んだ、あの孤高のくノ一が、ついに私の前に現れる……! いやもう、画面の向こうで何度も何度も見てきたけど! 本物は違うんだろうな! オーラが! 殺気が! そしてあの、冷たいけど確かに熱い炎を宿した瞳が……! はぁ……想像しただけでご飯三杯いける」
(いや落ち着け私。私は春。桃太郎の姉。影の戦士。オタクじゃない。オタクじゃないったら)
「……って、無理! だって時雨だよ!? あの時雨が、同じ時代に、同じ空気を吸って、これから私と出会うんだよ!? あの『手首をなぞる』仕草を、生で見られるかもしれないんだよ!? 無理無理無理、絶対泣く。いや耐える。でも多分泣く」
(『時雨の焼印』で、一番好きだったわけじゃない。むしろ、その不器用さにイライラしたこともあった。復讐に囚われて、桃太郎の優しさに気づかなくて、団子を失敗して落ち込んで——ああもう、なんでそんなに不器用なんだよって、何度画面に向かってツッコんだかわからない)
「でも——今は違う。同じ『影』を生きる者として、私は彼女と向き合いたい。読者じゃなくて、同じ時代を生きる『仲間』として」
(よし、書けた)
「次回、第6話『時雨、来たる』。推しと肩を並べて戦う日を夢見て、私は今日も素振りに励みます。目指せ、影の戦士! 目指せ、時雨の相棒! ……あ、でも私の一番の推しは弥助だから。そこは揺るがないから。時雨は推しというか、同志というか、ライバルというか、とにかく特別な存在だから!」
(書き終えて、頭の中のメモを閉じる——ってこの時代スマホないんだった。まあいいや)
「……絶対、守るからね。時雨」
(…春の羞恥心がうまくオタクパワーを抑えてるけど…椿のリミッターが外れないか心配だ)
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【第5話・完】




