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第48レース の次春へ

 三月も終わりに近づいた頃、厩舎の前に見慣れない顔が増えた。


 四月から入学する生徒たちが、事前訓練のために学校へ来ているらしい。教官から説明を受けるたびに揃って頷き、慣れない場所で周囲の動きを確かめながら行動している。


 厩舎へ向かう途中、瞳子はその中の一人が馬を引く姿を何となく目で追った。


 手綱を持つ手には明らかに力が入り、馬が少し首を動かしただけで身体まで一緒についていっている。危ないわけではないし、教官もすぐそばにいるのに、見ているだけで緊張しているのが伝わってきた。


「なんか懐かしくない?」


 隣を歩いていた星羅も同じ方を見ていたらしい。


「分かる。めっちゃ力入っとるな」


 小町が笑う。


「まぁ、うちらも最初はあんな感じやったんやろな」

「たぶんね。四月の映像見たら、みんな結構固かったし」


 星羅がそう言うと、瞳子も新入生たちを見ながら頷いた。


「馬の動きに合わせるだけで精一杯だったよね」

「アタシはそこそこ乗れてたけど」

「そういうとこやぞ」


 小町に即座に突っ込まれ、星羅が楽しそうに笑う。


 瞳子もつられて笑いながら、もう一度、新しく入ってくる生徒たちへ目を向けた。


 一年前なら、あちら側にいたのは自分たちだった。


 学校で決められた厩舎作業の手順も、授業の進み方も、騎手候補生として求められる身体の使い方も分からず、教官に言われたことを一つずつ覚えるだけで精一杯だった。それが四月になれば、今度は自分たちの下に後輩が入ってくる。


「もうすぐ、あの子たちの先輩になるんだね」


 瞳子が呟くと、星羅が少し得意そうに胸を張った。


「先輩って響き、よくない?」

「絶対調子乗るやん」

「乗らないって」

「今の顔がもう乗っとる」


「成瀬さんの意見に同意します」


 少し後ろを歩いていた清華が口を挟み、星羅が振り返る。


「清っちまで?」

「藍沢さんが後輩に変なことを教えないか心配です」

「信用なさすぎない?」


 小町が吹き出し、瞳子も笑った。


 四月になれば、本当にこの四人にも後輩ができる。その事実の方が、「もうすぐ二年生になる」と言われるより、今はずっと実感があった。


 午後の騎乗訓練では、複数頭で一定の位置を保ちながら走る練習が行われた。


 瞳子の前方には黒田、その右側には宮坂がいる。今日乗っている鹿毛のリズムを感じながら、前の二頭だけでなく、そのさらに外側を走る馬まで視界へ入れる。


 以前は、周囲を見ることそのものに必死だった。馬の耳がどこを向いたのか、首がどう動いたのか、隣の馬との距離がどう変わったのかと、気づけるものが増えるほど全部に反応しようとして、自分の位置まで簡単に譲ってしまっていた。


 今は、気づいたあとに一度考える。


 黒田の馬が耳を右へ向け、その少しあとに首が動いた。肩もわずかに外へ向き始めたのを見て、瞳子は前との差を確かめ、自分の馬へ小さく合図を送る。


 大きく避ける必要はない。自分の位置を捨てない範囲で、ほんの少しだけ内へ寄せれば十分だ。


 黒田の馬が右へ膨らんだときには互いの間に余裕ができており、瞳子はそのままリズムを崩さず走り続けることができた。


「斉藤、そのまま!」


 走路脇から教官の声が飛ぶ。


 返事をする余裕はなくても、何を認められたのかは分かった。


 訓練が終わり、馬を引いて戻ろうとしたところで、今度は名前を呼ばれる。


「斉藤」

「はい!」

「さっき黒田の馬が外へ動いたところ、自分で判断したか」

「はい。距離を見て、あれくらいなら少しだけ動けば大丈夫だと思いました」


 教官は一度頷いた。


「周りを見るのは、相手に合わせ続けるためじゃない。自分がどこを走れるのか判断するためでもある。今日できたことを、次も同じようにできるようにしろ」

「はい!」


 以前にも似たようなことを言われたはずなのに、自分で判断して馬を動かせたあとの方が、その言葉はずっとはっきり頭へ入ってきた。


「一回できたくらいで得意になるなよ」

「……はい」

「返事が遅い!」

「はい!」


 少し離れたところから笑い声が聞こえる。


 見るまでもなく星羅だろうと思いながら戻ると、案の定、馬を引いた星羅が楽しそうな顔をしていた。


「とこ、最後だけ急に声でかくなってた」

「聞こえてたなら笑わないでよ」

「いや、だって教官の圧に負けてんじゃん」

「藍沢さんも午前中、同じようなことをしていたと思いますが」

「清っち、それ今言う?」


 清華に刺され、星羅が口を尖らせる。


 こんなやり取りにも、もう誰も驚かない。瞳子も当たり前のように笑いながら、馬を厩舎へ連れていった。


 手入れと馬具の片づけまで終えたあと、一年生八人全員に教室へ集まるよう指示が出た。


「何やろ」


 席についた小町が落ち着かなさそうに呟く。


「三月末だし、進級じゃない?」


 前の席から振り返った星羅が言うと、小町の顔がさらに曇った。


「だから普通に言うなって。急に怖なってきたやん」

「ここまで来て今さら?」

「今さらやから怖いんやろ!」

「心配して結果が変わるなら、心配すればいいと思います」


 清華が真顔で言う。


「清華ちゃん、それ全然励ましてへんからな」

「励ましたつもりはありません」

「知っとるわ!」


 少し離れた席では、男子たちも似たような話をしていた。


「風磨だけ一年生もう一回とかあるんじゃね?」

「なんで俺だけなんだよ」

「普段の行い」

「お前ら最近それ便利に使いすぎだろ!」


 黒田たちの笑い声に、小町まで吹き出す。


 教室の扉が開いた瞬間、その笑い声もぴたりと止まった。


 入ってきた教官は八人の顔を順番に見てから、教卓の前へ立つ。


「一年課程の訓練は、これで一区切りだ」


 その一言で、教室の空気が引き締まった。


「この一年で、お前らが身につけるべき基礎は一通り教えた。教えたからといって、全部できるようになったという意味じゃない。むしろ二年になれば、今まで以上にできないことが目につくようになる」


 瞳子は黙って聞いた。


「騎乗技術だけじゃない。体重、体調、馬の状態、周囲の状況。自分で考えて判断しなきゃならないことも増える。二年生になっただけで騎手に近づいた気になるなよ」


「はい!」


 八人の声が揃った。


 教官は手元の書類へ一度目を落とし、再び顔を上げる。


「今年度の訓練評価を踏まえて、進級について伝える」


 さっきまで笑っていた星羅も静かになり、瞳子も背筋を伸ばした。


 一年間、誰か一人でも欠ければ嫌だと思ってきた。


 最初にそれを口にしたのは、入学して間もない頃だった。


 ――全員で騎手になろう。


 あのとき、その「全員」の中に清華はまだ入っていなかった。瞳子と星羅と小町が口にした約束を、清華は少し離れたところから聞いていただけだった。


 今なら、同じ言葉を口にするとしても、きっと意味は違う。


「八人全員、四月から二年課程へ進級だ」


 一瞬、教室が静まり返った。


 隣から息を吐く音が聞こえ、次の瞬間には星羅が小さく拳を握る。


「よっしゃ!」

「藍沢、話は終わってない!」

「はい!」


 反射的に返事をした星羅を見て、小町が肩を震わせている。


「笑うなって」

「いや、だって星羅、速すぎるやろ」

「小町だって安心した顔してんじゃん」

「するわ! 普通に怖かったんやから!」


 風磨が後ろから身を乗り出した。


「だから大丈夫だって言っただろ」

「お前に言われたから安心したわけちゃう」

「まだ何も言ってねえよ」

「言いそうな顔しとった」


「また顔で会話してる」


 星羅が混ざったところで、教官が机を指で叩いた。


「喜ぶのは勝手だが、まだ二年課程が始まったわけじゃない。来年度も全員一緒に上がれる保証はないからな」


 八人が一斉に姿勢を戻す。


「ここまで残ったことは評価する。次も残れ。以上」

「はい!」


 最後の返事は、今までで一番揃っていた気がした。


 教官が出ていくと、今度こそ教室の空気がほどける。


「二年生だって!」


 星羅が立ち上がる。


「まだ四月なってへん」

「細かいなあ」

「こういうのはちゃんとせなあかんねん」

「じゃあ小町はあと何日か一年生ね。アタシ今日から二年生」

「勝手に進級すんな!」


 男子たちもそれぞれ話し始め、狭い教室が急に騒がしくなった。

 瞳子はその声を聞きながら、ようやく肩の力が抜けていくのを感じた。


 八人全員で次へ進める。


 教室を出ると、星羅と小町は先に廊下を歩いていく。


「今日くらいなんか祝い欲しくない?」

「何を祝うねん」

「進級」

「せやからまだしてへんって!」

「細かっ」


 その後ろを男子たちも追い越していき、瞳子と清華だけが少し遅れて階段を下りた。


「清華さん」

「はい」

「よかったね。全員で上がれて」


 清華は少し前を見たまま、穏やかに頷く。


「そうですね」

「清華さんも、ちゃんと嬉しいんだ」

「どういう意味ですか」

「顔にあんまり出ないから」


 笑いながら玄関を出ると、先に行ったはずの星羅と小町の姿はもう遠くなっていた。


「先に風呂行くからねー!」


 星羅の声だけが飛んでくる。


「走ったら危ないって!」


 瞳子が返しても、聞いているのかどうか分からない。


「元気ですね」


 清華が呟く。


「清華さんも走れば?」

「なぜですか」

「先にお風呂入れるよ」

「譲ります」

「そこは譲るんだ」

「必要がないのですから」


 その答えに、瞳子は思わず笑った。


「それ、前にも聞いた」

「そうでしたか」

「絶対覚えてるでしょ」

「どうでしょう」


 そんなやり取りをしながら並んで歩いていると、清華がふいに足を緩めた。


「斉藤さん」

「ん?」


 瞳子も自然と歩調を落とす。


「一つ、変えてもいいですか」

「何を?」


 清華は少しだけ迷うように視線を外した。


 何かを言うと決めた清華が言葉を選ぶのは珍しく、瞳子は黙って続きを待った。


「呼び方です」

「呼び方?」

「いつまでも『斉藤さん』というのも、少し違う気がするので」


 そこまで聞いて、瞳子はようやく意味が分かった。


「え」


 思わず間の抜けた声が出てしまい、清華がこちらを見る。


「嫌ですか?」

「嫌じゃない! 嫌じゃないけど……急だなって」

「そうでしょうか」

「だって一年間ずっと斉藤さんだったじゃん」

「一年間ではありません。まだ一年経っていません」

「そこ訂正する?」


 思わず笑うと、清華の表情もほんの少しだけ柔らかくなる。


「では」


 清華は一度だけ間を置いてから、今度はまっすぐ瞳子を見る。


「瞳子、と呼んでもいいですか」


 星羅から「とこ」と呼ばれるのとも、小町から「瞳子ちゃん」と呼ばれるのとも違う。ずっと「斉藤さん」だった清華の声で名前を呼ばれると、聞き慣れているはずの自分の名前が少しだけ新鮮に響いた。


「……うん」


 答えてから、瞳子も笑う。


「じゃあ私も、鈴乃って呼ぶ」

「どうぞ」

「そこは確認しないんだ」

「何をですか?」

「私が鈴乃って呼んでいいか」

「嫌なら、私が嫌だと言います」


 一月に言われた言葉をそのまま返され、瞳子は一瞬きょとんとしてから吹き出した。


「それ、便利に使ってない?」

「事実です」

「じゃあ……鈴乃」


 口にすると、自分で思っていた以上に少し照れくさかった。


「はい」


 鈴乃は何でもないことのように返事をする。


「なんか変」

「自分から呼ぶと言ったのは瞳子でしょう」


 今度は鈴乃の方が、ごく自然に名前を呼んだ。


「ちょっと待って。鈴乃の方が馴染むの早くない?」

「そうですか?」

「もう一回言って」

「なぜですか」

「いいから」

「嫌です」

「ほら、そういうところ!」


 言い合いながら歩いているうちに、前の方で星羅が振り返った。


「とこー! 清っちー! 遅い!」


 いつもの呼び方が飛んでくる。


 鈴乃と顔を見合わせ、瞳子は少しだけ声を張った。


「今行く!」


 二人で歩調を速める。


 少し先では星羅と小町が待っていて、後ろからは男子たちの声も聞こえてくる。


 一年前、「全員で騎手になろう」と口にしたとき、その輪の中に鈴乃はいなかった。


 今は、その鈴乃が隣を歩いている。


 騎手になるまでの道はまだ長く、四月から始まる二年目には、今まで以上に難しいことが待っているはずだ。それでも八人全員で次へ進めることが、瞳子には嬉しかった。


「とこー! 早くー!」


 また星羅の声が飛んでくる。


「今行くって!」


 瞳子は答え、隣の鈴乃と一緒に歩調を速めた。

 一年前に立ったスタートラインから、ほんの少し先へ。


 次の春は、もうすぐそこまで来ていた。


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