第44レース 譲らなくていい
一月も半ばを過ぎると、寒さそのものには少し慣れてきた。
もちろん朝の五時に外へ出れば寒いものは寒いし、厩舎へ向かう途中で星羅が毎日のように「春まだ?」と口にするのも変わらない。それでも、頬を刺すような風や白くなる息まで含めて、一日の始まりとして身体が受け入れるようになっていた。
騎乗訓練の内容も、年明けから少しずつ変わっている。
この日は一頭ずつ走路を回るのではなく、複数頭が同じ区間を走りながら、それぞれ指定された位置を保つ訓練だった。
「前だけ見るな。周りの馬との距離も見ろ。ただし、周りを気にして自分の馬を疎かにするなよ」
騎乗前、教官からそう言われたとき、瞳子は頭では分かったつもりになっていた。
前の馬に近づきすぎないことも、横へ寄りすぎないことも、これまでの訓練で何度も教わっている。
ただ、実際に数頭で走り始めると、一頭だけを相手にしているときとは見なければならないものの量がまるで違った。
前には小町。その少し右斜め前に黒田がおり、後方からは別の馬の蹄音が一定の間隔で聞こえてくる。
自分の馬の耳が動けば、その向きから何を気にしているのかを考え、前との距離が詰まりそうになれば速度を調整する。それと同時に、横から別の馬が近づいてくれば、その位置まで視界の端へ入れておかなければならない。
――忙しい。
そう思いながらも、不思議と嫌ではなかった。
一つのことだけを見ているより、むしろ今の方が瞳子には合っている気がする。
「斉藤、右!」
「はい!」
教官の声に反応し、瞳子は右側へ視線を向けた。
外から宮坂の馬が少しずつ近づいている。
こちらへぶつかりそうな距離ではない。それでも、このまま同じように進めば間隔は今より狭くなる。瞳子は自分の馬を少し内側へ寄せた。
そのまま数十メートル進んだところで、今度は前を行く小町との距離が少し縮まる。
速度を落とし、もう一度位置を調整する。次の周回では、左後ろから黒田の馬が近づいてきた。瞳子はそちらを確認すると、また少し進路をずらした。
「斉藤!」
教官の声が飛んできたのは、その直後だった。
「どこまで譲るつもりだ!」
「え?」
思わず声が出た。
「お前がそこを走れと言われてるんだろ! 危なくもないのに自分から場所を捨てるな!」
「はい!」
返事はしたものの、瞳子には今ひとつ意味が飲み込めなかった。
横から馬が来たから、間隔を取っただけだ。
それの何がいけなかったのだろう。
次の周回では、さっきより意識して元の位置を走ろうとした。ところが横から別の馬が近づいてくると、やはり身体が先にそちらへ反応してしまう。
危なくなる前に動いた方がいい。
ぶつかるより、避けた方がいい。
そう考えて少しだけ進路を変えるたび、気づけば最初に指示された位置からずれている。
「斉藤、周りを見るのはいいが、相手に合わせ続けるな!」
また教官から声が飛ぶ。
今度は返事をしながら、瞳子もようやく自分が何をしているのか少し分かった。
周りを見ていることは、間違っていない。でも、何かが近づいてくるたびに、自分の方から先に避けている。
危険だからではなく、危険になるかもしれないと思っただけで。
午前の訓練を終えて馬を引きながら歩いていると、隣へ清華が並んだ。
「斉藤さん」
「なに?」
「さっきの訓練ですが」
その一言だけで、何を言われるのかなんとなく分かった。
「……見てた?」
「見えていました」
清華は当然のように答えた。
ついこの前までなら、そこで少し身構えていたかもしれない。
「斉藤さんは、周りを見すぎなのではありませんか」
「見るの大事でしょ」
「大事です」
即座に肯定されたので、瞳子は少し拍子抜けした。
「ですが、見ることと、相手に合わせ続けることは同じではありません」
教官に言われたことと、ほとんど同じだった。
瞳子は前を歩く馬の尻尾を見ながら、少し口を尖らせる。
「でも、横から来たら避けた方が安全じゃない?」
「危ないのであれば避けるべきです」
「でしょ」
「危なくないときまで譲る必要がありますか?」
そこで言葉に詰まった。清華は横から瞳子を見る。
「斉藤さんは、相手がこちらへ来た時点で、自分が動く前提になっています」
「そんなこと……」
ない、と言おうとして、やめた。訓練中の自分を思い返せば、確かにそうだった。
近づいてくる馬を見つけるたび、相手がどうするかを待つより先に、自分が位置を変えていた。
「だって、その方がぶつからないじゃん」
「お互いに避け続ければ、どちらも自分の位置を保てません」
「それはそうだけど」
「斉藤さんは、譲らなくていいところまで譲っていると思います」
その言い方が妙に引っかかった。
騎乗について言われているだけなのに、別のことまで見透かされたような気がする。
「……清華さんは譲らなすぎなんじゃない?」
思わず返すと、清華は眉一つ動かさなかった。
「必要があれば譲ります」
「必要がなかったら?」
「譲りません。必要がないのですから」
あまりにも迷いがない。瞳子は思わず清華の横顔を見た。
「即答なんだ」
「迷うところですか?」
「清華さんの場合、もうちょっと迷った方がいいときあると思うけど」
「具体的には?」
「え」
「私が譲るべきだった場面があるなら、具体的に言ってください」
瞳子は口を開いたまま考えた。
いくつか思い当たるような気もするのに、今すぐ例を出せと言われると出てこない。
「……いっぱいある」
「具体的ではありませんね」
「そういうとこ!」
少し前を歩いていた星羅が振り返った。
「何? また喧嘩?」
「喧嘩じゃないよ」
「意見を言っているだけです」
二人の返事を聞いて、星羅が小町を見る。
「最近、あの二人めんどくさくない?」
「前から別方向にめんどくさかったけど、最近混ざり始めたな」
「聞こえてるからね!」
瞳子が言い返すと、小町は楽しそうに笑いながら前へ向き直った。
隣の清華を見ると、こちらは気にした様子もなく歩いている。
どうしてこの人は、こういうときだけ何も気にしないのだろう。
「清華さんってさ」
「何ですか?」
「ぶつかるって分かってても言うよね」
「必要だと思えば言います」
「相手が嫌な顔しても?」
「内容によります」
「怒られても?」
「私が間違っているなら考えます」
「間違ってないと思ったら?」
清華は少し考えた。
今度こそ何か柔らかい答えが返ってくるかと思ったのに、結局その声はいつもと変わらなかった。
「少なくとも、相手が怒るという理由だけで変えることはしません」
「……清華さんらしい」
「それは褒めていますか?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「めんどくさいなって思ってる」
清華がこちらを見たので、瞳子も見返す。
一瞬だけ間が空いたあと、清華は怒るでもなく「そうですか」と返した。
以前なら、こんなことは言えなかった気がする。
相手がどう受け取るかを考えて、言葉を少し丸くして、それでも心配なら飲み込んでいた。
今だって、誰に対しても同じことができるとは思わない。
ただ清華なら、嫌なら嫌だと言う。
そのことを知っただけで、前より少しだけ言葉を選びすぎなくなった。
午後も同じ訓練が続いた。
今度は午前とは並び順が変わり、瞳子の前には宮坂、右斜め前には清華がいる。
走り始めてしばらくすると、横から別の馬が少しずつ寄ってきた。
瞳子はすぐに気づいた。
耳の動きから、自分の馬も相手を意識していることが分かる。
いつもなら、ここで少し内側へ寄せていた。今日は、その前に距離をもう一度見る。
まだ余裕はある。
相手の馬もこちらへ押し込んできているわけではない。なら、今すぐ自分が位置を変える必要はない。
――譲らなくていいところまで譲っている。
午前中の清華の言葉が浮かんだ。
別に清華の言う通りにしようと思ったわけではない。
ただ、今までの自分が本当に必要だから避けていたのか、それとも衝突しそうな気配を感じただけで先回りしていたのか、一度確かめてみたかった。
瞳子は周囲の位置を確認したまま、自分の馬の進路を保つ。
横の馬との間隔は狭くなったが、まだ十分に余裕があり、どちらかが慌てて動くような距離ではない。
自分の馬がわずかに外を気にしたので、脚を使って注意をこちらへ戻す。
そのまま数十メートル進むと、横の馬の方が少し位置を調整した。
「斉藤!」
教官の声が飛んできた。一瞬、また何か間違えたのかと思った。
「それでいい! 周りを見るのは逃げるためじゃない! 自分がどこを走れるか判断するために見ろ!」
「はい!」
返事をした途端、胸の奥が少し軽くなった。
なるほど、と今度は自分でも思えた。
周りを見るというのは、近づいてくるものから全部避けるためではない。
危ないのか、まだ大丈夫なのか。
自分が動くべきなのか、相手が動くのを待てるのか。それを判断するために見る。
今まで瞳子は、気づくこと自体を自分の武器だと思っていたけれど、気づいたあとに何を選ぶのかまで含めなければ、武器にはならないのかもしれない。
右斜め前を走っていた清華が、わずかに顔をこちらへ向けた。
瞳子もその視線に気づいたが、今度は前を見たまま口元だけを少し緩めた。
あとで言おう。さっきの、ちょっと分かったかもしれない。
訓練を終えると、瞳子は馬具を片づけている清華のところへ向かった。
「清華さん」
「何ですか?」
「午前に言ってたやつ、ちょっと分かったかも」
清華の手が止まる。
「譲らなくていい、という話ですか?」
「うん。別に意地張って動かないってことじゃなくて、必要かどうかちゃんと見てから決めろってことなんだね」
「私は最初からそのつもりで言っています」
「分かりにくいんだよ」
「理解力の問題では」
「ひどっ」
瞳子が即答すると、清華は少しだけ首を傾げた。
その反応を見ていると、本当に自覚がないらしい。
「でも、ありがと」
そう言うと、清華の動きがほんの少し止まった。
「……何がですか?」
「教えてくれたから」
「私は気づいたことを言っただけです」
「それでも」
前なら、清華がこう返せばそこで終わっていた。
今回は瞳子も引かなかった。
「ありがと」
もう一度言うと、清華はしばらくこちらを見てから、小さく息を吐いた。
「どういたしまして」
その返事に、瞳子はなんとなく満足して頷いた。
「でもさ」
「まだ何か?」
「清華さんも、譲った方がいいところはあるからね」
「ですから、具体的には?」
「今探してる途中」
「見つけてから言ってください」
「見つけたら絶対言う」
「どうぞ」
まったく怯む様子がない。
むしろ言えるものなら言ってみろとでも思っていそうな顔に見えて、瞳子は少しだけ腹が立った。
それでも不思議と嫌ではない。
相手が引かないなら、自分も全部引く必要はない。
そう思える相手がいるのは、案外悪くないのかもしれない。




