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第38レース まだ聞かない

 午後の競技も終盤に入り、会場を行き交う人の数が少しずつ減り始めていた。


 瞳子たちは出入口の誘導を終えると、今度は馬場脇に置かれていた備品の整理を手伝うことになった。競技が続いている間は動かせない物も多いため、係員の指示を聞きながらカラーコーンや案内板をまとめ、使い終わった場所から順番に片づけていく。


「これ、こっちでいいですかー?」


 星羅が案内板を抱えたまま訊くと、少し離れたところにいた係員が大きく丸を作った。


「そこに重ねて! 倒れないようにだけ気をつけてね」

「はーい」

「藍沢さん、それ二枚持ってませんか?」


 隣を歩いていた清華が言う。


「持ってるよ?」

「下の一枚がずれています。そのままだと落とします」

「え、マジ?」


 星羅が慌てて抱え直すと、今にも滑り落ちそうになっていた案内板が腕の中へ収まった。


「あっぶな。清っち、よく気づいたね」

「ずれているのが見えましたから」

「いや、持ってる本人が気づいてないんだけど」

「それは私に言われても困ります」


 後ろから聞いていた小町が笑い、瞳子もつられて頬を緩めた。

 案内板を指定された場所へ重ね終えたところで、不意に背後から声を掛けられた。


「あの……清華鈴乃さん、ですよね?」


 振り返ると、同年代くらいの女子生徒が三人立っていた。首から下げた参加証には競馬学校とは別の団体名が書かれていて、そのうちの一人が緊張したように両手を胸の前で握っている。


「はい」


 清華が答えた途端、三人の表情が一気に明るくなった。


「やっぱり! 今日の実演、見ました。すごかったです」

「ありがとうございます」

「私たち、高校から馬術競技始めたんですけど、ジュニア大会の映像で観てて――」

「そうですか」


 清華は、相手が言い終えるより少し早く返した。

 朝から清華を遠巻きに見ていた人たちとは違い、三人には妙なためらいがなかった。

 高校から競技を始めたのなら、映像の中の清華しか知らないのかもしれない。


「競馬学校に入ってからも、馬術の大会には出ないんですか?」

「現在は学校の訓練がありますので、そちらが優先です」

「じゃあ、また馬術に戻ることもあるんですか?」

「それは、今のところ――」

「前にずっと一緒に出てた馬は?」


 三人のうち、最初に声を掛けてきた生徒が重ねて訊いた。


「競馬学校に入ってからも乗ってるんですか? また一緒に大会に出たりとか――」


 清華の返事が止まった。


 ほんの一瞬、手にしていた案内板の端を握り直す。

 瞳子がそれに気づいたのと、星羅が口を開いたのはほとんど同時だった。


「あ、清っち。教官呼んでるよ」

「え?」


 清華ではなく、女子生徒の一人が振り返る。


「次の作業あるんちゃう?」


 小町もすぐに話を合わせた。

 瞳子は二人の意図を察し、清華の横へ一歩寄る。


「ごめんなさい。私たち、もう行かないと」

「あっ、すみません。引き止めちゃって」

「いえ」


 清華が軽く頭を下げると、三人も慌てて会釈を返した。


「実演、本当にすごかったです」

「ありがとうございました」


 最後まで丁寧に応じてから、清華は瞳子たちとその場を離れた。


「藍沢さん」


 少し歩いたところで清華に呼ばれ、星羅が振り返った。


「なに?」

「教官は私を呼んでいませんでしたよね」

「バレてた」

「当然です」


 悪びれる様子もなく笑う星羅に向けて、清華は小さく口を開いた。


「……ありがとうございます」

「ん? なにが」


 星羅はそう返して、さっさと歩き出す。


「いえ。何でもありません。成瀬さんと斉藤さんもありがとうございます」

「うん。声掛けた子もいなくなってるだろうし、戻ろう」



 瞳子が答えると、そのまま来た道を引き返した。




 午前中から続いていた交歓会も、残す競技はあとわずかだった。清華へ向けられていた周囲の視線も、時間が経つにつれて少しは落ち着いてきたように思える。それでも通りすがりに気づいて振り返る者はいて、そのたびに瞳子の頭には、さっき知ったばかりの名前が浮かんだ。


 エクラ・ドゥ・ヴルール。


 清華がビジューと呼んでいた馬。


 案内板を運び終えたところで、教官から次の指示が出るまで少し待つよう言われ、四人は馬場脇の邪魔にならない場所へ移動した。


 ちょうど一頭の馬がコースへ入ってくる。


 騎手が姿勢を整え、馬は一定のリズムで最初の障害へ向かっていった。


 隣に立つ清華を見る。


 肩が強張る様子はない。馬が踏み切り、障害を越えて着地すると、その動きを静かに目で追っている。

 次の障害も、その次も無事に越え、最後まで走り切ったところで観客席から拍手が起こった。


「おー、ノーミス?」


 星羅が訊くと、小町が馬場を見たまま答える。


「せやな。今のは全部越えた」

「じゃあ一位?」

「タイムもあるし、まだ他の人もおるから分からへん」

「競馬より分かりづらい」

「まだ競馬かて全部分かっとらんやろ」

「大きいレースの賞金は覚えた」

「先に覚えるもんあるやろ」


 二人の会話を聞きながら、瞳子はもう一度だけ清華へ目を向けた。


 清華は拍手をするでもなく、走り終えた馬が退場口へ向かうまで見送っている。その視線が、馬の前脚へ長く残ったように見えた。


 その横顔を見ているうちに、瞳子の頭に夏の勝浦で交わした会話が蘇る。


 あの夜、食器を洗いながら、馬と話せたらいいのにと自分は言った。馬と喋れれば、考えていることを全部聞ける。嫌なことも、痛いところも、何が好きなのかも分かる――そんな軽い気持ちで口にした言葉だった。


 それを聞いた清華は笑わず、


『楽しいことばかり聞けるとは限りません』


 と返し、必要以上に近づけば罵声を浴びるかもしれないとも言った。


 どうして清華がそんなことを言うのか、あのときの瞳子には分からない。冗談のつもりで返した言葉も受け入れてもらえず、翌朝になっても理由までは理解できないまま、それでも嫌だったことだけは分かったから謝った。


 今になって思い返すと、また違うものが見えてくる。


 清華には、何年も一緒に競技へ出ていた馬がいた。その馬を正式な競技馬名ではなく、自分だけの愛称で呼んでいた。


 二年ほど前から、清華は大会へ出ていない。今日だって、障害へ向かう馬を見た瞬間だけ肩が強張ったように見えたし、ビジューが今どうしているのか訊かれた小町も、何かを考えたあとで「勝手に決めつけん方がええ」と言っていた。


 もしかしたら、夏に清華が口にしたあの言葉にも、ビジューが関係しているんだろうか。


 そう思うと気にはなるし、本当は聞いてみたい。ビジューに何があったのか、どうして清華があんなことを言ったのか、それが分かれば夏から引っかかっていたものにも答えが出るのかもしれない。


 さっき清華へ声を掛けてきた三人だって、悪気があったわけではないのだろう。ずっと憧れていた相手を目の前にして、聞きたかったことが次々に出てきただけなのかもしれない。


 それでも、清華は途中で言葉を止めた。


 知りたいという気持ちだけで質問を重ねれば、相手が話したくないところまで踏み込んでしまうことがある。


 今あるものを勝手につなげていけば、それらしい答えなんていくらでも作れてしまうし、あの夜の自分も、清華が嫌がっている理由さえ分からないまま言葉を重ねてしまった。


 同じことはしたくない。


 清華が自分から話していないのなら、きっと無闇に聞いていい話でもないのだろう。


「とこ?」


 呼ばれて顔を上げると、星羅が目の前で手を振っている。


「聞いてる?」

「ごめん、聞いてなかった」

「やっぱり。めっちゃ考え事してる顔だったし」

「何考えとったん?」


 小町にも訊かれ、瞳子は一瞬だけ清華を見る。清華もこちらへ視線を向けていた。


「今日のこと。馬術って、競馬と全然違うなって」


 嘘ではなかった。


「今さら?」


 星羅が笑う。


「いや、見てるだけならもっと簡単だと思ってたんだよ。障害越えればいいのかなって」

「雑すぎやろ」

「だって詳しく知らなかったし」

「斉藤さんらしいです」

「清華さん、それ褒めてる?」

「受け取り方はお任せします」


 清華が言い終えたあとで、係員から声が掛かり、四人は再び作業へ戻った。


 最後の競技が終わると、それまで張りつめていた会場の空気が少しずつほどけていった。馬を引いて馬運車の方へ向かう人、結果を確認しに走る生徒、観客席から出口へ向かう家族連れが重なり、競技中とは別の慌ただしさが広がっていく。


 瞳子たちも教官の指示で馬場周りの片づけに加わった。障害そのものを運ぶ作業は係員や慣れた参加者が行い、一年生たちは外した案内表示を集めたり、通路に残った備品を所定の場所へ戻したりする。


 朝に設営されたものが一つずつ片づけられていくと、同じ場所なのにずいぶん広く見えた。


「終わったー!」


 最後の案内板を置いた星羅が、両腕を上へ伸ばす。


「まだ教官から終わり言われてへんで」

「気持ち的には終わったの」

「知らんがな」

「成瀬さんも、その箱を置いたら終わりだと思います」

「じゃあ。終わりやな」

「え? アタシの時と違う。これだから、やっかい古参ファンは」

「ファンとか関係あらへん。信用度の問題や」

「ひどっ」



 三人のやり取りを聞きながら、瞳子は朝からの一日を思い返していた。

 交歓会へ来る前から、清華が馬術で三連覇したことは知っていた。それでも今日一日で、知らなかったことがいくつも見えてきた。


 会場の人たちが簡単には清華へ近づかないことも、清華が昔からそれを当たり前のように受け止めてきたことも、エクラ・ドゥ・ヴルールという馬と長く競技へ出ていたことも、全部を今すぐ知る必要はない。

 そう思えるくらいには、夏の頃より少しだけ清華との距離の取り方が分かってきた気がした。


「斉藤さん」


 すぐ横から呼ばれ、瞳子は振り向いた。


「なに?」

「これ、持ってもらえますか?」


 清華が差し出してきたのは、畳まれた小さな案内表示だった。


「あ、うん」


 受け取ると、清華はもう一つを自分で抱え、少し先を歩く星羅と小町のあとを追う。瞳子も隣に並んだ。


「今日、楽しかった?」


 何となく訊くと、清華はすぐには答えず、前を歩く二人へ視線を向けてから口を開いた。


「そうですね。思っていたよりは」

「思ってたより?」

「騒がしくなると思っていましたので」

「十分騒がしかったと思うけど」

「藍沢さんがいましたから」

「聞こえてるよ、清っち!」


 前から星羅の声が飛んできた。


「やっぱり騒がしいです」

「ひどっ! PartⅡ(パートツー)」

「Partナンボまであるんや?」

「みんなが、ひどいこと言わなきゃ終わるよ」

「しばらく、終わりそうもないですね」

「清っち。ひどっPartⅢ(パートスリー)」


 星羅と小町が笑い合う横で、清華もほんの少しだけ口元を緩めた。

 

 以前なら、こんなふうに自分から星羅をからかうことはなかった気がする。

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