第20話「影から影へ」
第20話「影から影へ」
一
慶長三年、夏。秀吉が伏見城で息を引き取った。
天下人を失った世は、再び静かな動乱の兆しを見せ始めていたが、圓の日常は変わらなかった。彼女は秀吉の死後も、表舞台に出ることなく、影で生き続けることを選んだ。それが、父・衛門の遺志を継ぐ道だと信じていたからだ。
ある夜、圓は京の外れにある小さな社の前で、一人の女と向かい合っていた。時雨である。時雨はもう、現役のくノ一として動くことはほとんどなかった。桃太郎と結ばれ、喜備丸を産み、「時雨の焼印」を未来に紡ぐ——それが彼女に残された、最後の大切な役目だった。
「圓、久しいな」
「ああ。時雨も、変わりないようだな」
二人はしばらく、言葉もなく並んで立っていた。圓は、遠い日のことを思い出していた。鬼ヶ島で初めて時雨と会った時、彼女の目は復讐の炎に燃えていた。今はもう、その炎は消え、静かな光だけが残っている。かつて同じ「影」を生きる者として肩を並べ、互いの孤独を分かち合った仲だ。言葉を交わさずとも、通じ合うものがあった。
「私はもうすぐ、すべてを喜備丸に託して、表舞台から完全に消える。桃太郎と共に、静かに生きたあの人たちのように」
時雨の声は、驚くほど穏やかだった。復讐に燃えていた少女の面影は、もうどこにもない。
「そうか。それが、お前の選んだ道か」
「ああ。そして圓、お前にはこれを渡しておきたかった」
時雨は懐から、一通の文を取り出した。
「これは?」
「椿が、お前に宛てて書いた手紙だ。彼女が亡くなる少し前に、私に託していた。『圓に、ちゃんと伝えたいことがあるから』とな」
圓は文を受け取り、そっと開いた。椿の文字は、少し右上がりの癖があった。まるで、彼女自身がそこに立って、照れくさそうに笑っているかのような、そんな温もりのある字だった。
『圓へ。元気にしてるかな。私はもうすぐ、たぶん死にます。でも、怖くはないよ。私がここで生きた証は、ちゃんと残ってるから。衛門さんの娘として、あなたが生きてる。それだけで、私がこの世界に来た意味はあったんだと思う』
圓の目が、わずかに揺れた。
『それと、もう一つ。衛門さんに伝えそびれたことがあるから、代わりに圓に聞いてほしいんだ。衛門さんは、何年経ってもずっと「二十五年」って言ってたでしょ。あれ、本当はもっと経ってるんだよ。時雨の焼印の物語でもそうだったけど、本人は全然気づいてなくて。もしあの世で会ったら、「あなた、計算がちょっと抜けてましたよ」って、笑って伝えてあげてほしい』
圓は、文面を見つめたまま、しばらく動けなかった。それから、ふっと小さく笑った。それは、泣き笑いにも似た、哀しみと、愛おしさと、そしてほんの少しの呆れが混ざった、複雑な笑みだった。
「……椿らしいな。最期まで、そういうところがあった」
「ああ。彼女は、いつも私たちの斜め上をいく女だった」
時雨も、口元を緩めた。
『それと、もう一つ。これは、私からの最後のお願いです。衛門さんの墓前に、きび団子を供えてやってほしい。できれば、「時雨の焼印」が押されたやつを。衛門さん、甘いもの好きだったから。きっと喜ぶ』
圓は手紙をそっと胸に抱き、空を見上げた。夏の夜の星が、静かに瞬いている。
「……わかった。必ず、そうする」
二
それから数年が過ぎた。関ヶ原の戦い、大坂の陣。時代の動乱を、圓はくノ一として生き抜き、黙々と使命を果たし続けた。表舞台には決して立たず、歴史に名を残すこともない。それが、彼女の選んだ道だった。
すべてが終わった後、圓はひっそりと吉備の村を訪れた。父・衛門の墓に手を合わせるために。墓は、村を見下ろす小さな丘の上に、ひっそりと佇んでいた。草花が墓を覆い始めている。それだけの時間が、経ったのだ。
圓は、懐に手を当てた。そこには、椿の手紙と、父が遺した手紙の束。二人の想いが、今、彼女の胸の上で確かに生きていた。
【衛門は、懐からあのぼろぼろの産着を取り出し、じっと見つめた。】
(『時雨の焼印』第5話:衛門(桃太郎伝説の犬))
父が二十五年間、胸に抱き続けた想い。今、その同じ場所に、私は椿の手紙と父の手紙を抱いている。形は変わっても、想いは確かに受け継がれていく——圓は、そう思った。
「父上……私は、あなたの遺した道を歩み続けています。あなたの娘であることを、ずっと誇りに思ってきました」
風が吹き抜け、墓の周りのススキが揺れた。まるで、衛門が「そうか」と応えたかのように。
圓は、持参した包みを開け、墓前にそっと供えた。きび団子だった。表面には、「時雨」の焼印が、くっきりと刻まれている。
「椿から、言づかってきました。『衛門さん、甘いもの好きだったから』と。父上、あなたは本当に、仲間に恵まれましたね」
風が、もう一度、優しく吹き抜けた。その風は、団子の甘い香りを乗せて、空へと昇っていった。衛門が、笑って応えたかのようだった。
圓は、墓前に一礼し、その場を後にしようとした。その時、彼女は足を止め、振り返らずに、ぽつりと言った。
「ああ、それと父上。『二十五年』の件、椿に頼まれて伝えに来ました。あなた、計算がちょっと抜けてたみたいですよ。天国で会ったら、笑ってやってください」
風が、もう一度、優しく吹き抜けた。その風は、かすかに団子の粉の匂いがした。遠い日に、婆様が台所で団子を焼いていた、あの甘い香り。衛門が、笑って答えたかのようだった。
三
さらに時は流れ、令和の時代。
あるコンビニのレジ横で、子ども連れの母親が、懐かしい駄菓子を見つけた。オブラートに包まれた、素朴な見た目の「きび団子」。母親は、きび団子を手に取ろうとして、一瞬、指を止めた。これは、ただのお菓子じゃない。遠い日の、誰かの想いが詰まった味。それを、我が子に伝えていいものか——。でも彼女は、次の瞬間には、しっかりと二つの団子を掴んでいた。母親は自分の分と子どもの分、二つを手に取り、レジへと向かった。
家に帰る道すがら、母親は昔食べたきび団子の話を、楽しそうに子どもに語った。コンビニで買った商品を冷蔵庫に入れ、きび団子を両手に持ち、子どもに手渡す。
「紙を破って開けてみて」
お母さんの声かけに従って、楽しそうに紙を破く子ども。
「お母さん、透明な紙が出てきたよ」
「それは食べれるから大丈夫!食べてみて」
子どもはゆっくりと口を開け、団子に歯を立てた。
その瞬間、子どもは目を見開いた。口の中に広がる、素朴で優しい甘さ。見上げれば、母の優しい笑顔。その味は、どこか温かかった。まるで、誰かの手が、そっと自分の頬を包んでくれているような——そんな、優しい温かさだった。子どもにとって、最高に贅沢で幸せな時間だった。
「お母さんが子どもの頃ね、近くに駄菓子屋があったんだ。そこでこんな話を聞いたの」
「その団子はね、遠い昔、初めて食べた団子を見よう見まねで作った事から始まったんだよ。その団子は土のような味が混ざり、失敗作だったらしいけど、旅が終わってから弟子入りして味を受け継いだとか」
団子の由来を聞きながら、少年は、もう一口団子をかじった。その味は、どこか温かかった。誰かの優しさが、ぎゅっと込められているかのように。
その団子に刻まれた「時雨」の焼印は、もうどこにもない。けれど、その味は、今も確かに生きている。コンビニのきび団子に。駄菓子屋の懐かしい味に。誰かの手作りの優しい甘さに。形は変わっても、その心は、確かに受け継がれている。
そして、その味を守り続ける人々がいる限り、彼らが見守る「安堵の光」は、永遠に消えることはない。
遠い昔、語り継がれた一つの物語。それは、桃から生まれた英雄の話ではない。鬼を退治した正義の話でもない。復讐に燃えた一人の少女が、愛を知り、母となり、その想いを未来へと紡いだ物語。そして、その影で、誰にも知られず、歴史にも残らず、それでも確かに生きた、「影の戦士」たちの物語。
彼女たちの想いは、確かにここにある。きび団子の優しい甘さの中に。誰かを思いやる心の中に。そして、この物語を読んだ、あなたの心の中に——。
これからもずっと、生き続ける。
四
——不思議と穏やかだった。
——怖くはなかった。
ただ、自分の人生を振り返るには、十分な静けさが辺りを包んでいた。
その時、遠くの空が、夕焼けに赤く染まった。
風が吹き抜け、庭の草花を揺らす。
その風に乗って、懐かしい声が聞こえた気がした。
(——春)
十兵衛の声だ。
宗助の笑い声も聞こえる。
老夫婦が団子を焼く、甘い香りまで漂ってくるようだった。
(ああ、みんな、迎えに来てくれたんだ)
椿の口元が、緩んだ。そして彼女は、静かに目を閉じる。
(太幽は…きっと春を死なせたくなかったんだ…だから似た境遇で『時雨の焼印』を何度も読み返した私を選んだ…この世界に来れて、本当によかった。それに——太幽、お前は書道家で歌手で、歴史の成績は1なのに、人の心をえぐる物語を書き、美しい文字でそれを綴り、さらに歌まで歌う。なんだそのギャップ。でも、そんなお前が紡いだこの世界に、私は確かに救われたんだ。ありがとう、太幽)
それが、椿という「影の戦士」の、最期の言葉だった。
しかし。
「——って、ちょっと待て!!!!!」
椿は、閉じかけた目を大きく見開き、ガバリと起き上がった。いや、起き上がろうとした。老いた体は言うことを聞かず、布団の上でじたばたとするだけだったが。
(私、どうやってこの世界に来た?!浴槽にスマホ落として、感電して、そのまま——ってことは、もしかして、転生した時、私、丸裸だったんじゃ……!?)
記憶を必死に手繰り寄せる。最初に目を覚ました時、自分は何を着ていた?藁の上に寝かされていた。誰かが布団をかけてくれていた。でも、その前は?誰が私の服を着せた?十兵衛?宗助?まさか、見ず知らずの村人?
(十兵衛が、呆れたように頭を掻いている。宗助が、吹き出すのを必死に堪えている。婆ちゃんが『まあまあ』と笑っている——そんな光景が、ありありと浮かんだ)
「うわああああああああ!!!!!」
恥ずかしさで顔から火が出るかと思った。
死に際の、厳かで感動的な雰囲気はどこへやら。
椿は布団の中で身をよじり、顔を真っ赤にして、声にならない叫び声を上げ続けた。
「うわああああああああ!!!お願い!早くお迎えに来てよー!!!」
遠くで見守っていたであろう誰かが、そのあまりに人間くさい慌てぶりに、「……最期まで、本当に騒がしい娘だな」と、呆れながらも優しく笑ったかどうかは、誰も知らない。
【次回予告】
(——私は、死んだ。そして、目が覚めたら、白い空間にいた。そこにいたのは、もう一人の私。私が春として生きている間、こっちの世界で歳をとっていた、現代の椿だった)
「最初はね、私の片方が夢の国に行ったから腹たったわよ!何よあれ!太幽の新連載始まったと思ったら、私が歴史を動かしてるんだもん!」
「文句は太幽に言って!……って、あれ?太幽って、確か書道家で歌手で、歴史の成績1なのにオリジナル曲まで配信してるんだっけ?なんだその才能のデパート!でも、そんなお前が作ったこの世界で、私は確かに生きたんだよな……」
「ねえ、春。一つ聞きたいんだけど——なんで、弥助と結婚しなかったの?」
「……それはね、弥助はみんなの弥助だから。見守ること、祈ること、それも愛なんだよ。あと、字で読むのと実際に見るのとじゃ、重さが違ったっていうか……」
「真面目だね、春は」
「真面目っていうか、それが私の愛の形なの」
「……そっか。私はこっちで『弥助かっこいい!』って叫んでるだけだったよ」
「それはそれで、正しい愛だよ。推しは、叫んでなんぼでしょ」
二人は顔を見合わせ、同時に吹き出した。その笑い声が、白い空間に柔らかく響き渡る。
「次回、最終話『ふたつの椿』。春と椿、二人の魂が、一つに溶け合う。そして——」
「太幽、見てるか?お前の作った物語は、ちゃんと誰かの心に届いてる。歴史の成績が1でも、書道家でも歌手でも、お前はお前のやり方で、誰かを救ってるんだよ。ありがとう、太幽」
「……って、真面目に締めくくったけど、最後に一つだけ言わせて!太幽!お前のせいで私、丸裸転生の謎を抱えたまま死ぬことになったんだからな!覚えてろよー!」
(よし、行こう。もう一人の私が、待っている)
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【第20話・完】




