第9レース それぞれの理由
「……これで合ってる?」
寮の姿見の前で、瞳子は何度目か分からないくらい自分の格好を確認した。
紺色の制服に真っ白なシャツ。
首元にはネクタイ。
研修中に着ていた作業着とは全然違う。
「清華さん、ネクタイ曲がってない?」
「曲がっていません」
「襟は?」
「問題ありません」
「髪は?」
「斉藤さん」
「はい」
「先ほどから三回確認しました」
「……ごめんなさい」
清華さんに呆れられた。
でも、気になるものは気になる。
鏡に映っているのは間違いなく自分なのに、制服を着ただけで急に競馬学校の生徒らしく見えた。
これ、早くお母さんに見せたいな。
あとで写真撮れるかな。
そんなことを考えていると、廊下から騒がしい声が聞こえてきた。
「待って! これ絶対ダサいって!」
「知らんがな! 決まりなんやから諦めぇ!」
何事?
瞳子が扉を開けると、廊下で星羅が小町にネクタイを直されていた。
「とこ、見て! これ、アタシに似合ってる?」
「うん。似合ってるよ」
「即答じゃん。ちゃんと見た?」
「見たよ」
星羅ちゃんは、制服を着ても星羅ちゃんだった。
研修中は注意されない程度に抑えていたとはいえ、元々の顔立ちがはっきりしているから、紺色の制服に着替えると余計に目立つ。
「なんかさぁ、もっとこう……着崩した方が絶対可愛くない?」
「今日やったら教官に秒で直されるで」
「一センチくらいならバレなくない?」
「何と戦ってんねん」
小町ちゃんが星羅ちゃんのネクタイを強く締め直す。
「ぐえっ」
「はい、完成」
「小町、愛情表現が重いって」
「どんだけ、ポジティブやねん」
その横で、小町ちゃん自身はというと――。
「小町ちゃん、制服着るともっと小さく見えるね」
「瞳子ちゃん?」
「はい」
「今日めでたい日やから許したる」
危なかった。『小さく見えて余計に可愛いね』って言えば良かった。
「全員、廊下へ出ろ!」
遠くから教官の声が響く。
八人の表情が一斉に変わった。
「はい!」
廊下へ並ぶと、一人ずつ服装を確認されていく。 ほんの少しでも乱れていれば、その場で直された。
そして当然――。
「藍沢」
「はい」
「ネクタイが緩い」
「えっ」
星羅ちゃんが小町ちゃんを見る。
「ちゃんと締めたで!?」
「締めたあと、自分で緩めたんないやろな?」
「たぶん、胸が大きいからかなぁ……アハハ」
「そうでもないやろ」
「いや、期待に胸が膨らんで」
「比喩表現を物理的にすんな」
教官が咳払いをする。
「藍沢。早く直せ」
「はい……ってか、『そうでもないやろ』。って、どういうこと」
「藍沢……」
本当に一秒でバレた。
笑いそうになっていると、教官が八人を見渡す。
「入学式には多くの関係者やメディアが集まる。頼むから、ちゃんとしてくれ」
頼むから、って。
教官がそんな言い方をするくらい、今日は大事な日らしい。
まだ始まってすらいないのに、すでに緊張してきた。
午後。
式典会場へ入った瞬間、それまで星羅ちゃんと小町ちゃんのやり取りを見て笑っていた気持ちは、どこかへ消えた。
椅子が整然と並び、正面には壇上が設けられている。後方には保護者だけでなく、学校関係者や来賓らしい大人たちの姿もある。
午前中とは空気がまるで違う。
明里の姿を見つける。目が合うと、お母さんが小さく笑った。
大丈夫。研修初日にやった挨拶よりは緊張しない。
入学式が始まる。学校長の式辞に来賓からの言葉。瞳子は背筋を伸ばし、正面を見続けた。
話を聞いているつもりなのに、ときどき自分の鼓動の方が気になってしまう。
そして、新入生の名前が一人ずつ呼ばれていく。
「斉藤瞳子」
「はい! 」
立ち上がる。
声、大きすぎた?
一瞬だけ不安になったけれど、もう座るしかない。
「清華鈴乃」
「はい」
清華さんは、こういう場でもまったく変わらない。
姿勢も声も綺麗だった。
「成瀬小町」
「はい!」
「藍沢星羅」
「はい!」
星羅ちゃんも、さすがにふざけなかった。
八人全員の名前が呼ばれる。
研修の二週間を終えて、今日から正式に競馬学校の生徒になった。
そう思うと、急に制服が少しだけ重く感じられた。
午前中に見た二年生は七人。
最初は九人いた。
そして自分たちは、八人。
三年後。
ここにいる八人は、何人揃って騎手になれるんだろう。
瞳子は膝の上で、そっと手を握った。
八人全員。
そうだったらいい。そうなるように、頑張るんだ。
式典が終わっても、緊張から解放されたわけではなかった。
むしろ瞳子にとっては、ここからの方が大変だった。
別室へ移動すると、前方には報道関係者が並んでいる。
カメラにマイク。知らない大人たち。
「……すごいね」
瞳子が小声で呟くと、隣の小町ちゃんが前を向いたまま答える。
「毎年こんな感じやで。新人騎手候補やからな」
「小町ちゃん、緊張してないの?」
「しとるよ」
「見えない」
「見せんようにしとるんや」
やっぱり、こういうところは小町ちゃんの方がずっと慣れている。
反対側を見る。
星羅ちゃんは――。
前髪を触っていた。
「星羅ちゃん」
「ん? 」
「何してるの?」
「前髪チェック」
「緊張してないの?」
「してるしてる」
絶対してない。
「どうせ写真撮られるなら盛れてた方がよくない?」
「そっちが気になるんだ……」
「一生ネットに残る可能性あんだよ? 大事っしょ」
言われると、自分の髪まで気になってきた。
触ろうとして――やめる。
いやいや。今さらどうにもならない。
清華さんは少し離れた席で、背筋を伸ばして座っていた。
相変わらず表情からは何も読み取れない。
こういうの、得意そう。
取材が始まった。最初はいくつか全員へ向けた質問があり、それから一人ずつ話を振られていく。
やがて。
「斉藤さん」
「はい!」
来た。
瞳子の背筋が勝手に伸びる。
「騎手を目指したきっかけを教えてください」
きっかけ。
頭に浮かんだのは、やっぱりあの日だった。
六歳の自分。母親と一緒に乗った馬の背中。
顔へ当たった風。地面が遠くなって、空が近くなったように感じた。
「小さい頃から、牧場で馬が近くにいる生活をしていて……六歳のときに初めて馬に乗ったんです」
大丈夫。ちゃんと喋れてる。
「そのとき、すごくワクワクして。もっと速く走ってみたいとか、もっと色んな景色を見てみたいって思うようになりました」
「素敵ですね。では、将来はどんな騎手になりたいですか?」
「えっと……」
どんな騎手。
有名になりたい、たくさん勝ちたい、GⅠを勝ちたい。
もちろん、そうなれたら嬉しいし、そこを目指すべきなのも分かる。
でも。
「一番ワクワクできる馬と、ワクワクするようなレースがしたいです」
口にしてから、少し変な答えだったかなと思った。
記者の一人が聞き返す。
「一番強い馬や速い馬、ではなく?」
「はい」
今度は迷わなかった。
「もちろん強い馬にも速い馬にも乗ってみたいです。でも、今は強いかどうかより……乗っていて、この馬とどこまで行けるんだろうって思える馬に乗ってみたいです」
まだ会ったことのない馬。
今はまだ、強くないかもしれない。
それでも、その馬と走ることを考えただけで胸が高鳴る。
「それで、見てる人にもワクワクしてもらえるレースができたら、一番いいです」
言い終える。
あれ。
ちょっと喋りすぎた?
「ありがとうございます」
「ありがとうございました!」
記者が次へ移る。
瞳子は小さく息を吐いた。
終わったぁ。
膝の上に置いていた手に、いつの間にか汗をかいている。
次は小町ちゃんだった。
「成瀬さんは、競馬関係者のご家族も多いですが、どんな騎手になりたいですか?」
「そうですね」
小町ちゃんがマイクへ顔を近づける。
さっきまで瞳子の横で緊張していると言っていたのが嘘みたいだった。
「うち――あ、私は」
一瞬だけ言い直す。
「昔から競馬を近くで見てきたので、騎手一人で競馬ができるわけではない、ということは忘れたくないです」
小町ちゃんらしい。
「調教師や厩舎スタッフ、馬主さんもいますし、競馬を見てくれるファンの方がいて成り立っているので。そういう人たちから信頼される騎手になりたいです」
「女性騎手として注目されることについては、どう考えていますか?」
質問を受けても、小町ちゃんはほとんど間を置かなかった。
「もちろん、先輩の女性騎手の方々が道を作ってくださったから、うちら――私たちが目指しやすくなった部分もあると思います」
また「うち」が出た。
でも、今度は言い直さなかった。
「ただ、最終的には性別に関係なく、一人の騎手として見てもらえるようになりたいです。女性だから、新人だからで注目してもらって終わりやなくて……騎乗を見て、あの騎手に乗ってほしいと思ってもらえるように頑張ります」
すご。
瞳子は隣で聞きながら感心していた。
同い年なのに、自分とは見ているところが全然違う。
自分が乗りたい馬やレースのことを考えていたのに、小町ちゃんは自分が騎手になったあとの競馬界や、周囲からどう見られるかまで考えている。
「では、藍沢さん」
「はい!」
星羅ちゃんの番だ。
なぜか瞳子まで少し不安になる。
「藍沢さんは、ほかの皆さんと比べると乗馬経験が少ないそうですね。それでも騎手を目指そうと思った理由は?」
「はい」
星羅ちゃんが微笑む。
さっきまで前髪を気にしていた人とは思えないくらい、完璧な笑顔だった。
「初めて競馬を見たときに、騎手ってめっちゃカッコいいなって思ったのがきっかけです」
へえ……そうだったんだ……ん?
瞳子が初めて聞く話に耳を傾ける。
「小さい身体であんな大きい馬に乗って、すごいスピードで走ってるの見て。アタシもやってみたいって思いました」
記者が頷く。
「憧れた騎手はいるんですか」
「…………」
星羅ちゃんが微笑みを浮かべたまま止まった。
ほんの一瞬。でも、瞳子には分かった。
今、絶対に何か困ってる。
「……海外の人?」
疑問形!?
「海外の騎手ですか?」
「はい。たぶん」
たぶん!?
記者まで少し困った顔をしている。
「お名前は?」
「えーっと……」
星羅ちゃんの視線が、ほんの一瞬だけ宙を泳ぐ。
「小さい頃に見たから、名前までは覚えてなくて、めっちゃカッコよかったです!」
最後は笑顔で押し切った。
すごい。
何がすごいのか分からないけど、すごい。
小町ちゃんを見ると眉間に皺が寄っていた。
何か言いたそう、ものすごく言いたそう。
でも記者会見中だから、さすがに黙っている。
あとで絶対何か言われるやつだ。
「ありがとうございます。では、清華さん」
「はい」
清華がマイクへ向き直る。
「清華さんは、ご両親もご自身も障害馬術で全国大会を制した経験があります。順調に競技を続けていた中で、なぜ騎手を目指そうと思ったのでしょうか」
その瞬間。
瞳子は、清華の横顔を見た。
ほんの少しだけ。
本当に少しだけ、表情が止まったように見えた。




