第1レース ワクワクの始まり
六歳の瞳子にとって、馬の背中は空のすぐ下にあった。
地面が遠い。
いつも見上げている牧柵も、草を積んだ一輪車も、今日は少しだけ小さく見える。そのぶん空が近くなったみたいで、顔を上げれば青い色がどこまでも広がっていた。
「怖くない?」
すぐ後ろから聞こえた母の声に、瞳子は小さく首を振った。
「へーき」
本当は、ちょっとだけ怖い。落ちたら痛そうだし、地面はさっきよりずっと遠い。それでも瞳子の脇を母の腕が優しく囲んでいるから、不思議と大丈夫な気がした。
その手を上からそっと包み、瞳子も手綱へ手を添える。
鞍の前にちょこんと座っているだけで、馬を動かしているのは母だ。それでも今、自分は馬の上にいるのだと思うと、胸のあたりが落ち着かず、なんだかそわそわした。
嫌な感じではない。むしろ、嬉しくて仕方がない。
馬の背中は思っていたよりずっと広く、驚くほど温かかった。春先の空気はまだ少し冷たいのに、脚のあいだから伝わってくる熱だけはぽかぽかしていて、ずっと触れていたくなる。
目の前へ視線を向けると、栗毛の顔には鼻筋だけ白く丸い模様があった。
「おかあさん。この子、まんじゅう!」
「え?」
「おはな、おもちみたい!」
一瞬きょとんとした母が、すぐに吹き出した。
「ふふっ、本当だ。でも、この子には『オベリスク』っていう立派な名前があるんだよ」
「でも、まんじゅう!」
だって、どう見てもまんじゅうだ。
瞳子が言い張ると、栗毛の馬は好きに呼べばいいとでも言うように、ぶるる、と鼻を鳴らした。その振動が手綱を伝い、小さな手のひらまで微かに届く。
「わっ」
面白くて笑った、その次の瞬間。
まんじゅうが一歩、前へ踏み出した。
蹄が土を踏むたび、身体がふわりと持ち上がって、ゆっくり沈む。もう一歩進めば、また同じように浮いて、沈んだ。
最初は落ちそうで、肩にも腕にもぎゅっと力が入った。それでも母の腕に支えられながら何度も揺られているうちに、瞳子は少しずつその動きを追えるようになっていった。
あれ。同じだ。
まんじゅうが脚を踏み出すたびに背中が沈み、その動きに合わせて瞳子の身体が浮く。次の一歩でも同じように揺れ、何度も繰り返しているうちに、さっきまで怖かった感覚がだんだん面白くなってきた。
ふう、とまんじゅうが息を吐く。
つられるように瞳子も息を吐き、それを何度か繰り返していると、いつの間にか息まで一緒になっているような気がした。
まんじゅうと同じ。
どうしてだか、それがとても嬉しかった。
「少し速くするよ」
母がそう言った次の瞬間、まんじゅうがさっきより力強く地面を蹴った。
頬を撫でていた風が一気に強くなり、髪を後ろへさらっていく。ゆっくり動いていた牧柵も草原も、遠くの森までどんどん後ろへ流れていった。
「はやい……!」
声が弾む。
ドッドッ、と規則正しく響く蹄の音。耳元で聞こえる力強い息遣い。鞍を通して伝わってくる大きな身体の熱まで、さっきよりずっと近く感じた。
もう、怖いと思っていたことなんて忘れていた。速くて、すごくて、気持ちよくて、風を切るたびに自分まで空へ飛んでいきそうになる。
「おかあさん!」
「なあに?」
「もっと!」
振り返らなくても、母が笑ったのが分かった。
手綱が少し緩むと、まんじゅうがさらに速度を上げる。強くなった風に目を細めながら、瞳子は声を上げて笑った。
「はやい! はやい!」
「ふふっ、オベリスクも引退したばかりだから、思いっきり走りたかったのかな」
一度笑い始めると、もう止まらなかった。
もっと速く走ってほしい。もっと遠くまで行ってみたいし、まだ終わらないでほしい。
胸のあたりが、ぽんぽん跳ねているみたいだった。
「ワクワクしてるね」
母が笑う。
ワクワク?
瞳子は、その言葉を頭の中で転がした。
これが、ワクワクという気持ちなのだろうか。
次はどうなるんだろう。もっと速くなったら、どんな景色が見えるんだろう。
まだ知らないものを見てみたくて、じっとしていられなくなる。
六歳の瞳子はその日、初めてその気持ちに名前があることを知った。
午前四時。
日本一の騎手を目指して出発する朝にしては、斉藤瞳子はひどく眠かった。
昨夜は牧場のみんなが送別会を開いてくれた。布団に入ってからも興奮が冷めず、最後に時計を見たときには、とっくに日付が変わっていた。
そりゃ眠いよね。
真っ暗な小道を歩きながら、瞳子は何度目かも分からないあくびを噛み殺す。上瞼と下瞼が勝手に仲良くなろうとしていた。
「だめだめ。寝たら転ぶ」
両手で頬を軽く叩き、通い慣れた厩舎へ足を踏み入れる。
乾いた牧草に混じる、馬房特有のボロとアンモニアの匂い。
世間一般で言えば、たぶんいい匂いではない。それでも瞳子にとっては毎日嗅いできた馴染み深い匂いで、鼻に入っただけでも半分眠っていた頭が少しだけ目を覚ました。
「この時間なら、起きてるよね」
天井から吊るされた小さな灯りを頼りに、馬房を一つずつ覗いていく。
「おはよ」
顔を上げた馬にも、まだ眠そうにしている馬にも、いつもどおり声をかける。
そのまま奥まで進むと、一頭の馬が馬房から顔を出していた。
「あ。いた」
声に気づいたように、鼻先がこちらを向く。
「おはよ、まんじゅう」
近づくと、待っていたと言わんばかりに額を押しつけてきた。
「ほんとに、お前は可愛いやっちゃのう」
鼻筋にある小さな白い斑点を撫でる。
競走馬として六歳まで走り、引退後にこの早見牧場へ戻ってきたオベリスク。そんな立派な名前があるのに、瞳子だけは六歳のあの日からずっと、まんじゅうと呼び続けている。
本人――いや、本馬も今さら文句はないらしい。
ぶるる、と鼻を鳴らした。
「うむ。今日も元気でよろしい」
首筋を撫でると、冬毛の抜けかけた身体からじんわりと温もりが伝わってきた。
競走馬を引退して、もう十年になる。鼻先には白い毛が混じり、昔ほど筋肉も盛り上がっていない。
それでも、こうして額を寄せれば六歳のころと変わらないように優しく鼻を鳴らしてくれる。あの日に初めて跨った背中も、同じように温かかった。
十年経っても、そこだけは何も変わっていない気がする。
「大丈夫か、お前」
「うわっ!」
いきなり背後から声をかけられ、瞳子は肩を跳ねさせた。
振り返ると、厩舎の入口に颯太が立っている。
「びっくりした! 急に声かけないでよ」
「朝から馬に向かって一人でデレデレしてる奴がいたら、そりゃ声もかけるだろ」
「私とまんじゅうのお別れを邪魔しないで」
「お別れって。もう一生会えないわけじゃねえだろ」
颯太が近づいてくると、まんじゅうの耳がそちらを向き、そのまま鼻先まで寄せていった。
「ちょっと。浮気すな」
「お前は遊びで、俺が本命なんだよ」
四つ年上で、物心がつく前からずっと一緒にいる。
瞳子にとって颯太は兄に近い存在で、遠慮する必要なんて昔からなかった。だからこそ、こうして平気で悪口も言える。
「空港まで俺が送るから、遅れるなよ」
「分かってる。六時出発でしょ」
「いよいよだな。入学前研修」
「うん」
返事をしたあと、その言葉だけが妙に喉へ残った。
本当なら、一年前に聞いていたはずの「いよいよ」だった。
競馬学校を受験するつもりで準備していた矢先、乗馬中の事故で入院し、受験そのものを見送ることになった。
そのまま高校へ進学し、一度は普通の高校生になったものの、どうしても諦めきれず、一年後にもう一度試験を受けた。
合格通知を開いた日、母は泣きながら何度も「よかったね」と言ってくれた。
瞳子も嬉しかったはずなのに、その涙を思い出すたび、今でもほんの少しだけ胸に引っ掛かるものがある。
自分のために高校へ通わせてくれた。制服も教科書も安くはなかったはずなのに、その高校を一年で辞めることになった。
「お母さんのこと、よろしくね」
気づけば、視線がまんじゅうの鼻筋へ落ちていた。
「お前が心配することじゃねえよ」
「でも」
「でもじゃない」
颯太の手が伸びてきて、髪をぐしゃぐしゃにかき回す。
「なにすんのよ!」
「明里さんも送り出すって決めたんだろ」
「……うん」
「だったら、お前は向こうでちゃんとやれ」
髪を乱していた手が止まった。
「一年前に行けなくなって、それでももう一回受けたんだ。今度こそ、中途半端に終わらせんなよ」
いつもの軽い調子ではなかった。
瞳子は少しだけ目を丸くしたあと、しっかりと頷く。
「分かってる」
六歳のころから欲しかったものは、何も変わっていない。
もっと速く走ってみたい。もっと遠くへ行って、まだ見たことのない景色を自分の目で見てみたい。
あの日に知ったワクワクは、十年経った今もちゃんと瞳子の中に残っている。
颯太はそんな瞳子をしばらく見てから、まんじゅうの鼻先を撫でた。
「じゃあ俺も、いつか中央のGⅠに出る馬を作るかな」
「え?」
「もう一度、中央へ行く馬を出す。今度はGⅠまで行くような馬を」
瞳子は反射的に颯太を見た。
GⅠは、中央競馬でも最高峰に位置するレースだ。簡単じゃないことくらい、ここで育った自分にだって分かる。
早見牧場は家族経営の小さな牧場で、大きな牧場のような設備があるわけでも、名の知れた繁殖馬を何頭も抱えているわけでもない。中央競馬へ送り出せた馬も、それほど多くはなかった。
まんじゅうだって地方競馬では重賞と呼ばれる大きなレースを勝ったことがある。それでもエリーが集まる中央競馬では、二勝クラスまでだった。
「その馬には、私が乗る」
「馬鹿。乗せてもらえるくらいの騎手になってから言え」
「なるよ」
ワクワク出来るなら、そこに迷いはなかった。
瞳子が拳を差し出すと、颯太も小さく笑って拳をぶつける。
「約束ね」
「ああ。約束だ」
厩舎の外へ目を向けると、東の空がほんの少しずつ白み始めていた。
瞳子はまんじゅうの温かな額へ、自分の額を寄せる。
「行ってくるね」
ぶるる、と小さく鼻を鳴らした。
それだけで、返事をもらえたような気がした。
怖くないわけじゃない。寂しさもあるし、これから始まる三年間への不安だって当然ある。
それよりも今は、この先にどんな馬がいて、どんな人と出会い、どんな景色を見ることになるのか知りたかった。
考えているだけで、身体の奥がじっとしていられなくなる。
瞳子はまんじゅうから額を離し、少しずつ明るくなっていく空を見上げた。
十年前に初めて知ったワクワクの、その先へ。
今度こそ、自分の足で踏み出していく。




