第42レース 見えてしまう
一月六日の夕方。
玄関の扉が開いた音を聞いた瞬間、星羅が椅子から立ち上がった。
「帰ってきた!」
何かを待ち構えていた犬みたいな勢いで廊下へ飛び出していく。その後ろ姿を見送りながら、瞳子も手にしていた公用タブレットを机へ置いた。
四人で過ごすことに慣れてしまったせいか、小町と清華のいない五日間は思っていた以上に静かだった。
もちろん、星羅はいた。むしろ普段より喋っていた気さえする。
それなのに、小町の突っ込みが返ってこないだけで、会話というものはこんなにも一方通行になるのかと知った五日間だった。
「ちょ、星羅! 廊下走んなや!」
玄関の方から聞き慣れた声が響く。その声を聞いただけで、瞳子はなんとなく安心した。
部屋を出ると、大きなバッグを足元へ置いた小町が、抱きつこうとする星羅を両手で押し返しているところだった。
「小町ー!」
「なんで五日会わんかっただけで、こんなテンション高いねん!」
「だって暇だったんだって。とこはツッコミがズレてて、アタシが逆にツッコむハメになるし」
「星羅ちゃん。ボケの角度がキツすぎて、落ちてるのか、落ちてないのか分からないし、私には拾えないんだよ」
「ほら、こういう返し。小町ならちゃんと拾い上げて、さらにボケやすいトスをあげてくれるじゃん」
「うちを何やと思っとんねん。うちかて拾いたくて拾ってんとちゃうで」
いつもの二人だった。
その少し後ろで、清華が静かに靴を脱いでいる。紺色のコートに、きっちりとまとめられた荷物。帰省帰りだというのに、星羅とは比べものにならないほど隙がない。
「おかえり、清華さん」
瞳子が声をかけると、清華が顔を上げた。
「ただいま戻りました」
ほんの少しだけ、目元が柔らかくなる。
「寮はどうでしたか?」
「静かだったよ」
「とこ? アタシいたんだけど?」
「藍沢さん一人では、成瀬さんの分まで賑やかにはできなかったのでしょう」
一瞬、星羅が固まった。
「……清っち?」
「何でしょう」
「帰省前より毒増してない?」
「気のせいです」
澄ました顔でそう言う清華を見て、小町が吹き出した。
以前なら、清華が星羅へ自分からこんな返しをすることはなかった。
たった五日離れていただけなのに、戻ってきた四人の空気は、不思議なくらい自然に元へ戻った。
――やっぱり、四人の方がいいな。
そう思ったことは、なんとなく口には出さなかった。
年が明けても、朝は早い。
暗いうちから起きて検量を済ませ、厩舎へ向かう生活は変わらない。
変わったのは、訓練の中身だった。
「形だけ作るな」
走路脇に立つ教官の声が飛ぶ。
「競走姿勢は、格好良く見せるために取るもんじゃない。馬が動いている間、その動きを邪魔せず、自分も崩れず、必要なときに扶助を出せる姿勢を作れ」
年末までにも何度も練習してきたモンキー姿勢だったが、年が明けてから求められるものは一段細かくなっていた。
鐙を短くし、腰を鞍から浮かせ、膝や足首を使って馬の動きを受ける。
ただ前屈みになればいいわけではない。低くなりすぎれば身体が固まり、逆に上体が起きれば馬の動きについていけない。
止まった木馬の上なら作れた姿勢も、実際の馬が走れば簡単に崩れる。前後に揺れる背中や速度の変化、馬自身の癖に合わせながら、そこへ自分の呼吸や疲労まで加わってくる。
瞳子は前を走る清華を見ていた。
背中の角度も、脚の位置も、手綱を持つ手も乱れていない。少なくとも、瞳子にはそう見える。
それなのに、教官の目には何かが引っかかったらしい。
「清華!」
走路脇から鋭い声が飛び、清華がすぐに「はい!」と返す。
「自分で形を固めるな! 馬に乗れ!」
「はい!」
返事の直後、清華の乗る馬がわずかに首を上げた。
ほんの一瞬の変化だった。それだけなら、以前の瞳子なら気にも留めなかったかもしれない。だが今は、その少し前から清華の身体に起きていた変化まで見えていた。
肩がわずかに上がり、それにつられるように手綱を持つ手にも力が入っている。
――固くなってる?
馬が首を上げたから清華が力を入れたのではなく、たぶん順番は逆だった。清華の身体が先にわずかに固くなり、それを背中で感じ取った馬が反応したのだ。
もう一周してきた清華の姿勢は、それでも綺麗だった。背中の角度も脚の位置も大きく崩れてはいないのに、さっきまでとは違って、どこか窮屈そうに見える。
「斉藤、前!」
「はい!」
教官に飛ばされた声で我に返り、瞳子は慌てて自分の馬へ意識を戻した。人のことを見ている場合ではない。
馬の耳が左右へ忙しく動いており、どうやら左側を走る馬が気になっているらしい。瞳子は手綱を強く握り直すのではなく、脚の位置を少し変えてこちらへ注意を戻すと、ほどなく耳が前を向いた。
それを確認してから前方へ目を向けると、少し離れたところを星羅が走っている。
清華と比べれば、星羅の姿勢は教本にそのまま載せられるような綺麗さではない。それでも馬が動くたびに膝や腰が自然についていき、背中が沈めば身体もそれを受け、伸びれば浮くように動いていた。
本人がどこまで意識してやっているのか分からないけど、その動きには迷いがなかった。
「藍沢!」
「はい!」
「今の感覚忘れるな!」
「はいっ!」
返事の声が明らかに弾んだので、遠くからでも星羅が褒められて喜んでいるのが分かった。
――あとで絶対言うな。
そう思った瞳子の予想は当たり、訓練が終わるなり星羅は二人のところへ寄ってきた。
「聞いた? 今の感覚忘れるな、だって」
「はいはい、聞いた聞いた」
小町はブーツについた砂を落としながら、いかにも聞き飽きたという顔で答えた。
「褒められたん久しぶりなん?」
「いや、そんなことないけど? 普通に褒められてるけど?」
「ほな、いちいち報告せんでええやろ」
「嬉しいじゃん」
「それは分かるけどな」
二人がいつもの調子で言い合っている横で、清華は会話に入らず、黙って手袋を外していた。
顔に苛立ちが出ているわけではない。それでも瞳子には、清華がさっきの騎乗に納得していないことだけは、なんとなく分かった。
「清華さん」
「はい?」
「さっき――」
そこまで言いかけて、瞳子は口を閉じた。
肩に力が入っていたことも、そのあと手綱を持つ手まで固くなっていたことも見えていたし、それが馬の反応につながったのではないかとも思う。
そのことを伝えようとしたのだ。
「どうしました?」
清華がこちらを見る。
「……ううん。何でもない」
「そうですか」
清華はそれ以上尋ねず、瞳子もそのまま黙った。
夏の自分だったら、おそらく見つけたことをそのまま口にして、どうしてそうなったのかまで知ろうとしていた。
今は、清華が自分から話そうとしないことまで無理に聞く必要はないと思える。それが少なくとも、あの頃よりは清華との付き合い方を分かってきたということなのだろう。
ところが午後の木馬訓練でも、清華には午前と同じものが見えた。
鏡の前に並べられた木馬へ八人が跨がり、教官の指示に合わせて競走姿勢を取る。
「五分維持!」
声と同時に全員が腰を浮かせると、一分、二分と時間が過ぎるにつれて太腿が熱を持ち始め、三分を越えた頃には呼吸まで苦しくなってきた。
以前の瞳子なら、ただ姿勢を崩さないよう耐えるだけで精一杯だった。それが今では、疲れてきたときに自分の身体のどこから崩れ始めるのかを意識する余裕が少しずつ生まれている。
自分の場合は、疲れると右膝へ余計な力が入りやすい。そこへ頼りすぎないよう力を抜き、腹で身体を支えながら、呼吸だけは止めないようにする。
横では小町も苦しそうに歯を食いしばっており、星羅は同じように辛そうな顔をしているくせに、なぜか少し楽しそうだった。
そのさらに向こうにいる清華へ目を向けると、姿勢そのものはやはり誰より綺麗だった。
ただ、午前中と同じように、両肩がほんのわずかに上がっている。
――まただ。
「終了!」
教官の声と同時に全員が身体を起こすと、星羅は「あ゛ー……脚死んだ」と呻きながら木馬の首へ突っ伏した。
「毎回死んどるやん」
「今日のは本当に死んだ」
「昨日も聞いたわ」
二人のやり取りを背中で聞きながら、瞳子が水筒を取りに行こうとすると、清華もいったん木馬から降りた。
教官から短く何かを指摘されて頷いたあと、休憩に入ったはずなのに、すぐにもう一度木馬へ跨がる。
「清華さん、休憩だよ」
「分かっています」
そう答えながらも、清華は再び競走姿勢を取り、鏡に映る自分を確かめながら少しずつ身体の位置を直していた。
瞳子は声をかけるべきか、しばらく迷った。
聞かないことと、踏み込まないことは決めている。それでも、今見えているものを伝えることまで同じなのだろうか。
「清華さん」
「何ですか?」
「肩、ちょっと上がってる」
清華の動きが止まる。
「右だけじゃなくて両方。疲れてからじゃなくて、姿勢取った最初から少し上がってると思う」
言ってしまってから、余計なことだったかもしれないと瞳子は思った。
しかし清華は怒るでもなく、鏡に映った自分を確かめながら、ゆっくりと肩の力を抜いた。
「……こうですか?」
「うん。その方が、午前も馬が楽そうだった気がする」
「午前も?」
「走路で。清華さんの手がちょっと強くなる前に、肩が上がってたから」
清華が鏡から視線を外し、瞳子の方へ振り返った。
「そこまで見ていたんですか」
「え?」
「私の肩も、手も」
「うん。前走ってたから」
清華は少し黙ってから、もう一度鏡へ向き直った。
「でしたら、どうして午前中に言わなかったんですか」
予想していなかったことを聞かれ、瞳子は返事に詰まった。
「言おうとはしたんだけど……」
「途中でやめましたよね」
「気づいてたの?」
「『さっき』まで言って、何でもないと言われれば分かります」
そういえば、あのとき清華はこちらを見ていた。
「清華さん、自分から何も言ってなかったから。私が勝手に言うのも違うかなって」
「騎乗のことですよね」
「そうだけど」
「なら、言ってください」
あまりに迷いなく返されて、瞳子は眉を寄せた。
「でも、清華さんだって言われたくないことあるでしょ」
「あります。ですが、今日の騎乗については別です」
「その『別』が、私には分かんないんだって」
少し声が強くなった。
夏に一度、清華のことを知りたいという気持ちだけで踏み込みすぎた。それ以来、同じことはしないように気をつけてきたのに、今度は黙っていたことを咎められている。
「言ったら踏み込みすぎるかもしれないし、何も言わなかったら今度は言ってって言われるし。そんなの、どうすればいいの?」
清華がわずかに目を見開いた。
「……私は、斉藤さんに何も言わないでほしいとは言っていません」
「でも、嫌がるかもしれないじゃん」
「それを勝手に決めないでください」
今度は清華の声にも、はっきりと強さが混じった。
「嫌なら、私が嫌だと言います」
「それを今初めて聞いたんだけど!」
思わず返すと、清華が言葉に詰まった。瞳子もそこで口を閉じる。
少し離れたところにいた星羅と小町まで、いつの間にか話すのをやめていた。
「……斉藤さん」
先に声を落としたのは清華だった。
「何?」
「私は、あなたに気を遣われたいわけではありません」
言ってから、清華は少し視線を逸らした。
「気づいたことがあるなら言ってください。私が嫌がるかもしれないからという理由で、最初から何も言われないのは……」
そこで一度言葉が途切れる。
「……嫌です」
何が正しいかではなく、自分がどう感じるのかを清華がこんなふうに口にするのは珍しかった。
瞳子は少しだけ目を瞬かせてから、鏡の中の清華を見る。
「じゃあ、言うけど」
「はい」
「まだ肩、ちょっと上がってるよ」
清華の眉がぴくりと動いた。
「……今ですか?」
「今」
「でしたら、もう少し早く言ってください」
「今言っていいって聞いたばっかりじゃん!」
後ろから吹き出す音がして、二人同時に振り返る。小町は口元を押さえており、その隣では星羅が完全に笑っていた。
「なに?」
「いや……」
星羅が肩を震わせる。
「なんか、めっちゃ仲良く喧嘩するじゃん」
「仲良くない!」
「別に仲良く喧嘩しているわけではありません」
ほとんど同時に返したせいで、星羅はとうとう木馬へ寄りかかって笑い始めた。
「ほら、そういうとこ!」
「藍沢さん」
「ごめんって。続けて続けて」
まったく謝っているようには見えない。
清華は小さく息を吐くと、もう一度鏡へ向き直る。その前に、ほんの少しだけ瞳子へ顔を向けた。
「斉藤さん」
「なに?」
「また気づいたら、言ってください」
今度は迷わなかった。
「うん」
夏に覚えたことが間違っていたわけではない。
清華が話したくないことへ、知りたいという理由だけで踏み込まない。それはこれからも変わらない。
ただ、相手が嫌がるかもしれないと勝手に決めて、必要以上に遠ざかることまで同じではなかったらしい。
清華が嫌なら、清華自身が嫌だと言う。
それなら瞳子も、もう少しくらいは遠慮しなくてもいいのかもしれない。




