↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/56

第7レース 近付かない人

 翌朝、昨日の疲れが綺麗さっぱり消えている――なんてことはなかった。


「いたたた……」


 ベッドから起き上がった瞬間、瞳子は太腿を押さえる。腕も重く、ふくらはぎまで張っていたが、朝の検量と厩舎作業を終える頃には身体も温まり、どうにか普通に動けるようになっていた。


 そして午前の訓練。


 体育館へ入った瞳子は、壁際に並べられた木馬を見つけた途端、筋肉痛のことなど忘れて駆け寄りそうになった。


「これが木馬……」


 馬の胴体を模した器具には鞍が載せられ、その両側には足を掛ける鐙《あぶみ》まで取り付けられている。

 当然、生きている馬とはまったく違うものの、昨日の日程表で見つけてからずっと楽しみにしていた。


「全員、集まれ」


 担当教官の声に、瞳子は慌てて列へ戻る。


「今日から騎乗姿勢の基礎を教える。実馬へ乗る前に、まず木馬を使って基本姿勢を身体へ叩き込む」


 いよいよだ。


 口元が緩みかけたところで、教官と目が合った。


「斉藤。嬉しそうだな」

「はい! 楽しみにしてました!」

「そうか。なら、その顔がいつまで続くか見ておこう」

「え」


 なに? なんか怖い。


  教官が木馬へ跨がり、鐙へ足を掛けて腰を浮かせる。膝を深く曲げ、上体を低く前へ倒したその姿勢は、競馬中継で何度も見てきたモンキー乗りそのものだった。

 騎手が鞍へ腰を下ろさず、短い鐙で身体を支えながら走るときの姿勢だ。



「普段お前たちが見慣れている乗馬と、競走時の騎乗姿勢は大きく異なる。鐙を短くし、重心を安定させながら、馬の動きを邪魔せず自分の身体を支えなければならない」


 見るだけなら簡単そうなのに、昨日の体幹トレーニングを思い出すと嫌な予感しかしない。


「まずは姿勢を作る。清華」

「はい」


 最初に呼ばれた清華が木馬へ跨がる。


 鐙へ足を掛けるまでの動きには迷いがなく、やっぱり綺麗だと思ったのも束の間だった。


「上体を起こしすぎだ。もっと低く」

「はい」


 清華が姿勢を直す。


「まだ高い。鐙へ体重を預けすぎるな。膝だけで固めるな」

「……はい」


 教官は修正された姿勢を見ても、首を横へ振った。


「馬術で身につけた姿勢が身体に残っているな。競走では、もっと短い鐙で身体を支え、馬の動きを邪魔しない姿勢が必要になる。一度忘れろ」

「はい」


 返事はいつもと変わらなかったが、ほんの少しだけ声が硬くなったように聞こえた。


 昨日の曳き馬で、自分も似たようなことを言われたばかりだ。何年も馬術をやってきた清華さんでも、今まで身につけたものがそのまま通用するわけじゃないんだ。


「次、斉藤」

「はい!」


 瞳子も木馬へ跨がり、見よう見まねで腰を浮かせた。


「もっと腰を上げろ」

「はい」

「上げすぎだ」

「はい!」

「上体が起きてる」

「はいっ」

「膝を固めるな」

「はい!」


 どれ!? どの位置が正解!?


 腰を上げれば高いと言われ、下げれば低いと言われる。膝へ力を入れなければ安定しないのに、入れすぎても駄目らしい。


「斉藤、前後に揺れるな」

「揺れてます!?」

「揺れてるから言っている」

「ですよね……」


 後ろから笑い声が聞こえた。


 男子に混じって、小町ちゃんまで笑っている。


「成瀬。次」

「えっ、うち!?」

「他に成瀬がいるのか」

「おりません!」


 笑い声がぴたりと止まった。


 交代した小町は形こそすぐに作ったものの、三十秒もしないうちに脚が震え始める。


「成瀬、腰を落とすな」

「はいっ……!」

「膝を開くな」

「はい……!」


 技術や知識はあっても、それを維持する筋力が追いついていない。


「む、無理や……これ、昨日よりキツいやん……」

「まだ三十秒だ」

「知ってます!」

「時計は見ていないぞ」

「分かります!」

「……そうか」


 教官はそれ以上何も言わなかった。


 本当に時間が分かるんだ。昨日は冗談だと思ってた。


「次、藍沢」

「はい!」


 星羅が木馬へ跨がる。


「これ、競馬で見たことあるやつじゃん。余裕っしょ」

「口より身体を動かせ」

「はい」


 最初から上手くいくはずもなく、腰の高さや上体の角度を次々と直される。それでも二度、三度と教官の指示に合わせて身体を動かし、四度目で姿勢がぴたりと止まった。


「そこで止めろ。その姿勢を覚えろ」

「あっ……なんか、ピタッと止まってる。安定感ヤバいかも!」

「実際の競馬では、その姿勢で風圧にも耐え、周囲の確認もしなくてはいけない」

「激ヤバ……」


 早い。


 昨日の曳き馬と同じで、最初は知らなくても、一度正しい身体の位置を教えられるとすぐに近づいていく。


「藍沢、そのまま三十秒」

「はい」


 星羅は低い姿勢のまま木馬へ身体を安定させ、三十秒をやり切った。


「終了」

「っしゃ!」

「藍沢」

「……あっ、はい」


 また怒られてる。


 それでも、すごい。


 星羅ちゃんだけは馬の経験がほとんどないから、自分の方がずっと先にいる。いつの間にか、そんなふうに考えていたのかもしれない。


 知らないことと、できないことは同じじゃないんだ。


「休憩。十分後に再開する」


 教官の声とともに空気が緩み、星羅がその場へ座り込んで太腿を揉み始めた。


「脚キッツ!」

「余裕やったんちゃうん?」

「姿勢作るまでは余裕だった! 維持すんの聞いてないし!」

「普通、作ったら維持するやろ」

「小町、肩貸して」

「昨日と逆になっとるやん。利子つけて返してもらうで」

「小町の肩幅ガンダムみたいになるじゃん」

「誰が肩で返せ言うたん。筋肉で返してや」

「借金のカタみたい」

「もうええわ」


 二人のやり取りに笑いながら、瞳子も近づいていく。


「でも星羅ちゃん、すごかったね。すぐ姿勢直せてたし」

「でしょ? アタシ、やっぱ天才かも。褒められて伸びるタイプだから、もっと言って」

「鼻も一緒に伸びとるで」

「アタシ鼻筋通ってて、鼻も高いからね」

「もうええわ……って、短時間に二回目やで」

「『どうも、ありがとうございましたー』に変えたら?」

「なんで漫才の締めやねん。この辺でやめさせてもらうわ」


 三人の声が体育館に響くなか、瞳子は清華がいないことに気づいた。


「あれ? 清華さんは?」


 少し離れた木馬の横で、一人だけさっき教官から指摘された姿勢を確認していた。腰を落とし、膝を曲げ、上体を前へ倒しては戻す。同じ動きを何度も繰り返している。


「清華さん、少しは休もう」

「私は大丈夫です」

「でも、休憩だよ?」

「ですから、皆さんは休んでいてください」


 いつもどおりの丁寧な口調で、怒っているようにも見えない。それでも、なぜかこれ以上声を掛けない方がいい気がした。


「……そっか」


 瞳子が三人のところへ戻ったあとも、背後では木馬の鐙が一定の間隔で鳴り続けていた。




 入学前研修が始まって数日が過ぎると、五時四十分の起床にも身体が少しずつ慣れてきた。


「とこ! こいつ、またアタシの服噛んだ!」


 厩舎に響いた声に振り返ると、星羅が作業着の袖を馬に咥えられたまま困った顔をしている。


「引っ張っちゃ駄目だよ。余計に遊んでくれると思うから」

「いや、完全にナメられてんじゃん! 昨日もやられたし!」

「好かれとるんちゃう?」

「小町、代わって」

「嫌や。うちは自分の担当あるもん」


 最初は馬の鼻息だけで飛び退いていたのに、今では騒ぎながらも馬房掃除を一人でこなし、馬の横を歩くことにも躊躇しなくなっている。


 瞳子は笑いながら、自分の担当する馬の首筋を撫でた。


「この子も可愛いなぁ」


 鼻先が肩へ寄ってくる。まんじゅうとは毛色も顔も違うが、馬の体温を感じている時間はやっぱり好きだった。


「斉藤。手が止まってるぞ」

「はい! すみません!」


 慌てて作業へ戻ろうとして、向かい側の馬房にいる清華が目に入った。


 ブラシを動かす順番も力加減も迷いがなく、馬が身体を動かせば、それより先に立ち位置を変える。何年も馬と接してきた人の動きだった。


 ただ、必要な手入れ以外で馬へ触れることはない。


 瞳子のように首筋を撫でることも、小町のように声を掛けることもなく、星羅でさえ最近は馬へ話しかけるようになったのに、清華がそうしている姿は一度も見ていなかった。


 馬術をずっとやってたのに。少し、不思議だった。




 昼休み。


「今日こそ勝つで」


 食堂のテーブルへ、小町が牛乳パックを四つ並べた。


「何に?」

「早飲み」

「小学生じゃん」

「星羅が昨日、自分なら余裕で勝てる言うたんや!」


 瞳子が笑いながら椅子へ座ると、小町が四つ目の牛乳を向かい側へ置いた。


「清華ちゃんも呼んでくるわ」

「あ、私行くよ」


 少し離れたテーブルでは、清華が一人で昼食を取っていた。


「清華さん」

「はい?」

「こっちで一緒に食べない? 小町ちゃんたちもいるし」


 清華は一度だけ三人の方を見る。星羅がストローを咥えながら手を振っていた。


「いえ。私はここで大丈夫です」

「でも、一人じゃん」

「一人では食事ができないのですか?」

「え?」


 思っていなかった返事に、言葉を詰まらせる。


「私は一人で問題ありません。斉藤さんは、皆さんと食べてきてください」


 冷たい言い方ではなく、本当にそれでいいと思っているようだった。


「……うん」


 瞳子が戻ると、星羅がすぐに顔を覗き込んでくる。


「清っちに振られた?」

「そういう言い方せんの」


 小町が軽く星羅を小突いた。


「清華ちゃん、近寄りがたい言うか孤高が似合うけど、昔からなんかな?」

「どうだろ……」


 瞳子は牛乳パックを手に取りながら、もう一度だけ清華を見る。


 木馬の休憩中も、一人で練習していた。厩舎では馬へ必要以上に近づかず、自分たちに対しても同じように一定の距離を置いている。


 嫌われているわけではないと思う。話しかければ答えてくれるし、何か聞けば教えてもくれるのに、それ以上は自分から近づいてこない。


「とこ、始めるよ」

「え?」

「牛乳。負けた人、全員の空パック片づける」

「私もやるの!?」

「もう持ってるやん」

「飲もうとしただけなんだけど!」


 小町が笑いながらストローを構え、星羅までやる気満々で身を乗り出す。


「ほな、いくで。三、二、一――」


 三人が一斉に牛乳を吸い始め、瞳子も慌ててストローへ口をつけた。


 どうして清華さんは、あんなに一人でいようとするんだろう。


 出会ってまだ数日なのに、少しだけ知りたくなっていた。


「瞳子ちゃん! 遅い!」

「えっ!?」


 気づけば、小町の牛乳パックはもう空になっている。


「嘘、早っ!」

「十二秒四」

「自分で数えてたの!?」

「当たり前やん」


 星羅がストローを口から離し、小町を指差す。


「待って。小町、その体内時計あったら早飲み最強じゃん」

「時間分かっても飲む速度は変わらんわ! 」


 三人の笑い声が食堂に響く。


 少し離れたテーブルでは、清華が一人、静かに昼食を続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。