第41レース 変わったのは
まんじゅうの馬房を離れようとしたところで、颯太が隣の馬房へ入り、汚れた敷料を片づけるためにフォークを手に取った。
「私も手伝おうか?」
「休みなんだろ。戻って寝てろ」
「大丈夫、手伝う」
即答すると、颯太がふっと笑う。
「じゃあ、こっち頼む」
言われた馬房へ向かい、瞳子も朝の掃除に加わった。
馬房掃除も、ブラッシングも、入学前から何度も手伝ってきたことだ。それでも久しぶりにやってみると、以前より身体が迷わなくなっている。
馬房へ入れば、馬がどこにいるのかを見ながら自分の立ち位置を決め、道具も邪魔にならない場所へ置く。馬の背後へ回るときには声を掛け、ブラシを手にすれば毛並みだけではなく皮膚や身体の様子まで自然と目に入った。
「瞳子」
「ん?」
「掃除、速くなったな」
隣の馬房から颯太に言われ、瞳子は手を止めずに答える。
「学校で毎日やってるからじゃない?」
「なんとなくやるのと、教わってやるのだと違うんだな」
「そりゃ違うよ。入った頃なんて、ボロ拾いと馬房掃除ばっかしてた気がする」
「地味だな」
「地味とか言わない」
笑いながら敷料を整え、次の馬房へ移る。
そこでブラシを掛けていると、馬がわずかに身体の向きを変えた。
瞳子は手を止め、耳から脚元へ視線を移す。
「どうした?」
「ちょっと立ち方変えたから」
「それだけ?」
「うん」
特に嫌がっている様子もなく、脚を気にしているわけでもない。確認してからブラシを動かし始めると、颯太がしばらく黙ってこちらを見ていた。
「何?」
「前より馬のこと細かく見るようになったなって」
瞳子は瞬きをした。
「そうかな」
「前はそこまで耳とか脚とか見てなかっただろ」
自分では意識していなかった。馬は昔から好きだったし、この牧場で何頭もの馬を見てきた。それでも今は、以前なら何となく眺めていた動きにも、つい意味を探してしまう。
「学校だと、ちょっとした変化に気づくの大事なんだよ。馬によって全然違うし」
「そんなにか? ここじゃ頭数も少ないし、あんま気にしてなかったかも」
「全然違うよ」
話しているうちに、春から乗ってきた訓練馬の姿が次々に浮かんでくる。
「最初なんて常歩するだけで必死だったんだよ。それが今は走路で乗ってるんだから、考えたら結構すごくない?」
「自分で言うのかよ」
「だって本当にそうなんだもん」
「はいはい」
「何その反応」
文句を言いながらも、口は勝手に動いた。
小町が身体の使い方に悩んでいたこと。星羅が初めて乗る馬でも感覚だけで合わせてしまうこと。清華はどんな馬に乗っても姿勢が崩れないこと。
話題はいつの間にか学校での毎日にまで広がっていた。
「――で、この前の馬術交歓会でも清華さんがすごくてさ。馬術で三連覇してたっていうのは知ってたんだけど、実際にああいう場所で見ると全然違って――」
「なあ」
颯太に遮られ、瞳子は口を止めた。
「なに?」
「細かい話は半分くらい分かんねえ」
「ちゃんと聞いてよ」
「聞いてるって」
颯太は少し笑ってから、馬房の中へ目を向けた。
「お前がワクワクしてるのは伝わる」
思いがけない言葉に、瞳子は黙った。
「……そんなに?」
「ずっと楽しそうに喋ってたからな」
言われてみれば、途中から自分ばかり話していた気がする。急に恥ずかしくなり、瞳子はブラシを持ち直した。
「まあ……楽しいよ」
「ならいいんじゃねえの」
「うん」
颯太はそれ以上何も言わず、自分の作業へ戻っていった。
昨日は服もメイクも何も言ってくれなかったのに、こういうところには気づくらしい。
星羅が期待していた反応とは全然違う。
それでも、こっちの方が颯太らしい気がした。
その日の夕食では、競馬学校の話を聞きたがる颯太の両親に囲まれ、瞳子はまた学校での出来事を話すことになった。
「友達とは仲良くやってるの?」
颯太の母親に訊かれ、瞳子は頷く。
「うん。女子は四人なんだけど、みんな全然違うよ」
「昨日、服を選んでくれた子も?」
「星羅ちゃん。見た目はめちゃくちゃギャルだけど、運動神経がすごいの。小町ちゃんは小さいけど負けず嫌いで、時間の感覚がすっごく正確で……清華さんは馬術で三連覇してた人」
「すごい子ばっかりじゃない」
「清華さん、料理は壊滅的だけどね」
「急に親近感湧く情報入れるな」
颯太が横から口を挟み、瞳子は笑った。
「本当にすごいんだから。包丁持たせると怖いよ」
「瞳子ちゃん、楽しそうね」
颯太の母親がそう言って、柔らかく笑う。
「いい友達ができたのね」
「……うん」
友達、と改めて言われると、少しくすぐったかった。
春に入学した頃は、四人でこんなふうに過ごすようになるとは思っていない。特に清華とは同じ部屋になったのに、最初は必要なこと以外ほとんど話さなかった。
今では星羅の冗談に返事をして、小町と張り合って、四人で出掛けることまである。
「何笑ってんだ?」
颯太に訊かれ、瞳子は首を横に振った。
「別に」
「今日それ多くない?」
「気のせいだよ」
二十八日も二十九日も、朝になると競馬学校と大して変わらない時間に目が覚めた。
さすがに毎朝五時前から動き出す必要はないので布団の中で粘ってみるものの、六時を過ぎる頃には諦めて起きる。牧場へ顔を出して手伝えることを探し、時間があればまんじゅうの馬房へ行った。
「学校戻ったら、またしばらく会えないからね」
話しかけても、まんじゅうは瞳子の都合など知らない顔で飼葉を食べ続ける。
「聞いてる?」
その耳が一度だけこちらへ向いた。
「聞いてることにしよ」
そんな何でもない時間が、思っていた以上に心地よかった。
二十九日の夜、部屋でスマートフォンを眺めていると、星羅からメッセージが届いた。
添付された写真を開いた瞬間、瞳子は吹き出す。
画面の中では、満面の笑みを浮かべた星羅が弟の陽翔へぴったりと身体を寄せ、肩へ腕まで回していた。一方の陽翔は、姉から少しでも離れようとしているのか身体を斜めにし、露骨に迷惑そうな顔でカメラを見ている。
『見て。うちの弟、今日もかわいい』
『陽翔くん、めっちゃ嫌そうだけど』
送信すると、すぐに既読がついた。
『照れてるだけ』
『そうかなあ』
『そうなの』
断言された。
もう一度写真を見ると、二人の後ろにはお菓子の袋や料理の皿まで写り込んでいる。
『星羅ちゃんも帰省満喫してるね』
『ばあちゃんがずっと食え食え言ってくる』
『食べすぎないようにね』
『余裕余裕』
妙に自信満々な返事だった。
瞳子は少し考えてから、昼間に撮っておいたまんじゅうの鼻先の写真を送り返す。
『こっちは今日もまんじゅう』
『名前かわい』
『鼻見て。白いところあるでしょ』
『ほんとに餅ついてんじゃん』
離れた仙台と日高でやり取りをしているのに、学校の談話室で話しているときと大して変わらない。
そのことがおかしくて、瞳子はスマートフォンを見ながらしばらく笑っていた。
三十日になると、六日もあると思っていた帰省が急に短く感じられた。
牧場を手伝って、家族と食事をして、まんじゅうに会いに行く。特別な場所へ出掛けたわけでも、大きな出来事があったわけでもない。それなのに時間はあっという間に過ぎ、夜には再び荷物をまとめ始めることになった。
「もう明日戻るの?」
開いたバッグへ服を入れていると、母親が部屋を覗いた。
「うん。夕方までには学校に戻らないと」
「短かったね」
「帰ってきたときは六日もあると思ってたのに」
母親は「そんなもんでしょ」とだけ言って、壁に寄り掛かる。
「次に帰ってくる頃には、また変わってそうね」
「何が?」
「いろいろ」
「何それ」
「自分じゃ分かんないんじゃない?」
それだけ言うと、母親はさっさと部屋を出ていった。
「相変わらず適当だなあ」
誰もいなくなった扉へ呟いてから、瞳子は笑って荷造りへ戻った。
十二月三十一日。
学校へ戻る朝、瞳子は出発前にもう一度だけ牧場へ向かった。
まんじゅうは昨日までと変わらず、馬房の中から瞳子を迎える。
「今日、学校戻るね」
鼻先へ手を伸ばすと、白い斑点のすぐ下から温かな息が触れた。
「次に帰ってくるときは、もっと上手くなってるから」
そこまで言って、少しだけ考える。
「……たぶん」
まんじゅうが鼻を鳴らした。
「鼻で笑うんじゃない。そこは信じてよ」
額を撫でながら笑い、名残惜しさを振り切るように手を離す。
「じゃあね。また来るから」
馬房をあとにして家へ戻ると、玄関の前にはすでに荷物を積んだ車が停まっていた。
新千歳空港までは、入学するときと同じように颯太が送ってくれることになっている。
母親と颯太の両親も外まで見送りに出ていて、颯太の母親は瞳子の姿を見るなり何度目かも分からない確認を始めた。
「忘れ物ない? スマホ持った? ちゃんと食べるのよ。怪我もしちゃ駄目だからね」
「分かってるって。全部あるし、ちゃんと食べるよ」
「次はもう少し長く帰ってこいよ」
その隣では、颯太の父親も名残惜しそうに言う。
「私が決められるわけじゃないって」
「そりゃそうか」
母親は最後まで変わらなかった。
「じゃあ、頑張って」
「うん。行ってきます」
あまりにもいつも通りで、かえって安心する。
「瞳子ちゃん、またね」
「次も待ってるからな」
「うん。また来年かな。良いお年を!」
二人に手を振ってから助手席へ乗り込むと、運転席の颯太がシートベルトを締めながらこちらを見る。
「忘れ物ねえな?」
「颯太のお母さんと同じこと言ってる」
「途中で戻れとか言われんの嫌だから確認してんだよ」
「大丈夫。たぶん」
「たぶんって言うな」
そんなやり取りをしているうちに車が動き出した。
窓の向こうで母親たちが遠ざかり、その先にある家と牧場も少しずつ小さくなっていく。
春に競馬学校へ向かったときも、こうして颯太の車で新千歳空港まで送ってもらった。
あのときと同じ道を走っているはずなのに、今は少しだけ違って見える。
「もう休み終わったんだ……」
窓の外を眺めながら呟く。
「短かったか?」
「うん。帰ってきたときは結構あると思ってたんだけどね」
「毎日、牧場来てたしな」
「だって暇だったし」
「休みなんだから寝てりゃよかったのに」
「それ、帰ってきてから何回言うの?」
呆れて言い返すと、颯太は前を向いたまま笑った。
「でも、楽しかったよ」
「ならよかったんじゃねえの」
それだけ言って、颯太は運転を続ける。
しばらく車内に流れる音だけを聞いていると、瞳子はふと今回の帰省を思い返した。
家も牧場も、まんじゅうも、春とほとんど変わっていなかった。
変わったのは、自分の方だ。
以前より馬の細かな動きが目に入るようになり、休みの日でも朝早く目が覚める。日高にいながら、清華や小町、星羅のことを当たり前のように思い出していた。
春にここを離れたときにはなかったものが、九か月の間にずいぶん増えたらしい。
やがて新千歳空港へ着き、颯太が車を停める。
「荷物、これで全部か?」
「うん。ありがと」
荷物を受け取り、瞳子は改めて颯太を見る。
「空港まで送ってくれてありがとね」
「あぁ」
「あ、そうだ」
「どうした?」
「次もバイト代よろしく」
「調子乗んな」
すぐに返されて、瞳子は笑った。
結局、今回も服についてもメイクについても、颯太は最後まで何も言わなかった。
星羅の予想は見事に外れたらしい。
その代わり、馬を見るようになったことや、学校の話をしている自分がワクワクしていることには気づいた。
そっちの方が、私は嬉しい。
「じゃあ、行ってくるね」
「おう」
荷物を持って空港へ向かおうとしたところで、後ろから呼び止められる。
「瞳子」
振り返ると、颯太がいつもと変わらない顔でこちらを見ていた。
「ちゃんとやれよ」
瞳子は一瞬だけ目を丸くしてから、大きく頷く。
「分かってる!」
手を振って、今度こそ空港へ向かう。
春にここから競馬学校へ向かったときは、この先に何が待っているのか何も分からなかった。今は違う。
戻ればまた厳しい毎日が始まる。楽ではないけれど、自分は今、その毎日に戻ることを楽しみにしている。
瞳子は荷物を持ち直し、出発ロビーへ向かって歩き出した。




