第7レース 近付かない人
翌朝、昨日の疲れが綺麗さっぱり消えている――なんてことはなかった。
「いたたた……」
ベッドから起き上がった瞬間、瞳子は太腿を押さえる。腕も重く、ふくらはぎまで張っていたが、朝の検量と厩舎作業を終える頃には身体も温まり、どうにか普通に動けるようになっていた。
そして午前の訓練。
体育館へ入った瞳子は、壁際に並べられた木馬を見つけた途端、筋肉痛のことなど忘れて駆け寄りそうになった。
「これが木馬……」
馬の胴体を模した器具には鞍が載せられ、その両側には足を掛ける鐙まで取り付けられている。
当然、生きている馬とはまったく違うものの、昨日の日程表で見つけてからずっと楽しみにしていた。
「全員、集まれ」
担当教官の声に、瞳子は慌てて列へ戻る。
「今日から騎乗姿勢の基礎を教える。実馬へ乗る前に、まず木馬を使って基本姿勢を身体へ叩き込む」
いよいよだ。
口元が緩みかけたところで、教官と目が合った。
「斉藤。嬉しそうだな」
「はい! 楽しみにしてました!」
「そうか。なら、その顔がいつまで続くか見ておこう」
「え」
なに? なんか怖い。
教官が木馬へ跨がり、鐙へ足を掛けて腰を浮かせる。膝を深く曲げ、上体を低く前へ倒したその姿勢は、競馬中継で何度も見てきたモンキー乗りそのものだった。
騎手が鞍へ腰を下ろさず、短い鐙で身体を支えながら走るときの姿勢だ。
「普段お前たちが見慣れている乗馬と、競走時の騎乗姿勢は大きく異なる。鐙を短くし、重心を安定させながら、馬の動きを邪魔せず自分の身体を支えなければならない」
見るだけなら簡単そうなのに、昨日の体幹トレーニングを思い出すと嫌な予感しかしない。
「まずは姿勢を作る。清華」
「はい」
最初に呼ばれた清華が木馬へ跨がる。
鐙へ足を掛けるまでの動きには迷いがなく、やっぱり綺麗だと思ったのも束の間だった。
「上体を起こしすぎだ。もっと低く」
「はい」
清華が姿勢を直す。
「まだ高い。鐙へ体重を預けすぎるな。膝だけで固めるな」
「……はい」
教官は修正された姿勢を見ても、首を横へ振った。
「馬術で身につけた姿勢が身体に残っているな。競走では、もっと短い鐙で身体を支え、馬の動きを邪魔しない姿勢が必要になる。一度忘れろ」
「はい」
返事はいつもと変わらなかったが、ほんの少しだけ声が硬くなったように聞こえた。
昨日の曳き馬で、自分も似たようなことを言われたばかりだ。何年も馬術をやってきた清華さんでも、今まで身につけたものがそのまま通用するわけじゃないんだ。
「次、斉藤」
「はい!」
瞳子も木馬へ跨がり、見よう見まねで腰を浮かせた。
「もっと腰を上げろ」
「はい」
「上げすぎだ」
「はい!」
「上体が起きてる」
「はいっ」
「膝を固めるな」
「はい!」
どれ!? どの位置が正解!?
腰を上げれば高いと言われ、下げれば低いと言われる。膝へ力を入れなければ安定しないのに、入れすぎても駄目らしい。
「斉藤、前後に揺れるな」
「揺れてます!?」
「揺れてるから言っている」
「ですよね……」
後ろから笑い声が聞こえた。
男子に混じって、小町ちゃんまで笑っている。
「成瀬。次」
「えっ、うち!?」
「他に成瀬がいるのか」
「おりません!」
笑い声がぴたりと止まった。
交代した小町は形こそすぐに作ったものの、三十秒もしないうちに脚が震え始める。
「成瀬、腰を落とすな」
「はいっ……!」
「膝を開くな」
「はい……!」
技術や知識はあっても、それを維持する筋力が追いついていない。
「む、無理や……これ、昨日よりキツいやん……」
「まだ三十秒だ」
「知ってます!」
「時計は見ていないぞ」
「分かります!」
「……そうか」
教官はそれ以上何も言わなかった。
本当に時間が分かるんだ。昨日は冗談だと思ってた。
「次、藍沢」
「はい!」
星羅が木馬へ跨がる。
「これ、競馬で見たことあるやつじゃん。余裕っしょ」
「口より身体を動かせ」
「はい」
最初から上手くいくはずもなく、腰の高さや上体の角度を次々と直される。それでも二度、三度と教官の指示に合わせて身体を動かし、四度目で姿勢がぴたりと止まった。
「そこで止めろ。その姿勢を覚えろ」
「あっ……なんか、ピタッと止まってる。安定感ヤバいかも!」
「実際の競馬では、その姿勢で風圧にも耐え、周囲の確認もしなくてはいけない」
「激ヤバ……」
早い。
昨日の曳き馬と同じで、最初は知らなくても、一度正しい身体の位置を教えられるとすぐに近づいていく。
「藍沢、そのまま三十秒」
「はい」
星羅は低い姿勢のまま木馬へ身体を安定させ、三十秒をやり切った。
「終了」
「っしゃ!」
「藍沢」
「……あっ、はい」
また怒られてる。
それでも、すごい。
星羅ちゃんだけは馬の経験がほとんどないから、自分の方がずっと先にいる。いつの間にか、そんなふうに考えていたのかもしれない。
知らないことと、できないことは同じじゃないんだ。
「休憩。十分後に再開する」
教官の声とともに空気が緩み、星羅がその場へ座り込んで太腿を揉み始めた。
「脚キッツ!」
「余裕やったんちゃうん?」
「姿勢作るまでは余裕だった! 維持すんの聞いてないし!」
「普通、作ったら維持するやろ」
「小町、肩貸して」
「昨日と逆になっとるやん。利子つけて返してもらうで」
「小町の肩幅ガンダムみたいになるじゃん」
「誰が肩で返せ言うたん。筋肉で返してや」
「借金のカタみたい」
「もうええわ」
二人のやり取りに笑いながら、瞳子も近づいていく。
「でも星羅ちゃん、すごかったね。すぐ姿勢直せてたし」
「でしょ? アタシ、やっぱ天才かも。褒められて伸びるタイプだから、もっと言って」
「鼻も一緒に伸びとるで」
「アタシ鼻筋通ってて、鼻も高いからね」
「もうええわ……って、短時間に二回目やで」
「『どうも、ありがとうございましたー』に変えたら?」
「なんで漫才の締めやねん。この辺でやめさせてもらうわ」
三人の声が体育館に響くなか、瞳子は清華がいないことに気づいた。
「あれ? 清華さんは?」
少し離れた木馬の横で、一人だけさっき教官から指摘された姿勢を確認していた。腰を落とし、膝を曲げ、上体を前へ倒しては戻す。同じ動きを何度も繰り返している。
「清華さん、少しは休もう」
「私は大丈夫です」
「でも、休憩だよ?」
「ですから、皆さんは休んでいてください」
いつもどおりの丁寧な口調で、怒っているようにも見えない。それでも、なぜかこれ以上声を掛けない方がいい気がした。
「……そっか」
瞳子が三人のところへ戻ったあとも、背後では木馬の鐙が一定の間隔で鳴り続けていた。
入学前研修が始まって数日が過ぎると、五時四十分の起床にも身体が少しずつ慣れてきた。
「とこ! こいつ、またアタシの服噛んだ!」
厩舎に響いた声に振り返ると、星羅が作業着の袖を馬に咥えられたまま困った顔をしている。
「引っ張っちゃ駄目だよ。余計に遊んでくれると思うから」
「いや、完全にナメられてんじゃん! 昨日もやられたし!」
「好かれとるんちゃう?」
「小町、代わって」
「嫌や。うちは自分の担当あるもん」
最初は馬の鼻息だけで飛び退いていたのに、今では騒ぎながらも馬房掃除を一人でこなし、馬の横を歩くことにも躊躇しなくなっている。
瞳子は笑いながら、自分の担当する馬の首筋を撫でた。
「この子も可愛いなぁ」
鼻先が肩へ寄ってくる。まんじゅうとは毛色も顔も違うが、馬の体温を感じている時間はやっぱり好きだった。
「斉藤。手が止まってるぞ」
「はい! すみません!」
慌てて作業へ戻ろうとして、向かい側の馬房にいる清華が目に入った。
ブラシを動かす順番も力加減も迷いがなく、馬が身体を動かせば、それより先に立ち位置を変える。何年も馬と接してきた人の動きだった。
ただ、必要な手入れ以外で馬へ触れることはない。
瞳子のように首筋を撫でることも、小町のように声を掛けることもなく、星羅でさえ最近は馬へ話しかけるようになったのに、清華がそうしている姿は一度も見ていなかった。
馬術をずっとやってたのに。少し、不思議だった。
昼休み。
「今日こそ勝つで」
食堂のテーブルへ、小町が牛乳パックを四つ並べた。
「何に?」
「早飲み」
「小学生じゃん」
「星羅が昨日、自分なら余裕で勝てる言うたんや!」
瞳子が笑いながら椅子へ座ると、小町が四つ目の牛乳を向かい側へ置いた。
「清華ちゃんも呼んでくるわ」
「あ、私行くよ」
少し離れたテーブルでは、清華が一人で昼食を取っていた。
「清華さん」
「はい?」
「こっちで一緒に食べない? 小町ちゃんたちもいるし」
清華は一度だけ三人の方を見る。星羅がストローを咥えながら手を振っていた。
「いえ。私はここで大丈夫です」
「でも、一人じゃん」
「一人では食事ができないのですか?」
「え?」
思っていなかった返事に、言葉を詰まらせる。
「私は一人で問題ありません。斉藤さんは、皆さんと食べてきてください」
冷たい言い方ではなく、本当にそれでいいと思っているようだった。
「……うん」
瞳子が戻ると、星羅がすぐに顔を覗き込んでくる。
「清っちに振られた?」
「そういう言い方せんの」
小町が軽く星羅を小突いた。
「清華ちゃん、近寄りがたい言うか孤高が似合うけど、昔からなんかな?」
「どうだろ……」
瞳子は牛乳パックを手に取りながら、もう一度だけ清華を見る。
木馬の休憩中も、一人で練習していた。厩舎では馬へ必要以上に近づかず、自分たちに対しても同じように一定の距離を置いている。
嫌われているわけではないと思う。話しかければ答えてくれるし、何か聞けば教えてもくれるのに、それ以上は自分から近づいてこない。
「とこ、始めるよ」
「え?」
「牛乳。負けた人、全員の空パック片づける」
「私もやるの!?」
「もう持ってるやん」
「飲もうとしただけなんだけど!」
小町が笑いながらストローを構え、星羅までやる気満々で身を乗り出す。
「ほな、いくで。三、二、一――」
三人が一斉に牛乳を吸い始め、瞳子も慌ててストローへ口をつけた。
どうして清華さんは、あんなに一人でいようとするんだろう。
出会ってまだ数日なのに、少しだけ知りたくなっていた。
「瞳子ちゃん! 遅い!」
「えっ!?」
気づけば、小町の牛乳パックはもう空になっている。
「嘘、早っ!」
「十二秒四」
「自分で数えてたの!?」
「当たり前やん」
星羅がストローを口から離し、小町を指差す。
「待って。小町、その体内時計あったら早飲み最強じゃん」
「時間分かっても飲む速度は変わらんわ! 」
三人の笑い声が食堂に響く。
少し離れたテーブルでは、清華が一人、静かに昼食を続けていた。




