第35レース 強い身体
十一月に入ると、朝の空気は目に見えて冷たくなった。
午前五時。起床を知らせる音が鳴るより少し前に目を覚ました瞳子は、布団から出した手をすぐに引っ込めた。窓の向こうはまだ暗く、ガラス越しに見える景色にも冬の気配が混じり始めている。
「さむ……」
隣のベッドから返事はない。
清華はすでに起きていて、もう着替えを始めていた。毎朝のこととはいえ、この時間から乱れなく動けるのは相変わらずすごい。
「清華さん、寒くないの?」
「少し寒いです」
「そのわりに全然寒そうじゃないんだけど」
「寒がっても気温は上がりませんので。日高の方がよっぽど寒いのでは?」
「それはそうだけど、寒いものは寒いよ」
もっともな返事をされ、瞳子は渋々布団を剥いだ。
入学した春には、午前五時に起きるだけで身体のどこかがおかしくなったていた。それが七か月も経てば、筋肉痛もなくなり身体が痛む事は減ってきた。
着替えて検量へ向かい、朝食を取り、厩舎作業を終えて騎乗訓練へ入る。
同じように繰り返してきた一日のはずなのに、ここ最近は馬に跨がってからの景色が少しずつ変わっていた。
「腰を落とすな。鐙に体重を預けすぎるなよ」
走路脇から飛んできた教官の声に、瞳子は前傾姿勢を保ったまま腹に力を入れ直した。
鐙を短くし、尻を鞍から浮かせた競走姿勢――モンキー乗り。
初めて形だけを教わったときには、木馬の上でも数分続けるだけで太腿が悲鳴を上げていた。
今では実馬に乗ったまま走路へ出る時間が増えた。
春までより速い速度で馬を御するようになったぶん、わずかな変化に気づき、判断するまでの時間も短くなっていた。
馬の背中の動きを邪魔しないよう身体を浮かせながら、それでいて手綱も脚も使わなければならない。
瞳子が手綱を持つ指へわずかに力を加えると、騎乗馬の首がほんの少し戻った。前を行く馬につられて速くなりかけたところを、完全に勢いがつく前に抑えられたらしい。
「斉藤、そのまま」
「はい!」
教官の声を背中に受けながら、瞳子は身体の位置を確かめた。
感じてから動く。
それ自体はこれまでと変わらない。ただ、考えている時間が長くなると、それだけ馬は先へ行ってしまう。
春から繰り返してきたことが、速さの中へ持ち込まれ始めている。
前方では、小町が騎乗馬のリズムに合わせて身体を上下させていた。
夏までなら疲れてくると肩が上がり、腰も固まりやすかったのに、最近は崩れかけても自分で気づくのが早い。息を吐くのと一緒に余計な力を抜き、また姿勢を戻している。
木馬の上で散々悩んでいた頃とは明らかに違った。
一方、そのさらに外を走っていた星羅は――。
「藍沢! 速い! 抑えろ!」
「はいっ!」
返事とほぼ同時に、星羅の馬の速度が落ち着いた。
後ろから見ていた瞳子は、思わず目を瞬かせる。
速くなった馬を抑えるには、手綱だけ引けばいいわけではない。馬の口を傷めないようにしながら、身体の軸を崩さず、脚や重心も使ってこちらの意思を伝える。
星羅はそれを、考えるより先に身体でやっているように見える。
馬が首を振っても上体は大きく揺れず、勢いに持っていかれそうになった次の瞬間にはもう姿勢が戻っている。競走姿勢になって騎乗時間が長くなっても、他の同期より明らかに下半身が安定していた。
訓練を終えて馬から下りると、小町が真っ先に星羅へ寄っていった。
「なんで、そない平気そうやねん」
額に汗を浮かべた小町に対し、星羅はヘルメットを外しながら首を傾げる。
「何が?」
「脚や。最後まで全然へばってへんやろ」
「あー。ちょいキツいけど、こんくらいなら平気」
「それが腹立つっちゅうねん」
「また怒られてんだけど、アタシ」
星羅は笑いながら両手を上げた。
小町が言いたくなる気持ちは、瞳子にもよく分かる。
星羅は昔から何か競技を本格的にやっていたわけでもないのに、身体を使わせると妙に強い。体幹を意識しろと言われればすぐ形になり、バランスを崩されても戻るのが早く、筋力トレーニングでも女子四人の中では頭ひとつ抜けていた。
「藍沢さんは、力を使うことに迷いがないんだと思います」
清華が馬具を整えながら言った。
星羅は自分の腕を見下ろす。
「迷い? そんな異能力者キャラみたいな」
「必要なときに必要なだけ使っています。余計なところまで固めることも少ないですし」
「アタシのボケも固めてほしかったけど。アタシ、すごくね?」
「自分で言うんかい」
「だって褒められたじゃん」
「褒めたわけではありません」
「違うの!? 清っち厳し」
いつもの調子でやり取りする星羅を見ながら、瞳子は自分の太腿を軽く叩いた。
まだじんじんしている。
これでも春よりずっと楽になったはずなのに、星羅を見ると自分だけ鍛え方が足りないような気がしてくる。
「いいなあ、星羅ちゃん。私もその身体ほしい」
「いいっしょ。貸さないけど」
「自分、中学の頃に運動部入ってれば大活躍出来たんとちゃう」
小町の言葉に、星羅は得意げに胸を張った。
「バリ帰宅部! 誰よりも真っ先に帰るのは活躍してたかも」
「……全国大会なくて残念やったな」
その日の午後、フィジカルトレーニングを終えたあとには、定期的な身体状態の確認が行われた。
筋力や体力に問題はなかったものの、朝の検量を含めたここ最近の記録を確認していた職員が、用紙から星羅へ視線を移した。
「藍沢」
「はい?」
「体重、少し上がってるな」
星羅の顔から、さっきまでの得意げな表情がわずかに消えた。
「マジ?」
「急に増えたわけじゃない。今のところ範囲内だ」
「あ、ならよかった」
あっさり安心した星羅に、職員は続ける。
「今すぐ問題ってわけじゃない。ただ、お前は筋肉量も多い。必要な筋力まで落とせばいいという話でもないからな。騎手を目指す以上、自分の身体がどう変化しているかは把握しておけ」
「はーい」
「返事だけするな」
「ちゃんと聞いてますって」
叱られているというほどでもない。
星羅自身も深刻には受け取っていないらしく、部屋を出た途端、小町の肩へ腕を回した。
「いやー、筋肉あるのも大変だわ」
「その言い方めっちゃ腹立つな」
「小町、欲しい?」
「欲しいけど、その聞き方されたらいらん!」
すぐにいつもの騒がしさへ戻った二人の後ろを歩きながら、瞳子は先ほどの言葉を思い返した。
必要な筋力まで落とせばいいわけではない。
言われてみれば当然なのに、これまで体重管理について考えるとき、瞳子はどうしても数字の方へ目が向いていた。
騎手になる以上、決められた範囲で体重を管理しなければならない。
その一方で、馬を抑え、速さの中で身体を支え、最後まで自分の姿勢を保つには力がいる。
そのまま四人で寮へ戻り夕食を済ませたあと、談話室へ集まって公用タブレットでその日の騎乗映像を確認した。
映像の中でも、星羅の姿勢はやはり安定している。速度が上がった瞬間に騎乗馬の首が動いても、身体の軸がほとんどぶれない。
「やっぱ星羅ちゃん、すごいなあ」
瞳子が漏らすと、隣で画面を覗き込んでいた清華が静かに頷いた。
「身体能力だけなら、同期の中でもかなり高いと思います」
「だけって何、だけって」
向かい側に座っていた星羅が、すぐに聞き咎める。
「褒めています」
「絶対ちょっとディスってるじゃん」
瞳子は笑いながら、映像を少し巻き戻した。
強い身体。
春なら、それだけ聞けば羨ましいと思って終わっていた気がする。
今は、その強さを馬の上でどう使うかだけでなく、その身体を騎手としてどう維持していくかも、自分たちが身につけていかなければならないことの一つなのだろう。
画面の中で、星羅は前へ出ようとする馬に引っ張られても上体を崩さず、手綱と身体を使ってその勢いをきっちり受け止めていた。




