第43レース もう少し近く
翌朝も、空気は容赦なく冷えていた。
厩舎を出た瞬間、瞳子は鼻の奥がつんとするような冷たさに顔をしかめた。吐いた息はすぐに白くなり、手袋をしていても指先にはじわじわと寒さが染み込んでくる。
「今日、昨日より寒くない?」
隣を歩いていた星羅が両手を擦り合わせながら言った。
「最低気温、昨日より低いって聞いたで」
「無理。早く夏来てほしいんだけど」
「夏の時は『早く冬来てほしい』言うとったで」
「女の子はワガママなんだよ」
「めんどくさ」
前を歩いていた清華だけは、いつもと変わらない顔をしている。
星羅がそれを見て、少し早足で追いついた。
「清っちは寒くないの?」
「寒いですよ」
「嘘。全然そんな顔してないじゃん」
「寒いからといって、顔に出す必要がありますか?」
「あるよ。人類はそうやって寒さを共有して生きてきたんだよ」
「個人感情を人類史みたいに言わないでください。それに、寒さを共有したところで気温が上がるわけでもありません」
真顔で返され、星羅がため息とともに「ですよねぇ」と呟く。
瞳子はそのやり取りを聞きながら、自分の手を一度握った。
今日は昨日と同じく、走路での騎乗訓練から始まる。
清華がどんな乗り方をするのか、少し気になっていた。
昨日は、また気づいたら言ってほしいと言われた。だったら、今日は見つけても黙っている必要はない。
そうは思っているものの、本当に何でも口にしていいのかと考えてしまうあたり、昨日一度言い合ったくらいで性格まで変わるわけではないらしい。
走路へ出ると、冷たい風が頬を刺した。
馬の背に跨がって動き出せば身体は少しずつ温まるものの、手綱を持つ指先だけはなかなかそうはいかない。
瞳子は自分の騎乗へ意識を集中させながら、前を行く清華の姿も時折視界へ入れていた。
昨日ほどではない。
肩は上がっていないし、手にも余計な力は見えなかった。それでも、速度が上がったときだけ、身体が少し先回りして固まる瞬間がある。
「清華!」
教官の声が飛んだ。
「身体で馬を止めるな! 動きを受けろ!」
「はい!」
清華が返事をし、そのまま姿勢を修正する。
瞳子には、言われていることが昨日より少し分かる気がした。
姿勢そのものを作るのが上手い。だからこそ、正しい形を保とうとした瞬間、動いている馬に合わせるより、自分の身体をその位置へ置こうとしてしまうのかもしれない。
一周してきた清華の馬が少し前へ出たとき、今度はその動きに合わせて清華の腰も自然についていき、さっきまでのように身体が固まる様子はなかった。
――今の、良かった。
そう思った直後、清華がわずかにこちらを振り返り、ほんの一瞬だけ目が合った。瞳子は反射的に前へ視線を戻す。昨日も清華のことを見すぎて教官から「前」と怒鳴られたばかりなので、同じ注意を二日続けて受けるわけにはいかなかった。
訓練を終えて下馬すると、今度は清華の方から瞳子のところへ近づいてきた。
「斉藤さん」
「なに?」
「途中、何か見ていましたよね」
「……また分かったの?」
「昨日あれだけ話したでしょう」
少し呆れたような声だった。
「で、どうでしたか」
聞かれて、瞳子は一瞬だけ迷ったが、その迷いを清華が見逃さない。
「言ってください」
瞳子は馬の首筋を軽く撫でながら、さっき見えたものを思い返した。
「最初は昨日より良かったと思う。でも、速くなったとき、一回だけ肩じゃなくて身体全部がちょっと固くなってた」
「教官に指摘されたところですね」
「たぶん。だけど、そのあと一回すごく自然だったよ。馬が前に出たときに、清華さんの身体も一緒についていってた」
清華はすぐには返事をせず、自分が乗っていた馬へ目を向けた。
「……自分では、まだ違いがはっきり分かりません」
「じゃあ、もう一回できたら覚えられるんじゃない?」
「簡単に言いますね」
「だって一回できたんでしょ」
清華がこちらを見る。
何か言い返されるかと思ったが、少し考えたあとで「ですね」とだけ返した。
昨日までなら、その素直な返事に少し驚いていたかもしれない。けれど今は、清華が納得したときにはきちんと受け入れる人だということも、少しずつ分かってきている。
「それより斉藤さん」
「ん?」
「手、大丈夫ですか?」
言われて初めて、瞳子は自分が何度も指を握ったり開いたりしていたことに気づいた。
「ちょっと冷たいだけ」
「手袋をしていてもですか」
「冬はね」
瞳子はそう答えると、手袋を外した。
「え?」
少し離れたところで星羅の声がした。
瞳子は気にせず、自分が乗っていた馬の首へ手を伸ばす。鬣を軽くかき分け、その根元へ冷えた指先を滑り込ませると、外気とはまるで違う熱が掌へじんわり伝わってきた。
「あったか……」
「とこ、何してんの?」
星羅が近づいてくる。
「手、温めてる」
「馬で?」
「うん」
瞳子には、むしろ何を不思議がっているのか分からなかった。
「牧場じゃ普通にやってたよ。冬って手冷たくなるから」
「それ馬側は普通なん?」
「嫌がったらやめるけど、この子は平気そうだし」
首へ触れたまま様子を見ると、馬は特に気にした様子もなく、ゆっくりと息を吐いている。
小町も興味を持ったらしく、隣から覗き込んできた。
「そんな温かいん?」
「触ってみれば?」
「いや、うちは手袋でええわ」
「何しに来たの」
「見に来ただけや」
その会話を聞いていた清華が、馬の首へ視線を落とした。
「鬣の根元は熱がこもりやすいですからね」
「清華さん知ってるじゃん」
「知識としては知っています」
「やったことないの?」
「ありますよ。ただ、暖を取る目的で使うことはあまりありませんでした」
「じゃあやればいいのに。さっき寒いって言ってたでしょ」
「それとこれは――」
清華が何か言いかけたので、瞳子は昨日の会話を思い出して思わず笑った。
「また別?」
からかわれた意味に気づいたらしく、清華はわずかに眉を寄せる。
「……そういう意味ではありません」
そう答えながら手袋を外すと、少し迷ったあとで瞳子とは反対側から馬の首へ手を伸ばし、鬣の根元へ指を滑り込ませた。
「どう?」
「温かいですね」
「でしょ」
「馬の平熱を考えれば当然ですが」
「そういうことじゃなくてさ」
「では、どういうことですか?」
「冷たいときに触ると、すごい温かく感じるってこと」
清華は答えず、そのまましばらく手を置いていた。知っていると言ったわりには、すぐ離す気はないらしい。
瞳子も反対側から手を温めたまま、馬の首越しに清華を見る。
「清華さんも結構寒かったんじゃん」
「寒くないとは言っていません」
「星羅ちゃんにも同じこと言ってたね」
「事実ですから」
「じゃあ最初から素直に寒いって言えばいいのに」
「言いましたよ」
「そうだけど」
なんとなく可笑しくなって、瞳子は笑った。
清華は不思議そうにこちらを見たものの、理由までは聞かなかった。
馬がふっと鼻を鳴らすと、その拍子に首が少し動き、二人とも同時に手を離した。
「ごめんごめん」
瞳子が首筋を撫でると、清華も同じところへそっと手を添える。
「そろそろ馬房へ戻しましょう」
「うん」
二人で歩き出すと、少し前にいた星羅が振り返った。
「なんかさ」
「何?」
「昨日から、とこと清っち二人で喋ってる時間増えてない?」
瞳子は一瞬だけ隣の清華へ目を向けると、清華もこちらを見ていたらしく、視線だけがぶつかる。
昨日までは、こんなふうに目が合えばどちらかが先に逸らしていた気がする。それなのに今は、ほんのわずかな間とはいえ、お互いに何を言おうとしているのかを探るように、そのまま見つめ合っていた。
「そうかな」
「気のせいでは?」
二人がほとんど同時に答えると、星羅はあからさまに怪しいものを見る顔をした。
「……またそれ?」
「何が?」
「いや、いいけど」
星羅はそれ以上追及せず、小町のところへ戻っていく。その背中を見送りながら、瞳子は隣を歩く清華へ目を向けた。
「清華さん」
「何ですか?」
「次も何か気づいたら言うね」
「昨日からそう言っています」
「確認」
「もう必要ありません」
「じゃあ言う」
「はい」
返事はいつも通りだった。それでも昨日までより、ほんの少しだけ距離が近くなったような気がした。
どこまでなら近づいていいのか、今も全部分かっているわけではない。
でも、分からないから離れているよりは、分からないまま一度言ってみる方がいいのかもしれない。
少なくとも清華は、それで嫌なら嫌だと言う。そのことが分かっただけでも、瞳子には十分だった。




