第8レース 一年後の景色
二週間の入学前研修を終えた、四月最初の水曜日。
競馬学校へ来てから初めて、瞳子は朝から何度も時計を確認していた。
寝坊が心配なわけではない。今日は、いよいよ入学式だ。
研修を終えているせいか、もうとっくに競馬学校の生徒になったような気がしていた。それでも正式に入学するのは今日で、午後には式典や記者会見も予定されている。
そして何より――。
「お母さん、もう着いてるかなぁ」
朝食を終え、寮へ戻る途中で思わず口にすると、隣を歩いていた星羅が振り返った。
「とこ、今日それ何回目?」
「そんな言ってる?」
「朝起きてから三回は聞いた」
「だって、久しぶりだし」
「二週間じゃん」
「二週間も、だよ」
入院していたときを除けば、こんなに長く母親と離れて暮らしたことはほとんどない。スマートフォンも自由に使えないから、毎日のように連絡を取っていた頃とはまるで違った。
「うちも、おとんとおかん来るで」
後ろから小町が会話へ入ってくる。
「二週間くらい別に久しぶりでもないけどな。おとんなんか仕事場で顔合わせても、家じゃ全然見ん日あるし」
「調教助手って、そんな忙しいの?」
「朝ごっつ早いで。うちが起きる頃には、もう仕事しとるし。まあ、調教師のおじいちゃんの方が忙しいと思うけどな」
小町ちゃんの家では、競馬がずっと日常の中にあったんだろう。馬は瞳子にとっても身近な存在だったが、中央競馬の世界にはまだ知らないことが多い。
「星羅ちゃんは?」
「じいちゃんとばあちゃんと、弟」
「弟いるの?」
「いる!」
突然、星羅の声が大きくなった。
「めっちゃ可愛いから! ガチで! 今日とこにも紹介する!」
「う、うん」
「アタシと八個離れてんだけど、イケメンで頭いいし、しっかりしてるし、マジで将来有望だから」
「姉バカやん」
「は? 事実なんですけど?」
星羅が真顔で返し、小町が呆れたように笑う。
その少し前を、清華が一人で歩いていた。
「清華さんは、家族来るのかな」
瞳子が小さく呟く。
二週間一緒に過ごしても、清華さんのことはまだ分からないことが多かった。
午前十時前。
二年生が実際に馬へ乗る姿を披露する騎乗供覧を見学するため外走路へ向かうと、すでに多くの保護者や学校関係者が集まっていた。
その中から、見慣れた顔を見つける。
「瞳子!」
「お母さん!」
明里が大きく手を振っている。
瞳子も反射的に駆け寄りかけたが、近くに教官がいることに気づいて途中で足を止めた。研修の二週間で、こういうところだけは身体が先に反応するようになってしまったらしい。
結局、少し早歩きで母親のもとへ向かう。
「久しぶり!」
「二週間でしょ?」
「お母さんまで同じこと言う!」
思わず頬を膨らませると、明里が楽しそうに笑った。
「でも、元気そうでよかった。少し顔つき変わったんじゃない?」
「ほんと?」
「ちょっとだけね。颯太くんと、まんじゅうも元気よ」
たった二週間なのに、牧場を出た日のことがずいぶん前に思える。
「とこー!」
後ろから呼ばれて振り向けば、星羅が小学生くらいの男の子の肩へ両手を置いていた。
「紹介する! 弟の陽翔!」
「姉ちゃん、声大きい」
「ほら! こういう冷静なとこも可愛くない!? 」
「……うん?」
どう反応するのが正解なんだろう。
男の子はそんな姉を気にする様子もなく、瞳子へきちんと頭を下げた。顔つきは確かに星羅ちゃんに似ていて、目鼻立ちもはっきりしている。
「いつも姉がお世話になってます」
「こちらこそ、陽翔くん……って、しっかりしてる!」
「でしょ!?」
「姉ちゃん。恥ずかしいから止めて」
どっちが年上か分からない。
その後ろでは、穏やかそうな祖父母が二人のやり取りを笑って見守っていた。
少し離れたところには小町もいる。
父親と思われる男性の胸元には関係者用のバッジが付いていて、小町と話している時間より、周囲の大人から声を掛けられている時間の方が長かった。男子たちの保護者にも、顔見知りらしい関係者と挨拶を交わす人が何人もいる。
やっぱり、競馬関係者の家から来た子は多いんだ。
そんな中で、ひときわ人が集まっている場所があった。
年配の男性へ、学校関係者や来賓らしい人たちが次々と頭を下げている。その少し離れたところに、清華さんが立っていた。
以前聞いた話を思い出す。
馬術カレッジの理事長をしている、清華さんの祖父だ。
なるほど。だから、あんなに色んな人から挨拶されてるんだ。
ただ、清華と祖父が親しげに話している様子はなかった。祖父は少し離れた場所から、孫娘を静かに見守っている。
お父さんとお母さんは来ないのかな。
そう思ったものの、瞳子は口にはしなかった。
「一年生、集合!」
教官の声が響く。
八人が家族のもとを離れ、決められた場所へ集まった。
「これから二年生による騎乗供覧を行う。よく見ておけ。一年後、お前たちが見られる側になる」
一年後。
外走路へ視線を向けると、騎乗供覧に参加する二年生は七人だった。
研修中に聞いた話では、入学時には九人いたらしい。
二人は、もうここにはいない。
初日に加藤教官から言われた「騎手になれる保証はない」という言葉が、今になって少しだけ現実味を増した。
「来るぞ」
男子の誰かが呟く。
遠くから、蹄の音が聞こえた。
瞳子は外走路へ身を乗り出しかけ、慌てて踏みとどまる。音は少しずつ大きくなり、やがて最初の一頭が姿を現した。
砂を蹴り上げながら、こちらへ一直線に迫ってくる。
「……速っ」
テレビで見るのとは、まるで違う。
馬の脚が地面を叩くたび、音だけで身体まで揺さぶられるようだった。
乗っているのは、自分たちと一つしか学年の違わない生徒だ。
それなのに、目の前を走り抜けた姿は、もう騎手にしか見えない。
「一年で、あんなふうになれるんかな……」
隣で小町が呟く。
「なるんじゃなくて、ならなきゃいけないんだよ」
「急にプレッシャーかけんといて」
「あ、ごめん」
二頭目が外走路へ入ってくる。
今度は女子生徒だった。
「あ、女の先輩!」
星羅が声を上げる。
「静かに見ろ」
「はい」
一瞬で教官に止められたが、瞳子も同じことを考えていた。
自分たちの一つ上にも女性がいて、その人が今、目の前で馬を走らせている。さっきよりも少しだけ、一年後の自分を重ねやすかった。
馬が近づいてくるにつれ、瞳子はその姿から目を離せなくなる。
姿勢が特別綺麗なのかは、まだ分からない。
それでも、前だけを見つめる表情と、小さな身体から溢れる勢いだけははっきり伝わってきた。
抜きたい。勝ちたい。誰より先へ行きたい。
声に出しているわけでもないのに、そう言っているように見える。
「……なんか、すごい」
瞳子が呟くと、小町も小さく頷いた。
「火山新煌先輩や」
「知ってるの? 」
「名前くらいな。『ひやま・にこ』って読むんやで」
「にこ……可愛い名前」
新煌がちょうど瞳子たちの前を通過する。
一瞬だけ、こちらを見た。
目が合った気がした次の瞬間、新煌はにっと歯を見せる。
「!」
笑った。
ほんの一瞬だったが、瞳子も反射的に笑い返していた。
「今、こっち見たよね?」
「見た見た!」
「とこじゃなくて、アタシ見たんじゃね?」
「なんでやねん。うちかもしれんやろ」
「一年生、騒ぐな」
「「「はい!」」」
三人揃って口を閉じる。
少し後ろで、明里が笑っていた。
次々と二年生が走っていく。
同じ馬場を一頭ずつ走っているのに、見ていると少しずつ違った。身体の使い方も、姿勢も、馬との合わせ方も同じではない。
まだ全部を説明できるほどの知識はなくても、この人は柔らかい、この人は力強い、そんな違いくらいは瞳子にも分かる。
もっと見たい。
気づけば、次の一頭が現れる方向ばかり追っていた。
「あ」
星羅がまた声を漏らしたか、次に現れたのも女子生徒だった。
今度は遠目でも分かるくらいに派手だ。
ヘルメットの下から覗く髪も、纏っている雰囲気も、これまでの先輩たちとは明らかに違う。
「ギャルじゃん!」
星羅の目が輝く。
「藍沢」
「すみません。でも、あれは言うでしょ」
「言わない」
「はい」
注意されても、星羅の視線は完全に先輩へ釘付けだった。
馬が近づいてくる。
速い。それ以上に、綺麗だった。
低い姿勢のまま馬の動きへぴたりと合い、身体がほとんどぶれない。さっきの新煌が身体中から何かを放っているように見えたのに対し、この先輩は馬と一緒に流れていくようだった。
「うま……」
思わず漏らすと、小町も真剣な顔でその姿を追っている。
「一条優那先輩。あの人も有名やで」
「やっぱり知ってるんだ」
「まあ」
小町は何か続けようとして、口を閉じた。
代わりに星羅が身を乗り出す。
「ヤバ。あの先輩、めっちゃカッコよくない?」
「星羅ちゃん、好きそう」
「好き。もう好き。ギャルで騎手とか最高じゃん」
「まだ騎手ちゃうで」
「細かい!」
走り終えた優那がこちらへ視線を向けると、星羅の顔がさらに明るくなった。
手を振りそうになったところで――。
「藍沢」
「まだ何もしてません!」
先回りされた。
瞳子と小町が吹き出す。
その笑い声は、次の一頭が姿を現した瞬間、自然と消えた。
「……え」
誰が最初に声を漏らしたのか、瞳子には分からなかった。
遠くから一頭の馬が走ってくる。それだけなのに、さっきまでとは空気が違う。
騎乗している男子生徒の身体は、ほとんど動いていないように見えた。
いや、動いていないわけじゃない。
馬が動いた分だけ、必要なところだけが動いている。
無駄な力が一切なく、圧倒的なスピードの中心に、涼しい顔で座っている。
「……あの人」
隣から聞こえた小町の声には、さっきまでの軽さがなかった。
「めちゃくちゃ上手い」
やっぱり、自分だけがそう感じたわけじゃない。
馬が近づいてくる。
蹄が地面を叩き、砂が跳ねても、乗っている本人から必死さがまるで見えない。馬の背中へしがみつくことも、押さえつけるような動きもなく、ただその速さの中にいる。
「二年生……だよね?」
星羅が珍しく小さな声で尋ねた。
「……うん」
「もうデビューしてる人とかじゃなくて?」
瞳子も同じことを思った。
あの人だけ、本物の騎手が混ざっているみたいだ。
「畑獅音先輩」
小町が呟く。
「畑……獅音」
瞳子もその名前を繰り返した。
「お父さん、知らん?」
「え?」
「畑――」
「私語を慎め」
教官の声に、小町が慌てたように口を閉じる。
「はい」
聞けなかったが、今はそれでよかった。
獅音が目の前へ迫ってくるにつれ、瞳子はますます目を離せなくなった。速くて、綺麗で、どう見ても上手い。それでも、そんなありふれた言葉だけでは何か足りない気がする。
いったい、どうやって乗っているんだろう。何が他の先輩たちと違うのか、自分にもいつか分かるようになるのだろうか。そして、自分もあんなふうに乗れるようになるのかな。
馬が目の前を駆け抜け、風と一緒に砂が舞う。
反射的に目を細めた瞬間、六歳の頃に感じたものを思い出した。
知らない速さと、知らない景色へ連れていかれるような、あの感覚。
瞳子の口元が自然と緩んだ。
やっぱり、ここに来てよかった。




