小町Side② まだ足りひん
オータムフェスが終わり、寮へ戻って風呂まで済ませた頃には、昼間あれだけ騒がしかった一日が嘘みたいに静かになっていた。
同室の星羅はベッドへ寝転がりながら、毛先を指へ巻きつけている。
「今日さ、結構カメラ向けられてたよね」
「取材の人らおったしな」
「絶対アタシ、盛れてたと思うんだよね」
「八着やったけどな」
「写真の盛れ具合に着順関係なくない?」
まるで気にしていない返事に、小町は呆れながら自分のベッドへ腰を下ろした。
自分は一着。
風磨は二着。
――三勝二敗。
思い出した途端、また少し嬉しくなった。
「なにニヤついてんの?」
「ニヤついてへん」
「狛井君に勝ったの思い出してた?」
「なんで分かんねん!」
「分かりやすすぎ」
星羅が声を立てて笑う。
「三勝二敗なんでしょ?」
「せや」
「めっちゃ覚えてんじゃん。昔から意識してたんじゃないの?」
「ちゃう言うてるやろ。勝敗くらい覚えとるだけや」
「はいはい」
適当に流されるのが腹立つ。
小町は枕を掴んで投げつけようかと思ったが、回収するのも面倒なのでやめた。
それに、今は星羅と言い合うより、一人で考えたいことがあった。
今日のレース。
最初から先頭へ立ち、ポニーの反応を見ながらペースを作った。
最初の百メートルでどれくらい出して、そのあとどこまで同じリズムを保つか。風磨が後ろから迫ってきても慌てず、最後にもう一度脚を使えるだけの余力を残す。
乗ったときに大体そんな感じで決めて、実際その通りに走らせた。
大体、と教官には言った。それ以外に説明のしようがなかったからだ。
時間を測ること自体、小町にとっては昔から難しいことではない。
十秒でストップウォッチを押せと言われれば、時計を見なくても十秒で押せる。それが、一分でもピッタリに測れる。
そんなものは誰でも出来ると思っていたし、それを特別なことだと考えたこともあまりなかった。
ただ、馬の上では少し違う。
走っている馬は、ずっと同じ速さでは進まない。自分から勢いよく行くこともあれば、少し鈍ることもある。促せば速くなり、抑えれば遅くなるし、周囲の馬につられてペースが変わることだってある。
そんな中で十秒や一分を測るのは、立ったまま数えるのとは同じではない。
今日だって、小町は頭の中で一、二、三と律儀に数えていたわけではなかった。
今どれくらい走ったのか。
この速さなら、あとどれくらいでゴールへ着くのか。
どこまで我慢すれば、最後にもう一度使えるのか。
そういうものが、なんとなく分かる。
昔からそうだった。
ジョッキーベイビーズに出ていた頃にも、それで何度か上手く乗れた。調教でも決められた距離を指定された時計で走らせることがあると知ってからは、自分の感覚が騎手になっても役に立つとは思っていた。
今日のレースで、それが改めて結果になった。
そこまではいい――問題は、その先だった。
小町は両手を後ろにつき、天井を見上げる。
今日乗ったのはポニーだ。
もちろん馬には違いないし、子どもの頃から何度も乗ってきた。レースになれば難しさだってある。
それでも、普段訓練で跨っているサラブレッドとは、身体の大きさも力もまるで違う。
今日は最後まで自分の思うように抑えられたし、追うときにも身体を持っていかれなかった。梨狩りのあとから意識してきた腹の使い方も、息を止めないことも、前よりずっと上手く出来たと思う。
だから勝てた。
ただ、同じことをサラブレッド相手に出来るかと聞かれれば、すぐには頷けなかった。
もっと大きくて、もっと力の強い馬を抑えながら、自分の姿勢を崩さず、最後まで追い続ける。
今の自分には、まだ足りない。
その事実は、小さい頃から嫌というほど分かっている。
知識なら負けないつもりだし、馬のことも分かる。時間を測る感覚だって自分にはある。それなのに、いざ大きな馬を抑えたり最後まで追ったりするところでは、どうしても身体の力が足りなくなる。
何度そう思ったか分からないし、以前の小町なら、そのたびに「もっと筋肉つけな」としか考えなかった。
今は少しだけ違う。
筋力が必要なのは変わらない。ただ筋肉を増やすだけではなく、どこで力を入れ、どこで抜くのか。疲れたときに自分がどう崩れるのかを知り、崩れたなら自分で戻せるようにすることまで含めて、身体を使えるようにならなければ意味がない。
息を止める癖だってそうだ。
「小町、寝ないの?」
星羅の声に顔を向けると、あくびをしながら目をこすっていた。
「もうちょいしたら寝る」
「明日も朝早いよ」
「分かっとる」
「じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
部屋の明かりを落とすと、しばらくして星羅の側から物音がしなくなった。
小町は暗い天井を見ながら目を閉じる。
すると浮かんできたのは、五月に東京競馬場で目の前にしたダービーだった。
世代の頂点を争ったレースで、最後に競り合ったのはテネブラエとアウレウス。鞍上は畑宗一郎と本庄忍で、決着はわずかクビ差だった。
授業の振り返りでは、自分なりにレースを見て気づいたことをみんなの前で話した。
そのあとも、何度か考えたことがある。
もし、あのアウレウスに自分が乗っていたらどうしたか。
一番人気。
先行して、最後に抜け出すのが得意な馬。
あれだけ支持されている馬で、奇襲的に逃げに出たり、最後方まで下げるような変なことは出来ない。負けたときに「奇策でした」で済む立場でもないし、何よりアウレウス自身の良さを消してしまう。
なら、やっぱり前につける。
いつでも動ける位置を取りながら、道中ではなるべく余計な力を使わせない。
残り八百ではまだ待ち、六百を切ったあたりから先頭との差を見ながら少しずつペースを上げる。
忍さんは坂の手前、残り五百メートル切った辺りからゴーサインを出した。
先行タイプならセオリー通り。坂の手前で加速させないとトップスピードで坂を駆け上がる事は出来ない。
でも、アウレウスは負けた。
逆に遅仕掛けで坂を上りきった、残り300メートルから仕掛けたら――
頭の中でアウレウスにゴーサインを出す。
無理や……あん時と同じや。マークされてる分、こっちが加速を始めた瞬間には、テネブラエは最高速。
加速のタイムラグを突かれて差されてまう。
クビ差、負け。
なら、セオリーを無視して残り四百メートル地点、まだ坂の途中でようやく仕掛ける。
ここからなら――これも当たり前にあかん。坂の途中から仕掛けたら、ジワジワしか加速出来ひん。超スローペースでもない限り、絶対に残り百メートルで失速しテネブラエに差されてまう。
クビ差、負け。
小町は眉間に皺を寄せたまま、もう一度最初からやり直す。
今度はあえてポジションをテネブラエの後ろに取る。
一瞬のキレは向こうの方が上や。それは分かっとる。
それならば、第三コーナーからのロングスパートで外から蓋をしてテネブラエの進路を防ぐ……
圧倒的な能力持ったバケモン中のバケモンしか無理やろ!
アウレウスには無理や、現実的じゃなさすぎる。
また負けや――ほんま、なんやねん。
小町は布団の中で顔をしかめた。どこから動いても最後には宗一郎がいる。早めに仕掛ければそれを見て一呼吸待たれ、こちらが我慢すれば、向こうもこちらの動きを見ながら仕掛けてくる。
アウレウスの良さを消さず、一番人気らしい競馬をしながらテネブラエと宗一郎を負かす。その形を何度組み直しても、最後のクビ差だけがどうしてもひっくり返らない。
たかが騎手候補生のイメトレくらい、勝たせてくれてもええやろ、あのレジェンドさんは。
実際に自分が乗ったわけでもないのに、負けるたびに悔しくて、妙に腹が立った。
それでも、いつか本当にああいう相手と同じレースへ乗る日が来るのだとしたら、そのときまで「勝てへん」で終わるつもりはなかった。
自分には体内時計がある。
馬がどれだけ速く走っていても、ペースが途中で変わっても、自分の中で時間を狂わせずに測れる。それをレースの中で使えるなら、十分武器になる。
あとは、その武器を最後まで使える身体がいる。
大きなサラブレッドを抑え、自分の狙ったところまで脚を残し、勝負どころでは最後まで追えるだけの力。
今日のポニーでは出来たのだから、次はサラブレッドでも同じことが出来るようになればいい。
筋力が足りないことなんて昔から分かっているし、今さらそれだけで落ち込むつもりもない。
小町は布団の中で一度だけ深く息を吸い、ゆっくり吐き出した。以前なら力を入れた途端に止めていた呼吸も、今はこうして意識すれば続けられるようになっている。
まだまだ、こっからや。




