第6レース 見えてきた差
曳き馬の訓練を終えた頃、まだ午前中だというのに、瞳子の額にはうっすらと汗が滲んでいた。
馬に乗ってすらいないのに、朝から検量をして、馬房を掃除して、曳き馬まで終えただけで思っていたより身体を使っている。それでも不思議と嫌ではなく、むしろ身体を動かしている方が落ち着いた。
「次は体力トレーニングだ。全員、体育館前へ集合」
担当教官の声に、八人が揃って返事をする。
「はい!」
体育館へ向かう途中、星羅が瞳子の横へ並んだ。
「とこ、まだ走るとかないよね?」
「どうだろ。体力トレーニングって書いてあったし」
「いやいや、朝から十分動いたじゃんね。ボロとも戦ったし」
「星羅ちゃんは一方的に負けてたけど」
「最後は勝ったし! アタシの優勝」
何をもって優勝なのか分からない。
そこへ小町が後ろから会話へ入り込む。
「騎手目指してんのに、体力トレーニングで走らんわけないやろ」
「えぇ〜……募集要項に書いてなかったんですけどぉ〜」
星羅が露骨に肩を落としたところで、前を歩いていた教官が振り返った。
「藍沢。余計な口を動かす体力があるなら問題なさそうだな」
「……アタシ口だけなんで」
教官が静かにため息を吐いたのを、瞳子は見逃さなかった。
体育館前へ着いた八人は軽く準備運動を済ませ、そのまま校内の外周へ移動した。
「まずはランニングだ。速さを競う必要はない。全員で一定のペースを保ち、集団から遅れるな」
教官の指示に従い、八人が一列になって走り始める。
最初は軽く、話せと言われれば普通に会話できそうな速度だった。北海道にいた頃も牧場仕事で身体を動かすことは多く、学校まで自転車で通っていた時期もあるので、瞳子にはまだ余裕がある。
そう思っていたところで、後ろから教官の声が飛んだ。
「間隔を空けるな! 後ろ、遅れているぞ! 」
列の後方を見ると、小町の呼吸がすでに荒くなっていた。
「はっ……はっ……」
それでも遅れまいと、必死に前の生徒へ食らいついている。
瞳子は歩幅をほんの少し狭めた。
「小町ちゃん、大丈夫?」
「これ……大丈夫に……見えるん? まだ、死んでへん……だけや」
「無理しちゃダメだよ」
「……無理しなきゃ……ダメなんよ」
「でも――」
「斉藤!」
教官の声に、瞳子は慌てて正面へ向き直った。
「後ろを見るな! 前との間隔を維持しろ!」
「はい!」
自分だけ走れればいいわけではないらしい。前との間隔を保ちながら、後ろを気にしすぎてもいけない。
横を走る星羅へ目を向けると、さっきまで散々文句を言っていたくせに、息一つ乱れていなかった。
「星羅ちゃん……余裕そうだね」
「ん? まぁ、余裕だね」
「……すごい」
「中学の三年間、毎日夕刊配ってたから。歩くか自転車で配らなきゃダメなんだけど、アタシ走ってたからね」
「え?」
瞳子の驚きに、星羅はニシシと小悪魔めいた笑みを浮かべ、そのまま軽い足取りで前へついていく。
走るフォームも綺麗で、身体が勝手に楽な動きを選んでいるように見えた。
「藍沢、余裕があるなら口を閉じて走れ」
「だから、アタシは口だけなんで」
また怒られた。
一方、後ろからは小町の苦しそうな呼吸が少しずつ大きくなっている。
「成瀬! 遅れるな! 」
「は……いっ」
小町が必死に速度を上げると、男子の一人がちらりと後ろを振り返った。
「小町、昔から持久走弱かったもんな」
「うっ……さい……今、喋らすな……」
「十歳んときもマラソン大会ビリだったろ」
「うちのこと……好きで……見とったん……?」
苦しいのに、そこはちゃんと突っ込むんだ。
瞳子は笑いそうになるのを堪えながら、自分の呼吸を乱さないよう前へ集中した。
しばらく走ったところで、ようやく教官から停止の合図が出る。
「ここまで。歩きながら呼吸を整えろ」
八人が一斉に速度を落とした。
「しんど……」
小町がその場へ座り込みそうになる。
「成瀬、止まるな。歩け」
「はいぃ……」
半分魂が抜けたような返事だった。
星羅はその横を歩きながら、平然と髪を耳へ掛ける。
「小町、肩貸そうか?」
「なんで自分、そんな元気なん……」
「え? 元気のないギャルって需要ある?」
「知らんけど……ギャルも元気ないときあるやろ」
瞳子も呼吸こそ少し上がっていたが、まだ余裕はある。ただ、星羅ほどではなかった。
体育館へ戻ると、今度はマットが等間隔に並べられていた。
「次は自重トレーニング。腕立て、腹筋、背筋、スクワット、それから体幹保持を行う」
教官が淡々と種目を告げると、星羅の顔からさっきまでの余裕が少しだけ消えた。
「まだあんの?」
「藍沢」
「……」
星羅は口にチャックをする仕草を見せて微笑む。
「良いか。回数だけこなせばいいわけではない。姿勢が崩れた時点で回数には数えない。正しいフォームを維持しろ」
八人がそれぞれマットへつき、まずは腕立て伏せから始める。
「始め!」
一斉に身体を沈める。
瞳子は呼吸を止めないよう意識しながら一定のリズムで身体を上下させたが、十回を越えたあたりから腕へ少しずつ重さが溜まってきた。
少し離れたところから、星羅の声が聞こえる。
「二十七、二十八、二十九――」
「藍沢! 勝手に速度を上げるな。姿勢を維持しろ!」
「はいはい」
「返事は一回!」
「三十、三十一、三十二」
怒られているのに、まだ余裕そうだ。
一方で、
「じゅう……さん……」
小町の声は、もうかなり怪しい。
「じゅうよん……っ」
細い腕がぷるぷる震え始め、十五回を越えたところで身体が上がらなくなる。
「ぬぬぬぬ……!」
「頑張れ、小町ちゃん」
瞳子が声を掛けると、小町は歯を食いしばり、どうにかもう一度身体を押し上げた。
「じゅう……ろっ……く!」
腕を伸ばした瞬間、そのまま力尽きるようにマットへ伏せる。
「小町、終わり?」
「うっさい……」
「昔から力なさすぎなんだよ」
「知っとるわ……!」
「その細腕で馬をコントロールできんのか?」
「筋肉以外にも技術があるっちゅうねん! アンタらよりもな!」
いつもの調子で言い返しているものの、小町はマットへ顔を伏せたまま、ほんの少し唇を噛んでいた。
これ、本当は気にしてるんだ。
瞳子は残りの腕立てを終えると、息を整えながら小町の横へしゃがんだ。
「でも、小町ちゃんって三十五キロでしょ?」
「……せやけど」
「だったら、それ自体は武器じゃない? 体重管理には余裕あるし、筋力ならこれから増やせるじゃん」
「簡単に言うなぁ……」
「だって、そのための三年間」
できないなら、できるようになればいい。瞳子には、それくらい単純な話にしか思えなかった。
「三年後も二十回だったら、そのとき考えればいいよ」
男子たちが笑う。
「斉藤、それフォローになってんの?」
「なってるよ! え? なってないのかな……」
小町も一瞬ぽかんとしてから、とうとう吹き出した。
「瞳子って、たまに雑やなぁ」
「たまにって何!」
「でも、ありがとな」
まだ震えている腕を押さえながら笑う小町に、瞳子も笑い返した。
「次、体幹保持。肘とつま先で身体を支えて、頭から踵まで一直線にしろ!」
休む暇もなく教官の声が飛び、瞳子は急いで自分のマットへ戻る。
「そのまま一分。腰を落とすな」
一分くらいなら大丈夫だと思っていたのに、腕立て伏せの直後ということもあり、三十秒を過ぎたあたりから腹筋だけでなく両腕まで小刻みに震えてきた。
「斉藤、腰が落ちてるぞ」
「はいっ! 」
慌てて腹へ力を入れ直す。
隣では、小町が瞳子以上に震えていた。
「む、無理過ぎるやろ……」
「まだ四十秒だ」
「知ってます……うちの体内時計、完璧なんで……! 」
その一方で、星羅ちゃんはほとんど震えていない。横から見ても頭から踵まで綺麗に一直線で、さっきのランニングといい、やはり身体の使い方が上手かった。
「終了。休め」
その声と同時に、瞳子は身体を横へ倒す。
「つっかれたぁ……」
小町に至っては、マットへ大の字になっていた。
「もう無理や。明日から事務員目指せって言われたら、どないしよ?」
「競馬学校に事務員課程はないと思うよ」
「知っとるわ……」
その横で星羅だけが軽く肩を回している。
「思ったより余裕じゃんね」
「自分だけリハビリ用のメニューやったん? 」
「あぁ……だからか……って、アタシだけ別メニューなわけないやろがーい」
「自分ほんま、元気やな……」
少し離れた場所では、清華さんも最後までほとんど姿勢を崩していなかった。星羅ちゃんのような軽さとは違い、何度も繰り返して身体へ覚え込ませたような無駄のない動きだった。
その日の夜、夕食後の厩舎作業まで終えて寮へ戻った瞳子は、ベッドへ腰を下ろした瞬間に太腿と腕へどっと重さが戻ってきた。
「うぅ……」
体育館で運動した時間だけではない。朝から馬房を掃除して馬と歩き、そのまま一日中身体を使い続けていたのだと、休んで初めて実感する。
瞳子は机の上に置いた日程表へ手を伸ばし、明日の予定を確認した。
そこに書かれた文字を見つけると、疲れていたはずなのに頬が緩んだ。
――木馬を使用した騎乗姿勢訓練。
明日は、何を教えてもらえるんだろう。




