第4レース 騎手になる、その前に
星羅が手鏡を覗き込みながら、紫色のカラーコンタクトへ指を伸ばした、そのときだった。
廊下から一定の間隔を刻む靴音が近づき、教室の話し声がすっと止んだ。
男子たちは椅子へ座り直し、小町も机の上に出していたスマートフォンを素早く鞄へしまう。
「ちょ、待って。まだ片方――」
星羅が右目だけを紫色にしたまま焦っているうちに、講義室の扉が開いた。
入ってきたのは、細身の男性だった。
年齢は四十代くらいだろうか。銀縁眼鏡の奥から、生徒たちを一人ずつ確認するように見渡している。
笑っているわけでも、怒っているわけでもない。それなのに、さっきまでの賑やかな空気が一瞬で消えた。
「全員、席に着け」
低く、よく通る声だった。
星羅は慌てて手鏡を伏せ、瞳子の隣で背筋を伸ばす。
右目だけ紫だけど、大丈夫なのかな。
「本日からお前たちの担当をする、加藤だ。主に生活指導と一般科目を受け持つ。実技や専門科目については、担当する教官がその都度変わる」
「よろしくお願いします!」
瞳子が真っ先に声を出すと、ほかの生徒たちも慌てて続いた。
声はばらばらに重なり、加藤教官の眉がわずかに動く。
早速、やらかした気がする。
加藤教官は人数分のプリントを教卓へ置き、前列の生徒へ配るよう指示した。
瞳子の手元へ回ってきた紙には、二週間ほど行われる入学前研修の予定が、細かな時間ごとに並んでいる。
五時四十分起床。体重を量る検量、厩舎作業、朝食を済ませたあと、曳き馬や騎乗訓練。午後には講義と体力トレーニングが続き、夕食後にも厩舎作業が待っていた。
「……学校っていうより、牧場より忙しくない?」
瞳子が小声で呟くと、隣で星羅が日程表を持ち上げた。
「スケジュールエグっ!」
加藤教官が口元へ拳を当て、ひとつ咳払いをする。
「藍沢」
「はいっ」
「感想は説明のあとで聞きます」
「すみません」
注意された星羅は、瞳子へぺろりと舌を出した。
星羅ちゃん、早くも名前を覚えられてる。あんまり嬉しくない覚えられ方だけど。
「まず、全員に理解してもらいたいことがある」
加藤教官が、生徒一人一人の顔を確かめるように見渡す。
「お前たちは、まだ騎手ではない。騎手になることを保証されたわけでもない」
講義室の空気が、わずかに硬くなった。
「入学試験に合格したのは、騎手を目指す資格を得たというだけだ。これから必要な技術と知識を身につけ、進級試験を通過し、騎手免許試験に合格して、初めて騎手になることができる」
分かっていたつもりでも、教官の口から改めて言われると重みが違う。
瞳子は膝の上で、そっと手を握った。
「同時に、今日からは騎手を目指す者として周囲に見られる。学校の中だけではない。校外での振る舞いも、競馬学校の生徒として評価されることになる」
加藤教官の視線が、生徒たちの服装を順番に確認していく。
星羅のところで、一秒ほど長く止まった。
右目だけ紫だからだ。絶対そうだ。
「騎手は、一人では仕事ができない。馬主が馬を所有し、調教師が管理し、厩舎スタッフが世話と調教を重ねる。その馬へ乗せてもらって、初めて騎手の仕事が成り立つ」
清華さんは微動だにせず教官を見つめ、小町ちゃんも先ほどまでとは別人のように静かだった。
「どれだけ技術があっても、挨拶ができない。時間を守れない。決められた規則に従えない。そのような者へ、大切な馬を預けたいと思うか?」
誰も答えない。
「ここでは、できて当然のことを、できて当然に行ってもらう。返事、挨拶、礼、身だしなみ、時間管理。騎乗技術以前の問題だ」
瞳子がふと隣を見ると、星羅が顔を伏せながら、こっそりカラーコンタクトを外そうとしていた。
今やるんだ。この空気の中で?
指が目元へ近づくたび、見ている瞳子まで落ち着かなくなる。
「――以上。それから、携帯電話を持っている者は、寮に入る前に電源を切っておけ。こちらで預かる」
瞳子は鞄から桜色のスマートフォンを取り出した。
お母さんに買ってもらったばかりで、まだほとんど触っていない。手放すのが惜しくて、ほんの少しだけ指先が止まった。
「えっ、待って。スマホ預けんの!?」
隣では、いつの間にかカラコンを外していた星羅が、瞳子以上に絶望していた。
「アタシ、スマホなしで生活とか無理なんだけど。死活問題なんですけど!」
「藍沢。ルールだ。基本は日曜の限られた時間しか使えない」
「……ふぁい」
「公用タブレットは貸与する。ただし、過去のレース映像や自分たちの騎乗フォームを確認するためのものだ。外部との通信は一切できない」
清華さんは迷うことなく電源を落とし、小町ちゃんも「決まりやからな」と諦めた様子で続いた。
お母さんへの連絡も、しばらく簡単にはできないんだ。
「これから寮の部屋に案内するので、少しここで待つように」
加藤教官が講義室を出ていく。
扉が閉まってから数秒、誰も口を開かなかった。
「教室の空気重すぎて草。息できないんだけど……ってか、バレずにカラコン外せたわ」
星羅が大きく息を吐き、机へ突っ伏す。
「自分ずーっと下向いてたやん。教官、ごっつ見てたで」
「ガチ? 注意されなかったじゃんね?? ……教官の優しさ」
「絶対ちゃうやろ」
小町ちゃんのツッコミに、講義室へ笑いが広がった。
その中で清華さんだけは日程表を静かに読み込み、確認を終えると綺麗に二つ折りにした。
余裕そうだなぁ。
瞳子は自分の日程表を引き寄せ、明日の予定をもう一度、上から順に目で追った。
しばらくして戻ってきた加藤教官に案内され、瞳子たちは寮へ向かった。
一年生は二人一組の部屋になり、女子は瞳子と清華、小町と星羅に分けられる。
組み合わせを告げられた瞬間、瞳子は隣に立つ清華さんをそっと見上げた。
「よろしくね、清華さん」
「ええ」
綺麗に頭を下げられる。
この人、絶対に寝るときまで隙がなさそう。
夕食や入浴を済ませ、自由時間になると、瞳子は小町ちゃんと星羅ちゃんの三人で談話室に集まっていた。
テレビの前にはいくつかのソファーとテーブルが並び、壁際の本棚には競馬関係だけでなく、小説や漫画まで収められている。
「清華ちゃん、こおへんの?」
「明日に備えて、もう部屋で休むみたい」
「はやっ。まだ寝る時間じゃなくない?」
膝の上に置いたクッションを抱えながら、星羅ちゃんがソファーへ身体を沈める。
「明日から五時四十分起床やで。むしろ自分も早よ寝た方がええんちゃう?」
「無理無理。その時間から寝る日とか普通にあったし」
「自分、今までどんな生活しとったん?」
小町ちゃんの疑問ももっともだった。
「夜間学校行ってたよ。それ以外はバイトおつ的な」
「そうなんだ」
星羅ちゃんは、それ以上詳しく話すつもりもなさそうに笑った。
「ってかさ、あのMHSK、アタシにだけ厳しくない?」
「えむ……何?」
瞳子が聞き返す横で、小町ちゃんまで眉をひそめる。
「なんなん、それ。共通語?」
「メガネで、細身の、神経質そうな、教官の略。MHSK」
「分かるか! そんなん、通じると思うたん?」
「いや、通じたらスゲーなとは思った」
「通じさせる気すらなかったんかい」
小町ちゃんのツッコミが談話室へ響く。
駄目だ。この二人が話すと、一向に先へ進まない。
納得がいかないように頬を膨らませる星羅ちゃんは、昼間に講義室へ飛び込んできたときより、ずっと同い年らしく見えた。
「そういえば、星羅ちゃんって、どうして騎手になろうと思ったの?」
清華さんは馬術競技の元エリートで、小町ちゃんも競馬一家。小さいころから馬や競馬に触れてきた二人と違って、星羅ちゃんだけはまだ何も分からない。
「お金」
返事は一秒もかからなかった。
「……お金?」
「そ。十代からでも実力次第で稼げるじゃん」
「金かぁ……」
小町ちゃんが難しそうに腕を組む。
「騎手かて実力の世界やで。みんながみんな、GⅠ勝って何千万、何億って稼げるわけちゃうし」
「大丈夫っしょ。初詣でちゃんとお願いしたから」
星羅ちゃんは両手をパンッと合わせる。
「賞金高いレース、国内外問わずいっぱい勝てますように、って」
「神様への要求が具体的すぎるやろ」
小町ちゃんが呆れる一方で、瞳子は星羅ちゃんの横顔を見つめた。
お金を稼ぎたいという言葉だけ聞けば軽くも思えるのに、その部分だけは冗談で言っているようには聞こえなかった。
「それよりうちは、明日からの騎乗訓練の方が心配や……」
小町ちゃんがテーブルへ突っ伏す。
「清華ちゃんみたいな天才と比べられたら、うちなんか終わりやで」
「小町ちゃん、清華さんのこと詳しいよね」
「そら、そうやろ。スマホに『清華鈴乃』に関する記事とかも保存してあるで」
「待って待って」
星羅ちゃんが小町ちゃんの顔を覗き込む。
「小町、めちゃくちゃ清っちのこと好きじゃん」
「当たり前やん。綺麗なもんと可愛いもんは好きやで」
「じゃあ、アタシたちのことも好きじゃん。ね、とこ」
「えっ、私?」
急に巻き込まないでほしい。
「もうすぐ消灯だし、部屋戻るね」
「ガチ? 全然眠くないんですけど〜」
「明日、起きられなくてもウチは知らんで」
「そこは同部屋のよしみで、可愛く起こしてよ」
「そんな高レベルを求めんといて」
「メイドさん姿で『お嬢様、お時間ですよ』って、耳元で囁いてくれればオッケー」
「とんでもない高レベルやん」
この二人は、同部屋でも上手くやっていけそうだ。
「じゃ、とこ。オヤスミ〜」
「また、明日やんな」
二人と別れ、瞳子は自分の部屋の扉をそっと開いた。
室内はすでに薄暗く、豆電球だけが灯っている。
清華さんはベッドの中だった。
もう寝ちゃったかな。
音を立てないよう荷物を置いて着替えを済ませても、やっぱり気になって、そっとベッドへ近づいてみる。
長い睫毛に、綺麗に仰向けになった姿。布団もほとんど乱れていない。
寝相までミス・パーフェクト。
この人、本当に寝てるときまでお嬢様なんだ。
ふと、さっきの星羅ちゃんと小町ちゃんの会話が頭をよぎる。
メイドさん姿で『お嬢様、お時間ですよ』――。
瞳子は清華さんの枕元へしゃがみ込んだ。
「お、お嬢様。お時間です……よ」
ぱちり。
清華さんの目が開く。
起きてた!
瞳子の身体が固まった。
「……斉藤さん」
「はい」
「豆電球、消していただけますか。真っ暗な方が、睡眠ホルモンのメラトニンが分泌されます」
「あっ、うん。ごめんね。おやすみ」
聞かなかったことにしてくれた。
よかった。
「それと」
「はい?」
「人の枕元でしゃがみ込むのも、やめていただけますか。気が散ります」
「……はい」
全然よくなかった。
瞳子がそそくさと立ち上がると、背中から清華さんの声が追いかけてきた。
「あと」
まだあるの?
「『お嬢様』と呼ばれるのは嫌いです」
「あ、はい……ごめんなさい」
全部聞かれてた。




