モフチャン
非常階段の扉は、脆く崩れた。
そこは、裏世界の入り口だった。
暗くなり、何もかもが消えた。
俺の3LDKの部屋は、最初から存在していなかったのだ。
薄い橙色の空間を歩いている。
そんな気がしただけかもしれない。
時々、腕が尖ったものに当たって、強く引っ掻かれた。
でも、そう思っているのは、俺だけなのだ。
その当たりが、風圧だと分かり始めた。
わずかな隙間を体がすり抜けた。
べか太郎の舌が、スルスルと俺の胴体から離れた。
それと同時に俺は、毛足の長い絨毯の上に落ちた。
俺は周りを見て、牛御前に言った。
一見して、そこは猫カフェのようだった。
「ここは、どこよ?」
「まぁ、19班の部屋かな」
「そうよ」
べか太郎が、相槌をうった。
モフモフした白いぬいぐるみを抱きしめて寝転んでいる。
「俺は、19班?」
「そうだよ」
「お前と、べか太郎?」と、俺は牛御前を指差した。
牛御前は、眉を寄せた。
「もうちょっと、いるね。」
「でも、まず、あのモフチャンかな」
牛御前の視線の先に、べか太郎が持つぬいぐるみがあった
「あ、そうなんだ」
俺は、もう、どうでもよくなっていた。
「幼稚だな」とは、思っても言わなかった。
「19班は、なんなの?」
「バグ組だよぉ」
べか太郎が起き上がって答えた。
それと、同時にモフチャンがぴょんと俺の前に来た。
黒い目が二つ、可愛く見つめてくる。
「このぬいぐるみ、生きてるのか」
「ぬいぐるみじゃない」
べか太郎が珍しく早口に言った。
「猫好きの人が、猫になったらしい」
牛御前は、モフチャンの目の前で、ピンクの猫じゃらしを振った。
すごく、似合わなかった。
「モフちゃんは、結構、それを気に入っているのよ」
モフチャンが、自分の胸の辺りに足を当てて、話した。
「おお、か、かわいい」
俺は、呟いてしまった。
モフチャンの声は、のんびりしていた。
気のいい親父の感じもした。
それが、何とも言われんギャップだった。
「うん、モフチャン、可愛い、白くてモフモフゥ」
俺は、モフチャンに手を伸ばした。
いつの間にか、モフチャンの前で正座していた。
フワフワだ。
白い毛が優しい肌触りをくれた。
文房具屋で売っている、ものすごく高価な筆の毛だ。
一度、触ったことがある。
しっとりとして、スルリと離れる。
「癒されるんだよ。モフチャン触ると」
牛御前が猫じゃらしを持ったまま、太い声で言った。
モフチャンが、俺の太ももに乗ってくれた。
俺はモフチャンを引き寄せて、腕の中に抱いた。
「んっー」
「幸せ?」
モフチャンが、俺を見上げる。
「う、うん」
そう言うと、牛御前が薄く笑った。
「でもな、モフチャン、フレンドじゃないとエネルギー取るんだぜ」
俺は、モフチャンをベージュの絨毯へ下ろした。
「俺は、フレンド」
心の中で、叫んでいた。
でも、次の瞬間、モフチャンがぺこりと頭を下げた。
「モフチャン、ごちそうさまぁ」
そう、俺に挨拶して、モフチャンはべか太郎の方へ走って行った。
「モフチャン、お腹いっぱいかぁ?」
べか太郎が嬉しそうに聞いて、頭を撫でていた。
俺は、急に眠くなった。
「モフチャンにエネルギー、とられたんだな」
牛御前が、俺の右肩を突くと、俺は横に倒れて、そのまま眠ってしまった。




