第5レース 同じスタートじゃない
午前五時四十分。
枕元に置いた目覚まし時計が鳴るより少し早く、瞳子は目を覚ました。
見慣れない天井をぼんやり眺めてから隣のベッドへ目を向けると、清華さんの姿はすでになく、布団まで綺麗に整えられていた。
「えっ」
慌てて時計を見る。
五時三十七分。寝坊したわけではないのに、枕にもほとんど皺が残っていない。
いつ起きたの、この人。寝起きまでミス・パーフェクトなの?
昨日の「お嬢様」を思い出しかけ、瞳子は急いで頭から追い出したところで、廊下の向こうからけたたましいベルが響いた。
「うっさい! 止まって! どれ!?」
「それうちの目覚ましや! 踏むなや!」
「暗いんだから、しゃーないっしょ!」
「電気つけたらええやろ!」
星羅ちゃんと小町ちゃんの声に、瞳子は笑いを堪えながら着替え始める。
ほどなくして部屋の扉が開き、すでに髪まで綺麗に整えた清華さんが戻ってきた。
「清華さん、何時に起きたの?」
「五時十分です」
「早っ。目覚まし鳴った?」
「鳴る前に起きました」
なんで?
喉まで出かかった言葉を飲み込み、瞳子も急いで身支度を整える。
何に張り合っているのか自分でも分からないが、とりあえず清華さんより先に準備を終わらせたい。
「斉藤さん」
「なに?」
「スウェット、逆だと思います」
「……ほんとだ」
開始早々、勝負にならなかった。
洗面を済ませた八人は、決められた時刻までに集合し、教官の指示で検量へ向かった。
騎手を目指す以上、体重管理は避けて通れない。これから毎日のように数字を記録するのだと思うと少し気が重かったが、瞳子が体重計を降りるなり、小町ちゃんが後ろから表示を覗き込んできた。
「瞳子ちゃん、四十四キロなん?」
「うん。小町ちゃんは?」
「三十五ちょい」
「軽っ!」
「声デカいわ!」
慌てて口を塞ごうとしてくる小町ちゃんの横で、男子たちが笑い出す。
「小町、飯食っても成長しねーな」
「うっさいわ!」
「十歳の頃から変わってねーもんな」
「五センチも伸びたわ!」
どうやら昔からこんな調子らしく、小町ちゃんも本気で怒っている様子はない。
「藍沢、次」
教官に呼ばれた星羅ちゃんが体重計へ乗ると、表示を確認した教官が記録用紙へ視線を落とした。
「四十三キロ。問題なし」
「よっしゃ」
「喜ぶところではない。今後は毎日記録するので、自分の適正体重を把握するように」
「いや、試験のときより二キロ減ってたし、普通喜ぶっしょ」
「それと藍沢。教官には敬語で話せ」
「はい!」
昨日より返事だけは確実に良くなっている。
ちゃんと成長してる。まだ二日目だけど。
朝食を終えると、いよいよ厩舎作業が始まった。
厩舎へ近づくほど、乾いた藁と馬の匂いが濃くなる。瞳子は大きく息を吸い込み、昨日まで何もかも知らなかった場所が、この匂いだけで少し身近になった気がした。
「まずは馬房清掃を行います」
担当教官から道具の扱い方と注意点を聞き、それぞれ指定された馬房へ向かう。
馬房の床に敷かれた敷料から汚れた部分を取り除き、ボロを拾って、新しいものを足していく。牧場で何度となく繰り返してきた作業だけあって、フォークを握れば自然に身体が動いた。
「うわっ!」
隣から聞こえた悲鳴に顔を向けると、星羅ちゃんがフォークを握ったまま足元を凝視している。
「どうしたの?」
「とこ。これ」
「うん」
「これ、アレだよね?」
「ボロ?」
「名前可愛くしただけで、うんこじゃん! しかもデカくない!?」
「まあ……馬だからね」
「いや、聞いてないって!」
何を聞いて入学してきたんだろう。
星羅ちゃんは恐る恐るフォークを差し込み、持ち上げようとしたものの、一つがころんと転げ落ちた。
「逃げた!」
「逃げてないよ」
「そっち行った!」
「だから逃げないって」
瞳子はとうとう堪えきれず笑いながら、星羅ちゃんの隣へ入った。
「ちょっと貸して。全部まとめて取ろうとしないで、ボロと濡れてるところから分けた方が楽だよ。それと、腕だけじゃなくて身体ごと使う感じで」
「こう?」
「そうそう」
言われたとおりに握り直した星羅ちゃんがもう一度フォークを入れると、今度は綺麗に持ち上がった。
「おおっ! できた! とこ、チュートリアル優秀すぎ!」
「チュートリアルって」
「アタシ、才能あるんじゃね?」
「ボロ取り才能……微妙やな」
いつの間にか近くまで来ていた小町ちゃんが呆れた声を出す。
「小町も見てよ。アタシもう、ボロ取れる」
「入学二日目の自慢がそれでええんか?」
「成長じゃん!」
「ほな、その勢いで奥にあるやつも全部取ってーや」
星羅ちゃんが馬房の奥を見る。
そこには、さっきより立派なものがいくつも転がっていた。
「…………とこ」
「頑張って」
「チュートリアル終了!?」
「いつまでも手伝ってたら練習にならないでしょ」
「急に教官みたいなこと言うじゃん!」
星羅ちゃんの悲鳴に小町ちゃんが笑い、瞳子もつられながら自分の馬房へ戻った。
馬房清掃が終わると、次は曳き馬の訓練へ移った。
日程表で「騎乗訓練」の文字を見つけて楽しみにしていた瞳子は、まだ乗らないのかと少しだけ肩を落としたものの、馬場へ着くころには気持ちを切り替えていた。
「曳き馬は、ただ馬を引いて歩けばいいわけではない」
担当教官の前には、一頭の馬が大人しく立っている。
「馬の左側に立ち、引き手は適切な長さを保て。近すぎれば踏まれる危険があり、離れすぎれば馬を制御できない。常に馬の状態と周囲を確認すること」
瞳子は小さく頷いた。
牧場では、まんじゅうを馬房から出したり放牧地まで連れていったりするのも日常の一部だった。これなら何度もやっている。
「まずは一人ずつ行なう。清華」
「はい」
最初に呼ばれた清華さんが前へ出る。
馬の左側へ立って引き手を受け取ると、立つ位置も馬との距離も迷いがない。歩き出せば馬も自然についていき、停止も方向転換も淀みなくこなした。
やっぱり上手い。
昨日、騎手としての技術とは別物だと言っていたが、物心がつく前から馬に乗ってきた時間までなくなるわけではない。
「問題なし。次、斉藤」
「はい!」
瞳子は勢いよく前へ出た。
ここなら負けない。
引き手を受け取って馬の首筋を軽く撫でると、耳がこちらへ向く。
「よろしくね」
歩き出せば、馬も素直についてきた。
いつもどおりだと思ったまま指定された場所まで進み、方向を変えようとしたところで、教官の声が飛ぶ。
「斉藤。馬に近づきすぎだ」
「え?」
思わず足を止める。
「もう少し距離を取れ。それから、身体を寄せて方向を変えようとするな」
「あ……はい」
言われて自分の位置を見れば、たしかに清華さんより馬との距離が近かった。ただ、牧場ではずっとこのやり方で困ったことはない。
「慣れているのは分かる。ただし、自分が慣れている方法と、ここで求められる方法が同じとは限らない」
「……はい」
教えられた位置へ立ち直して、もう一度歩き出す。
さっきまで何も考えずにできていたのに、距離を意識した途端、少しぎこちなくなった。
「斉藤、下を向くな。馬から意識を外すな。急な動きに対応できなくなるぞ。もっと胸を張れ」
「はい!」
ここなら負けないと思っていた気持ちは、あっけなく消えていた。
「次、成瀬」
「はい!」
小町ちゃんが引き手を受け取る。
身体は小さいのに、力で引っ張ろうとはしない。馬が動く少し前に自分が動き、止めるときも無理に力を入れていなかった。
馬が次にどう動くのか、最初から分かっているみたいだ。
そう感心していたのに、馬と並んだ小町ちゃんを見ると体格差があまりにも大きく、瞳子はつい口を滑らせた。
「小町ちゃん、ちっちゃいなぁ」
「今それ言う必要あった!? 」
「私語を慎め。集中」
「すみません! 」
二人の声が綺麗に重なり、男子たちから笑いが起きた。
「次、藍沢」
「はい!」
星羅ちゃんが元気よく前へ出る。
教官から引き手を渡されて馬の横へ立ったところで、ぶるるっ、と鼻を鳴らされた。
「うわっ!」
星羅ちゃんが一歩飛び退く。
「何!? 怒ってます!?」
「怒っていない」
「ガチ? でも、教官は怒ってそう」
「藍沢」
「あっ。……本当ですか? でも、教官は怒ってます?」
敬語に直した。そこじゃないと思うけど。
「馬の鼻息だ。珍しいものではない」
「近くでやられると圧すごいんですけど……」
恐る恐る元の位置へ戻ったところで、今度は馬の顔が星羅ちゃんの方へ寄ってくる。
「ちょ、近い近い近い!」
逃げれば馬もついてきた。
「なんで来んの!?」
「星羅ちゃんが持ってる引き手を引っ張ってるからだよ」
「……あ」
小町ちゃんが横で腹を抱える。
「自分が連れて歩く訓練やのに、自分が馬から逃げてどうすんねん」
「だって顔デカいんだって! 近くで見ると想像の三倍デカい!」
騒ぎながらも、教官に立ち位置を直されると星羅ちゃんは素直に従った。
もう一度歩き出すと、最初は馬に引っ張られるようだった歩き方が、一周するころには少しずつ変わっていく。教官に言われた距離を保ちながら、馬の歩幅に自分の足を合わせていた。
さっきの馬房掃除でもそうだった。何も知らないから最初は大騒ぎするのに、一度身体の使い方を教えられると、すぐに形にしてしまう。
「藍沢。そこで停止」
「はい」
星羅ちゃんが足を止めると、ほんの少し遅れて馬も止まった。
「今の感覚を覚えておけ」
「はい!」
嬉しそうに振り返った星羅ちゃんが、瞳子へ笑いかける。
「とこ! 意外と出来た!」
「うん。すごいよ」
「アタシ、やっぱ才能あるかも」
「調子乗るん早すぎやろ」
小町ちゃんのツッコミに笑いながら、瞳子はさっき教官に直された自分の立ち位置を思い返した。
牧場で何年も馬に触れてきたから、少しくらいは自信があった。でも、自分が慣れているやり方が、この学校で求められるやり方と同じとは限らない。
瞳子は馬と並んだときの距離を、もう一度頭の中で確かめた。




