第37レース 知らない名前
障害飛越が続いている間も、瞳子は何度か隣の清華へ目を向けた。
さっき肩が強張ったように見えたのは、本当に一瞬だけだった。今の清華は、馬場を走る馬と選手の動きを静かに追っている。次の馬が障害を越えても、その次の馬が着地で少し体勢を崩しても、表情に大きな変化はない。
見間違いだったのだろうか。
そう思いかけたところで、一頭の馬の後ろ足が障害のバーへ触れた。
乾いた音が響き、バーが地面へ転がる。馬はそのまま走り抜け、待機していた係員が素早く馬場へ入って元の位置へ戻した。
その間、清華の視線は落ちたバーではなく、着地した馬の脚元を追っていた。
ほんの数秒してから、いつものように次の走行へ目を向ける。
やはり何かが違うような気がするのに、どこが違うのかと訊かれれば、瞳子にも説明できなかった。
障害飛越がしばらく続いたところで、大会関係者の一人が教官へ声を掛けた。その隣には、首から取材証を下げた女性が立っている。
二人で短く話したあと、教官が清華を呼んだ。
「清華。少しいいか。今日の実演について、取材で話を聞きたいそうだ。私も同行する」
「分かりました」
清華は特に驚いた様子もなく立ち上がると、教官とともにその場を離れていった。
「清っちだけ取材されてんじゃん」
遠ざかる背中を見ながら星羅が言う。
「そらされるやろ。さっきから会場中に見られとったやん」
「小町、ちょっと嬉しそうじゃない?」
「別に嬉しそうちゃうわ」
そう言いながらも、小町の声はどこか得意げだった。
「お前たち三人。次、あっちでの誘導手伝え」
教官に呼ばれ、瞳子は考えるのをやめて返事をした。
「はい!」
「了解っす」
「藍沢、返事」
「はい!」
その場を離れ、出場者や関係者の誘導を手伝った。
競技会場は、馬場だけ見ていれば華やかだった。きれいに整えられた馬が障害を越え、観客席から拍手が起こる。一方、その裏では次に出る馬が歩き続け、スタッフが障害の高さを確認し、出入口では何人もの人が行き交っている。
午前中に自分たちも手伝ったからこそ、ひとつの競技が進むまでにどれだけ多くの人が動いているのか、瞳子にも少し分かるようになっていた。
「次の団体、こっちでーす」
星羅が手を上げて声を掛けると、数人の生徒が馬を連れて進んでくる。そのうちの一人が競馬学校のジャージに気づき、星羅の向こう側で取材を受けている清華を見つけた途端、わずかに歩みを緩めた。
まただ――朝から何度見ただろう。
清華を見つけた人は、ほとんど同じような反応をする。驚いて、もう一度確かめるように見て、それから近づくことなく通り過ぎる。
午後の騎乗実演を見たあとは、それがさらに強くなったように感じられた。
清華は普段から同期の中でも騎乗が安定している。今日の実演でも、初めて乗る馬を相手にしているとは思えないほど、動きに迷いがなかった。
馬が少し首を外へ向ければ、強く引いて戻すのではなく、脚と手綱の使い方を変えて進む方向を整える。歩幅が詰まりかければ、馬が嫌がらない程度に促し、また一定のリズムへ戻していく。
派手なことをしているわけではないからこそ、瞳子には余計にすごく見えた。
自分なら「今のはどうすればいい」と考えてから身体を動かすような場面でも、清華は馬の変化に合わせるように、その場で必要なことをしてしまう。
誘導が一段落したところで、星羅がふと思い出したように言う。
「清っち。上手いのはいつもだけどさ。今日なんか違くない?」
「私も思った」
瞳子が答えると、小町が呆れたように二人を見る。
「そらそうやろ。三連覇やで?」
「三連覇がすごいのは分かってるって」
「分かっとる顔ちゃうかったやん。二人ともずっと『うわー』みたいな顔しとったで」
「小町ちゃんも見てたじゃん」
「うちは元々知っとるからな」
少し得意げに言う小町へ、星羅が目を細める。
「出た。古参やっかいファン」
「古参言うな」
「やっかいは、否定しないんだ」
「そこ含めてや! うちはただのファン」
いつものやり取りに瞳子が笑っていると、近くを通った数人の生徒の会話が耳に入った。
「やっぱ、めちゃくちゃ上手かったよな」
反射的にそちらを見る。
同年代くらいの生徒が四人、少し先を歩いていた。首から下げている札からすると、別の団体から参加しているらしい。
「今日の馬、普段乗ってる馬じゃなかったんだろ?」
「そりゃそうだろ。競馬学校から連れてきたわけじゃないし」
「乗ってすぐあそこまで合わせられるの、普通じゃないって」
たぶん清華さんの話だ。
瞳子は聞くつもりがなくても、自然と耳がそちらへ向いた。
自分たちが感じたことと、馬術を続けている人たちが見たものが同じだったことが、少しだけ嬉しかった。
ところが、最後尾を歩いていた一人が何気ない調子で言った。
「でも……やっぱ、エクラ……なんとかに乗ってた頃とは違うよな」
前を歩いていた男子生徒が足を止めた。
「おい」
低い声に、口にした本人も「あ」と表情を変える。
「そういうこと言うなよ」
「いや、悪い意味じゃなくて。今も十分すごいし」
「分かってるけど、そういう話じゃないだろ」
もう一人も少し離れた場所にいる清華へ目を向けてから、声を落とした。
「本人に聞こえたらどうすんだよ」
「……ごめん」
それ以上、会話は続かなかった。
四人は足早にその場を離れ、そのまま会場を行き交う人の中へ紛れていく。
「……エクラ、なんとか?」
星羅が、聞き慣れない名前をそのまま口にした。
「馬の名前……かな?」
瞳子が呟くと、横にいた小町の表情が変わった。
ほんのわずかな変化だったが、それまで星羅と軽口を叩いていたときとは明らかに違う。
「小町ちゃん?」
「……エクラ・ドゥ・ヴルール」
「え?」
小町は、さっきの生徒が曖昧にしていた名前を正確に口にした。
「それが正式な競技馬名や。清華ちゃんが昔、ずっと一緒に競技出とった馬」
「小町、知ってんの?」
星羅に訊かれ、小町は一度だけ頷く。
「知っとるで。まあ、本人は『ビジュー』って呼んどったけどな」
「ビジュー?」
今度は瞳子が聞き返した。
「愛称や。昔、馬術雑誌で清華ちゃんのインタビュー読んだことあんねん。そこで本人がそう呼んどった」
「そこまで読んでたんだ」
「ファンやった言うとるやろ」
少しむっとしたように返す小町に、星羅が感心したような顔をする。
「ガチ勢じゃん」
「うるさいわ」
言い返す声はいつもの小町だったが、すぐに視線が清華のいる方へ戻った。
清華は少し離れた場所で取材を受けている。教官も近くにいて、こちらの会話に気づいている様子はない。
「じゃあ、その……エクラ・ドゥ・ヴルールも有名だったの?」
瞳子が訊くと、小町は迷わず頷いた。
「そら有名やったで。清華ちゃんが三連覇した頃も一緒やったし、うちが雑誌とか大会の記事見とった頃は、ぜんぶその馬に乗っとった」
そこで一度言葉を切り、小町は記憶を探るように視線を落とした。
「馬術ちゃんと追っとる人なら、『清華鈴乃とエクラ・ドゥ・ヴルール』で覚えとる人も多かったと思う」
その言い方が、瞳子の中に残った。
今日ここへ来てから、何度も「清華鈴乃」という名前を耳にしている。
三連覇した選手として、憧れや畏れが入り混じったような視線を向けられていた清華。その隣には、かつて名前を並べて覚えられるほど長く一緒に競技へ出ていた馬がいたらしい。
「小町。そのエクラ……ビジューって、どんな馬だったの?」
正式な競技馬名を言えなかったのか、星羅が愛称の方を使って訊くと、小町は少し考えてから口を開いた。
「鹿毛のセン馬やった。めちゃくちゃ派手な見た目とかやなかったと思うけど……清華ちゃんが乗ると、なんやろな。外から見とるだけでも、息合っとるんやろなって分かる感じやった」
そう話した小町は、少しだけ声の調子を落とした。
「まあ、最後の方はそこまで追えてへんねんけどな」
「そうなの?」
「うちも競馬学校の受験準備あったし。乗馬も勉強もやらなあかんかったから、清華ちゃんの大会結果を毎回追っとる余裕なんかなかった。そもそもうちは馬術競技やっとった側ちゃうし、雑誌とかネットの記事に出てこん話までは分からへん」
小町が知っているのは、あくまで外から見ていた頃の清華とビジューだ。
その後に何があったのかまでは知らない。
「じゃあ、今ビジューは?」
星羅が訊くと、小町はすぐには答えず、少し間を置いてから再び清華へ視線を向けた。
「……うちかて分からへんよ」
「清っちが競馬学校に来る前は?」
「知らん。清華ちゃん自身、二年くらい前から大会には出てへんかったみたいやし……」
小町はそこで黙り込んだ。
瞳子には、その横顔が何かを考えているように見えた。
「小町ちゃん?」
「……いや。まだ何も分からへんし、勝手に決めつけん方がええわ」
小町の言い方に、星羅も何かを察したらしい。清華へ向けていた視線を戻すと、それ以上は訊かなかった。
「そっか」
それだけ言って、話を切り上げる。
清華と長く競技へ出ていたエクラ・ドゥ・ヴルールを、清華本人はビジューと呼んでいた。それ以上、三人の誰もその話題を続けなかった。
しばらくして、取材を終えた清華が教官と別れ、こちらへ歩いてくる。
「お待たせしました」
「お疲れさま。何聞かれたの?」
瞳子が訊くと、清華は三人の前で足を止めた。
「今日の実演についてと、競馬学校でどのような訓練をしているのか、いくつか質問されました」
「清っち、取材とか慣れてそう」
「以前にも受けたことはあります」
「やっぱ有名人じゃん」
「それとこれとは別です」
「また外出したら声掛けられちゃうね」
「それは困ります」
星羅が笑う。
清華の顔を見た瞬間、さっき小町から聞いた名前が瞳子の頭をよぎった。
『エクラ・ドゥ・ヴルール』。
そして、清華だけがそう呼んでいたという『ビジュー』。
その名前を頭に浮かべながらも、瞳子は口には出さなかった。
「清華ちゃん、昔も取材よう受けとったよな?」
小町が訊く。
「大会の前後は」
「今日、昔のこととか聞かれへんかった?」
清華は少し考えてから首を横に振った。
「特には。競馬学校へ入ってからの話が中心でした」
「そっか」
小町は短く返し、それ以上は続けなかった。
瞳子は二人を見比べたものの、その問いにどこまで意味があったのかまでは分からない。
「てか清っち、今日ずっと見られてるけど平気なの?」
星羅が周囲を見回す。
「何がですか?」
「いや、めっちゃ視線飛んでくるじゃん」
「以前から似たようなものですので」
「慣れってすご」
「見られているだけなら、特に困りません」
「アタシなら手振るかも」
「やめた方がいいと思います」
「なんで?」
「余計に見られるからです」
「……あーね」
星羅が素直に納得すると、小町が吹き出し、瞳子も笑った。
やがて教官から次の作業を告げられ、四人はそろって歩き始めた。
少し先では、星羅と小町がもう別の話を始めている。清華もその後ろを歩きながら、時折二人の会話へ言葉を返していた。
瞳子は隣を歩く清華へ一度だけ目を向け、すぐ前へ視線を戻した。
ビジュー。
競技記録に載る正式な名前ではなく、清華が一頭の馬を呼んでいたという、その名前だけが妙に耳に残っていた。




