第15話「忠犬の選択」
第15話「忠犬の選択」
一
天正十二年、春。
小牧・長久手の戦いが始まった。秀吉と家康。二人の天下人が激突するこの戦は、予想を超える長期戦となった。互いに決定的な打撃を与えられず、にらみ合いが続く。戦線は膠着し、兵士たちの疲労は日ごとに蓄積していった。
椿は、村からほど近い山の中腹に立ち、遠くの戦場の方角を見つめていた。直接見えるわけではない。でも、風が運ぶ匂いでわかる。焦げた木と、鉄と、血の匂い。風向きが変わるたび、匂いの濃さが変わった。戦場に近い方角から風が吹くと、血の鉄臭さが鼻の奥に張りつくように強くなる。戦場の匂いだ。
(小牧・長久手。この戦いで秀吉は苦戦する。でも最終的には講和に持ち込み、家康を傘下に収める。それが歴史の筋書きだ)
彼女は小さく息を吐き、木にもたれかかった。ここ数日、胸のざわつきが収まらない。理由はわかっている。あの白い犬が、また近くにいる気配を感じるからだ。
「春」
声がして振り返ると、弥助が斜面を駆け上がってくるところだった。息一つ乱していない。相変わらずの身軽さだ。
「弥助、どうしたの」
「どうしたもこうしたもねぇよ。見ただろ、あの犬。また山に来てるぜ」
椿の心臓が、ドキリと跳ねた。
「……どこに」
「西の沢のあたりだ。お前を探してるみてぇに、うろうろしてた」
弥助は眉をひそめ、椿の顔を覗き込んだ。
「なあ、春。あの犬、やっぱり普通じゃねぇよ。俺の野生の勘がそう言ってる。近づかねぇ方がいいんじゃねぇか」
「……大丈夫。私、あの犬と話がしたい」
「話って、犬だぞ?」
「犬だからこそ、話ができることもあるんだよ」
椿は弥助の肩をポンと叩き、西の沢へと歩き出した。弥助は何か言いたげだったが、結局何も言わず、ため息をついて後を追った。
二
西の沢は、村から少し離れた静かな場所だった。
細い流れの両側に、苔むした岩が転がっている。木々が生い茂り、昼間でも薄暗い。水のせせらぎだけが、絶え間なく響いていた。
椿は沢の入り口で足を止め、気配を探った。弥助は少し離れた場所で見守っている。
(いる)
彼女はゆっくりと歩を進めた。落ち葉を踏む音さえ立てず、呼吸を潜めて。岩陰から、白い毛並みが覗いた。耳の傷。金の首輪。あの犬だ。
犬は椿を見つめ、ゆっくりと尾を振った。唸り声も、警戒の仕草もない。ただ、じっと彼女を待っていたかのように、その場に伏せている。戦場では決して見せない、この無防備な仕草。彼が尾を振るのは、主の秀吉と、そして今は——椿にだけだった。
「……来たよ」
椿はしゃがみ込み、犬と同じ目線になった。犬は立ち上がり、彼女に近づく。鼻先が、いつものように手の甲に触れた。湿った感触。温かい息。
「お前、また戦場にいたの。匂いでわかる」
犬は答えない。ただ、じっと彼女を見上げている。その瞳の奥に、椿は不思議な既視感を覚えた。何かを訴えかけるような、でも言葉にはできない何か。
(この犬、ただの犬じゃない。本で読んだ「鬼の犬」に間違いない。でも——なんでこんなに、私に懐くんだろう)
犬は彼女の手のひらに、そっと自分の頭を押し付けてきた。撫でてほしいという仕草。椿はその頭を、ゆっくりと撫でた。耳の傷跡。硬くなった皮膚。そして指先が、首輪の金具に触れた。
冷たい。
その冷たさは、戦場の鉄の冷たさと同じだった。秀吉への忠誠の証であるこの首輪が、彼を「鬼の犬」に縛りつけている。その重みが、指先から伝わってくるようだった。
何気なく、その金具の刻印をなぞる。
五三桐の紋。
(……五三桐。秀吉の家紋だ)
その紋を指先でなぞりながら、椿は改めて、この犬の運命を思った。本で読んだ。いや、本で読んだだけじゃない。第11話でこの犬と初めて出会った時、すでに確信していた。この白い犬は「忠助」であり、やがて「シロ」と呼ばれ、老夫婦に愛され、桜の奇跡を起こす——そのすべてを。
(私は、お前の運命を全部知ってる。戦場で傷つき、崖から落ち、光に救われ、老夫婦に愛され、そして——欲次郎と意地子に殺される。そのすべてを)
知っている。知っているからこそ、今この瞬間、彼女の手のひらに頭を押し付けて甘える忠助の姿が、あまりにも愛おしく、あまりにも切なかった。
(お前は、今はまだ「シロ」じゃない。誰にも本当の名前で呼ばれず、誰にもただの犬として愛されず、戦場で「鬼」と呼ばれながら生きている。でも、いつか必ず「シロ」になる。その未来を、私は知ってる)
椿は忠助の頭を、もう一度、今度はさっきよりもずっと優しく撫でた。耳の傷跡。硬くなった皮膚。そのすべてが、彼が戦場で生き抜いてきた証だ。
「……お前は、これから崖から落ちるんだよね。小牧・長久手の戦いで。そして、光に救われる。それが、お前の運命だ」
忠助の耳が、ピクリと動いた。
「でも、今はまだその時じゃない。お前はまだ、誰にも救われてない。違う?」
忠助は彼女の目をじっと見つめた。その瞳の奥が、微かに揺れているように見えた。
「お前は、誰に救われたい?」
忠助は答えない。ただ、彼女の手のひらに鼻先を押し付けた。その仕草が、何よりも雄弁に、彼の孤独を物語っていた。
椿は、忠助の首輪にそっと指をかけた。五三桐の紋。この首輪が、彼の「忠誠」の証だ。秀吉に仕える「鬼の犬」としての誇り。でも、それだけじゃない。この首輪の下には、誰にも見えない、誰にも撫でられたことのない、ただの犬としての忠助がいる。
(私は、お前の運命を変えられない。崖から落ちることも、光に救われることも、きっと変えられない。でも——)
「……わかった。私、お前のことも守る。歴史を変えずに、救えるものは救う。それが、私のやり方だから。お前が崖から落ちるその時まで、私はお前の味方でいる。それだけは、約束できる」
忠助は彼女の手のひらを、もう一度だけ舐め、それからゆっくりと立ち上がった。その目は、もう迷っていないように見えた。まるで「わかってる」とでも言うように。
三
その夜、椿は家の縁側に座り、月を見上げていた。
弥助が隣に座り、木の実を差し出してきた。
「食うか」
「ありがとう」
二人はしばらく無言で、木の実を噛みしめていた。ほのかな苦味と、かすかな甘さ。山の恵みだ。
「なあ、春。あの犬、やっぱりお前のことわかってるみてぇだな」
「……うん。私もそう思う」
「秀吉の陣営にいるってことは、あの犬も戦に巻き込まれてるんだよな」
「そうだね。あの犬は、戦場でたくさん戦ってきた。たくさん傷ついて、それでも生きてる」
弥助は木の実を噛み砕き、空を見上げた。
「俺、あの犬の気持ち、ちょっとわかる気がする」
「え?」
「俺も、山で獣たちと育った。人間の社会に馴染めなくて、ずっと孤独だった。桃太郎に会うまではな」
弥助の声は、珍しく静かだった。彼は手に持った木の実をじっと見つめ、それから遠くを見るような目をした。
「桃太郎に初めて会った日、俺はあいつに『変な奴』って言われたんだ。でも、その目は、俺を拒絶してなかった。あの犬も、きっとそんな目を待ってるんだ」
「弥助……」
「春、お前はあの犬と話ができるって言ったよな。だったら、あの犬の気持ちを、ちゃんと聞いてやってくれよ」
弥助は立ち上がり、大きく伸びをした。
「俺は寝る。春もあんまり無理すんなよ」
「……うん。ありがとう、弥助」
弥助は手をひらひらと振り、家の中へ消えていった。
椿は再び月を見上げた。雲がかかり、月の輪郭がぼやけている。
(忠助。お前は、誰かに救われたいんだ。でも、どうやって救えばいいんだろう)
彼女は目を閉じ、本で読んだ忠助の物語を思い返した。戦場で「鬼の犬」と呼ばれ、主のために戦い、崖から落ち、桃太郎に救われ、老夫婦に愛され、最後は桜の奇跡を起こす。すべては繋がっている。その大きな流れの中で、自分は何ができるのか。
(私は、お前の運命を変えられない。崖から落ちることも、桃太郎に救われることも、きっと変えられない。でも——)
彼女は拳を握りしめた。
(救えるものは救う。それが、私のやり方だ。お前が崖から落ちるその時まで、私はお前の味方でいる。それだけは、約束できる)
四
数日後、椿は再び西の沢を訪れた。
忠助は同じ場所にいた。彼女の姿を見ると、ゆっくりと尾を振る。
「……来たよ」
忠助は近づき、いつものように鼻先を彼女の手の甲に触れた。
椿はしゃがみ込み、忠助の目をじっと見つめた。
「忠助。お前はこれから、崖から落ちる。そして、桃太郎に救われる。それが、お前の運命だ。でも——」
椿は忠助の頭を撫でながら、言葉を続けた。
「もし、その前に私にできることがあれば、するから。歴史を変えずに、お前を救える方法が、きっとあるはずだ」
忠助は彼女の手のひらを舐めた。ざらりとした舌。温かい。
「約束する。私は、お前を見捨てない」
忠助は彼女の言葉に応えるように、一声、小さく吠えた。その声は、子犬が母を呼ぶ時のような、か細く、でも確かな信頼に満ちた響きだった。それは、戦場で敵を威嚇する吠え声ではなく、もっと優しい、飼い主に甘えるような声だった。
椿は、忠助の首輪にそっと触れた。五三桐の紋。秀吉の家紋。この首輪が、彼の「忠誠」の証だ。
「お前は、秀吉様に忠誠を誓ってる。それは、変えられない。でも、それとは別に、お前にはお前の人生がある。犬生、か。お前が幸せになる権利は、誰にも奪えない」
忠助は彼女の目をじっと見つめ、ゆっくりと尾を振った。
椿は立ち上がり、沢を後にした。胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなっていた。
(私は、忠助の運命を知ってる。知ってるからこそ、できることがある。救えるものがある)
五
村に戻ると、衛門が待っていた。
「春、秀吉の陣営から報せだ。小牧・長久手の戦いは、講和に傾きつつある。秀吉と家康、互いに決め手を欠いたまま、和睦する見込みだ」
「……そう。歴史の通りだね」
「ああ。だが、その裏で、秀吉の愛犬が崖から落ちて死んだという噂がある」
椿の心臓が、大きく跳ねた。
「……忠助」
「忠助?」
「あの犬の名前。秀吉様がつけた名前だよ。『主に忠実なる助け手』って意味なんだって」
衛門は少し驚いた顔をしたが、すぐに穏やかな表情に戻った。
「そうか。お前はあの犬の名を知っていたのだな」
「うん。本で読んだから。忠助は、これから崖から落ちる。でも、まだ死んでない。桃太郎に救われる。それが、あの犬の運命なんだ」
「ならば、お前はどうする」
椿は拳を握りしめた。
「私は、忠助を見捨てない。約束したんだ。歴史を変えずに、救えるものは救う。それが、私のやり方だから」
衛門は椿の肩に手を置いた。
「ならば、その約束を果たせ。お前には、それができる」
椿は頷き、走り出した。向かう先は、西の沢。忠助がいつも待っている場所。
(お願い、まだ死なないで。あなたは、桃太郎に救われるまで、生きてなきゃダメなんだ)
彼女は必死に走った。木の根につまずき、転びそうになりながら。息が切れ、胸が張り裂けそうだった。
沢に着くと、忠助はいつもの場所にいた。彼女の姿を見ると、ゆっくりと尾を振る。
「……忠助!」
椿は忠助に駆け寄り、その体を抱きしめた。指先から伝わる温かさが、彼女の凍りついた心を少しずつ溶かしていく。生きている。まだ、生きている。その事実だけが、今はただ、嬉しかった。
「よかった……まだ、大丈夫だ」
忠助は彼女の頬を舐めた。ざらりとした舌。温かい。
「約束する。私は、お前を救う。歴史を変えずに、お前を救う方法を、絶対に見つける」
忠助は彼女の目をじっと見つめ、ゆっくりと尾を振った。
その瞳の奥に、椿は確かな信頼の光を見た気がした。
(忠助。お前は、秀吉の犬であり、桃太郎に救われる犬であり、そして——私の、友達だ)
彼女は忠助の頭を最後にもう一度撫で、立ち上がった。
「また来る。絶対に」
忠助は一声吠え、沢の奥へと消えていった。忠助の白い毛並みが、木々の隙間から差し込む光に照らされて、一瞬、桜の花びらのように見えた。いつか、この犬が本当の幸せを見つける日——その時、彼の周りにはきっと、満開の桜が咲いているのだろう。その後ろ姿が、木々の間に吸い込まれていく。
【次回予告】
(——忠助との約束を胸に、私は走り続ける。でも、歴史は待ってくれない。次なる運命の歯車が、もう動き始めている)
「圓——つぶら。衛門さんが二十年以上探し続けた娘。秀吉の側近として、歴史の裏側で暗躍する、もう一人の『影』。本で読んだ彼女の強さと孤独を、私はこの目で確かめたい」
「だって、圓は衛門さんの娘なんだよ!? あの衛門さんの! 二十年以上、ぼろぼろの産着だけを頼りに娘を探し続けた、あの衛門さんの! その娘が、今、秀吉の側近として生きている——その事実だけで、もう涙が出そうだ」
「でも、私は知っている。圓と衛門さんの再会が、いよいよ近づいていることを。そして、その再会が、どんな言葉で結ばれるのかも——『お前は、私の誇りだ』」
(私は、その瞬間を、ちゃんと見届けたい。影の戦士として、歴史の裏側で)
「次回、第16話『つぶら』。衛門さんと圓、父と娘の二十五年越しの再会——私は、その場に立ち会う。誰にも知られず、誰にも気づかれず。それでも確かに、その温かさを、この目に焼き付けるために」
「……あ、でも圓って、くノ一として相当優秀なんだよね。私、気配を消して近づけるかな。バレたら『すみません、ただの村娘です』で通じる? 通じないよね、斬られるよね。どうしよう」
(……まあ、なんとかなるか。だって私、影の戦士だもん。多分)
「よし、行くぞ! 衛門さんの二十五年が、今、報われる——!」
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【第15話・完】




