女公爵クルシェ嬢の刺繍と独占欲と
…あっ、この香り。
ふわふわとした心地と、照れの様な恥ずかしさで一気に目が覚めた。何かに気付いた…。思い出して目が覚めたという感じ。
明るくなっていた室内を見渡せば、サイドテーブルの上に、鮮やかなオレンジの小花を付けた花枝が生けてある。
香りの正体はこれなのね。
恥ずかしさを感じる訳だわ。この花、金木犀ですもの。
花こそ目にはしなかったけど、この香りの元で時を過ごしたのは昨日の事だ。
学園でもちょこっとした時間をアレク様がつくってくれた。ちょこっとが重なって、それが嬉しくて、お礼をと思って刺繍を…ハンカチにしたのがそもそもそだった。王宮から届いていた衣装を前にして、制服にだったら刺繍を刺してもいいのじゃないかしらと、ついやってしまった。
昨夜の、ダリル兄様とのやり取りを、ぼんやりと思い出す。
少し、ほんの少しだけ寝ぼけてしまって、迷惑を掛けてしまったわ。それに、久しぶりに甘えてしまった。そう。私は甘えたのだ。
胸のモヤっとしたものを言葉にして、優しい手で寝かしつけられたのだ。
それよりも、やり過ぎ…よね。解いた方がいいかしら? 揃いの柄でと、私の物と同じ絵を刺してしまったわ。前に、何かと言われたからって、あれは食べ物の事を言っていたのだろうし…。
思い出したら悶々としてしまっていた。
でも、揃いの何かを纏う事を想像するのは、思った以上に心躍る事だった。それがいけなかったのかしら?
いえいえ…。折角良い香りで目覚めたのですもの、早くアレク様にお礼を言いたいわ。
起き出して、身支度をする。
アレク様は、朝の鍛錬はもう終えているのかしら?
何処の花かは分からないけれど、届けられて飾られてからの時間を考えると、もう、お食事をなさっているのかもしれない。
お待たせしてしまっているかしら? でも、クロイスもエドガー殿下も一緒なら、もうお食べになっているわ。
私としては、急いで支度をしたつもりなのだけれど、やはり皆の食事は終わっていた。
昨夜…考え過ぎていて疲れていたのかしら? 花枝が飾られたのにも、気付かなかっくらいだもの…。
声を掛けてくれたらよかったのにと思うも、朝が来ても深く眠り込んでいた自分を反省。
アレク様が居らっしゃる時くらい、ご一緒出来る様にしないと。
私が席に座ると、クロイスとエドガー殿下は、調べ物をすると言って、仲良く王宮へ出掛けて行った。
「ありがとうございます」
私を待って下さっているアレク様にお礼の言葉を。
ん? と、首を傾げられたので「お花です」と付け加えた。
「ぱっと華やかなもので無くてどうかと思ったんだが…」
「そんな事はありません。とても良い香りですもの」
「花を水に浮かべるのもいいかと思って、花を拾っておいてくれって頼んだら、落ちた花なんか差し上げられないって怒られたんだ。で、朝一番で届けられたから、折角だしと思って。喜んでくれたなら良かったよ」
「喜びます。本当に、部屋中が良い香りでしたわ」
昨日の事を思い出せば、やはり恥ずかしさが込み上げるので、ただ嬉しいとだけ伝えたい。
自然の優しい香りが覚醒時にもたらす効果は絶大だ。…恥ずかしいのまで思い出さなければ。
「そうだ、クルシェの今日の予定は?」
特に何もと言いかけて、はっと気が付く。
話しをして、刺繍の有無を決めて頂かないと。
「実は、アレク様にご相談がありますの。後で、執務室によろしいですか?」
了承の言葉。
話しをするにあたっての一段階をクリア出来た事に、勿論安堵した。
そのまま二人で執務室へ向かい扉を開けた事に、この後直ぐに後悔してしまったのですが、この際だからと刺繍を刺したハンカチを、お礼と言って渡す。
ここまでは問題は無いのですが、アレク様の服が執務室の端に掛けられて置いてある。相談の必要のあるものと制服。その事を、なんと言って説明すればいいのかしらと考え込む。
取り敢えず、制服には触れないで話しを進めます。
「我が家宛に届いたのですけど…。王宮からですし、アレク様のご衣装だと思いますの。ですが、これをどうしたらいいのかと思いまして」
「俺宛じゃ無くて?」
「ええ。レイナード宛ですの」
アレク様は、髪をかきあげながら「んー」と唸る。
ですわよね。意図のはっきりしないものには、色々難しいものがありますよね。意図に沿うか、外れるか。
「これ、貴族議会の。クルシェは、もう用意してあるんだろ?」
そう言われて、見せてと言われたので私の服を出してきてもらう。
並べてみると、同じ色とも言える濃紺。違いを言えば光沢。
アレク様は、私の衣装に手を伸ばし、刺繍を指で辿ります。
「ハンカチと同じ山百合…」
それからご自分の衣装に手を伸ばしました。
「同じ刺繍を刺して」
「はい。…えっ? 同じ刺繍で、よろしいのですか?」
何気なく返事をしてしまってから聞き返す。
「良いも悪いも、レイナード関係者で出るんだろ? 今まで王家の一人として出た事無かったんだから、レイナードと分かる様に。それとも、今からじゃ無理?」
「いいえ。無理じゃありませんわ」
「なら、同じに。あぁ、でも」
そう言って向かい合わせになります。
「ここの刺繍は、俺のここに」
左胸を指さされて、向かい合ったアレク様は自分の右胸に手を添えます。
その場所は盾と山百合。
「もうさぁ。揃えろって言われてるみたいだと思わないか?」
アレク様は、そう思われるのですね?
即答を避ければ、アレク様が笑う。
「俺は、レイナードの入婿。責任を押し付ける訳じゃ無いけど、当主はクルシェ。色まで合わせておいて、生地は考えて無かったって事は、まず無い」
アレク様が思うに、今はまだ婚約者。別の装いなら、そもそも出席なんてしなくても構わない。だけど同じに装うのは今はまだ。そう言うアレク様は、少し悔しそうだった。この貴族議会は、私がメインでアレク様が添え物なのだと仰る。アレク様は、隣…いいえ、一歩後ろのスタンスなのが望ましいそうです。
そうかもしれません、が…。その考え方は、私は受け入れられそうもありません。公爵家の女当主という立場を分かっているつもりでありましたが、政治の舞台には、アレク様の言う様な考え方も、この先必要なのかもしれません。何分、私が公の場に出るのは、これが初めて。婚儀はまだと言っても単身の参加ではないのです。心構え自体の前提を変えなくてはならないようです。
それでも、今のアレク様に、レイナードの紋を身に付けて頂く事は正しいのでしょうか?
それに、そうだとしても…。右胸の意味も分かりません。
「盾と山百合。レイナードを胸には、俺の希望だ。王子じゃなくてレイナードのアレックスになれるんだから。それに、今は一歩後ろに下がっても、ココロは向かい合っていたい」
「アレク様…。お気持ち、嬉しいです」
「なら、叶えて」
昨日…。ハンカチからアレク様の制服に刺繍を刺した時。私のアレク様だと、レイナードのアレク様に早くなればいいのにと、思わなかったのだろうか? 揃いでのモチーフを、私が自分の持つものと同じものを選んで刺した事は、アレク様を、私のアレク様にと思っての事だったのではないのだろうか? 見えない襟裏は、私のアレク様なのだという独占の表れではないのだろうか? そう気が付いた私は、アレク様の言葉が自然と心に届き、受け入れる事が出来て頷いた。
貴族議会の招集まであまり日がない事もあり、直ぐ刺繍に取り掛かる。
アレク様は、コリニアス様受け入れの為の改装の指示を出す。お兄様を従えて職人との打ち合わせをなさるらしい。
何時もの通り、夢中になると周りが見えなくなる私は時間も忘れていた。
袖から襟の山百合を刺し終わって肩から力を抜いた時までは。
「お疲れ様」
そう言うアレク様の声が後ろから聞こえると、腕が回され肩にアレク様の顔がのる。
深呼吸するようにアレク様が息をする。
「襟の花は幾つ?」
「えっ? 五つですけど」
「分かった」
変な声が出た。「ふにぇ」と、聞こえたのは自分の声だとは分かった。なら、今私は何をアレク様にされたのか…。
首筋に感じる熱い息は左から右へと移る。「いい匂い」と呟くのに、金木犀の匂いではないのですかと何処か思考に霞が掛かったようにしか考えられなくなっていた。軽く噛まれたりしてると気付いたのは五回目の時。皮膚に当たる歯が強く当たって体が動かない。痺れがそこから広がる。
「アレックス殿下? 貴方は、待ても出来ない駄犬ですか?」
動けない私とアレク様の時間を動かしたのは、お兄様の声だった。
「俺も、俺のだって印を付けたかったんだから許して」
そう言って刺繍を指さすアレク様。
「なら、何かを送られては宜しいのでは?」
「勿論用意をしているが、今すぐ伝えたかったんだ」
そしてぎゅぅっと抱きしめる腕の力が強くなる。
私の時間は、まだ戻ってはきません。
アレク様とお兄様の声が、私を置き去りにして言葉を交わしています。
いつの間にか刺繍を刺し始めていたのでしょう、私。
気が付けば、蔓草の刺繍をしていました。針と糸の持ち替えを、いつの間にしていたのでしょう。
アレク様とお兄様の姿はありません。
お二人は、何方に?
我に返ってアレク様を探せば、お庭で剣を握っていた。
騎士と手合わせ中なのだろう。
取り囲む人垣にダリル兄様とグレイ兄様の姿もある。そして、その手には剣が。騎士としてお仕事をなさっているグレイ兄様は分かりますが、何故にダリル兄様も剣を手にしていらっしゃるのでしょうか。
ゆっくりと近づけば、人垣が別れていきます。
お兄様を初めとした皆様は余裕があるお顔ですが、アレク様は、随分と疲れていらっしゃるようです。
「クルシェ! そこで待ってて」
アレク様の声が響きます。
そこでと言われて足を止めました。
アレク様は正面から私を見て息を整えていました。
そこからは、ほんの少しの時間だったのだと思います。
相手の騎士に向かって剣を向けて踏み込んでいったと見えたアレク様が、どの様になさったのか、騎士を交わして私の目の前に膝をついていました。
「クルシェ、結婚して! せめて、中等科の卒業まで待とうと思ったけど、無理! 俺の卒業と同時に、結婚して!」
ぽかん…と、してしまっているのではないでしょうか、私。
「何時、結婚してもいいなら今すぐ!」
そうですね。結婚の時期は、私達が決めて良いとの事でした。
「アレックス殿下? 勝負もつかない前から、何を言い出しているんですか?」
グレイ兄様の珍しく低い声を耳にしました。
「勝負も何も、隙が付けたんだから良しとしてくれ」
私を見詰めたままのアレク様。
私のお返事待ちなのですね…。
居並ぶ皆様の視線が一挙に集まっているのが分かります。
婚約を決めただけで、婚期を決めていないから、色々と物思うのでしょうか? 決め事が他にもと、考える話し合うを後回しにしてしまっていた私達ですが、こうして言われてみるとびっくりと嬉しいでドキドキします。
「なぁ、クルシェ?」
アレク様。その上目遣い、狡いです。
「はい。アレク様のご卒業を待って」
促されれば、そう応えてしまう。
私は、アレク様のお願いに弱いのかも知れません。特に、その瞳に。
「皆も! 兄上も聞きましたね!」
「きゃっ」
アレク様に立ち上がりながら抱き上げられた私は、私の自室へと運ばれて行きました。ベッドへと下ろされた私は、アレク様に抱え込まれて身動きが取れません。
「少し、休ませて。そしたら、話しをしよう」
汗ばんで深呼吸を繰り返す胸に頬を寄せていると、頭の上で話し掛けられました。離してと言わずに頷くと、暫くしてアレク様の呼吸が、穏やかな寝息に変わったのが分かりました。
私もアレク様を抱き締めたいと思いましたが、動いて穏やかな眠りを害したくはなかったので、シャツをきゅっと握り込みました。目が覚めて、アレク様が居なかったというのは嫌なのですもの。
誤字脱字のご報告、何時もありがとうございます。
何時もであっては駄目ですよね、私の方が。
本当に助かってます。ありがとうございます。
今話もお読み頂きありがとうございました。




