牛だよね
「ねね、うしごぜぇーんー」
「語尾を伸ばすな」
「べかあー」
「そのベかぁ、俺にはやめろ」
牛御前はリビングの椅子に座り、渋い顔をしている。
その割に、牛御前の茶色がかった目は優しかった。
そして、長いまつ毛を少し伏せた。
俺は、黒のソファの前で転がっていた。
ストレッチポールのように横になっていたが、ちょっと前から、話し声で目が覚めていた。
そのまま、二人、いや、一人と一頭を、床からこっそりと見上げていたのだ。
「このまま、あいつらを観察しよう」
そう思った瞬間、
「あ、今、動いた。目、開けてるよ、コイツ」
べか太郎が、色白の指先を俺に向けた。
俺は、頬の肉が引き攣った。
べか太郎が気づくとは、信じられなかった。
案外、鋭いのか、それとも偶然なのか。
「牛御前、こいつ、目開けてるよ」
牛御前は「ふっ」と鼻で笑ってから、べか太郎の飲み残しの牛乳パックを掴んだ。
牛御前は、喉を鳴らして飲んでいた。
「牛が飲むかよ」
俺が呟くと、べか太郎が「えっ」と言って、俺の顔にかがみ込んだ。
「いや、何でもない」
俺が全て言い切らない間に、額に生暖かい雫が垂れてきた。
「うえーっ」
俺は悲鳴をあげ、飛び起きた。
べか太郎のヨダレだった。
「えへへ」
べか太郎は、笑っている。
俺は、Tシャツの裾をめくって、顔を拭いた。
「マジかよ」
俺は、牛御前をチラリと見た。
あいつは、あいつで、牛乳をこぼしている。
最初から、牛が牛乳パックから飲むのは無理がある。
皿か、桶が必要だ。
俺は牛御前をあらためて眺めた。
牛御前の服が目に留まった。
「牛御前は、ブランドのスーツを着ているのか?」
俺は安価なスーツしか、着たことがない。
濃いグレーの薄手の生地には、微かな光沢があった。
しかも、成功した企業家が着るような最新のデザインじゃないか。
「なんて、おしゃれな牛なんだ」
俺は、白Tシャツに、ショッキングピンクのボクサーパンツを履いていた。
バンツには「hey,yo!」と黒い文字が大きく書かれていた。
Tシャツの裾には、べか太郎のヨダレもついている。
パンチでも、外見でも、俺は牛に負けていた。
さっき、蹄で殴られた、右の頬が痛い。
べか太郎が、俺に近づく気配を感じた。
「ちょっと、待ってくれ」と、心の中の俺が叫ぶ。
「お前、そのヨダレ、何とかならんのぉ?」
俺は、無理を承知で言った。
すると、牛御前が低い声を放つ。
「べか、お前、舌、しまっとけ」
べか太郎は、顔を赤くして笑い出した。
それから、べか太郎が長い舌を口の中に引き戻した。
ヨダレは止まったが、俺はべか太郎の顔をガン見していた。
あの苺色の舌はどこへ行ったのか?
俺は立ち上がり、食卓の椅子の背を引いた。
椅子が床に擦れて、音を立てる。
椅子の脚には、保護フェルトが貼っていたはずだった。
「変だな」と思った。
いつも、この椅子はスーッと滑るように動いていた。
牛御前の向かいに座った。
俺は、いつの間にか、反抗期の少年のように首を傾げていた。
何か言うたびに、顎が突き出る。
「で、牛かぁ、人かぁ、何だか知りませんけどぉ」
ここまで言って、食卓を軽く、手のひらで叩いた。
「なんで、俺の家のベルを鳴らすんですか?」
牛御前が、俺を黙ってみている。
「こいつ、バカだなぁ」っていう目つきだった。
牛にマウントを取られて、俺は納得がいかない。




