第36レース 清華鈴乃
十二月に入り、競馬学校の空気はさらに冷たくなった。
朝の走路では吐いた息が白く残り、騎乗を終えて手袋を外せば、指先に冷気がまとわりつく。それでも訓練が止まることはなく、走路騎乗の時間も少しずつ増えていた。
そんな十二月のある日、騎乗訓練を終えた一年生八人は、教室で教官から今後の予定について説明を受けていた。
「前にも伝えたが、来週、一年生は馬術の交歓会に参加する。お前たちが障害競技に出るわけじゃない。会場運営の補助と、騎乗訓練の実演だ。実演は一年生代表として清華にやってもらう」
前から聞いていた予定とはいえ、来週まで迫ったとなると、いよいよ現実味が増してくる。
教官が清華の名前を出した途端、みんなの視線がいちばん前の席へ集まった。当の清華は気負った様子もなく、いつも通り背筋を伸ばして座っている。
一年生の代表として騎乗を見せるなら、清華が選ばれるのは瞳子にも納得できた。
瞳子や小町はもちろん、星羅にも少ないとはいえ入学前の乗馬経験はある。ただ、清華のそれは意味が違う。
ジュニアの馬術競技で三連覇。
初めて聞いたときから、とんでもない実績なのだろうとは思っていた。全国規模の大会で三年続けて頂点に立ったのだから、すごくないはずがない。
ただ、瞳子にとっての清華は、それ以前に毎朝同じ部屋で起きる同期だった。
朝から髪ひとつ乱さず着替えていたり、料理を任せると急に怪しくなったり、普段は前へ出ないくせに勝負になると意外なくらい負けず嫌いだったりする。
だからなのか、「三連覇した清華鈴乃」という肩書きは知っていても、それが馬術の世界でどれほど大きなものなのかまでは、まだ実感したことがなかった。
そうして迎えた、馬術交歓会当日。
一年生八人は教官に引率され、朝から会場を訪れていた。競馬学校とは違う馬場の景色へ瞳子が目を向けている間にも、各学校や団体の生徒たちが行き交っている。
その中を八人でまとまって歩いていると、少し離れたところから小さな声が聞こえた。
「……え?」
最初は、自分たちが競馬学校の生徒だから見られているのだと思った。
実際、こちらへ視線を向ける人は少なくない。
ところが何度か同じような視線を感じるうちに、瞳子はそれが八人全員へ向けられたものではないことに気づいた。
すぐ近くを通りかかった女子生徒が、隣の友人へ声を潜めた。
「あれ……清華鈴乃じゃない? 競馬学校に行ったって聞いてたけど」
「本当にいる……しばらく大会で見なかったよね」
その声は、すぐそばを歩く清華の耳にも届いているはずだった。けれど、清華は振り返りもせず、いつもと変わらない表情で前を見ている。
まるで、こうして周囲から名前を囁かれることなど、昔から当たり前だったみたいに。
会話はそれだけで途切れた。声を掛けに来る様子はない。
それでも同じような反応は、場所を移動するたびに繰り返された。
清華を見つけて足を止める人がいる。友人の袖を引き、目配せだけで存在を知らせる人もいる。遠くから何度も振り返る人までいた。
名前も顔も知っているのに誰も近づかない。
「……なんかさ。檻の中の珍しい動物見てるみたいじゃん」
星羅が、周囲に聞こえない程度まで声を落とした。
小町も辺りを見回しながら頷く。
「三連覇やもんな。そら有名やろとは思っとったけど……なんやろ。これ、有名人見つけたときの反応ともちょっとちゃうな」
「うん……」
瞳子も同じことを感じていた。
憧れられているのも、驚かれているのも分かる。ただ、それだけなら一人くらい近づいてきてもよさそうなものなのに、誰も清華との距離を縮めようとはしない。
清華は長い間、この世界で競技を続けてきたはずだ。大会にも何度も出ているだろうし、同じ年代の選手と顔を合わせる機会だって多かったはずなのに、「久しぶり」と声を掛けてくる相手は一人もいない。
「清華さん、知ってる人とかいないの?」
気になって訊いてみると、清華は周囲へ軽く視線を向けた。
「顔を知っている方なら、何人かいます」
「そっか」
瞳子は頷いたものの、その先に続けようとした言葉を飲み込んだ。
これだけ大勢が清華を知っている。それなのに、さっきから誰一人として話しかけてこない。
隣を見ると、星羅も何か言いたそうに清華と周囲を見比べているし、小町も同じような顔をしていた。
たぶん、考えていることは三人とも近い。
長い間この世界にいたなら、もっと気軽に話せる相手がいてもよさそうなのに――。
清華はそんな三人の様子に気づいたのか、少しだけ間を置いてから口を開いた。
「競技会で顔を合わせることと、親しくなることは別だと思います」
「あー……ね」
星羅が気まずそうに髪の毛先を指に巻き付ける。
「別に変な意味で聞きたいわけじゃないからね?」
「分かっています」
清華の返事はいつも通りで、気分を害した様子もない。
それでも瞳子には、やはり少し不思議だった。
確かに清華は、自分からぐいぐい人との距離を縮めるタイプではない。入学したばかりの頃など、同室の瞳子とさえ必要以上の会話をしようとはしなかった。
それでも、相手を露骨に拒絶する姿は見たことがない。
話しかければ答えるし、困っていれば手を貸す。最近では自分から会話へ入ってくることも増えている。
そんな清華が、何年も同じ競技に出続けて親しい相手が一人もいないというのは、どうにも不思議だった。
ふと視線を感じて顔を上げると、少し離れたところにいた女子生徒と目が合った。
相手はすぐに視線を逸らした。
その隣にいた男子生徒が何かを耳打ちすると、二人でもう一度こちらを見る。
やはり、その視線の先にいるのは清華だった。誰も声を掛けようとはせず、ただ少し離れた場所から様子を窺うように見ている。
それを何度か目にするうちに、瞳子の中に別の考えが浮かんだ。
清華が誰とも関わろうとしなかったというより、周りの方が最初から距離を取っていたのではないだろうか。
「……清華ちゃん、昔からこんな感じやったん?」
小町が周囲に聞こえないよう声を落とすと、清華はわずかに眉を動かした。
「こんな感じ、というのは?」
「みんな清華ちゃんのこと知ってんのに、誰も話しかけてけえへんやろ」
そこで清華も改めて周囲を見回した。
「以前から、似たようなものです」
「気にならへんかった?」
「特には」
清華にとっては、それが当たり前だったのかもしれないけれど、瞳子にはどうしても妙な感じが残った。
これほど多くの人に知られているのに、誰も近づかない。
清華自身が壁を作っているというより、周囲が『清華鈴乃』という名前を前に、勝手に一歩引いているように見えた。
その後、午前中は会場内の誘導や馬場周りの作業を手伝い、午後には競馬学校一年生を代表して清華が騎乗訓練を実演した。
馬に跨がった清華は、学校にいるとき以上に隙がなかった。
普段から騎乗は安定しているし、同期の中でも完成度は高い。ただ、広い馬場へ入ると、その一つ一つの動作から余計な迷いまで消えていく。
馬の歩幅を整え、進む方向を変え、脚と手綱で細かな指示を送っていく。瞳子にはそのすべてを理解できなくても、清華が何かを伝えるたびに馬が応え、次の動きへ滑らかにつながっていくことくらいは分かった。
「……すご」
隣にいた星羅から、思わずといった声が漏れる。
「いつも上手いけど、今日の清っち、さらに違くない?」
「うん」
何が違うのかを正確に説明しろと言われても、瞳子にはまだ難しい。
周囲で見ていた他校や他団体の生徒たちも、いつの間にか清華へ目を向けていた。さっきまで小声で名前を囁いていた人たちが、今度は言葉もなくその騎乗を追っている。
「そら、こうなるわ……」
小町が感心したように呟く。
清華はそんな視線を気にする様子もなく、決められた経路を淡々とこなしていった。
競馬学校の実演が終わると、馬場では次の種目となる障害飛越の準備が始まった。
いくつもの障害が組まれ、やがて他団体の選手を乗せた馬が順番にコースへ入っていく。瞳子たちも次の役割まで時間があるため、馬場の外から競技を見ることになった。
「うわ、高っ」
星羅が障害を見上げるように声を漏らす。
勢いをつけた馬が障害へ近づき、踏み切る。大きな身体が一瞬宙へ浮き、そのまま向こう側へ着地した。
「すご……」
瞳子も思わず見入る。
次の馬がコースへ入り、一定のリズムで障害との距離を詰めていった。
その踏み切りが近づいたとき、隣にいた清華の肩がほんのわずかに強張った。
ほんの一瞬だった。
馬が障害を越えて着地する頃には、もういつもの姿に戻っている。
「……清華さん?」
呼びかけると、清華は少し遅れてこちらを向いた。
「何ですか?」
「いや……なんでもない」
返ってきた声も、表情も、いつもと変わらない。それでも瞳子には、障害へ向かう馬を見ていたあの一瞬だけが妙に引っかかった。
何気なく周囲へ目を向けると、さっきまで清華の騎乗を追っていた何人かが、いつの間にか視線を外していた。




