第40レース 帰る日
十二月二十六日。
午前中の大掃除を終え、前半組の帰省が始まる午後。
瞳子は荷物を肩へ掛け、寮の玄関へ向かっていた。
競馬学校へ入ってから初めての、まとまった帰省だった。六日間だけとはいえ、久しぶりに日高へ帰れると思うと、朝から何となく落ち着かなかった。
玄関へ続く廊下を曲がったところで、先に待っていた星羅を見つける。
「お待た――」
声が途中で止まった。
瞳子は思わず、頭から足元まで星羅を見る。
学校ではほとんど見る機会のなかった私服姿だった。
入校した日にも十分ギャルだと思ったのに、今日はその比ではない。長い髪はきれいに巻かれ、両目には紫色のカラーコンタクト。目元も唇もばっちり整えられ、冬物の服からバッグ、靴まで含めて、どこを見ても星羅だった。
「……星羅ちゃん?」
「なに?」
「すごいね」
「何が?」
「すごく……ギャル」
「今さら?」
「入学したときよりギャルじゃない?」
「そりゃ今日はフル装備だし」
フル装備。
ギャルにも装備段階があるらしい。
そんなことを考えていると、星羅の方も瞳子を見た。
顔から足元まで視線が一往復して、もう一度顔へ戻ってくる。
「……とこ」
「なに?」
「それで帰んの?」
瞳子は自分の服を見下ろした。
無地のパーカーに黒いパンツ、履き慣れたスニーカー。髪は朝に梳かしただけで、顔は当然すっぴんだった。
「うん」
「ガチ?」
「なんか、変?」
「学校のジャージの方がまだマシ」
「そんなに!?」
そこまで言われるとは思わず、瞳子は改めて自分の格好を確認する。
「普通じゃない?」
「その『普通』がヤバいの。待って」
「え?」
「部屋戻るよ」
星羅にガシッと腕を掴まれた。
「なんで?」
「このままとこを北海道に帰すの無理」
「星羅ちゃんが帰すわけじゃないよ?」
「いいから」
意味が分からないまま連れ戻され、星羅が自分たちの部屋のドアを開ける。
中にいた小町が、戻ってきた二人を見て首を傾げた。
「あれ? もう帰るんちゃうかったん?」
「その予定だったんだけどさ」
星羅が瞳子を指差す。
「これ見て」
「これって何!?」
小町は言われるまま瞳子を上から下まで眺め、何とも言えない顔になった。
「小町ちゃんまで!?」
「ちょっと、とこ直してから帰る」
「直すって言わないでよ!」
数分後。
瞳子は星羅と小町の部屋で椅子に座らされていた。
ベッドの上には、星羅が入学時に持ってきたという私服が何着も並んでいる。
「こんなに持ってきてたの?」
「私服着ることもあると思ってたんだって。ぜんぜん使わなかったけど」
星羅は服を一枚ずつ瞳子へ当て、少し考えては別のものへ替えていく。
瞳子はその手元を警戒するように見つめていた。
「星羅ちゃん」
「んー?」
「私、ギャルにならないよね?」
星羅の手が止まった。
「何その心配」
「だって、星羅ちゃんが選ぶんでしょ?」
「とこにアタシと同じ格好させても似合わないし」
「即答されると、それはそれでちょっと傷つく」
「似合うの選んでんだから黙って任せて」
最終的に選ばれたのは、瞳子が想像していたよりずっと落ち着いた服だった。
ホワイトニットに細身のパンツ、その上からシンプルな冬物のコート。自分ではたぶん選ばない組み合わせなのに、着てみると思ったほど違和感もない。
「次、顔」
「まだあるの?」
「むしろ本番こっち」
星羅が化粧道具を広げ始め、瞳子は少し身構えた。
「目、閉じて」
「ギャルになる?」
「ならないって」
「紫のカラコンとかも――」
「しないって!」
ベッド脇に腰掛けて二人のやり取りを眺めていた小町が吹き出す。
「瞳子ちゃん、星羅のこと信用してなさすぎやろ」
「だって星羅ちゃんだよ?」
「とこ。目と口閉じて、メイク出来ない」
目を閉じると、顔へ何かを塗られ、眉や目元を整えられていく。
「星羅ちゃん、今なにしてる?」
「眉」
「その前は?」
「肌」
「濃くない?」
「まだ全然」
「ほんとに?」
「とこ、アタシを何だと思ってんの?」
「ギャル」
「それはそう」
戻ってきた瞳子の声に気付いたのか、清華も途中から様子を見に来ていたが、口を挟むことなく星羅の作業を眺めている。
「はい、終わり」
ようやく鏡を渡され、瞳子はそこに映った顔を見た。
「……これ、私?」
「大げさな。とこでしょ」
別人というほどではない。髪型も変わっていないし、派手な色が使われているわけでもなかった。
肌や眉、目元が少し整っただけなのに、いつも鏡で見ている自分とはずいぶん印象が違う。
「変な感じ」
「変じゃないって。小町、どう?」
星羅が振り返る。
小町は瞳子を改めて見て、すぐに顔を明るくした。
「瞳子ちゃん、めっちゃかわええやん」
「えっ」
「ほんまに。服も似合っとるで」
「ほんとに!?」
今度は清華へ視線が集まる。
清華も一度瞳子を見て、小さく頷いた。
「ええ。似合っていますよ」
「じゃあ、ホントだ!」
「うちも信用ないんかい!」
「ほらね」
なぜか星羅が得意げに胸を張る。
そのまま鏡を覗き込んでいた瞳子へ、星羅が楽しそうに言った。
「今のとこ見たら、スマホに三万円送ってくれてた人もメロつくよ」
「三万円送ってくれてた人って、バイト代やろ」
小町がすぐに突っ込む。
「同じことじゃん」
「全然ちゃうやろ」
「うーん。どうだろう……颯太に限ってそんなことないと思うよ」
瞳子は笑いながら否定した。
小さい頃から何度も顔を合わせてきた相手だ。服や化粧が少し変わったくらいで、颯太の態度まで変わるはずがない。
そう思う。ってか、絶対にそう。
それでも星羅にあんなことを言われたせいか、どんな反応をするのか、ほんの少しだけ楽しみになった。
「じゃ、そろそろ行こ。飛行機逃したら洒落になんないし」
「あ、うん」
今度こそ荷物を持ち、二人で寮を出る。
玄関まで小町と清華が見送りに来てくれた。
「楽しんできいや」
「小町ちゃんたちも、年明けたら帰れるもんね」
「せやで」
「お土産よろしくー」
星羅が言うと、小町が呆れた顔をする。
「自分も帰省する側やろ」
「あ、そっか」
「何で忘れんねん」
瞳子は笑いながら靴を履き終えた。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
小町に続き、清華も静かに言う。
「行ってらっしゃい」
瞳子と星羅は二人に手を振って、競馬学校をあとにした。
久しぶりに学校の外へ出た二人は、荷物を抱えて電車を乗り継いだ。途中までは同じ道だったものの、仙台へ帰る星羅は新幹線、日高へ帰る瞳子は飛行機を使うため、やがて別々になる。
「じゃ、とこ。また大晦日にね」
「うん。星羅ちゃんも楽しんできてね」
「そっちも。せっかく可愛くしたんだから、ちゃんと見せびらかしてきなよ」
「誰に!?」
「さあ?」
最後まで楽しそうに笑う星羅と別れ、瞳子は一人で空港へ向かった。
飛行機に乗り、北海道へ着いてからもまだ道のりは続く。
すっかり日が暮れたものの、窓の外に見慣れた冬の日高の景色が増えてくるにつれて、ようやく本当に帰ってきたという実感が湧いてきた。
家へ着き、玄関を開ける。
「ただいま!」
玄関を開けて声を掛けると、奥から母親が顔を出した。
「おかえり」
「うん。ただいま」
返ってきたのは、それだけだった。
久しぶりの帰省なのにずいぶんあっさりしている気もするが、母親ならこんなものだと瞳子も分かっている。
ところが、その声を聞きつけてやってきた颯太の両親は違った。
「瞳子ちゃん!」
「帰ってきたか!」
「わっ……ちょ、ちょっと待って!」
颯太の母親に両手を握られたと思ったら、今度は顔を覗き込まれ、肩まで触られる。
「元気だった? ちゃんと食べてる? 怪我してない? 顔見せて……顔変わった??」
「元気だし怪我もしてないし顔も変わってない! メイクだよメイク!!」
「いやあ、大きくなって」
「九か月くらいでそんなに変わらないって!」
颯太の父親まで嬉しそうに笑っていて、瞳子は二人の勢いに困りながらも逃げることはしなかった。
昔からこうなのだ。
久しぶりだから少し大げさになっているだけで、颯太の両親が自分を可愛がってくれていることは、瞳子もよく知っている。
「ほんとに瞳子ちゃん、なんだか雰囲気変わったわね」
「ほんとだな。ずいぶん垢抜けた」
「これ、友達にやってもらったんだよ」
「服も?」
「メイクも全部。私じゃできないって」
「すごく似合ってる。かわいいわよ」
「えっ……ありがとう!」
学校を出る前にも小町と清華から褒められたばかりなのに、また言われると落ち着かない。
母親もそこで改めて瞳子を眺め、
「へえ。かわいいじゃない」
と、やはりあっさり言った。
「お母さん、それだけ?」
「似合ってるって言ってるでしょ」
「そうだけど」
颯太の両親との温度差に苦笑しながら、瞳子は星羅に寮へ連れ戻され、服を選ばれてメイクまでされた経緯を話すことになった。
そのうち外から人の入ってくる音がして、瞳子は反射的に玄関の方を見る。
颯太だった。
「帰ってくるの今日だったか……おかえり」
「ただいま」
返ってきたのは、それだけだった。
颯太は瞳子の格好を特別気にした様子もなく、いつものように話しかけてくる。
「学校どうだった?」
「楽しいよ。最近、走路の訓練も速くなってきたし」
「へえ」
「あ、颯太」
「ん?」
「スマホに三万円入ってた! バイト代って」
「ああ」
「ありがとう。びっくりしたよ」
「働いた分だろ。別に礼いらねえよ」
「でも、ちゃんとお礼言いたかったから」
「なら、もう聞いた」
相変わらず素っ気ない。
星羅は『今のとこ見たら、スマホに三万円送ってくれてた人もメロつくよ』なんて言っていたけれど、やっぱり颯太は颯太だった。
「なんか、お前怒ってない?」
颯太に訊かれ、瞳子は首を横に振った。
「別に」
「怒ってるか、怒ってないか、で聞いたんだけど」
「さぁ、どっちでしょう」
それで、その話は終わった。
翌朝。
目を覚ました瞳子が枕元の時計を見ると、まだ五時前だった。
「……休みなのに」
二度寝しようと目を閉じてみても、なかなか眠れない。九か月近く繰り返してきた生活は、家へ帰ったからといって簡単には抜けてくれないらしい。
布団の中でもう少し粘ろうとして、ふと昨日のことを思い出す。
帰ってきたら真っ先に会いに行こうと思っていたのに、荷物を片づけたり、久しぶりの帰省だからと用意してくれていた夕食をみんなで囲んだりしているうちに、結局そのまま夜になってしまった。
会いたい馬がいる。
そう思った途端、もう眠り直す気はなくなった。
瞳子はベッドを出ると手早く着替え、まだ静かな家の中を抜けて外へ出た。冬の日高は千葉と比べものにならないほど寒く、吐いた息がすぐに白く広がっていく。
薄暗い中を牧場へ向かうにつれて、馬房から聞こえる小さな物音と、飼葉や敷料、それに馬の体温が混じった懐かしい匂いが近づいてきた。
迷うことなく、一つの馬房へ向かう。
「まんじゅう」
名前を呼びながら覗き込むと、中にいた馬がゆっくりと顔を向けた。
鼻先には、白い餅をぺたりと乗せたような小さな斑点がある。
それを見た瞬間、瞳子の頬が自然と緩んだ。
「久しぶり」
馬房の前へ近づくと、まんじゅうが鼻を伸ばしてくる。瞳子がそっと手を差し出せば、確かめるように匂いを嗅いでから、ふっと鼻息をかけられた。
「冷たっ」
思わず笑いながら、その鼻先を撫でる。
九か月ぶりなのに、そこだけは何も変わっていないような気がした。
「私、ちゃんと学校行ってるよ」
まんじゅうに分かるはずもないのに、そんなことを言いたくなった。
「まだ全然だけどね」
鼻先から手を離すと、まんじゅうが身体の向きを変える。
その動きを追った瞳子の目は、自然と耳の向きや脚の置き方へ移っていた。どちらへ重心を動かしたのか、その前に身体のどこがわずかに変わったのかまで、以前より目に入ってくる。
入学前の自分は、まんじゅうをこんなふうに見ていただろうか。
あの頃はただ、一緒にいられることが楽しくて、乗れれば嬉しかった。
今はその気持ちに加えて、何を感じているのか、次にどう動こうとしているのかまで知りたくなる。
だからといって、急に何でも分かるようになったわけではない。それでも春より見えるものが増えていることだけは、久しぶりにまんじゅうを前にするとよく分かった。
「瞳子?」
後ろから声を掛けられて振り返る。
「もう起きてたのか」
「勝手に目が覚めちゃった。それに、昨日まんじゅうに会えなかったから」
「休みなんだから寝てればいいのに」
「私も最初はそう思ったんだけどね」
瞳子は笑いながら、もう一度まんじゅうの鼻先へ手を伸ばした。
家も牧場も、春とほとんど変わっていない。
まんじゅうの鼻にある白い斑点だって、あの頃のままだ。
同じ場所へ戻り、同じ馬を見ているからこそ、自分の方が少し変わったことに気づけるのかもしれない。
まだ騎手になったわけではなく、学校へ入って一年すら経っていない。それでも春にここを出た自分と、今まんじゅうの前に立っている自分は、もうまったく同じではなかった。
「いま、わたし凄い楽しいんだ」
返事の代わりなのか、まんじゅうが小さく鼻を鳴らす。
年が明ければ、一年目も残り三か月ほど。
瞳子は白い息を吐きながら、懐かしい鼻先をもう一度撫でた。




