第47レース 聞かなかったこと
二月に入ってしばらく経った日の午後、騎乗訓練を終えた瞳子は、馬を厩舎へ戻しながら、さっきの走路での動きを頭の中でもう一度なぞっていた。
複数頭で一定の間隔を保って走っていたとき、右後ろから一頭が近づいてきた。以前なら、相手の接近に気づいた時点で自分から少し進路を譲っていたかもしれないが、今日は右の馬との距離と動きを確かめ、まだこちらへ入ってくる気配はないと判断して、そのまま自分の進路を保つことができた。
ほんの数秒のことなのに、馬から下りたあとまで、その感覚が妙にはっきりと残っている。
「今の、どうだった?」
隣で馬を引いていた清華へ尋ねる。
「何がですか?」
「最後の方。右から一頭来たところ」
「譲らなかった場面ですか」
「うん」
清華は少し考えてから頷いた。
「問題なかったと思います。距離もありましたし、あのまま進んでも危険はありませんでした」
「よし」
思わず小さく拳を握ると、清華が横目でこちらを見る。
「一度できたくらいで満足しない方がいいと思います」
「分かってるよ。それくらい喜ばせてよ」
「喜ぶなとは言っていません」
「絶対ちょっと言ってたでしょ」
「言っていません」
相変わらず表情をほとんど変えずに返してくるものの、最近は本気で冷たく言っているのか、それとも少しだけからかっているのか、以前より分かるようになってきた。今のは、たぶん後者だ。
馬を厩舎へ戻して手入れを始めると、瞳子は首筋にブラシをかけながら、その日の騎乗を頭の中で振り返った。
少し前までは、訓練が終わるたびに失敗したところばかり思い返していた気がする。今も失敗はいくらでもあるし、教官に叱られない日の方が珍しい。それでも――と考えかけて、瞳子は少し違うと思った。
失敗が減ったわけではなく、できたことにも目を向けられるようになったのだ。両方を振り返る方が、次に何を直して、何を続ければいいのかも分かりやすい。
ブラシを動かしていると、馬が首をわずかにこちらへ傾けてくる。
「はいはい、そこね」
首の付け根へ手を移して掻いてやると、気持ちがいいのか、馬は目を細めた。
「斉藤さん」
向かい側から声がして顔を上げると、清華も同じ馬の反対側で脚元についた泥を落としていた。
「ん?」
「今、馬が何をしてほしいか分かったんですか?」
「え? たぶん、もうちょっとここ掻いてって感じじゃない?」
「たぶん、ですか」
「本人に聞けないからね」
何気なく答えたところで、夏の記憶がふいに蘇った。
勝浦で清華に言った、馬と喋れたらいいのに、という言葉。あのときの清華は冗談として受け流さず、瞳子には理由が分からないほど強く反応した。
以前の自分なら、同じことを思い出しただけで何か言い足すか、気まずくなって別の話題へ逃げていたかもしれない。今は、清華が嫌なら清華自身がそう言うと分かっている。本人からそう教えられた以上、瞳子の方で先回りして距離を決める必要はなかった。
そのまま馬の首を掻いていると、清華がぽつりと言った。
「以前も、似たようなことを言っていましたね」
瞳子は反対側にいる清華へ顔を向ける。
「夏の?」
「はい」
「……覚えてたんだ」
「忘れるようなことでもありませんから」
声はいつも通り平静だったが、何となくこのまま話が終わるようには思えず、瞳子は余計なことを言わずに待った。聞いていいのかどうかを迷ったというより、今は清華の方に続きがあるような気がしたのだ。
やがて手入れを終え、二人で用具を片づけ始める。星羅と小町は先に別の馬具を返しに行っており、厩舎の中には馬が敷料を踏む音と、ときおり鼻を鳴らす音が響いていた。
ブラシを元の場所へ戻したあとも、清華はすぐにはその場を離れなかった。
「斉藤さん」
「うん」
「以前、馬術の交歓会で、成瀬さんがエクラ・ドゥ・ヴルールの話をしたでしょう」
十二月に聞いた名前だった。昔、清華が競技で乗っていた馬であり、小町からはビジューと呼んでいたことも教えてもらった。
「覚えてる」
「ビジューは、エクラ・ドゥ・ヴルールのことです」
清華は前を向いたまま言った。
やはりそうだったのかと思いながらも、瞳子は口を挟まなかった。あのとき自分から尋ねなかったことを、今度は清華自身が話そうとしているのだと分かったからだ。
「私が、そう呼んでいました」
「清華さんだけ?」
「はい。正式な名前が長かったというのもありますが……私が勝手につけただけです」
清華はほんの少し視線を落としてから、静かな調子で続けた。
「初めて、私が中心になって乗るようになった馬でした。競技にも一緒に出て、六年間、ほとんど毎日のように乗っていました」
どんな馬だったのか、何が好きだったのか。聞いてみたいことはいくつも浮かんだが、瞳子はそのまま黙って清華の言葉を待った。
「事故があって、右の前脚を痛めました。治療している間、かばっていた反対側の脚に負担がかかって、蹄葉炎になりました」
清華の声は変わらなかった。
「結局、回復しませんでした」
その言葉でようやく意味を理解し、瞳子は清華の横顔を見る。
「……亡くなったの?」
「はい。一週間くらいでした。事故から、亡くなるまで」
厩舎の奥で馬が一度だけ鼻を鳴らし、しばらく二人とも何も言わなかった。
瞳子には、どんな言葉を返せばいいのか分からなかった。かわいそうだったね、と言うことも、辛かったね、と言うことも間違いではないのだろうが、今の清華へ向ける言葉としてはどこか違う気がして、どちらも口にはできなかった。
「そっか」
結局、出てきたのはそれだけだった。
清華が何も言わないので、瞳子も無理に言葉を足さず、しばらくその隣に立っていた。
「夏に私が言ったことって……」
「馬と話せたら、という話ですか」
「うん」
「ビジューのことを思い出しました」
清華は静かな声で答えた。
「事故のあと、ずっと考えていたことだったので。もっと早く何かに気づけなかったのかとか、痛いならそう言ってくれればよかったのに、とか」
一度そこで言葉を止めてから、清華は続ける。
「斉藤さんがあの言葉を冗談で言ったのは分かっていました。あのときの私は、どうしても聞き流せなかったんです」
夏に見た清華の顔を、瞳子はまだ覚えている。理由が分からなかった当時は、自分が触れてはいけないところへ入り込んでしまったのだと思っていた。
「じゃあ、あのとき私が悪かったわけじゃなかったの?」
口にしてから、少し言い方が違ったかもしれないと思う。清華も同じことを感じたらしく、わずかに眉を寄せた。
「悪い、悪くない、という話ではないと思います」
「だよね」
「私の事情を何も知らない斉藤さんに、あの反応は少し理不尽だったとは思っています」
「清華さんが自分で言うんだ」
「事実ですから」
思わず笑ってしまい、こんな話をしている最中にいいのだろうかと一瞬迷ったものの、清華も嫌そうな顔はしなかった。
「私も、あれから気にしすぎてたかも」
「何をですか?」
「清華さんが嫌がること、また言ったらどうしようって。だから、聞きたいことがあっても、これは聞かない方がいいかなって勝手に考えてた」
以前の自分なら、ここまで素直には言えなかったかもしれない。
「それは最近、聞きました」
「そうだった」
この前、まさにそのことで言い合ったばかりだ。
清華はほんの少し息を吐いてから、言葉を続けた。
「ビジューのことについては、聞かなかったのは正しかったと思います」
「そうなの?」
「はい。あのとき聞かれていたら、たぶん話したくありませんでした」
「じゃあ、なんで今?」
そこまで口にしてから、また踏み込みすぎたかもしれないと思ったが、清華は気を悪くした様子もなく、少し考えるように視線を落とした。
「今なら、話してもいいと思ったからです」
その答えだけで、瞳子には十分だった。
「今なら」という言葉は、誰にでも話せるようになったという意味ではない気がする。そう受け取るのは少し自意識過剰かもしれないが、少なくとも清華が今日、自分からこの話を始めてくれたことだけは確かだった。
「……そっか」
また同じ返事になってしまったことがおかしくなり、今度は少し笑ってから言う。
「話してくれてありがとう」
清華は一瞬だけ瞳子を見て、小さく頷いた。
「はい」
瞳子はそれ以上、ビジューについて尋ねなかった。好きだった食べ物も、どんな癖があったのかも、競技のときにどんな走り方をしたのかも、いつか聞ける日が来るのかもしれないし、その機会を今日にする必要はないと思えた。
二人で厩舎を出ると、外はもう薄暗くなり始めていた。冷たい風に首をすくめながら歩いていると、少し先に星羅と小町の姿が見える。
「遅い!」
こちらに気づいた星羅が手を振った。
「清っち、とこ、何してたの?」
「馬具の片づけです」
清華が何でもないように答える。
「それだけでそんなかかる?」
「藍沢さんは、もう少し丁寧に片づけた方がいいのではありませんか」
「なんでアタシが怒られんの?」
「日頃の行いちゃう?」
「小町まで!」
すぐに始まった言い合いを聞きながら、瞳子は清華の隣を歩いた。
さっき聞いたことを星羅や小町へ話そうとは思わない。秘密にしてほしいと言われたわけではないが、清華が自分から渡してくれた話を、本人の知らないところで誰かに渡すのは違う気がした。
夏には、聞かないことしかできなかった。十二月には、聞かないことを自分で選び、今日になって初めて、清華の方からその先を話してくれた。
何か特別な約束を交わしたわけではなく、二人の関係が急に別のものへ変わったわけでもない。それでも、並んで歩く清華との距離は、以前よりほんの少しだけ近くなったように瞳子には思えた。




