第45レース 十か月前
一月も終わりに近づいた日の午後、教室へ入った瞳子は、机の上に置かれた公用タブレットを見て首を傾げた。
いつもの座学なら、黒板にはその日の講義内容が書かれている。ところが今日は何もなく、代わりに一年生八人全員の机へ一台ずつタブレットが置かれていた。
「今日、映像?」
隣の席へ座った星羅が電源を入れながら言う。
「騎乗フォームの確認ちゃう?」
小町も自分の端末を覗き込んでいる。
清華は何も言わず、画面に表示されたファイル一覧を確認していた。
やがて教官が入ってくると、教室の話し声が止まる。
「今日は自分の騎乗を見直してもらう。ただし、直近の映像だけじゃない」
教官が操作すると、瞳子のタブレットにもいくつかの映像ファイルが表示された。
日付は四月から始まり、五月、七月、十月、そして今月まで並んでいる。
「入学してから今日まで、自分がどう変わったかを見ろ。良くなったところだけじゃなく、今も変わっていない癖や、新しく出てきた課題も探せ。昔より上手くなっているのは当たり前だ。そこだけ見て満足するなよ」
「はい!」
返事をしながら、瞳子は一番上に表示された四月の日付を見つめた。
十か月前……文字にすれば、それほど昔には見えない。
けれど画面の中にいる自分が、今の自分と同じようには思えなかった。
再生ボタンを押す。
映ったのは、まだ騎乗服すら身体に馴染んでいなかった頃の自分だった。
常歩で進む馬の上に跨がり、手綱を握る腕には目に見えて力が入っている。背中も不自然なくらい伸びていて、馬が一歩進むたびに身体が少しずつ遅れて揺れていた。
「とこ、固っ」
横から覗き込んできた星羅が、堪えきれないように笑った。
「緊張してたんだからしょうがないでしょ」
「いや、馬乗ってるっていうより、馬の上で姿勢良くしようとしてる人じゃん」
「星羅ちゃんだって最初のやつ見せてよ」
「アタシは最初から結構いけてたと思うけど」
「それ、自分で言う?」
星羅が自信満々に自分の四月の映像を再生する。
確かに瞳子よりは身体が動いていた。馬が歩くたびに腰が自然についていき、上体も大きく崩れていない。
「ほら」
「ほんまに腹立つくらい普通に乗れとるな」
小町が横から画面を覗き込み、少し悔しそうに言った。
「でしょ?」
「でもこれ、馬が何してるかは全然見てへんな」
「え?」
小町に言われ、星羅が画面を戻す。
瞳子も一緒に見ると、当時の星羅は身体こそ器用に馬の動きへ合わせているものの、耳や首の向きにはほとんど意識を向けていなかった。
「ほんとだ」
瞳子が言うと、星羅も少しだけ顔を近づける。
「身体だけで乗ってる感じする」
「今と比べると、そうかも」
星羅は素直に認めてから、今月の映像を再生した。
馬の耳や首の動きにも自然に反応し、速度が変わっても身体が遅れず、以前より手綱の動きも小さい。
それでも見た目には何かを深く考えているようには見えない。
「やっぱり今も感覚で乗ってるな」
小町が言う。
「でも今は、馬も一緒に見てるよね」
瞳子がそう付け加えると、星羅は少しだけ嬉しそうに笑った。
「アタシ、ちゃんと成長してんじゃん」
「そこは最初から疑ってへんわ」
「小町は?」
「うちは……」
言いながら、小町が四月の映像を再生した。
フォームそのものは大きく崩れていない。教わったことを一つずつ守ろうとしているのも分かる。
ただ、少し時間が経つにつれて、肩も腰も徐々に固くなっていた。
「うわ」
小町が自分で声を上げる。
「何?」
「これ、めっちゃ息止めとるやん」
映像だけでは呼吸そのものまでは見えない。それでも今の小町が見れば、どの瞬間から身体が固くなり始めているのか分かるらしい。
「この辺からや。しんどなって、全身に力入れ始めてる」
「今は?」
「今も疲れたら出るけど、前より自分で分かる。息止まりそうになったら、一回吐くようにしてるし」
梨狩りのあとから、小町は呼吸や力の入れ所を以前より細かく意識するようになっている。
昔の映像を見ることで、それが改めて分かるのだろう。
「風磨、昔から気づいてたんだよね」
瞳子が言うと、小町が少しだけ嫌そうな顔をした。
「そうやけど、あいつに言われたん思い出すとなんか腹立つな」
「なんで?」
「知らん」
星羅がにやにやし始めたので、小町はすぐに「その顔やめ」と睨んだ。
「聞こえてんだけど」
少し離れた席から声がして、三人そろってそちらを見る。
風磨が自分のタブレットを机へ置き、呆れたような顔で小町を見ていた。
「人が昔から教えてやってたみたいに言うなよ。お前が息止めるのなんて、小学校の頃から分かりやすかっただけだからな」
「頼んでもないのに昔の話まで入ってくんなや」
「そっちが先に名前出したんだろ」
「名前出したんは瞳子ちゃんや!」
「え、私?」
急に飛び火してきて、瞳子は思わず自分を指さした。その横で星羅がますます楽しそうに笑っている。
「幼馴染ってこういうとこ強いよね。昔の黒歴史、全部握られてんじゃん」
「黒歴史ちゃうわ!」
「息止めながら運動してたのは普通に黒歴史寄りじゃね?」
「星羅は黙っとって!」
小町の声に、教室の反対側から笑いが起こる。どうやら黒田たちまで話を聞いていたらしい。
「お前ら、自分の映像を見ろ」
教官の一言で騒ぎは収まり、それぞれが慌ててタブレットへ向き直った。
瞳子も画面へ目を戻したが、教室のあちこちからはまだ小さな声が聞こえていた。
「俺、四月の方がフォーム綺麗じゃね?」
「それ今が下手になっただけだろ」
「違うって!」
誰かの言葉にまた笑いが漏れる。
十か月前の映像を見ているのは、自分たち四人だけではない。
入学したばかりの頃は、まだほとんど話したこともなかった男子たちも、同じように馬の上で固まり、教官に叱られ、それぞれ違うところでつまずきながらここまで来た。
普段は自分のことで精一杯だから、同期がどれくらい変わったのかをこうして一度に見る機会はほとんどない。誰かの昔の騎乗を笑えば、自分の映像を見られたときには同じように笑われる。
そんな空気が、瞳子にはなんとなく心地よかった。
しばらくすると、小町と風磨がまた小声で何やら言い合い始め、その横では星羅が面白そうに二人を眺めている。
瞳子は自分のタブレットへ視線を戻した。五月、七月、十月と時期を追って見ていくうちに、自分でも分かるくらい、騎乗は少しずつ変わっていた。
最初は馬の上から落ちないことだけで精一杯だった。それが、いつの間にか耳を見るようになり、肩の向きや脚の置き方を気にするようになり、その馬が次に何をしようとしているのかまで考えるようになっている。
ただ、今月の映像では別のものも見えた。周囲の馬が近づいたとき、やはり少し早く進路を譲っている。
この前、清華に言われた癖だ。
「まだやってる……」
思わず呟くと、隣から声がした。
「どこですか?」
顔を上げると、いつの間にか清華がこちらの画面を見ていた。
「ここ。ほら」
瞳子は少し巻き戻し、複数頭で走った訓練映像を再生する。
右側から馬が近づいたところで、画面の中の自分は少し早めに内へ進路を変えている。
「この前よりは残ってると思ったんだけど」
「以前よりは残っていますよ」
「ほんと?」
「はい。ただ、ここではまだ必要がないのに動いています」
清華が画面を指す。
「この時点では、右の馬との距離はまだあります。それに、その馬も斉藤さんの進路へ入ってこようとしているわけではありません」
「やっぱり早いか」
「少し」
言われても、不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ、自分では見落としていたところを清華が見つけてくれたことに、少しだけ安心する。
以前なら、清華に自分の騎乗を見られていると思えば、少しくらい身構えていたかもしれない。
けれど今は、何か見つけてもらえるなら、その方がいいと思える。
自分一人では気づけないところを、清華なら見つけてくれるかもしれない。




