第2レース それが、私の本気
牧場の出口に停まった軽自動車。
運転席には颯太、助手席には瞳子が座り、開いた窓の外では母と颯太の両親が二人を見送っていた。
「はい。約束の」
母から差し出された小さな箱を開けた瞬間、瞳子の目がぱっと輝く。
「わぁ……」
中に入っていたのは、新しいスマートフォンだった。
朝日に照らされた桜色の本体は、何度見ても嬉しくなるくらいピカピカだ。競馬学校へ入学する記念に買ってもらえるとは聞いていたものの、まさか最新機種だとは思っていなかった。
「ありがとう、お母さん」
「使い過ぎないこと。周りに迷惑を掛けないこと。それだけは約束してよ」
「もう何回も聞いたって。競馬学校はスマホの使用時間も決まってるんだから」
「だから何回も言うの。瞳子は調子に乗ると忘れるでしょ」
返す言葉がなく、瞳子は小さく頬を膨らませた。
その様子を見ていた颯太の母、日向子が不意に鼻をすすった。
「……瞳子ちゃん」
「えっ」
「ちゃんと食べるのよ……身体には気を付けて……」
声は震え、目はすでに真っ赤だ。
「日向子さん。私、三年も帰ってこないわけじゃないですよ」
「分かってるけどぉ……」
とうとう涙がこぼれ落ちる。
隣では母が苦笑し、颯太の父も呆れたように肩をすくめた。
「ったく。お前が泣いてどうする。明里ちゃんはもっと寂しいだろ」
「オジサンも身体に気を付けてね」
「おぉ。こっちのことは心配せず頑張って来い。颯太、気ぃ付けて送れよ」
「分かってるって」
颯太がため息をつき、ゆっくりと車を走らせる。
「行ってきます!」
窓から身を乗り出すようにして手を振ると、三人も大きく手を振り返してくれた。
その姿が少しずつ小さくなり、生まれたころから当たり前に見てきた柵も、放牧地も、厩舎も遠ざかっていく。見慣れた景色が後ろへ流れていくほど、瞳子の視界は少しだけ滲んだ。
――行ってきます。
もう一度だけ心の中で呟き、瞳子は前を向いた。
新千歳空港へ着くと、出発までまだ少し時間があった。
売店を眺めていると、不意に颯太が手を差し出す。
「スマホ貸せ」
「え?」
「いいから」
言われるまま、新しいスマートフォンを渡した。
颯太は慣れた手つきで画面を操作していく。
「何かあったら連絡しろ」
「うん」
スマートフォンを返す直前、颯太は瞳子へちらりと目をやり、もう一度だけ画面に触れた。
「何してるの?」
「別に」
差し出された画面には、『颯太』という連絡先が登録されている。
「大事に使えよ」
「言われなくても。お母さんからのプレゼントだもん」
瞳子は嬉しそうにスマートフォンをバッグへしまった。
やがて搭乗開始を告げるアナウンスが響き、さっきまで当たり前のように隣にいた颯太とも、ここで別れることになるのだと急に実感する。
「……じゃあ、そろそろ行くね」
「ああ」
「入学式は明里さんも行くんだろ。それまで、ちゃんとやれよ」
「分かってるって」
少しだけ心細くなったのを隠すように、瞳子は笑ってみせた。
「じゃあ、行ってくる」
「行ってこい」
颯太は一度だけ手を上げる。
「日本一、ワクワクしてこい」
「うん!」
飛行機は予定どおり成田空港へ到着した。
ここへ来るのは、昨年十月の二次試験以来だ。
あのときは、ちゃんと試験会場へ辿り着けるのか、そもそも合格できるのか、そればかり考えていた。
今日はもう、試験を受けに来たわけではない。今度こそ本当に、競馬学校での新しい毎日が始まる。
成田空港駅へ向かうと、相変わらず大勢の人が行き交っていた。
「やっぱり多いなぁ……」
二度目とはいえ、人の多さにも複雑な路線にも慣れる気配はない。それでも今回は案内表示を何度か確認するだけで、白井方面のホームまで辿り着けた。
「よし。今度は迷わなかった」
ほんの少しだけ成長したような気分でベンチへ腰を下ろした、そのときだった。
少し離れたところに、一人の少女が座っている。
長く艶のある黒髪に、糸で吊られているみたいに真っ直ぐ伸びた背筋。膝の上には両手がきちんと揃えられ、同じくらいの年齢に見えるのに、ただ座っているだけで近寄り難い空気をまとっていた。
「……綺麗な人」
思わず声が漏れ、もう一度その横顔を見るうちに、どこかで会ったような気がしてくる。
「……あれ?」
二次試験のときに、いたような――。
少女の膝の上には、一冊のパンフレットが開かれていた。
見覚えのある表紙。
競馬学校の案内パンフレットだ。
「え?」
瞳子は思わず立ち上がった。
その気配に気づいたのか、少女が顔を上げる。切れ長の瞳がまっすぐこちらを向き、近くで見るとますます顔が小さい。
テレビの中の人みたい。
「あの……そのパンフレット、競馬学校のですよね?」
「ええ」
「やっぱり!」
声が弾む。
「あっ、十月の二次試験も受けてましたよね?」
少女は少しだけ考えるように目を伏せ、それから頷いた。
「ええ。受けていました」
「じゃあ、今から競馬学校へ?」
「その予定です」
「一緒ですね!」
同期だと分かっただけで、一気に親近感が湧いた。
「私、斉藤瞳子っていいます」
「……清華鈴乃です」
「よろしくお願いします」
名前まで綺麗だ。
頭を下げる仕草まで妙に様になっていて、瞳子も慌てて頭を下げ返した。
「私、北海道の日高から来たんです」
「北海道……」
清華さんがわずかに目を見開く。
「遠かったでしょう」
「はい。飛行機なんて修学旅行以来だったので、ずっと落ち着かなくて」
照れ笑いを浮かべる瞳子とは対照的に、清華さんは静かに相づちを打った。
「そうでしたか」
一拍置き、膝の上のパンフレットを閉じる。
「一つ、お聞きしてもよろしいですか」
「はい?」
「なぜ騎手を目指されたのですか?」
真っ直ぐな目だった。
ただの雑談ではないことは分かったものの、瞳子にとって答えは昔から決まっている。
「ワクワクしたかったからです」
「……ワクワク?」
清華さんの眉が、ほんのわずかに動く。
「はい。いろんな馬に乗って、もっと速く走って、まだ見たことのない景色を見てみたいんです。それで、いつか日本一ワクワクできる騎手になりたいなって」
六歳のあの日から、ずっと変わっていない。
少しだけ沈黙が流れたあと、清華さんは瞳子を見つめたまま小さく息をついた。
「……そうですか」
その声には、ほとんど感情が乗っていなかった。
「私には、その志望動機は理解できません」
「え?」
「私にとって競馬は、遊びではありませんので」
責めるような言い方ではなく、思ったことをそのまま口にしただけなのだろう。
だからこそ、その一言が思っていたより重く響いた。
「お、遊び……」
そんなつもりで、ここまで来たわけじゃない。
六歳のころからずっと憧れて、一度は事故で受験を諦め、それでももう一度試験を受けた。瞳子にとって「ワクワクしたい」という気持ちは、遊び半分で口にしたものではなかった。
そう伝えたいのに、うまく言葉が出てこない。
ちょうどそのとき、ホームへ電車が滑り込んできた。
風が二人のあいだを吹き抜ける中、清華さんは立ち上がると小さく会釈する。
「失礼します」
その背中を見送りながら、瞳子はぎゅっと唇を結んだ。
遊びで騎手になりたいわけではないし、日本一ワクワクする騎手になりたいという気持ちだって、瞳子にとってはずっと本気だった。
瞳子はバッグを掴むと、慌てて清華の後を追った。




