第3レース 三年間の同期たち
電車に二人で乗り込む。
清華鈴乃は、瞳子を完全に拒絶したわけではないらしい。話しかければ答えてくれるし、当たり障りのない話ばかりとはいえ、自分から会話を打ち切ろうともしなかった。
嫌われたわけじゃない……のかな。
窓際に座る清華さんの横顔を、瞳子はそっと盗み見る。
艶のある黒髪は緩く編まれ、低い位置で一つにまとめられていた。長い睫毛も、すっと通った鼻筋も、俳優だと言われても疑わないほど整っている。
さっきから何度見ても、本当に顔が小さい。瞳子の両手で隠せてしまいそうだ。
「何か?」
「えっ。いや、清華さんって本当に綺麗だなぁと思って」
「ありがとうございます」
清華さんは慣れた様子で礼を返し、そのまま窓の外へ視線を戻した。
褒められても照れる様子がないあたり、きっと小さいころから何度も言われてきたんだろう。
さすがお嬢様。
「清華さんって、東京に住んでるんですよね?」
「ええ」
「どうして成田空港駅にいたんですか?」
「お祖父様が理事長を務めている馬術カレッジが、成田市にあります。競馬学校へ入る前に、指導してくださった方々へ挨拶をしてきました」
「理事長……」
言葉の規模が違う。
「小さいころから、そこで馬術を?」
「ええ。物心がつく前から馬には乗っていました」
「じゃあ、めちゃくちゃ上手いんですね」
「騎手としての技術とは別物です」
清華さんは迷いなく否定した。
「馬に乗れることと、競走馬を御せることは同じではありません。私も一から学ぶつもりです」
謙虚な言葉なのに、声には迷いがなかった。
今まで何を積み上げてきたのか、瞳子にはまだ分からない。それでも、過去の実績に頼るつもりがないことだけは伝わってくる。
なんだ、このミス・パーフェクト。
「でも、どうして馬術から騎手になろうと思ったんですか?」
清華さんの睫毛が、わずかに伏せられた。
「それは、今お話しすることではありません」
「あ……ごめんなさい」
「謝る必要はありません。答えたくないだけです」
きっぱりしていて、取り繕う気は一切ないらしい。
不思議と嫌な感じはしなかった。答えたくないから答えない。それ以上でも、それ以下でもないのだろう。
そう考えると、さっき瞳子の志望動機を遊びだと言ったのも、嫌味ではなく、本当に理解できなかっただけなのかもしれない。
白井駅で電車を降り、バスに揺られ、そこから少し歩く。
やがて門柱に掲げられた『競馬学校』の文字が見えてくると、瞳子の背筋が自然と伸びた。
昨年の二次試験でも、この門をくぐっている。
同じ場所のはずなのに、今日は前よりずっと大きく見えた。
「広っ……」
敷地の向こうでは木々が風に揺れ、どこか遠くから乾いた蹄の音が聞こえてくる。
二次試験のときは、終われば北海道へ帰る場所だった。今度はここで暮らしながら、三年間を過ごすことになる。
そう思った途端、見慣れているはずの景色まで少し違って見えた。
どこからともなく漂ってきた藁と馬の匂いを吸い込むと、緊張していた肩から自然と力が抜けていく。
「凄いね、清華さん」
「何がですか?」
「だって、今のトップジョッキーたちも、ここで勉強したんですよね。私たちも同じ場所で学べるんですよ」
清華さんは、いまいち意味が分からないというように首を傾げた。
「地方競馬から中央へ移籍した騎手もいますし、海外を拠点にしていた方もいますよ」
「それは、そうですけど……」
瞳子が言いたいのは、そこではない。
歴代の騎手たちだって、最初は何者でもない生徒として、この門をくぐったはずだ。その同じ場所に自分も立っているのだと思うと、早く馬に乗りたいし、知らないことがあるなら全部知りたくて、身体がうずうずしてくる。
受付を済ませ、職員から講義室で待つよう指示されると、瞳子は清華さんと並んで廊下を進んだ。
壁には、卒業生や競走馬の写真がずらりと並んでいる。
一枚ずつ全部見たい。
つい足を緩めて写真を眺めていると、少し先を歩いていた清華さんが振り返った。
「斉藤さん」
「はいっ」
「講義室はこちらです」
危ない。もう少しで、そのまま通り過ぎるところだった。
慌てて清華さんの横へ駆け寄ると、目の前の扉には『騎手課程・一年』と書かれた札が掛かっていた。
ここを開ければ、これから三年間を共にする同期がいる。
どんな人たちだろう。怖い人はいないといいし、できればみんなと仲良くなりたい。
「清華さん、先にどうぞ」
「なぜ私が?」
「いや、その……ちょっとだけ緊張してきたので」
「先ほどまで、あれほど騒いでいたのに?」
「それとこれとは別……かな」
清華さんは瞳子をじっと見たあと、短く息を吐いて扉を開けた。
講義室には、すでに五人の生徒がいた。
男子が四人と、前列に座る小柄な女の子が一人。扉が開いた途端に全員の視線がこちらへ集まり、瞳子は反射的に姿勢を正した。
見られてる。
そう思ったものの、どうやら注目されているのは自分ではないらしい。
「清華鈴乃や」
小柄な少女が勢いよく椅子から立ち上がった。
黒髪のおかっぱ頭に、幼さの残る丸い顔。瞳子よりずっと小さく、中学生――下手をすれば、もっと下にすら見える。
少女は清華さんの前まで来ると、目を輝かせながら顔を覗き込んだ。
「ほんまに清華鈴乃やんな? 『ミス・パーフェクト』の」
清華さんの表情が、わずかに硬くなる。
「二次試験でお会いしましたよね」
「あのときは声かけられへんかってん。自分、全日本ジュニア三連覇やろ?」
「はぁ……」
「三年連続優勝! 二年前の決勝で、障害の直前で馬が踏み切るタイミング迷ったとき、歩幅合わせ直して綺麗に跳ばせたやろ? あれ、何回見ても鳥肌立ったわ! 飛越もむちゃくちゃ綺麗やったし――」
止まらない。
この子、ちゃんと息継ぎしてる?
「どうして馬術を辞めて騎手になったん? あのまま続けてたら、オリンピックだって狙えたやろ」
「……あなたに関係ありません」
それまでとは明らかに違う、刺々しい声だった。
少女はぴたりと口を閉じたものの、興奮までは冷めきらないらしく、すぐに何か言おうとする。
「うち、ほんまにファンで――」
「少し、黙っていただけますか?」
清華さんは微笑んでいた。
綺麗な笑顔なのに、なぜだろう。講義室の気温が三度くらい下がった気がする。
「あ……ごめん」
少女は素直に頭を下げ、小さな背中をしゅんと丸めた。
少なくとも瞳子には、清華さんにも少女にも、相手を傷つけようという悪意があるようには見えなかった。
「あ、あの!」
気まずさに耐えきれず声を上げると、今度は全員の顔が瞳子へ向いた。
注目が集まった瞬間、頭の中から用意していた言葉が綺麗に消えてしまう。
「斉藤瞳子です。いま十六歳です。ちょっと緊張してます。騎手になろうと思ったのは、不安もあるけど……」
途中で男子たちから笑い声が上がった。
「アイドルオーディションかよ」
え?
知らないよ、そんなの……。そんな自己紹介になってた?
「男子。うっさいわ、アホ」
小柄な少女が、男子たちへ軽蔑の眼差しを向ける。
「斉藤瞳子ちゃんやな。ちゃんと覚えたで」
瞳子の頬が、かっと熱くなった。
「なんか、緊張してたら頭の中が《《真っ白》》になっちゃって」
男子たちがまた笑い出すと、少女は笑った彼らの肩を順番に叩いていく。
「アホな男子は気にせんといて」
落ち込んだかと思えば怒り、今度は笑っている。本当に表情が忙しい子だなぁ、と思っていると、その少女が瞳子へ手を差し出した。
「うち、成瀬小町。小町でええよ」
「よろしくね、小町ちゃん」
「慣れたら、ちゃん付けせんでええよ。それにウチ、見た目こんなんやけど十五やからな」
「えっ」
「その反応、一番傷つくやつやで」
「ご、ごめん!」
考えてみれば、競馬学校へ入れる年齢なのだから分かることだった。
それでも、やっぱり幼く見える。ものすごく。
「それで、あっちの男子が――」
小町ちゃんが四人を紹介しようとした、そのときだった。
廊下から慌ただしい足音が近づき、講義室の扉が勢いよく開く。
「セーフ!」
長い茶髪を揺らし、一人の少女が飛び込んできた。
背が高く、手足も長い。服もバッグも靴も目を引くものばかりで、教室に入ってきた瞬間から全身で「ギャルでーす」と主張しているようだった。
「……アウトやろ」
小町ちゃんが即座に突っ込む。
「やっぱ?」
少女は壁の時計を確認し、舌を出した。
「髪暗くするの時間かかりすぎた。ネイルも全然落ちないし、途中で電車も間違えるし。今日、朝からイベント多すぎじゃんね」
言い訳は多いものの、遅刻したこと自体は分かっているらしい。教室の前方へ向かって、今度はきちんと頭を下げた。
「すみません。次から絶対気を付けます」
さっきまでの軽い口調とは別人みたいに、謝罪だけは真面目だった。
「って、先生まだいないじゃん」
ほっと息をついて教室を見渡すと、そのまま空いている瞳子の隣へ迷わず腰を下ろす。
「よろ。アタシ、藍沢星羅。せーらたんって呼んで」
「せ、せーらたん。よろしく」
「えっ」
瞳子が律儀に返すと、星羅ちゃんは数秒固まり、それから派手に吹き出した。
「ちょっと待って。初対面でほんとに言う人いるんだ」
「だって、そう呼んでって」
「真顔で言うの反則。ウケる」
理不尽だなぁ、と瞳子は苦笑いした。
「私は斉藤瞳子。十六歳です」
「マ?」
「……ま?」
「十六ってマジ? アタシとタメじゃん」
「ああ、マジってことか」
「瞳子って言いにくいから、『とこ』って呼ぶわ」
なるほど。これが噂に聞くギャルか。
小町ちゃんは机へ突っ伏して笑い、男子たちも星羅ちゃんの勢いに押されたのか、そわそわしながらこちらを見ている。
当の星羅ちゃんは気にした様子もなく、全員へひらひらと手を振った。
「男子、みんな坊主で初々しいじゃん。よろしくねー」
声を掛けられた男子四人が、揃って嬉しそうに姿勢を正す。
「思春期、分かりやすっ!」
小町ちゃんのツッコミに、瞳子もぷっと吹き出した。
「ところでさ」
星羅ちゃんが、今度は瞳子の顔を覗き込んでくる。
「昨日から風呂キャン勢だから、今近づくとマジでテロだよ」
「風呂キャン……?」
近づかないほうがいいと言うわりに、顔を寄せてきたのは星羅ちゃんのほうだ。
「風呂キャンって共通語じゃないの? お風呂入ってないってこと」
「それが、風呂キャン……?」
「そ。でも髪は染め直して洗ったばっか。これから日サロも行けなくなるし……って、元から地黒だったわ」
「あは……はは……」
どう返せばいいのか分からず愛想笑いを浮かべたところで、瞳子はようやく星羅ちゃんの目に気づいた。
「目、紫色だよ」
星羅ちゃんの動きが、ぴたりと止まる。
ぱちぱちと二度瞬きをしてから、勢いよくバッグを開き、手鏡を取り出した。
「ヤバッ。カラコン外すの忘れてた!」
入学前から大丈夫なんだろうか、この人。
そんなことを考えながら、瞳子は講義室に集まった三人の女の子を順番に見た。
何でも完璧にこなしそうなのに、どこか人を寄せ付けない清華さん。見た目は幼いのに、競馬の話になると止まらなくなる小町ちゃん。そして、どうして競馬学校にいるのか、今のところ理由すら想像できない星羅ちゃん。
三人とも、驚くくらい違っている。




