第39レース 一年でいちばん騒がしい日
十二月二十五日。
クリスマス当日の午後、競馬学校の走路には騎手課程の生徒だけでなく、厩務員課程の生徒や教官たちまで集まっていた。
「クリスマスに、マラソンとか草……」
スタート地点へ向かいながら、星羅が心の底から理解できないという顔をする。
今日走るのは、一周およそ一・五キロの走路を三周する、約四・五キロだった。
「昔からやっとるらしいで」
「夜にパーティーあるんでしょ? 普通そこに全力残しとかない?」
「藍沢さん。いまさら言っても意味ないですよ」
「清っち。意味を求めちゃいけないよ。理屈抜きで嫌なんだもん」
「……理解しかねます」
「ですよねぇ」
少し前なら清華がこんな返しをすることはなかった気がする。
やがて騎手課程の一年生八人はスタート位置へ並ばされた。周囲には二年生や三年生の姿もあり、さらに年上の厩務員課程生まで混ざっている。
普段は同じ校内にいても全員が一斉に集まることは少なく、列の少し前には教官たちの姿まであって、いつもとは雰囲気が違った。
「なあ」
風磨が前方を見ながら声を落とした。
「加藤教官も走るん?」
「いるね」
瞳子が答える。
加藤教官はすでに軽く身体をほぐしていて、走る気がないようには到底見えない。
近くにいた上級生から「今年こそ誰か止めろよ」と声が飛び、別の場所から「無理だろ」と笑いが返ってくる。
「なんか、毎年速いらしいで」
小町が言うと、星羅の目が少しだけ変わった。
「へえ」
「藍沢さん」
「なに?」
「本気で勝ちにいこうとしていますか?」
「んな訳。ハンデあるならまだしも……賞金もないし。清っち、一緒にゴールしようね」
「結構です。自分のペースで走ります」
「振られた! じゃあ小町……だと最下位か」
「決めつけんなや!!」
開始を告げる声が響き、会話はそこで途切れた。
一斉に走り出した集団の中で、星羅はすぐ前へ出ていく。
「速っ……!」
瞳子も遅れまいと脚を動かしたものの、最初からあの速度についていく気にはなれなかった。隣では小町が呼吸を崩さないよう一定のリズムを刻み、清華も無理に前へ出ず、自分のペースを守っている。
一周目を終える頃には集団が大きくばらけた。
先頭は――加藤教官。
その後ろを厩務員課程の生徒や上級生たちが追い、さらに少し離れて星羅がいる。
「マジで速いんだけど……!」
前方から星羅の声が聞こえた気がした。
二周目に入っても加藤教官の速度はほとんど落ちない。むしろ後ろとの差が少しずつ広がっているように見えて、追いかける側の方が先に苦しくなっていた。
結局、そのまま加藤教官が誰にも先頭を譲ることなくゴールした。
しかも、ぶっちぎりだった。
「なんで……教官が……一番……速いの……」
少し遅れてゴールした星羅が、膝に手をつきながら途切れ途切れに抗議する。
「訓練不足だ」
加藤教官の呼吸は多少乱れているものの、星羅ほどではない。
「来年は……ハンデ戦に……しよう」
「年齢も性別も関係ないのが騎手だろ」
「いや、マラソンは別……」
さらに少し遅れて清華と瞳子もゴールし、瞳子は息を整えながら二人の会話を聞いていた。いつもより少し柔らかい加藤教官の様子が、なんだか嬉しかった。
「はぁ……っ、はぁ……もう……無理や……」
しばらくして、聞き慣れた声に振り返ると、小町が大きく肩で息をしながらゴールへ飛び込んできた。
すでに呼吸を整えた星羅が、それを見て口元を上げる。
「やっぱり小町、ビリじゃ――」
言いかけて、止まった。
小町のさらに後ろから、厩務員課程の生徒たちが何人も戻ってくる。その中にはすでに走るのを諦めたのか、ほとんど歩くような速さでゴールへ向かっている者までいた。
「……ない」
「当たり前や……誰が……ビリやねん……」
「あ! でも、騎手課程ではビリだ」
「そんなに……うちを……ビリに……させたいんか……」
息も絶え絶えなのに言い返してくる小町を見て、星羅が声を上げて笑った。
夜になると、昼間とはまるで違う空気が校内を包んだ。
食堂には普段より豪華な料理が並び、壁や窓には飾り付けが施されている。厩務員課程の生徒も集まり、教官たちまで席につくと、いつもの食堂とは思えないほど賑やかになった。
今年のクリスマス会を仕切るのは、騎手課程の一年生。
つまり、瞳子たち八人だった。
「なんでマラソンのあとに幹事までやらなきゃいけないんだろ……」
開始直前、会場の端で三浦が呟く。
「今さら言うても逃げられへんで」
小町が返すと、宮坂が手元の進行表を確認した。
「最初の挨拶やって、食事始めて、そのあと出し物。順番間違えなきゃ大丈夫だろ」
「問題はそこじゃない」
黒田が視線をステージへ向ける。
「本当にあれ、やるのか?」
「練習したじゃん」
星羅が即答した。
「練習したから嫌なんだよ」
「大丈夫。滑ったら男子のせいにするから」
「最悪だな!」
男子四人から抗議が飛ぶ。
瞳子も笑いながら、少し離れた清華を見る。
清華は今日の進行表をもう一度確認していた。
「清華さん、緊張してる?」
「していません」
「ほんと?」
「練習した通りにやれば問題ありません」
「出し物だよ。大会とかコンクールじゃないよ」
「何かおかしいですか?」
「ううん。おかしくないよ」
真顔で返され、瞳子は笑いを堪えた。
やがて会が始まり、八人で挨拶を済ませると、待ちに待った食事の時間になった。
「うわ、すごっ!」
料理を見た瞬間、星羅の声が一段高くなる。
肉料理にパスタ、ピザ、サラダにデザートまで、普段とは違うメニューが並んでいる。もちろん学校の食事であることに変わりはないが、それでも今日だけの特別感は十分だった。
「とこ、見て。ケーキある」
「見えてるよ」
「四種類ある」
「それも見えてる」
「最高じゃん」
星羅が嬉しそうに皿を手にする。
「藍沢さん、まず食事からでしょう」
「清っち、今日くらい順番とかよくない?」
「誰も食べるなとは言っていません」
「じゃ、食べる」
昼間あれだけ走ったこともあって、食事はいつも以上に進んだ。厩務員課程のテーブルから大きな笑い声が上がり、上級生たちも教官を交えて話している。
普段なら食事中にもどこか学校らしい緊張が残るのに、今夜だけはそれが薄い。
そして食事が一段落すると、一年生八人に逃げ場のない時間がやってきた。
「それでは次、騎手課程一年生による出し物です!」
進行役をしていた宮坂の声に、食堂から拍手が起こる。
「行くよ!」
星羅に背中を押され、瞳子たちは前へ出た。
八人が準備したのは、競馬学校での一日を大げさにした短い寸劇だった。
朝の起床から訓練までを題材にしていて、男子四人が生徒役、女子四人が場面ごとに役を変える。
最初は予定通りだった。
寝坊した設定の宮坂を小町が叩き起こし、狛井が慌てて支度をし、黒田が巻き込まれる。
食堂から笑い声も聞こえ、瞳子は内心ほっとした。
問題は、教官役として清華が前へ出てきた場面だった。
清華は腕を後ろへ回し、男子四人を順番に見る。
「集合が三十秒遅いです」
抑揚のほとんどない声だった。
「全員、走路一周追加してください」
本人は台本通りに演じているだけなのに、その妙に真面目な言い方が面白かったのか、厩務員課程の生徒たちから笑いが起こる。
清華は気にした様子もなく、次の台詞を続けた。
「返事がありません」
「はい!」
男子四人が揃って声を張り、さらに笑いが広がった。
「では、訓練を始めます」
清華が淡々と言い切ったところで教官役の出番は終わり、入れ替わるように星羅が次の場面へ飛び出していく。
結局、清華は最初から最後まで一度も笑わせようとはしていなかった。それなのに、なぜかしっかり笑いを取っていた。
クリスマス会が終わる頃には、昼間のマラソンの疲れまでどこかへ消えたように感じられた。
片づけをしながら、星羅が満足そうにお腹をさする。
「いやー、食べた。今日めっちゃ良かった」
「明日も朝は普通に起床やで」
「現実に戻すなよ、小町」
「しかも大掃除です」
「清っちまで!」
「終われば帰省やん」
小町の言葉に、星羅がすぐ顔を上げた。
「そうじゃん!」
翌日の大掃除が終われば、年末年始の帰省が始まる。
競馬学校では、年末年始も馬の世話や厩舎の管理を止めることはできない。そのため帰省は前半と後半に分けられていて、瞳子と星羅は十二月二十六日から三十一日までの前半組、清華と小町は一月一日から六日までの後半組だった。
「とこ、明日一緒じゃん」
「うん」
「やっと家の飯食べられるー」
「今日あれだけ食べたのに?」
「それとこれとは別!」
即答する星羅に、瞳子は笑った。
競馬学校へ入って初めて迎える年末が、もう目の前まで来ていた。




