第46レース 見つけてくれる人
自分の映像を一通り見終えた瞳子は、隣に置かれている清華のタブレットへ目を向けた。
「清華さん、自分のは見た?」
「見ています」
「昔のも?」
「もちろんです」
「どうだった?」
聞くと、清華は一瞬だけ黙った。
「大きく崩れているところはありませんでした」
「さすが」
「ですが、それで終わりではありません」
清華らしい返事に、瞳子は少し笑った。
「見せて」
「私のですか?」
「うん」
以前なら、こんなふうに自分から言えただろうか。清華のことが気になっても、どこまで聞いていいのか迷っていたかもしれない。
今は、それほど考えなかった。
清華も拒む様子はなく、自分のタブレットを瞳子との間へ置いた。
「四月から見ますか?」
「見たい」
再生された映像を見て、瞳子は最初に星羅が言いそうなことを思った。
――最初から上手い。
馬へ跨がる姿勢も、手綱の扱いも、自分とは比べものにならないくらい自然に見える。ジュニア馬術で三連覇していたと言われれば、何も知らなくても納得できそうだった。
「清っち、全然変わってなくない?」
案の定、星羅が横から顔を出した。
「変わっています」
清華が即答する。
「どこ?」
「競技馬術と競走馬術では求められるものが違いますから」
「そういう説明じゃなくて、見た目で」
「見た目だけで判断するものではありません」
星羅が「ですよねぇ」と引き下がる。
瞳子は黙ったまま、四月の清華の騎乗を見続けた。
確かに綺麗だった。馬の動きに乱されることもなく、姿勢も崩れない。それなのに、最近の清華を知っているせいか、何かが違って見える。
「もう一回いい?」
「どうぞ」
映像を最初へ戻し、今度は清華自身ではなく、下にいる馬の方へ意識を向ける。
首や背中がどう動き、それに合わせて清華の身体や手がどう反応しているのかを追いながらしばらく見てから、今月の映像へ切り替えた。
「……やっぱり違う」
「何がですか?」
清華がこちらへ顔を向ける。
「昔の方が、綺麗に見えるところもあるかも」
その言葉が予想外だったのか、清華の眉がわずかに動いた。
「それは褒めていますか?」
「最後まで聞いてよ」
「聞いています」
「今の方が、馬と一緒に動いてる気がする」
瞳子は言葉を探しながら、二つの映像を見比べる。
「四月のは、清華さんが『こう動いて』って馬に言って、その通りに動かしてる感じがする。でも今は、馬が動いたのを清華さんが受けて、そのあと一緒に動いてるっていうか……」
競走馬は、速い速度で大きく身体を動かしながら走る。その上で騎手が自分の姿勢ばかりを固めてしまえば、馬の動きについていけないだけでなく、走りそのものを邪魔することにもなる。
四月の清華は馬を正確に動かすことに長けていて、今の清華はそこに加えて、馬から返ってくる動きを受けながら自分を合わせるようになっている。瞳子には、そんな違いに見えた。
自分で説明していて、ひどく曖昧だと思う。
「ごめん、上手く言えないけど」
「いえ」
清華は映像へ目を戻した。
「言いたいことは分かります」
「ほんと?」
「おそらく」
清華はそう答えると、四月の映像を少し巻き戻し、今月のものと何度か見比べ始めた。
姿勢の角度だけを確認しているわけではないらしく、今度は瞳子が指摘したように馬の首や背中の動きまで追いながら、そのたびに自分の身体がどう反応しているのかを確かめている。
瞳子は何も言わず、その横顔を見ていた。
さっき口にしたのは、あくまで自分がそう感じたというだけの話だった。それでも清華は聞き流さず、確かめるために映像を見直している。
自分の言葉を、こんなふうに真面目に受け取ってもらえるのは、なんとなく不思議な気分だった。
何度目かの再生を終えたところで、清華はようやく画面から目を離さないまま口を開いた。
「私は、姿勢の違いばかり見ていました」
「うん」
「斉藤さんは、馬の方を見るんですね」
「え?」
「私の騎乗映像なのに、ずっと馬を見ていたでしょう」
言われて初めて気づいた。
「だって、乗ってるの馬だし」
答えると、清華がこちらを見た。何か変なことを言ったのかと思ったが、清華は否定しなかった。
「……そうですね」
その声がいつもより少し柔らかく聞こえたのは、気のせいかもしれない。
「じゃあ、今度は私の見て」
「もう見ましたよ」
「ちゃんと最初から」
「何を見るんですか?」
「それは清華さんが見つけてよ」
「随分と無責任ですね」
「清華さんなら何か見つけるでしょ」
そう言ってから、瞳子は少しだけ自分の言葉に驚いた。
清華なら見つける――考えるより先に、そう思っていた。
清華も特に気にした様子はなく、瞳子のタブレットを自分の方へ少し引き寄せる。
「では、四月から見ます」
「うん」
画面の中で、十か月前の瞳子がぎこちなく馬に揺られている。清華はそれを見ても笑わず、少し身体が遅れたところでは画面を止め、馬の動きと瞳子の姿勢を見比べていた。
「星羅ちゃんはロボットって言ったよ」
「藍沢さんの感想は聞いていません」
「清華さん的には?」
「かなり力が入っています」
「結局同じようなこと言ってるじゃん」
「ロボットとは言っていません」
妙なところだけ律儀だった。
五月、七月と進み、今月の映像まで来たところで、清華が再生を止める。
「斉藤さん」
「なに?」
「判断はかなり早くなっていますね」
思っていなかったところを褒められ、瞳子は少しだけ姿勢を正した。
「ほんと?」
「馬が外へ意識を向けたときや、周りの馬との距離が変わったときに気づくのは、以前より明らかに早いです」
「へえ……」
「ただし」
「やっぱりあるんだ」
「あります」
清華は画面を少し戻した。
「気づいたあとの判断で、一度迷っています。ここもそうですし、その前もです」
映像を見れば確かに、周囲を確認したあと、一瞬だけ身体の動きが曖昧になっている。
「この前の『譲る』のと同じ?」
「似ていますが、少し違うと思います」
「どう違うの?」
「周りを見ること自体には自信がついている。でも、そのあと自分がどうするかについては、まだ自分の判断を最後まで信じ切れていないように見えます」
清華はそこで映像を少し戻し、周囲の馬との位置関係が分かるところで止めた。
「もちろん、危険なら進路を譲る必要があります。ただ、安全なのに相手が近づくたび自分から場所を空けていたら、今度は自分が取りたい位置を守れません」
「位置を譲った分、あとで戻ればいいってわけでもないもんね」
「はい。周りにも馬がいますから。一度場所を失えば、戻りたくても戻れないことがあります」
ただぶつからないように走ればいいわけではない。安全を確かめたうえで、自分がどこを走るのかを決め、その位置を守ることも騎手には必要になる。
瞳子は何も返さず、止まったままの映像へ目を戻した。
画面の中では、周囲の馬へ意識を向けた自分が、ほんの一瞬だけ次の動きを迷っている。言われなければ見過ごしていた程度の間なのに、清華に指摘されてから見ると、その一瞬が妙にはっきり分かった。
周りを見ることには、以前より自信がある。馬がどこへ意識を向けたのかも、他の馬が近づいてきたことも、少しずつ早く気づけるようになった。
そのあとどうするかを決めるときには、本当に自分の判断でいいのかと一度迷っている。
騎乗のことを言われているだけのはずなのに、なぜかそれだけではないような気がして、瞳子は少し居心地が悪くなった。
「……清華さん、よく見てるね」
ようやくそう言うと、清華は画面から目を離さないまま答えた。
「斉藤さんに言われたくありません」
あまりに間を置かず返されたので、瞳子は思わず笑った。
「確かに」
少し前まで、自分が清華の騎乗について何か言うだけでも、どこまで踏み込んでいいのか迷っていた。それが今では、お互いに相手の騎乗を見て、自分では見つけられなかったものまで指摘し合っている。
こんな時間が当たり前になるとは、少し前の瞳子なら想像もしなかった。
少なくとも今は、清華が何かを言えば、一度ちゃんと考えてみようと思える。
「斉藤さん」
「ん?」
「さっきの私の映像についてですが」
「うん」
「今の方が馬と一緒に動いている、という話。次の騎乗でも、少し意識してみます」
瞳子は一瞬だけ目を瞬かせた。
自分がなんとなく感じたことを、清華がそこまで真面目に受け取るとは思っていなかった。
「私の言ったこと、信じるの?」
「全て鵜呑みにするつもりはありません」
「そこは清華さんだね」
「ですが、斉藤さんがそう見えたと言うのであれば、一度試す価値はあると思っています」
その言葉に、瞳子はしばらく返事ができなかった。信じる、という言葉とは少し違うのかもしれない。
自分が見たものを清華が簡単には捨てず、一度自分の中へ入れて考えてくれる。それだけで、なぜか少し嬉しかった。
「じゃあ私も、清華さんが言ったやつ意識してみる」
「自分の判断を信じる、ですか?」
「うん。できるか分かんないけど」
「最初からできるとは思っていません」
「そこは『できますよ』とか言わない?」
「根拠がありませんから」
「相変わらずだなあ」
瞳子が笑うと、清華の目元もほんのわずかに柔らかくなった。画面には、四月の映像がまだ表示されている。
馬の上で身体を固くし、ただ落ちないよう必死になっていた自分を見ていると、まだ一年も終わっていないのに、あの頃がずいぶん遠くに感じられた。
もちろん、今の自分だって完成にはほど遠い。気づいたあとに迷う癖も、周りへ譲りすぎるところもまだ残っているし、清華にも星羅にも小町にも、それぞれ直さなければならないところがある。
それでも、瞳子はなぜか少しだけ安心した。
十か月前と比べれば、みんな確かに前へ進んでいる。それなのに、誰一人としてもう十分だと言えるところまで来たわけではない。できるようになったことの先には、また新しくできないことが見つかって、そのたびに考えて、直して、少しずつ先へ進んでいく。
まだ途中なのだと思えることが、今は悪くなかった。
瞳子はもう一度、画面に表示された四月の日付へ目を向けた。あの日から、もう十か月近く経っている。
毎朝早く起きることにも、検量にも、厩舎作業にも、馬に乗って叱られることにも、いつの間にか慣れていた。振り返れば驚くほど早かった気もするのに、画面の中で馬の上にしがみつくようにしている自分を見ると、ずいぶん遠いところまで来たようにも感じる。
あの頃の自分と比べれば、今は馬の小さな変化にも気づけるようになったし、その先を考える余裕も少しずつ持てるようになった。
まだ迷うし、間違えることもある。
それでも、画面の中にいる自分より、今の自分の方が前へ進んでいることだけは、素直に信じてもいい気がした。
そして、その変化を自分だけではなく、隣にいる誰かも見つけてくれる。
瞳子はそれが、思っていたより少し嬉しかった。




